第24話 ビニールプール

 フロレンティナは手ぶらでやって来た訳ではなかった。非常用出入口から一同をホテルの外へと誘うと、囁くような声色で告げる。


「私、運転はできないけれど……車なら所有しているの。運転できる方がいらっしゃるのなら、足にしては如何かしら」


 身を隠しながらルクィムを目指すしかない一行にとっては、願ってもない話だ。本当にやる気があるのかわからないポポカや秘密警察はどうだか知らないが、イェレとしては首を縦に振る以外の選択肢などなかった。

 フロレンティナの所有する車は彼女の自宅ではなく、ホテルから程近い貸倉庫の中だった。官憲の目に留まらず目的地まで到着できたこと、そしてフロレンティナの言う車が全員の乗車が可能なワンボックス式の車両だったことはまさに幸いと言うべきだろう。


「ルクィムまでは大体半日か……。なるべく飛ばして行くとはいえ、追い付けるか心配だな」


 慣れない助手席で車窓の外を眺めつつ、イェレは小声で呟いた。南方へ進む道は砂漠を切り開いてできたものだ。暗がりの中では自分の顔しか見えない。

 誰かに対して口にした言葉ではないが、すぐに運転席から白眼視された。現在ハンドルを握っているのはターダスだ。彼はソルセリアに来てから免許を取ったという。


「追い付くつもりで走ってんだから、お前はどーんと任せて寝るなり休むなりしてろよ。お前程じゃねーけど、俺もやんちゃな運転はできるし? 頼りにしてくれていーんだぜ」

「いや、おれも言う程やんちゃな運転なんてしてないよ……。というか、おれは君の運転を心配してる訳じゃない。ただ……」

「──王族の坊っちゃんに何かあるのが怖いんだろ? どこまで行っても心配性だな、お前は」


 濁そうとした語尾は、二列目の後部座席から茶化す声によって引き継がれてしまった。運転席と助手席の間で、長い銀髪が揺れている──間違いなくヘスペリオスだ。ルームミラーを見ずともにやにやと笑う彼の表情が思い浮かび、イェレは憚ることなく溜め息を吐いた。


「……うるさい。お前も寝たらどうだよ」

「お気遣いどうも。だが、俺はまだ眠くないんでね。ずっと黙って乗ってるのも暇だし、何より同郷育ちが三人も集まってる。ここはひとつ、雑談でもして気を紛らわせようかと思ってな」

「いーじゃん、おじさんとは一回ちゃんと話したかったし? 地元のこと、他の友達の前ではなかなか話せなかったかんねー。大仕事やる前に、気分転換でもしときますか」


 ずっと静かなのは居心地悪いし、とターダスは片目を瞑る。恐らくヘスペリオスに向けられたものなのだろうが、生憎その表情をしっかりと見たのはイェレだった。

 地元のこと、というと、イェルニアにいた頃の思い出話でもするつもりだろうか。車に乗り込んでから一言も発していないが、あの秘密警察の男が同乗しているのに無用心ではないかとイェレは思う。ポポカは座った瞬間に寝息を立てていたし、アルコアは消耗を防ぐため一時的に休眠スリープするとのことだったが──あの男まで眠っていると考えるのは早計だ。話題にもよるが、まずくなってきたら制止しなければならない。


「おじさんってさあ、いつからソルセリアにいるの? イェレの知り合いってことは、そこそこのお偉いさん?」


 そんなイェレの心労を知ってか知らずか、ターダスは呑気に切り出した。どうやらヘスペリオスの素性を明らかにしようと試みているようだ。

 ターダスの心意気に好印象を抱いたのか、背後でへスペリオスがくつくつと喉を鳴らした。この男は良くも悪くも自分に突っかかってくる存在が好きなのだろう。上機嫌な空気がひしひしと感じ取れる。


「そうだな、ソルセリアの土を踏んだのはほんの最近、一年も経っちゃいない。今までは一応イェルニア周辺にいたが、好きな歌手が主役を張る舞台があるってんではるばる海を越えたのさ」

