第17話 砂浜

 男は睡眠という概念を知らないのか、夜通しジープを走らせ続けた。その都度休憩は許されたが、ナイアが車を降りる時は必ず背後に男が付くため迂闊な行動は取れず、結局今の今まで彼から逃れられない状態が続いている。トイレに行く時まで付いてくるのは本当にやめて欲しい。扉を開けたら大男がぬんと立っているなんて、二度目以降も心臓に悪い。

 アルコアは現在も動きを止めたままだ。さすがに目を見開いたままというのは居心地が悪いので、幾分か体調が回復してきた頃合いを見計らって瞼を下ろしてやることにした。──単にやることがなくて手持ち無沙汰なだけ、と言われれば否定はできないが、黙って静かに座っているだけでは精神的な圧迫感が辛いのだ。

 そっと身を傾け、ナイアはアルコアの顔の輪郭に手を沿える。ちょうど夜明け間際だからか、白み始めた空が心もとない光源となっている。

 ある程度日に焼けてはいるが白い肌、きらきら輝く金色の髪の毛。そして開ききった瞼の奥に嵌まる、鮮やかな青。

 どれもエレニが理想とするものだ。別の言い方をすれば、固定観念ステレオタイプとも表せる。

 こうした見た目を持っていれば、生涯差別されることはないだろう。羨ましいとは思わないが、人類とは不平等だとつくづく思う。表面的な差異だけで他者を推し量れるはずがないのに。

 眼鏡を外し、まずは左目の瞼を下ろす。もう片方は長い前髪に覆われているので、空いている方の手でゆっくりと退かした。


「ん……?」


 案の定見開かれていた右目を前に、ナイアは思わず首をかしげる。

 日の出前の明るさでもわかる。アルコアの目は、左右で色が異なっている。鮮烈な色彩を有していた左目とは対照的に、隠されていた右目には一切の混じりけを感じさせない黒があった。

 こういった目を持つ猫の話は聞いたことがあったが、人──正確にはヒューマノイド──となるとなかなかに珍しい。どういう意図があって、このような造形にしたのだろう。


「ナイア」


 相手が機能停止しているのを良いことにまじまじと観察していると、唐突に名前を呼ばれた。咄嗟に振り返ってみれば、秘密警察の男がこちらを振り返っている。


「着いたよ。降りて」

「……お前、目的地があったのか?」

「ううん、特になかったけど、そういえばこの辺りにおもしろい場所があったなあって思って。ぼくだけ降りるわけにはいかないでしょう」


 だから降りて、と男は念押しする。なんで自分まで同伴しなければならないのかという不満はあったが、立場上文句は言えない。致し方なく、ナイアはジープから降りよう──として、ふと踵に何か硬いものがぶつかったことに気付く。いつの間にか、椅子の下に箱のようなものが置かれている。


「ああ、それね。爆弾」


 ナイアが訝しげな顔をしていると、男はにべもなくそう言い放った。思わず彼を仰ぎ見ると、口元が三日月型につり上がっている。


「何も対策してないと思った? きみがお友達を見捨てられない甘ったれなのはわかってるけど、それでも何か仕出かさない保証にはならないよね。へんなことしたら、すぐ起爆装置を発動してどかん、だから。気を付けてね?」

「……車外にいた場合はどうなる?」

「あは、その時はぼくがおしおきするから。イェレがぼくに撃ち込んだ鉛玉、ぼくも持ってるんだあ。ぼくの言いたいこと、わかるよね?」


 要するに、余計なことをすれば爆殺か銃殺は免れないということだろう。物騒な話だが、はったりには聞こえない。悔しいが、ここはおとなしく従っておくこととしよう。

 秘密警察に促されるまま車外へと出てみれば、一面の白がナイアの視界に飛び込んできた。思わず目を細めると、うふふ、と楽しげな声が降りかかってくる。


「びっくりした? これ、塩原だよ。塩の平原。砂みたいだけど、ぜーんぶ塩なんだよ」


 向こうに湖もあるんだよ、と言い、男はナイアの手を掴んだ。そのまま駆け足で進んでいくものだから、ナイアは時折つんのめりながらも後を追いかけるしかない。

 塩原というとテワチリアか、と足を動かしながらナイアは憶測する。ソルセリア中央部にはかつて移動する大陸に取り残された海の一部があり、それが長き時を経て塩類平原となった──と聞いたことがある。ソルセリアには幾つか塩湖があるが、地理的に考えてテワチリア塩原が最も妥当だろう。

