第30話 握手

 ナイアの意識が覚醒した時、真っ先に視界の中へ飛び込んできたのは一面の白だった。

 まさかルクィムの神殿で目にした白骨たち──過去の贄たちかと一瞬身構えたが、徐々に視界が鮮明になると共にそれが天井であると気付く。つんと鼻をつく臭いは薬品のそれだろう。ということは、ここは病院か。


「──おはよう、ナイア」


 傍らから声をかけられ、ナイアは首だけを動かした。体全体が重く、そして鈍い痛みに覆われている。起き上がることはできなくもなさそうだったが、今はその気力がなかった。

 声のした方向を見遣れば、そこには椅子に腰掛けたイェレがいた。彼の穏やかな顔を見るのは随分久しぶりな気がする。──その表情を険しくさせていたのは、紛れもなく自分なのだけれど。

 おはよう、と返そうとしたが、上手く声が出せない。代わりに何とも情けない呻き声が出た──が、イェレはそれを笑わなかった。眉尻を下げながら、無理はしないで、と優しく言う。


「おれも詳しいことはわからないけれど、肋骨がいくつか折れてるらしいからね。無理して話さなくても良いよ。おれが君の言いたいことを察すれば良いだけだ」

「あ……うう」

「お礼は良いよ。それよりも、聞きたいことがあるんだろう? さっきから、ずっとそういう顔をしてる」


 ありがとう、と言おうとして失敗したナイアだが、不思議なことに意図は伝わっていたようだ。加えてこちらの内心もさらりと言い当てられた。イェレとは数ヶ月の付き合いだが、随分と理解されているらしい。……ナイアが彼のことを知らなすぎるだけかもしれないけれど。

 何はともあれ、状況把握は大切だ。ナイアは暫し沈黙し、頭の中で質問をまとめる。筆記用具と紙があれば箇条書きにしていたところだが、今は腕を上げるのも億劫なので自らの思考に頼るしかない。

 大体まとまったところで、ナイアはイェレの目を見つめた。静謐とした深緑が、真っ直ぐにこちらへと向かう。

 話す気力はまだなかったので、口をゆっくりと動かして質問する。オレはどうしてここに、と問いを投げたが、上手く伝わっただろうか。


「そっか、ナイアは神殿の棺から落ちて、その後のことがわからないんだね。あの時は色々と緊急事態でばたばたしてたから、何もかも鮮明に覚えてるって訳じゃないけど……それでも大丈夫?」


 伝わっていたようだ。読唇術にも通じているとは、やはりイェレは侮れない。

 問いかけにうなずいて首肯すると、イェレはええと、と上を向いた。記憶の糸を手繰り寄せているのだろう。


「あの時……君は神殿の最下層へと落下した。けど、その後を追ったアルコアが君に追い付いて、下敷きとなることで君の負傷を現状までとどめた。彼の行動がなかったらどうなっていたことか……あっ、アルコアのことは追々話すから安心して。さすがの俺たちも、そのまま解散、という訳にはいかなくって……セイリオスさんと協力して、二人を引き上げたんだ。非常用の梯子ならセイリオスさんが持ってきてたし、何よりおれは他人よりも怪我しにくい体質だから。こっちに君以上の怪我人はいないから、そこは気にしなくて良いよ。見ての通り、おれは五体満足だし、全然元気。大丈夫だよ」


 そう言ってイェレは力こぶの姿態ポーズをして見せたが、何かと無理をしがちな彼の『大丈夫』はいまいち信用ならない。直接口にしたら相手を傷付けるのが目に見えているので、たとえ万全の状態だったとしても口はつぐんでおくが。

 イェレに対する疑念は消えないが、ひとまず自分が生き残ってしまった経緯はわかった。最後に見た光景は、ナイアだけが見た幻覚ではなかったようだ。

 おびただしい出血の中で、穏やかに笑って見せたアルコア。彼はナイアの存在証明をするのだと言い、その真なる目的はナイアの犠牲を阻止することだった。セイリオスは、彼もまた正しいのだと──間違ってはいないのだと言ったが、それは違うとナイアは思う。