「へえ、歌手……って、もしかしてクラリッサ・ナイトハルト? ちょっと前からパンデスで歌劇やってるもんね」

「おっ、知ってるのか? 良いよなあ、クラリッサ。あいつの歌声を聞いたら、どいつもこいつも忘れられなくなるぜ。次の公演はアルツィリオらしいから、またネウナ大陸に戻っといた方が良いかな」

「あー、クラリッサの話はおいおいね。それで、おじさんは何者なのさ。イェレに気安く接せられる奴なんて、イェルニアでもほんの一握りじゃんね?」


 下手したらクラリッサの布教が始まるところだったが、脱線の気配をいち早く察知したのだろう。ターダスがさらりと路線を戻した。後ろからあからさまに残念そうな気配がするが、振り返ってはいけない。クラリッサ・ナイトハルトに悪印象はないが、へスペリオスの長話に付き合わされるのはこりごりだ。


「ま、お前の言うお偉いさんではないね。俺は政や労働、特に賦役とは距離を取ってる。言うなればそうだな……腐れ縁ってところかね」

「あ、誤魔化された。でも、それだけ長い付き合いってことじゃんね。ということは──やっぱりおじさんっておじさん?」

「お兄さん、な。お前よりも長い時を流離さすらってるってのは否定しないが、若くて瑞々しい見た目にしてるんだ。どことなく加齢臭が漂ってきそうな呼称は遠慮したい」

「ふうん……」


 夜の道路は不気味な程がらんとしている。まるで自分たちだけがこの世界に取り残されてしまったかのような──空漠とした中に存在することの孤独感を、否が応でも感じさせられる道のりは、いつになったら終わるのだろう。

 ぐっとターダスが加速器アクセルを踏む。しばらく道なりだからか、安全よりも速度を優先するようだ。思い出したくないが、コルネフォロスとの遭遇を想起して胃が痛くなってくる。


「じゃあさ──おじさんはイェレの同類? それとも、イェレの誕生に関係してるとか?」


 今まですぐに相槌を打っていたへスペリオスが、ここに来て返答に詰まった。実際は意図的に答えを遅らせているのかもしれないが──何にせよ、決定打であることに変わりはなさそうだ。

 ターダスもまた、相手の反応を見定めているようだった。車内の空気は張り詰め、頬の表面がちりちりとかすかに痛む。

 自らの誕生。それを、イェレは何度か想起したことがある。

 密かに両手を広げ、己の掌を見下ろす。柔らかかった時期はあるが、いとも容易く捻られる手は持ったことがない。気付いた時には自我を有し、そして一人で地に立っていた。勲章を得るための過程を踏まぬまま、生まれながらにして国の支柱たる偉人──イェルニオスの名を許されていた。


「……部分的には、な。だが、俺は奇跡を起こせない」


 やっと返ってきた答え。今までの饒舌さはなりを潜め、曖昧で抽象的な文言が囁かれる。

 背後で窓の開く気配がした。次いで、嗅ぎ慣れた紫煙の香り。こいつから吸うなんて珍しいと思ったが、時には普段の順番がひっくり返ることもあるだろう。驚く程のことではない。


「奇跡……奇跡ね。そんなの、意図して起こすものじゃないっしょ。奇跡ってのは、発生した後にそう定められるものだ。端から諦めるとか、俺的にはダサいと思うけど?」


 悲観的ともとれるへスペリオスの言が気に入らなかったのだろうか。ターダスの声色に棘が混じる。それは単純な抗議ではなく、彼の根底にあるものがその考え方を許していないように聞こえた。


「そう言うなよ。俺はお前たちとは違う。昔よりは好き勝手やれるようになったが、それでも生来の気質というか、摂理という枠組みの中からは出られないのさ。だから俺にできるのは、いつか起こり得る出来事に他ならない。盤面をひっくり返すのは、いつだってお前たちの仕事だ──イェレを生んだ連中もだよ。あいつらは、消えゆく魔術を現実のものとした。科学が世を席巻しつつある時代に、古の伝承から人工生命を生み出した──今時じゃ批判されるだろうが、奴等の努力には敬意を表する。俺には到底成し得ない偉業だ」

