第21話 朝顔

 女神の現身は一人夜歩く。人垣を慣れた足取りで潜り抜け、細い路地に身を滑り込ませる。喧噪から離れてしまえば、もう彼女を邪魔するものはない。

 エドワルゴはソルセリアでも指折りの大都市だ。それゆえに猥雑でまとまりがなく、混沌としている。一歩大通りを外れれば、浮浪者や薬物中毒に陥った者たちが現れる。表立って報道されていないだけで、きっとエドワルゴには大小様々な犯罪者がたむろしていることだろう。

 あまり治安の良くない労働者向けの住宅地。縁もゆかりもない集合住宅の前に設えられた掲示板を、現身は茫と眺める。


【プルマ=カクトゥシアより来る移民を排除せよ!】

【エヴリカ・エスカランテちゃん(当時12歳)を探しています……】

【廃棄物収集に関するおしらせ】

【臓器ドナーへの登録をお願いします】


雑然と重ねられる張り紙。その中でも辛うじて文字の読めるものを、現身はじっと瞬きせずに凝視する。

 近年急速に治安の悪化した隣国からは、自由を求めて不法にやって来る者が後を絶たない。ソルセリアで発生する児童誘拐事件も、プルマ=カクトゥシアに蔓延る法外な企業連合カルテルが裏に付いているという噂もある。また、先住民によるエレニへの暴力行為も少なくはないというから、エレニも混血も先住民も、善良な民であろうとする限りきっとまともな居場所などないのだろう。

 いつだったか新聞記事に目を通した時、先の誘拐被害はエドワルゴが最多と記してあったのを覚えている。件数が多すぎる故に見付からなかった子供たちは次第に忘れられ、張り紙の上にはまた新たな張り紙が重ねられる。今ようやっと見えている張り紙だって、本題と捜索対象の少女の顔が見えているから目についたというだけのことだ。

 エヴリカ・エスカランテ。亜麻色の髪の毛を長く伸ばした彼女は、写真の中で微笑んでいる。肌や髪こそエレニにとってありふれた色合いだったが、切れ長の目元は先住民らしい。褪せた写真でもわかる程濁りのない黒い目がこちらを見ている。


「エヴリカ」


 写し取られた少女に向けて、現身は口を開いた。今までの際限なき言葉の羅列ではなく、落ち着いた、静かな声色だった。


「ナイアが出るのはここまで」


 黄金色の瞳が揺らぐ。焦点の合わないそれが見据える先は、現ではない。


「ナイアは女神にあらず。エヴリカが捨てるはずだった記憶の防衛装置。精神こそ放棄を許したものの、身体の受容は得られなかった。故にナイアは生成された。ナイアの母はエヴリカの海馬である。すなわちナイアはお前の肉体に宿る人格──お前ではないお前」


 ふいと掲示板から顔を背け、現身は歩き出す。暗がりと化した路地を進みながら、今ここにはいない何者かへと語りかける。


「エドワルゴへと再び足を踏み入れたが故に、ナイアはその役目を果たしたものと判断した。後はお前が受け取れば良い。ナイアのふりはもう止めだ。偽りの女神はここで消える。エヴリカ──お前はお前のしたいようにやると良い」


 立ち止まり、現身は瞑目する。『彼女』が抱え、隠し通してきたものが、奔流のように脳裏を駆け巡る。

 エドワルゴを歩くのはこれが初めてではない。自我が芽生えた頃から、この街のことは知っている。薄暗い通りはあまり歩くなと言われていたけれど──日の当たるところは、時に一人で、時に手を引かれて通った。

 道行く人はいつも顔ぶれが違うが、金髪碧眼のヒューマノイドだけはいつも同じだった。焼き焦がすものの名を冠するヒューマノイドは大通りを歩いていることも多く、彼女にとって馴染みのある相手でもあった。

 だから、留守番中に彼がやって来た時も、特に疑うことなく迎え入れた。彼は仰々しい黒服を連れていながら、見慣れた気さくな笑顔で言った。


『おめでとうエヴリカ、君はソルセリアに選ばれた。俺たちといっしょに来てくれるかい? 君の力が必要なんだ!』


 両手を広げ、ヒューマノイドは彼女を抱き締めた。母の柔らかくて優しい手付きの抱擁とは違ったけれど、硬さの中に弾力がある体に力強く包まれるのも悪くはなかった。その抱擁の中に慈愛と揺るぎようのない意思があることは、幼さの抜けきらない彼女にもよく伝わったからだ。


『今、ゲノ族という人々がソルセリアをめちゃくちゃにしようと企んでる。彼らに誘拐された子供が、勇気を出して教えてくれたんだ。どうしたらゲノ族の企みを止められるか、皆で考えた結果──君を見つけたんだ、エヴリカ。ソルセリアを救うために、君の力を貸してくれ』


 彼が本気だということは痛い程伝わった。いつもは陽気に挨拶をしてくれて、混血だからと意地悪することもなく、楽しい話をたくさんしてくれるヒューマノイド。それが、びっくりするくらい真っ直ぐな目で、あまりにも真剣な声を発しながらこちらに訴えかけている。目の前のヒューマノイドがふざけているとは、到底思えなかった。

