第27話 渡し守

 ポポカの援助によって包囲網を脱することはできたが、軍を出しているとなればそう簡単に目的地までたどり着くことはできない。ルクィム一帯には立ち入り禁止のポリステープが張り巡らされ、常時兵士が見回っている。彼らから身を隠しながら行動していると、いつの間にか西日が沈みかかっていた。


「洞窟は見えたけど……ちょうど真ん前に見張りがいるな。他に出入口があれば良いんだけど……」


 木陰に身を隠しつつ様子を窺うイェレは、小声で呟いてからアルコアを見る。ルクィムの神殿に関して最も詳しいのは彼だ。ナイアがいない以上、道案内はこのヒューマノイドに任せるしかない。

 アルコアはちらりと視線を動かしてから、ふるふると首を横に振った。顔を中央に戻してから、彼はずれた眼鏡を押し上げる。


「残念ながら、洞窟以外の出入口はない。地下神殿という特性上、侵入経路は限定しておきたかったのだろう」

「そっか……じゃあ、どうにかしてあいつらの視線を逸らさないと駄目か」

「どうする? 誰か囮にする?」


 至って朗らかに秘密警察は問いかけてくるが、イェレとしてはできるだけ人員を確保しておきたい。神殿内部にどれだけの軍人が配置されているのかわからない以上、少人数で突っ込むのは危険が過ぎる。

 このまま隠れていても、じきに見つかるだろう。何か、何か手を考えなければ──ナイアは取り返しのつかないところに行ってしまう。


「……なあ、アルコアの坊っちゃんよ」


 うんうんと頭を悩ませていた矢先、ぽつりとヘスペリオスが切り出した。いつも揶揄を含んだ彼にしては、いたく空虚な言葉尻だ。

 アルコアが顔を上げる。共に彼を窺い見れば、同郷の男は珍しく無表情でソルセリア国軍の兵士を見据えていた。


「大したことじゃないが……女神ナイアってのは、死者を先導する役割も持ってるのか?」

「……伝承によれば、気に入った人間の魂──基本的に勇敢で誠実、ゲノ族に貢献した者を楽園に連れていくという。それ以外の記述は目にしたことがない」

「そうかい。それだけ曖昧なら、多少の割り込みも効くかね」

「……?」


 首をかしげるアルコアを他所に、ヘスペリオスは急に木陰から飛び出した。うわ、と兵士の一人が声を上げる──あまり身は乗り出せないので詳細な状況はわからないが、恐らくヘスペリオスは多数の視線に晒されていることだろう。


「貴様、何者だ。ここは立ち入り禁止のはずだが」

「はは、いやあ、悪いな。この辺りの土地勘がないもんでね。良い歳して迷子になっちまった」


 ヘスペリオスが何をするつもりなのか、イェレにはさっぱりわからない。この場にいる誰も、彼の意図を悟ってはいないだろう。アルコアはきょとんと目を見開き、フロレンティナと秘密警察はつまらなそうに事の成り行きを見守っている。

 案の定軍人たちに囲まれたヘスペリオスは、相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべながら飄々とした態度で応じる。降参だ、とでも言うように両手を挙げてはいるが、恐れをなしたようには到底見えない。むしろ、イェレからしてみれば舐め腐っているようにすら映る。


「おいおい、そんな怖い顔で見ないでくれ。俺は善良な一般市民だ。やましいことなんて一切考えてないぜ?」

「貴様の顔は覚えている──イェルニアの男の同行者だな。ならば尚更通すことはできん」

「おっ、そういうことなら話が早い。ここに姫さん──混血の娘がいるだろう? そいつに伝えそびれていたことがあるんだ」


 見張りを任されている中で最も階級の高そうな男──口調からして厳格かつ職務に忠実なのだろう──はヘスペリオスを追い払いたいようだが、この男はそう簡単に引き下がるような性質たちではない。むしろ距離を詰める始末だ。

 兵士たちの銃口がヘスペリオスに向かう。それでも彼は怯むことなく、からからと笑いながら続ける。


「何、本当に大したことじゃあない。姫さんは命を捨てる覚悟なんだろうが、それは今じゃないってだけさ。どうあったって、姫さんの終わりはまだ先だ。女神がそう決める前に、姫さんは延命の条件を踏んじまったんでね」

「──総員、エぃッ!」


 ヘスペリオスが一歩踏み込んだ瞬間、兵士たちの構えた銃は火を吹いていた。銃声が弾け、同時に空気をつんざく。

 その場にはしばらく沈黙が立ち込めた。アルコアは瞠目し、フロレンティナは反射的に目を逸らし、秘密警察の男は喜怒哀楽いずれにも当てはまらない無表情を貫いていた。

 草を踏む音がする。次いで一同の耳に入ったのは、あからさまな溜め息。


「──はあ、やっぱり駄目か。今時の兵器ってのは、どうあっても俺を受け付けないんだな。せっかく怪我できる体を作ったってのに、つまらんものだ」


 四方より弾丸を浴びたはずのヘスペリオスは、涼しい顔で佇んでいる。彼の体からは一切の出血がない──そもそも被弾していないのだ。

 兵士たちが息を飲む。現状を一瞬にして理解した者はいないだろう。

 よくよく目を凝らせば、わかるかもしれない。彼らがヘスペリオスに向けて放った弾丸は、全て彼の肉体に届く前に粉々に砕け散って地に落ちたのだと。

 ひとつに結っていた髪の毛をほどき、ヘスペリオスは微笑む。諦念と失望の混じったそれを向けられた若い兵士たちは、たちどころにおののいて後ずさった。


「何をしている! 第二陣、構え!」


 だが、先程へスペリオスと言葉を交わした上官らしき男と、その周囲を固める年嵩の兵士たちは怯まなかった。合図の後に、再び銃声がへスペリオスへと向かう。

 結果だけ言えば、先程とそう変わりなかった。全ての弾丸は標的の体に命中することなく地に落ちる──唯一頭部を狙った銃弾だけは、へスペリオス自らが手で払った。羽虫でも避けるかのように、いとも容易く。