 アルコアは母との接触こそあったものの、単なる同情からセイリオス──ひいてはソルセリアに叛するような真似をしたのではないだろう。彼はエヴリカというひとつの命で国家が救われることを酷く嫌悪しているように見えた。ソルセリアを守護し、繁栄させるために造られた存在がソルセリアよりも一市民の存命を選ぶなんて、大事な機能がどこか欠けてしまったのだとしか思えない。

 そのアルコアは、今どうしているだろうか。彼だけではない、ルクィムに駆け付けた者たちは。そして何より、ナイアの命を永らえさせた、最大の障害物は──。


『へスペリオス、は?』


 彼の顔を、声を、気配を思い出すだけで気分がむかむかとする。最後の最後にしてやられた──人智を超えた権能によって。

 こちらの苛立ちがよく伝わったのか、はたまた共感するところがあったのか。イェレは途端に神妙な顔付きになった。


「あいつなあ……ソルセリア国軍の中に飛び込んで、ヤケクソみたいな雰囲気出しながら正体明かしてたけど、おれたちが神殿から引き上げようとした時にひょっこり出てきやがった。安心しろよ死期の近い奴しか食わなかったぜ、なんて得意げな顔してさあ……元神とはいえ好き勝手しすぎだと思わない? 君の様子だと、そっちにも顔出して来たんだろ? 君の命を永らえさせてくれたことはありがたいと思ってるけど、やるならもっと早くから報告、連絡、相談しとけよ。何も言わずに故郷から逃げてきたおれが言うのもなんだけどさ、もうちょっと協調性を持って欲しいというか、せっかく人数いるんだから連携姿勢を見せたって良いだろ。しかも無傷だよ? ふざけてんのかよ……」

『そこまで言ってない』

「ごめん、普段からの鬱屈がつい……。とにかく、へスペリオスは無事だから後で好きなだけ詰めてくれて良いよ。信じられないかもしれないけど、あいつが死神ってのは本当の話だ。『大いなる神』の信仰が流入したことによって悪魔に堕とされた訳だけど……それを逆手に好き勝手やってるんだよ、あいつ。まさかイェルニアの外にまで出て行くとは思わなかったけど、まあ今回は何かと助かったし……悔しいけど感謝しなくちゃならないな。あいつは死神でこそあるけど、見境なく人の命を食らう奴じゃない。生死の循環は守るし、人の寿命まで弄ることはしない。……あいつが君を助けたのは、君が最良の形で助かるように調整するためだと思う。生き残るのが確定しているからといって、必ずしも無事で帰還できるとは限らないからね。最悪の生き残り方をする可能性だってある」


 ナイアの脳裏に、ポポカの顔が浮かぶ。暴力の行使によって両脚を失った彼女は全く気に病んでいないが、それは誰にでも通じることではない。自らの一部が損なわれるという出来事は、世間一般的な人々にとっては耐え難い苦痛であり、生きていて良かったと安堵する一因にはなり得ないだろう。


『他の、皆は?』


 へスペリオスが無事だとわかったのは良い。後は他の面々──特にアルコアの安否が気になる。

 イェレはうん、と相槌を打つ。そして、すぐに答えることなく、訳知り顔で出入口の方を見た。


「そろそろ出てきても良いんじゃない? ずっと盗み聞きしてるっていうのもどうかと思うよ」

「……?」


 外に誰かいるのか。ナイアは一生懸命首を動かして、出入口の方を見る。

 ややあってから、スライド式の扉ががらりと開く。初めに踏み込んできたのは、背の高い金髪のヒューマノイド。


「まったく……イェレにはなんでもお見通しだな。できる限り気配を消して、気付かれないようにと心掛けていたんだけど」

「せ……セイリオスさん……? ま、まさかあなたまでいるなんて、はは……」

「ん? さては気付いてなかった?」


 途端にイェレが顔を青くして視線を逸らし始めた辺り、予想とは違った人物だったのだろう。いくら彼でも、国家の所有物であるヒューマノイドには距離を感じるものらしい。

 そのヒューマノイドことセイリオスは、くしゃりと髪をかき乱しながら片目を丸くさせた。彼の顔半分は包帯に覆われ、前髪も下ろしている。普段とは異なる佇まいからは、痛々しさすら感じ取れた。