 ソルセリアがめちゃくちゃになる。それは嫌だと、反射的に思った。今まで生きてきて楽しいことばかりではなかったけれど、それでも日常を過ごしてきたエドワルゴは好きだし、何よりいつでも味方でいてくれる母はソルセリアの人間だ。ソルセリアが駄目になったら、きっと母も無事では済まない。母が辛い思いをしたり、酷い目に遭うのは嫌だ。

 どうすれば良いの、と彼女は問うた。とても静かな問いかけだったが、抱擁するヒューマノイドにはしっかりと届いたらしい。きゅっと眉根を寄せながら、簡単なことじゃないよ、と答える。


『ゲノ族の企みを止めるためには、彼らの中に忍び込まなきゃいけない。そうして、彼らの居場所を俺たちに教えて欲しいんだ。ゲノ族はかくれんぼが上手だから、ソルセリアの力で居場所を見つけるのはとても難しくて……誰かが仲間のふりをして潜り込むのが、一番効果のある手なんだ』


 だから君にはゲノ族の仲間になって欲しい、とヒューマノイドは告げる。抱擁によって触れ合っていた肩口や胸が離れ、大きな両手が肩に置かれた。


『そのためには、君が君自身を捨てなきゃならない。エヴリカ、君はもう二度とエヴリカではなくなるんだ。それをお母さんやお友達に知られてはならないし、これは俺と君との秘密になる。──無茶を言ってるのは、俺も理解してる。これは君にしかできないことじゃない。少しでも無理だと思ったら、断ってくれて良いんだよ。俺たちは君がどのように答えたとしても、君や君の大切な人たちを攻撃することは決してない。皆等しく、ソルセリアの愛すべき国民だからね』


 でも、と青い瞳が瞬いた。


『誰もが全ての人を助けられるとは限らない。君のお母さんの幸せを守れるのは、娘である君だけだ』

『やります』


 気付けば彼女は即断していた。ヒューマノイドの美しい顔を、真っ向から見据える。

 説得された訳ではない。話を聞いた時から、自分がやるべきだと直感していた。それが正しいことなのだと、最初からわかりきっていた。

 ありがとう、と感謝の意を伝えるヒューマノイドの顔は、あまり嬉しそうではなかった。強引に笑顔を張り付けているような、少なくとも喜んでいるようには見えなかった。


『快諾してくれて嬉しいよ、エヴリカ。やっぱり君を訪ねて良かった。さあ、そうと決まれば準備をしなくちゃね。俺のところで色々揃えるから、外に停めてある車に乗ってくれるかい?』


 促されるままに、彼女は車へと乗り込んだ。もう二度と我が家に戻ることはないと理解していた。

 母がよく手入れをしていた花壇。ヒューマノイドがやって来たのは夕刻だったので、その時植えられていた朝顔は皆閉じていた。母は園芸が好きで、花にも詳しかった。母によれば、朝顔は東から伝わってきたのだという説がまことしやかに語られているが、実際のところはそれよりも前にアルティマ大陸から各地へ伝播した──というのが正しい順番だという。ふと、離れ行く我が家を前にそんなことを思い出した。

 今まで暮らしていた家。喧噪から離れた郊外に建てられた、古典調の一軒家。

 父親の顔は知らない。母は教えてくれなかったが、どうやら自分は名のある有力者の庶子らしい。彼が囲っていた愛妾が母なのだというが、『大いなる神』の教えでは一夫一妻が常識だ。自分を身ごもった時点で母は勘当され、現在の自宅に宛がわれたそうだが──どれも口さがない大人たちの噂話だ。母から伝え聞いた情報ではない。

 だが、大方真実なのだろうということは彼女──エヴリカが一番わかっていた。自分は望まれて生まれた子ではない。独り身の母に苦労ばかりかける迷惑者だ。単身で子供を養育する国民に対する政府からの援助はあるが、それが十分でないことは子供ながらにわかっている。自分がいない方が、大好きな母が不自由なく暮らせるのだということも。


『今の姿のままでは、民間で捜索している者に連れ戻されてしまうかもしれない。そうなったら、何もかもまた一からやり直しだ。そのために、君には見た目を変えてもらう必要がある──痛みや苦しみはほとんどないけれど、自分の顔かたちが変わるっていうのは普通じゃない。今ならまだ間に合うけれど……エヴリカ、君はどうしたい?』


 国立の研究所ラボへ導かれたエヴリカは、医療用の寝台の上でヒューマノイドから問いかけられた。いつも笑顔の彼らしくない、どことなく悲しげな色を含んだ目付きで。

 今更何を聞くのだろうと思った。エヴリカは本気だ。ゲノ族が何かも、彼らがどういった方法でソルセリアを台無しにしようとしているのかもわからなかったが、母に迷惑しかかけられない自分が唯一できる人助けなら、なんでも喜んで受け入れる覚悟があった。