「……全ての生命は、『大いなる神』によって創られる。それが常識となった時代でやることではないじゃんね。まあイェルニアは『大いなる神』の受容がかなり『遅かったし? 当時の為政者も、民衆感情を加味して迫害まではしなかった。古来の信仰と『大いなる神』の教えが融合した結果、教義からは若干ずれた方向性に落ち着いたって感じだね」

「よく勉強してるじゃないか。流石王族、といったところか?」

「やめろし、イェルニアの王政はとっくに解体されてる。俺は一応末家ってことにされてるし、戸籍上は一般人。ユスティーナの──最後のイェルニア王の犠牲がなかったら、今ここにいられるはずがない存在だ」


 ユスティーナ。その名を聞くと、イェレの胸がじくじくと痛む。

 歯を食い縛っているのを、ターダスは察しただろうか。すう、と息を吸ってから、別に気にすんなし、となげやりに言った。


「あの人が死んだのはあの人の意思あってのことだ。王政打破の気風がエレニア地方

に吹き荒れたからには、イェルニアもその流れに乗るしか生き残る道はなかった──少なくとも、ユスティーナはそれを理解してた。周辺の列強国からの圧力を避けられない以上、王家の旗印である自分が見せしめになることで国と民……そして王家の血筋と、これまでの歴史を守る。それが彼女の選択だったんだ。百年以上前の事実なんだから、今更くよくよ考えたって仕方ないじゃん?」

「それは、そうだけど……」

「まあまあ、イェレもイェレでややこしいのさ。こいつには、歴代のイェルニオスの遺骨が使われたんだろう? だとしたら、忸怩たる思いを抱くのも無理はない。とりわけ、ユスティーナが信を置いていた最後のイェルニオス──カヴァリウス・ツェナイダスは、アルソニアン共和国の侵略に対して徹底的に抵抗する程の気骨があった。記憶までは引き継いでなくとも、思うところはあるだろうよ」


 へスペリオスから知ったような口を利かれたのは癪だが、概ね事実なので何も言い返せない。イェレは無言で煙草を取り出し、先端に火を点けた。

 瞑目すれば、いつも濁流のように押し寄せてくる、愛国心という名の激情。イェルニアのために生き、死んでいった者たちの苦悩や憤怒が、ありありと映し出されては消える。こちらに呼び掛けている訳ではないとわかっていても、責められているような気がして堪らない。

 イェルニアよ幸福であれ。何物にも支配されず、独立独歩とした存在で在り続けよ。その理想を叶えるために、イェルニオスたちの命は消費された。それどころか、イェレという頼りない器を形成するために、彼らは死後の安寧すら暴かれ、成果の出せぬ血肉の一部とされてしまった──。


「あら、あなた──人間ではないのね」


 静かだが、確かな存在感を持った女の声。イェレは瞠目し、反射的に背後を見る。

 ヘスペリオスの隣で、女が──フロレンティナが微笑んでいる。窶れた顔に浮かぶそれは、どことなく妖しげな色を宿してイェレの目に映った。

 イェルニアの人間以外、自分の素性は知らないはずだ。知られてはいけない、という決まりはないが、必ずしも良いように解釈されるとは限らない。イェレの背中に冷たいものが伝う。


「……そんな顔をしないで。私は、あなたが何であろうと構わないわ。娘が生きて帰ってくるならなんだって良いの」


 こちらの不安が表情に出ていたのか、フロレンティナは目を細めながらそう続けた。視線を窓の外へ遣り、物憂げに嘆息する。


「私にとっては、娘が全て。あの子がいるなら、他に何もいらないわ。全世界の人の信用を失ってでも、私はあの子に……エヴリカに生きていて欲しい」

「大好きなんだね、エヴリカのこと」

「勿論。お腹を痛めて産んだ子ですもの。私はあの子を産んだこと、決して後悔しないわ。周りからは色々言われたし、あの子も……エヴリカ自身も、産んで欲しかった訳じゃないかもしれないけれど……それでも、我が子であることには変わりない。私はあの子が人並みの幸せを手に入れられるなら、どうなったって構わないわ」