「何にせよ、ナイア──無事に目覚めたみたいで良かったよ。何もかもイェレに任せきりというのはさすがに無責任だから、ここからは俺も交えてもらって良いかい?」


 異論はないので首を縦に振る。セイリオスはありがとう、と見慣れた快活な──ただし姿格好のせいでやや憂いも感じられる──微笑みを浮かべた。


「それで、イェレ。君はこれから何について話そうとしていたんだい? 悪いけど、俺は空気を読むとかそういうのができないみたいでね。今のところ、なんか気まずくなってることしかわからないぞ」

「ええっと……ナイアは、皆の安否について知りたいみたいです」

「安否確認だね、了解! それなら俺の専門分野だ。はっきりしっかり、君の知りたい情報を伝えるとも!」

「大丈夫かなあ……」


 あまりにも元気が良すぎて、イェレだけではなくナイアも不安を覚えたが──ここはセイリオスに任せよう。彼のやる気を削ぐような真似をするのは無粋だ。


「兵士たちの中には、残念ながら殉職した者もいたけれど──少なくともナイア、君の知人は概ね無事だ。フロレンティナは多少の擦り傷をこしらえていたけど体調に異常はないし、ターダスとポポカも元気だよ。むしろポポカは元気が有り余っているというか……事情を説明し終えるまでこっちへの攻撃をやめようとしなかったくらいだ。三人は今もソルセリア国軍基地で預かっているけど、罪に問うつもりはないよ。たしかに彼らは国家権力に逆らった訳だけど、おおっぴらにやらかした訳じゃないし──何よりこの計画は機密も機密、下手に取り締まればそこから漏れるかもしれない。だから、口止めをお願いする対価としてこれまでのやんちゃは不問としたんだ。これでソルセリアへの反発が強まったら、上の人たちとしても堪ったものじゃないからね」


 それから、と続けてセイリオスは目を伏せる。


「ゲノ族の報復は、これをもって止められたものとした。だからナイア、君の役目はここでおしまいだ。どのような結果であれ、効き目のない供物が捧げられたことに違いはない。たとえその供物である君が生存したのだとしても、死ぬまでやらなければならないことなんてないはずだ」

「そ──れは、」


 ナイアの唇から、思わず言葉が漏れた。掠れて今にも消えそうな声色だったが、セイリオスの耳には届いたらしく、彼は優しく微笑んで返す。


「ナイア、君はもうその命を捨てる必要なんてない。上としても、これ以上ぼろが出るのは嫌みたいだし……君は一ソルセリア国民として、これからも生きていて良いんだ」

「…………」

「……そんな顔をさせてしまうのは、国の──いや、俺たちの責任だな。君が自分自身に価値を感じられるようなところかと言えば、ソルセリアを担う者としてうなずくのは難しい。──それでも、君は大事なソルセリアの民、俺たちヒューマノイドが守るべきものだ。いたずらに命を消費させたい訳がない」


 口に出すことは叶わなかったが、口惜しいという気持ちが顔に出ていたのだろう。隠し通すつもりではいたが、存外自分はわかりやすい性質たちのようだ。

 誰の役にも立てず、いるだけで迷惑になる穀潰し。そんな自分に価値を与える機会が巡ってきたと思っていたのに、それすらも泡と消えた。これから生きていくのだとしても、自分には多くの人の手を煩わせた過去が付いて回る。

 嫌だ。ここで死なせて欲しい。そう思う気持ちがない訳ではない。

 だが、ナイアが内心で安堵しているのもまた事実だった。死ななくても良い、生きていても構わない──そう口にされて、すっと肩の荷が下りたような気分だ。何もできなくたって生きていて良いのだと、他ならぬ国家のしもべから告げられたからには、もう疑う余地はない。