 悲鳴が上がる中、へスペリオスは至って穏やかな顔で一歩踏み出す。どこからともなく吹いた微風が彼の銀髪を靡かせる。落ちつつある西日が、色素の薄い毛先を橙色に浸食した。


「なあ、お前たちの神は死も与えてくれるのか?」


 凪いだ声色で、へスペリオスは問いかける。顔にかかる髪の毛を優しく指で払いながら、世間話でもするかのように。


「生憎、俺は『大いなる神』についてはよく知らなくてね。だが、死が忌避すべきものとして扱われてるのはわかる。何よりも尊くて偉大な神は、お前たち人間を脅かすのが好きなのか?」

「な……何を言っている……? 死とは過程だ! 我等は世界の全てが崩れ落ちる時、神の審判を受ける。生前の行いによって、行くべき場所が決まるのだ……!」


 未だ銃口を降ろさない上官が、引き攣った顔でどうにか答える。どうやら彼は信心深い人物のようだ。

 へえ、とへスペリオスは興味深そうに相槌を打つ。だが、彼が導き出したのは遠回しな否定であった。


「そりゃ途方もないことだ。そうあったら良いっていう、お前たち人間の理想を体現したかのような話だな。生死ってのはそう複雑なものじゃあない。少なくとも、俺の中ではな」

「何が言いたい……⁉」

「善かろうが悪かろうが、勇ましかろうが臆病だろうが、長かろうが短かろうが、生まれ落ちた以上命は死に向かって進むものだ。その不動の摂理に評価なんか付けられない。人生の数だけ始まりと終わりがあり、それはお前たちがあれこれと品定めするものじゃない──全ての終わりを、は等しく受け入れる。どれもこれも似たような結末ってのはつまらないだろう?」


 逆光が男の横顔を黒く染め上げる。彼が笑っているのか、怒りに歪めているのか、悲しみに陰らせているのか、それともこのいずれでもないのか──判別する術はない。

 宵闇に男の輪郭が溶ける。イェレは思わずフロレンティナの目を自らの手で覆った。

 あれを直視してはいけない。夕暮れ時にを見かけたのなら、余程運が良くなければ連れ去られてしまうと大人は言う。イェルニアの人間ならば、本能的におそれるもの。


「お前たちに恨みはない。──が、関わったのが悪かったな。お前の生の糸はすぐにでも手繰り寄せられる──詰まるところ食べ頃だ。余所の神さんに取られる前にいただくとしよう」

「やめろ……!」

「直近の食事は強盗でね。今度は高潔で、特に正しさを信じて疑わない魂が食いたいと思っていたんだ。俺はもうただの悪魔──神のかたちしか持っていなかった頃よりもずっと自由に動ける。イェルニアの外に暮らす人間の魂を味見するのも、なかなか乙なものだ」


 かつてへスペリオスと名乗っていたもの──黒々とした影は実体となって兵士たちに覆い被さる。絶叫がこだまする横を、イェレたちは全速力で駆け抜ける。


「……あれは何? あなたの仲間ではなかったの?」


 洞窟を駆けつつ、フロレンティナが尋ねる。先程までイェレに目隠しをされていたので、彼女が事の一部始終を目にすることはなかった──幸運なことだ。

 声こそ上げなかったが、アルコアも同じような目をしてこちらに視線を送ってくる。ヒューマノイドという科学の結晶である彼には、理解のできない光景だったのだろう。

 イェレは口を開きかけて、すぐにやめた。あれは自分の矮小な言葉で説明のつく存在ではない。世界に広がった信仰により、イェルニアという枠組みから解き放たれてしまった存在──イェルニアの人々は、長きに渡ってそれを敬い、そして畏れてきた。今でも口承に語られ、隣り合わせにいるものとして受け継がれてゆく概念。へスペリオスとはそういうものだ。


「知らない方がいいこともあるよ。まあ、きっとみんな知っているものなんだろうけど。ぼくはあんなの、ぜんぜんこわくないけどね」


 イェレの代わりに、秘密警察の男が答える。ほとんど答えになっていなかったが、ソルセリアに生まれた二人は何かを感じ取ったのかそれ以上の追及はしなかった。

 宵の残光が遠ざかってゆく。自らにもたらされることがないとわかっていても、イェレは首筋に冷たさを覚えずにいられない。


「……簡単に言うなら、あいつは渡し守だ。彼方と、此方の」


 低く囁き、イェレは先を急ぐ。の手が、有限なる人々の糸を手繰り寄せ、食らってしまう前に──女神の現身に追い付かなければならなかった。

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