 目を伏したフロレンティナの面立ちは、うっすらとナイアを想起させた。彼女によればナイアは髪の毛、肌、そして瞳の色を変えたというが、顔の整形まではしていないようだ。切れ長の目元が母親によく似ている。

 フロレンティナの声色からして、彼女は本気でナイアを連れ戻したいのだろう。五年間も行方知れずの娘が生きていたとなれば、なにがなんでも帰って来て欲しい気持ちはわからなくもない。しかも、犯罪者ではなくソルセリアが娘を連れ去ったとなれば尚更だ。

 イェレに親と呼べる存在はいない。彼と血の繋がった同類はこの世に存在しないし、自分を生成した魔術師たちはこちらのことを息子だとは思っていないだろう。彼らもまた、動乱の最中で命を落としたと聞いている。

 故に、フロレンティナの姿は眩しい。自分が一生かけても手に入れられない存在──血を分けたうから。彼女の悲痛な願いは、叶えられて然るべきものだ。


「……イェレ、といったかしら」


 フロレンティナから話を振られ、イェレは思案の内より現へと戻る。はい、と平静を装いつつうなずくと、ルームミラーに映ったフロレンティナは探るような目でこちらを見ていた。


「あなた、エヴリカと出会って日は長いの? あまり詮索する気はないけれど、あの子のお友達なんだと思ったら、気になってしまって」

「そこまで長い付き合いじゃないですよ。数ヶ月、いっしょに旅をしてます」

「そうなの……目的地が一致していたとか?」

「いえ、そういうのではなくて……ただ、雨の中ずぶ濡れで立っていたあの子を見たら、なんだか放っておけなかったんです。それで事情を聞いたら、イェルニアの男をルクィムの神殿に連れていく必要があるとのことだったんで、まあなし崩し的に」

「……どんな危険が待っているかわからないのに、出会ってすぐの娘に付いていったのね。無用心というか……あなた、優しすぎて損をしそう」


 ごもっともだ。相手が年若い少女とはいえ、警戒心に欠ける行動だったと思う。

 だが、初めて出会ったナイアはそれだけ危うげな存在に見えた。ここで彼女を放置して、何か良くないことがあったら──そう考えると、いてもたってもいられなかった。フロレンティナとは覚悟の度合いが違うが、イェレもまた、ナイアと行動を共にしてきたことを悔いてはいない。


「……でも、少し安心したわ。あの子、昔と変わらないところもあるのね」


 くすりと背後で小さな笑い声が聞こえる。その場の空気が少し弛緩した──気がした。


「エヴリカはね、小さい頃から水を浴びるのが好きなの。雨の日だって傘を差さずに出歩くし、暑くなってきたらプールで遊びたがる子だった。……うちは備え付けのプールなんてないから、ビニールプールを膨らませるだけだったけれど」


 それでも楽しそうだった、とフロレンティナは懐かしむ。濡れ鼠のナイアとは、若干状況が違うようにも思えるが──良い思い出として残っているなら、それは大切に記憶しておくべきだ。


「っし、じゃあ尚更やる気出さんとね! 夏はまだまだこれからなんだし、海も見ないで人生終了とか残念過ぎるっしょ。うちもガンガン飛ばしてくんで、気張ってこ!」

「イェレが気絶しない程度にやんちゃしろよ?」

「お前はおれのことをなんだと思ってるんだよ……」

「過保護」


 いつまでも鬱々とした空気ではいられない。少なくともターダスはそう考えたようで、場違いに明るい声を出す。

 ヘスペリオスの発言は腑に落ちないが、姿勢だけでも前向きにならなければこの先やってはいけない。イェレは窓に映る自分の顔が、なるべく気力に満ちたものに見えるようにと表情を引き締めた。

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