第29話 名残
ごうごうと耳鳴りがする。目を開けてもナイアの視界には黒以外の色彩はなく、ならば無理に開けている必要はないと瞼を下ろした。
どうにか目的は達成できた。ほうと息を吐きながら、ナイアは脱力する。
まさか母まで駆け付けてくるとは思わなかった。セイリオスは、こちらの決意を踏みにじるような真似はやめろと言っていたが、それはナイアにも言えることだった。母は本気で娘を止めようとしていたのに、自分は他者の思いを鑑みることなく自らの目的達成のみを念頭に置いていた。結果として、そうすることで思い通りにはなった訳だが──予想外の出来事が多すぎた。
イェレは、母は無事だろうか。アルコアやセイリオスの負傷も心配だ。秘密警察の男は──最後に見た時は無事なようだったから、そこまで気にする必要はないかもしれない。どうあったって、彼は肉体を一部機械化した改造人間なのだから。
それを言うと自分も同じか、とナイアはかすかに笑う。ありとあらゆる臓器を取り除き、今この体を動かしているのは人の手によって造られた人工臓器。内外をすげ替えた自分は、果たして人と言えるのか。
『 人さ。ナイアにとっては、汝の中身など些末なこと 』
ずん、と腹の底に直接重みが来る。
目を開けてはならない。目の前にいるものを──共に墜ちるはずのないものを、自分ごときが見て良いはずがない。
重力に従って落下しながら、ナイアはすうと息を吸い込む。気を引き締めなければ、相手の勢いに飲まれてしまいそうで怖かった。
「お前は──女神ナイアなのか」
『 そうとも。ここは我が領域。汝は落下までの時間を引き延ばされているだけに過ぎぬ。贄として飛び込んだ事実は変わらぬよ 』
女神の口調はゆったりとして鷹揚だった。かつて女神ナイアを演じていた人格とは違う──人を介さぬ、本物の神の声。
もしかしたら、死ぬ間際に見ている──正確には聞いている──幻なのかもしれない。だが、眼前に気配があるのは本当だ。この神殿を根城とする女神が、共に棺の下を墜ちているというのはなかなか複雑な状況だが──何にせよ、ナイアにやり残したことはない。どのような恨み言をぶつけられようとも、この先はもうないのだ。ならば、散々周囲に迷惑をかけたつけとして、甘んじて受け入れるのが筋だろう。
しかし、女神ナイアはいつまで経っても文句を投げつけてはこない。長時間の沈黙が辛く、耐えられなかったナイアは恐々切り出した。
「あの……女神ナイア」
『 なんだ 』
「お前は……何か思うことはないのか。お前を騙り、引っ掻き回したオレに対して」
『 思うこと 』
ゆるりと繰り返した女神は、ふうむ、と思案めいた声を上げた。早口な別人格とは対照的に、やけにのんびりとした口振りだ。
『 特にない 』
「…………えっ? ない?」
『 うん。これといった感慨はないよ 』
そして導き出された答えがこれである。地に足を付けていたら、そのままずっこけていたかもしれない……が、ナイアはただ今落下中である。真っ逆さまである以上、体勢を立て直すことなどできない。
何も思わないと女神は言った。己を中心に部外者がわあわあと騒ぎ立て、儀式を遂行したと思ったら目指していたのは失敗だった──という、当事者からしてみれば傍迷惑極まりない結果。その元凶とも言える偽りの現身を前に文句のひとつもないとは、それだけ機嫌を損ねているということだろうか。
女神ナイアは血を好む。少なくとも、ナイアはそう伝え聞いてきた。ならば報復のひとつでもあるのではないか。
この身は既に死へと向かっている。今更畏れるものなどない──はずだが、やはり痛みや苦しみがやって来ると思うと体が強張る。覚悟していたことではあるが、自分は神を欺いたのだ。その結果がどうあれ、罪は精算されて然るべきもの。ナイアは震える唇を引き結び、来るべき罰を待つ。
『 ああ、そう身構えることはない。汝に与えるものなど、何もありはしないのだから 』