「……っと、ここまで言ったんだから、そろそろ君も出てきなよ。全部俺一機に任せるとか、無責任にも程があるぞ!」


 ようやく伝えたいことを言い切ったのか、セイリオスの表情と気配が僅かに弛む。そうして彼はずんずんと大股で出入口に近付くと、躊躇なく扉を開けた。


「あっはっは、盗み聞き機能はお揃いだな、アルコアの坊っちゃん?」

「……当機に盗聴機能は付属していない」


 軽快な笑い声と、抑揚に乏しいが平生よりも幾分か不満げな声色。どちらもナイアにとっては馴染み深い声だ。

 起き上がろうと一生懸命身をよじっていると、心境を察したのかイェレが手伝って起こしてくれた。少し頭がくらりとしたが、意識を保っていられない程ではない。

 ヘスペリオスとアルコア。二人の名を呼ぼうとして、ナイアは大きく咳き込む。この短時間で本調子に戻るのは無理があった。


「はは、いつもよりしおらしいじゃないか、姫さん? 生きているなら元気が一番だ、養生するんだな」

「他人事みたいに言うなよ。一応お前にも責任はあるだろ」

「そりゃ姫さんの生命力次第だ。ま、姫さんの眼球を取り込んでるこいつはだいぶ回復したようだし、姫さんもそのうち元気になるさ。あくまでも憶測だがね」


 イェレの言葉通り、ヘスペリオスはけろりとした顔で何事もなかったかのように出歩いている。普段と変わらないのは悪いことではないが、こうも余裕ぶっていられると若干腹が立つものだ。

 対して、不機嫌そうな顔で黙りを決め込んでいるアルコアは車椅子に腰掛けている。両足のギプスや添え木で吊った片腕、そして額に巻かれた包帯から、重傷なのは確実である。

 だが、アルコアは生存している。それだけでナイアの胸には安心感が広がった。彼が無事であるならそれで良い。自分を庇って壊れるなど、後味が悪いにも程がある。


「この通り、彼らも無事一命を取り留めた。アルコアの損傷は激しかったけれど、奇跡的に記憶媒体や重要な臓器は全壊を免れていてね。君よりも早く意識を取り戻せたんだよ。ヒューマノイドだから、人よりも回復が早いのは当然だけどね」

「おまえは当機の記憶を一部修正しようとしていたようだが?」

「仕方ないだろ、研究所を爆破した危険なヒューマノイドを野放しにしておこうって思う方がおかしい。──まあ、今回ばかりは特別だ。他の皆は良くて、君だけ許されないっていうのは不公平だからね。研究所の件は、こっちでどうにか片をつけるよ。その代わり、もう勝手なことはするなよ」

「おまえが再び誤った選択をしなければそうするさ」

「うわ、生意気だな。やっぱり反抗期なんじゃないのかい?」

「どうだか。それよりも、先の言い分を通すならあのアルソニアン共和国の秘密警察も不問にするのが筋だと思うが、そこのところはどうなんだ」

「あいつは一応敵対国家の所属だからね。むしろ警告からの指名手配なんて甘い対応だと思うな。ソルセリアからいなくなってくれるなら、それに越したことはないよ」

「相変わらず抜け目のないことだ。そんな風に宣っておいて、今目の前に奴が現れたら武力行使も厭わないのだろう?」

「当然さ! 俺たちヒューマノイドは国民の安全を守るためのものだぞ? 国民を脅かす存在とあらば、たとえ同位体だって容赦無用だ!」


 そうは言いつつ、セイリオスの態度に棘はない。浮かぶ表情の一つ一つが晴れやかで、憑き物が落ちたようにも見える。

 薄々察していたことではあるが、セイリオスはソルセリア国民をたった一人であろうと犠牲にすることも、同位体と対立し彼を処分することもしたくはなかったのだろう。ナイアを前にして時折見せていた憂いは、彼女を贄にソルセリアを維持することへの後ろめたさだったのかもしれない。それでも、彼はソルセリアを第一に優先する──国家にとってヒューマノイドであり続けた。