 どうしたいも何も、このまま進めてくれて構わない。そう伝えようとしたところで、彼女ははたとある考えに思い至る。


『ねえ、ひとつお願いしても良い?』


 ヒューマノイドがうなずいたのを確認してから、あのね、と恐々切り出す。


『私、怖がりで意気地なしだから、母さんのことを考えたら全部やめたくなっちゃうかもしれないの。だから、できればで良いんだけど、今までの思い出を全部消してくれないかな?』

『それは……海馬に電流を流して記憶域を調整すればできなくはないけれど……でも、本当に良いのかい? もしかしたら、二度とお母さんのことを思い出せないかもしれないよ』

『良いよ。思い出さない方が良い。そうしたら、私はソルセリアの──誰かの役に立てるんでしょう? 全部覚えたままよりも、必要なことだけ覚えている方が、ずっとずっと楽だから……』


 わかった、とヒューマノイドはエヴリカの小さな手を握った。藍紫色の瞳が、一瞬潤んだような気がした。


『全て君の望む通りにしよう。君はこれまでの十二年間を忘却し、ゲノ族を止めるためだけに動く人間となる。ソルセリアは、俺たちは決して、エヴリカ・エスカランテのことを忘れない』


その言葉を最後に、エヴリカの意識は途絶える。次に思い出されるのは、我が身を打つ驟雨。

 ああ、そういうことだったのか。

 まばらな星を見上げながら、かつてエヴリカと呼ばれていた人間──ナイアは黄金色の目を大きく見開いた。

 抜け落ちた記憶。ナイアに過去はなく、そして自分自身が何者かも知り得ない。己が女神の現身であり、ゲノ族の大願を成就させるための存在として生かされてきたことだけが、ナイアという人間を構成する要素だった。──イェレと出会ってからは、多少の経験値が付加されたような気がするけれど。


「オレが、エヴリカ」


 エヴリカ・エスカランテ。初めて聞いたはずの名前だが、妙に耳に馴染む。流れ込んだ記憶は決して少なくないが、全て自分のものだという確信がある──何もかも、はっきり思い出せる。

 心臓があるべき場所に手を当てる。規則正しい心音は、普段感じているものとそう変わりない。

 女神ナイアを自称する、ナイアの内部に潜んでいた存在。それが何かを、ナイアは今初めて理解した。

 あれは女神などではない。先の記憶と繋ぎ合わせれば、あれは、いやは──


「オレとは違う、オレの中にある、他者──」

「その通りだ」


 かつん、かつん。

 靴音が背後から聞こえる。かすかな夜風が僅かに波打つ黒髪を揺らし、ナイアは喜怒哀楽いずれの表情も浮かべずに振り返る。


「女神ナイアを名乗っていた存在は、きみに宿る旧き文明の名残ではない。あれは切り離された記憶が人格化したもの──精神的な防衛反応だ。主に精神的苦痛を原因として発生するが、きみの場合は外部からの刺激によって記憶機能に異変が生じた──その直前に、新たな人格──便宜上女神ナイアとする──が生じた。封じ込めた記憶は自己統制権を失い、きみの意思に関わらず表出するようになった。解離性同一性障害──女神ナイアは、きみが消したがった記憶を保存、守護するために生み出された人格だ」

「なるほど。お前はそれを初めから知っていたのか──アルコア」


 眼鏡をかけた、無表情のヒューマノイド──アルコアは答えない。黙したまま一歩踏み込み、透明な眼差しでナイアを見下ろす。

 ナイアもまた口を結び、眼前のヒューマノイドを注視した。彼は上下に分かれた患者衣を身に付け、その各所から電線ケーブルや医療用と思わしき管が飛び出し、垂れ下がっていた。形状を見るに、強引に引きちぎられたのだろう。足には何も履いておらず、彼の後ろには血の滲んだ地面があった。

 ヒューマノイドでも血を流せるのか、ということはさておき──先程の靴音はアルコアのものではない。

 ナイアはそっとアルコアの肩口から顔を覗かせた。平均よりも大柄な彼の後ろに、誰かが隠れている。


「ナイア。あるいは、エヴリカ・エスカランテ」


 アルコアに呼び掛けられ、ナイアは真正面から彼を見つめる。お互いの凪いだ瞳が──視線がぶつかった。


「セイリオスの言う通りにしてはいけない。きみは今すぐにソルセリアを出てくれ──きみの母親、フロレンティナ・エスカランテと」


 アルコアの後ろから、彼よりも小柄な人影が進み出る。は、ふらふらと覚束ない足取りで歩みを進め──ナイアの前へと立った。


「あなた──あなたは、エヴリカなのね……?」

「あ、」


 波打つ黒髪を長く垂らした女。その顔立ちはやつれているものの、造形美を損なってはいない。隈の浮かんだ目元も、乾いた唇も、青白い肌も退廃的で美しい。

 五年経っても変わらない。ナイアの唇が微笑みを描く。


「──母さん」


 女が駆け寄る。ナイアが反応する前に、彼女は抱き締められていた。

 母だ。この体温は、匂いは、息遣いは、先程思い出した母のそれと同一だ──。


「今度こそ、いっしょに暮らしましょう──可愛いエヴリカ」


 母──フロレンティナは、声を掠れさせながら消えた子供の名を呼んだ。

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