故に怯えることはないよ、と女の声は言う。怯えているのを表に出したつもりはなかったが、零落しても神といったところか、近しき女神は何もかもお見通しのようだ。情けないやら恥ずかしいやらで、ナイアは用意していた言葉を一瞬にして忘却する。
そんなナイアを前に、女神が笑うことはなかった。本心はどうだかわからないが、笑い声は聞こえない。ただ、耳鳴りの合間を縫うようにして穏やかな声色が続く。
『 ナイアは既に終わりを迎えた神である。それゆえに続きはない。呼び起こされたとて、それは我が残影に過ぎぬ。災厄は不完全なかたちで現れ、世界を飲むことなく終わるであろう。ゲノ族が如何様な結果をもたらそうとも、奴等の望みは成就せぬ。ナイアはただ、その顛末を眺めるのみ 』
「それは……何もしないというのか、女神ナイア。お前はまだ、ここに存在しているのに」
『 否。ナイアはもとのかたちを喪った。かつての神、その姿を正しく記憶するものはなくなった。それは信仰の喪失と同じ。今なお成長し、変性を繰り返すものたちとは違う──ナイアは旧き神である。最早この身は成長することなく、いずれ万民の記憶からも名を消した時、共に消えゆくだけ。ナイアにできることは何もない。与えることも、奪うことも 』
「悲しくはないのか。消えてしまうことが、何もできずに臍を噛むしかできないことが、悔しくはないのか」
『 これは可笑しなことを問う。言っただろう、ナイアはもとのかたちを喪ったと。ナイアに喜怒哀楽はない。それを共有するものがいなくなってしまったから 』
女神の声は平坦だ。感情は一切加わらず、機械音声のように乱れない。
ナイアはそろそろと手を動かし、自らの胸に当てる。──人工心臓は、未だ規則正しく動いている。
何もかも無駄だとは思わない。儀式が成功すれば、中途半端であろうとも災厄は現実のものとなっていた。そうなれば、きっと少なからぬ犠牲が出る。その中に母がいたら、と思うと、胸が苦しくて仕方ない。
これで良かった。母を守ることができたのなら、それで十分だ。セイリオスは約束を守るだろう。ソルセリア国軍の兵士たちがいかにも混血といった見目のナイアを軽んじる中で、彼だけがナイアを尊重してくれた。ナイアの覚悟を、本気で受け止めてくれた。
だからナイアもセイリオスを信じる。彼ならば万事上手くやるだろう。イェレたちのことも、悪いようにはしないと約束してくれた。アルコアに関しては残念だが、彼もまたヒューマノイド。もしかしたら、自分と同様に記憶を弄られるだけで、生命活動までは停止させられないかもしれない。
なんだって良い。自分の命が、誰かの幸福に繋がるのなら。そのためだけに、ナイアを名乗るこの命は燃え続けてきたのだから──。
「悪いがそれはない。この俺が邪魔させてもらったんでね」
聞き馴染みのある低い声。ナイアは目を開けそうになり──すんでのところで押さえ込んだ。
何故。何故、ここで彼の声が聞こえるのだろう。あいつもまた、飛び込んだというのか。
「お前──何故ここにいる、へスペリオス……?」
「いちゃいけないっていうのかい? それなら悲しいな。俺は姫さんに会いたくて、ここまで来たんだぜ?」
「何を……言っている?」
まあ聞きな、と声の主ことへスペリオスは言う。こんな状況でも、軽妙な態度は変わらない。
「端的に言えば、俺はそこにいる女神さんと同類でね。姫さんのことを放っておけなかったんで、そっちの運命とやらに少しだけ介入した。何、書き換えるような真似はしていないさ。そういうのは俺の領分じゃない。ちょっとした条件を付けて、こちらの有利な方向へと先導しただけだ」
「運命……? というか、お前一体……女神ナイアと同類って、まさか」
「姫さんは聞いてなかったか、そりゃ悪かった。それなら改めて自己紹介をさせてくれ。我が身はイェルニアにおける主要神。宵闇に紛れるものにして、死と災いの神──今では悪魔に貶められた死神こと、アトルスってのが真の名だ」
「アトルス──」
異郷の響きを、ナイアは口中で噛み締める。そうしているうちに、背後からするりと骨張った両手が目元に回った。