 決して軽くはないが冗談を飛ばし合うヒューマノイド二機は、形式的に握手を交わした訳ではないが和解したと見て良さそうだ。どうあっても同じ人間を基底として造られたヒューマノイドなら、関係は良好である方が良い──とナイアは思う。二機からしたら余計なお世話かもしれないが、ぎすぎすした雰囲気とは周囲の心境にも影響を与えるので可能なら仲良くして欲しい。


「そうそう、イェレ。これは君に対する警告だ」


 折れていない方の腕で肘鉄を食らわせようとするアルコアを避けつつ、セイリオスが向き直る。その先にいるのは、ナイアではなく名を呼んだイェレである。


「おれ、ですか。それって、ルクィムの神殿に連れてこられた理由と関係があることでしょうか」

「察しが良くて助かるよ。これは憶測も入っているから、確定的なことは言えないけれど──イェレ、君はもう二度と、ルクィムの神殿に近付かないで欲しい。君という存在そのものが、女神ナイアの祭祀に深く関わってくるかもしれないんだ」


 表情を引き締め、セイリオスは声を落とす。個室であっても、情報の漏洩を警戒しているのだろう。


「君の成り立ちはわからないから、違うって可能性も否定できないけれどね。イェレ、君の核となっている存在は、もともと女神ナイアの神体として崇められていた宝物だったかもしれないんだ」

「女神ナイアの、神体……」

「具体的には、神殿に納められていたという巨大な翡翠の結晶だね。ゲノ族の祭祀について記された資料には、この翡翠の存在が示唆されているんだけど……侵略によってそのほとんどはエレニに切り取られ、ネウナ大陸に持ち去られたとされる。イェルニアは国家単位ではアルティマ大陸の侵略に関わってないから、どういう経路で持ち込まれたのかはわからないけれど──何にせよ、常ならざる超自然的な力を秘めた翡翠はイェルニアに流れ込んだ。それを手にした君の製作者たちは、一縷の望みを託し──人の手で生命を創造することに成功した」

「翡翠、ですか。どうしてそういった考えに行き着いたのでしょうか」

「この前、君の身体検査をしただろう? その際に、君の眼球が人のそれと違うことに気付いてね。他の臓器や骨、神経なんかは人間と変わりなかったが、両目だけが宝石でできている。それで今の憶測に行き当たったのさ。いやあ、ヘスペリオスの進言がなかったら見逃すところだったよ。怪我もなかったし、一石二鳥だね!」

「……やっぱりお前かよ……おれが検査を避けたいの知ってて提案したな?」

「何、お前にとっても得だったろ? 己の肉体について知るってのは大事なことだ。かく言う俺も、この体を造る時にはちゃあんと人のそれを参考にしたんだぜ。半端な造形にしちゃ、何かあった時が厄介だからな」

「俺は何も聞いてないぞ! イェルニアの言葉はわかりにくいなあ!」


 セイリオスがわざとらしく大声を出しているが、黙認してくれるのなら騒音に関しては目を瞑ろう。科学が世を席巻する当代において、信仰の存在はまだしも神が自由に出歩いて、あろうことか人の姿を象っているなどあってはならない。偶像崇拝を禁じる『大いなる神』の信仰なら尚更だ。

 へスペリオスの失言はさておき、これで儀式が完遂される心配はなくなったと見るのが妥当だろう。イェレが再びルクィムの地を踏むことがなければの話だが──そこで油断するセイリオスではあるまい。

 ナイアは寝台の上から、そっとイェレの顔を仰ぎ見る。笑っていてもどこか隔絶を感じさせる目元はそのままだ。だが、今は何故だか、その深緑の色彩が変に懐かしく感じられた。

 視線に気付いたらしいイェレが、こちらに目線を合わせる。彼が浮かべる微笑みには、珍しく悲哀の色がない。


「まだ、色々やることはあるけど……でも、これだけは言わせて。お疲れ様、ナイア」


 声は未だ上手く出せないままだ。それを見越しての発言かもしれない。

 しかし、ナイアはそれでも良かった。眩しそうに目を細め、唇に弧を描く。

 女神の現身は、今日この時を以て、その役目を終えた。

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