「へスペリオスってのは通り名だ。俺は神としての性質上、人に対して有害なんでね。神なりの配慮というやつだ。自分の趣味で動き回ってるんだから、多少の気遣いでもできなきゃイェルニアの格が落ちるだろう?」
「それよりも、お前は一体何をしでかしてくれたんだ。オレの邪魔をするって言ったの、聞き流してはいないぞ」
「ああ、そうだった。だがそう大したことじゃあない。今風に言うなら、保険をかけただけさ。ナイアを名乗るお前──姫さんは死神に打ち勝った。故に、姫さんがここで死ぬことはない」
「打ち勝った……?」
「なんだ、忘れちまったのか? 姫さん、お前は初対面で俺のことを完膚なきまでに打ちのめしただろう。あの時はそっちの事情なんて知ったことじゃなかったが──ま、横入りするにはちょうど良かった。お前が生き残るか死ぬかは確定してなかったんだが、少しばかりお節介してやろうかと思ってね。姫さんにはここで生き残ってもらう。その方が大団円に相応しいだろう?」
「お──前、あの時のこと、根に持ってるんじゃないか……!」
忘れる訳がない。イェレと逃亡中の折、ヘスペリオスは突然目の前に現れた。その不審さと胡散臭さから、ナイアは物理攻撃という選択をしたが──まさかそれがここに繋がるとは。
背後でからからと笑う気配がする。今すぐにでも後ろの死神を睨んでやりたかったが、女神ナイアが残っているかもしれない以上それはできない。結局、自分は神の思惑に振り回されるだけの脆弱な人間なのだ。
「自棄になるなよ、姫さん。お前は自分に価値なんてないと思ってるようだが、そんなお前を死なせないために無茶やる奴も、お前の矜持を守るために怪我する奴もいるんだ。一度くらいはそいつらと向き合ってやれよ。死ぬのはいつだってできるんだからさ」
ヘスペリオスが笑っている。目元に被せられていた手が退く感触があった。
目を開けるつもりはなかった。それなのに、瞼は自然と開いていく。まるで目覚めを強要されているかのように。
『 さようなら、ナイアを名乗った不敬者。ナイアは汝に何も思わないが、汝の勇気は受け取った。このナイアに──神代の名残に認められたことを誇りに思うが良い 』
どれほど恐ろしい女神が待ち構えているのかと思ったが、ナイアの眼前にいたのは人によく似た輪郭を持つ影だった。顔はなく、ただ周囲よりも一際濃い闇が人を象っているだけ。それでも、ナイアには彼女が微笑んでいるように見えた。
急に体が重さを増す。間もなくして、ナイアの体を衝撃が襲った。
痛い。息が詰まる。だがそれよりも、落下した先が妙に温かいのが気になった。
「無事、か」
恐る恐る目を開けて、ナイアは息を飲む。
視線の先には、見慣れた金髪。前髪は乱れ、濁りのないまっさらな黒い瞳があらわになっていた。彼は明らかに重傷で、手足のあちこちが不自然に曲がっている。額からも流血していたし、ナイアなどとは比べるべくもない大怪我を負っていた。
彼の名を呼ぶ。アルコア、と呼び掛ければ、ヒューマノイドは静かに微笑んだ。
「良かった──きみは、ここにいる彼らとは、違う。きみを、生かすことができた──当機の目的は、完遂された」
「……アルコア?」
目元を細め、アルコアはそっと手を伸ばす。そのままナイアの頬を撫でると、そのままずるりと腕を下ろした。瞼は下り、体はぴくりとも動かない。よくよく見てみれば、アルコアはナイアの真下で倒れている──彼が下敷きとなることで、ナイアへの衝撃を和らげたのだろう。
ナイアは唇を震わせながら、自らを庇ったヒューマノイドの肩を揺さぶろうとした。──そして、自分の墜ちた先に存在するものを目の当たりにする。
「──ああ、お前たち、は」
石棺の下、空洞を落ちたその先。
暗がりに白が浮かび上がる。ナイアの視線が向かう先には、おびただしい数の白骨が積み重なっていた。
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