 それにしても、いつ逃げ出すかわからない誘拐対象を連れてよくもまあこうまで浮かれられるものだ。まるで遠出した子供のように走る男に付き合わされながら、ナイアは思う。

 初めて顔を合わせた時から、彼は大きな図体とは対照的に子供のような振る舞いをしていた。浮かべる表情もどこか幼げで、それゆえに残酷さや冷たさが際立っていたように感じる。例えるならば、笑顔で虫の羽を千切る子供に似ている──この男ならば、羽どころか人の四肢を引き千切りそうではあるけれども。

 彼に、大人になるきっかけはなかったのだろうか。秘密警察という役職に就いているからには、酸いも甘いも経験していそうなものだが──これまでの付き合いでわかったことは、彼があまりにも無邪気に、無垢に、イェレを追い求めていることだけだ。そのためならば躊躇なく破壊し、他者を傷付け、処分することも厭わないということも、よくわかった。


「じゃーん! 見て、湖だよ!」


 男が止まり、ナイアの方へ振り返る。その白い頬は紅潮し、息はほんの少し上がっていた。改造人間のはずなのに、そこは常人と変わりないようだ。

 男が空の腕を広げた向こうには、朝焼けを映す澄みきった塩湖がある。この季節だと乾ききっているものかと思ったが、まだ雨期の名残は薄く張っているらしい。空を映す湖面は、さながら巨大な鏡のようだった。

 美しい光景だ。美術への造詣が浅いナイアでもよくわかる。しかし、側にいるのが看過しがたい危険人物なので、現状を忘れて目の前の絶景に見入ることはできなかった。


「ね、ね、どう? すごいでしょう、褒めてくれてもいいんだよ?」


 そんな危険人物はというと、目をきらきらとさせながら褒められるのを待っている。たしかに絶景は称賛すべきものだと思うが、拉致同然で連れてこられた身としては目の前の男を褒める要素がそもそも見付からない。褒めたらイェレたちのもとに帰してくれるというのなら、どうにか褒め言葉を捻り出すけれども。


「……たしかに、すごい。こんな景色を見たのは初めてだ」


 さすがに無言はいけないと思ったので、事実だけを述べてみる。塩湖を目にしたのはこれが初めてだし、嘘は言っていない──本心では他に言いたいことがたくさんあるが、ここでは我慢しよう。

 幸い、男はナイアの発言をそのまま受け取ったらしい。そうでしょう、と自分がこの塩湖を創った訳でもないのに誇らしげな相槌を打ち、靴を履いたまま水面へと進み出る。


「アルソニアン共和国にもね、塩の湖があるんだよ。こっちみたいに、車で行けるような場所じゃないけどね。近いうちに鉄道を通したいんだけど、色々問題がたくさんあってなかなかうまくいかないんだ」


 ばしゃばしゃと湖面を蹴り上げながら、男は語る。背を向けているので、表情は窺い知れない。


「ソルセリアはいいよねえ。どこに行ってもアルソニアン共和国の極地よりは寒くないし、砂漠にも道路が通ってるし、街もちゃんとしてる。ちょっと離れたところにあるからって、ずるいよ」

「……ソルセリアだって、不便なことは少なくない」

「それでもアルソニアン共和国よりはましだよ。ぼく、自信を持って言える」


 男が歩みを止める。ゆっくりと振り返ったその顔は、あまりにもあどけない。拗ねたように唇を尖らせ、頬を膨らませている。


「みんな、アルソニアン共和国はとっても広いから、恵まれてるって思ってるんでしょう。ほんとうはちがうよ。耕せる畑なんて限られてるし、夏が短い上にひどい気候の場所ばかりだから、人が住むのも一苦労。資源ならたくさんあるかもしれないけど、それを活かせるようになったのはつい最近だよ。それまでは、資源があってもそれらを手元に持ってくることすらできなかった。ぼくたちはずっと貧しいんだ。土地も貧しいし、人も貧しい。だから、恵まれてる土地の人たちに分けてもらえないかって、ぼくたちなりにがんばってきたのに……いつも無視されるし、ひどい時はだまされるんだ。ぼくたちには価値がないって、みんな勝手に決めつけてるから」

「でも……アルソニアン共和国は、周辺の国を併合していると聞いた。それでもまだ貧しいのか?」

「うん。豊かな土地をもらっても、何もかもは賄えない。ぼくたちのものになる前は、みんなうまくやってるように見えたのに……どうしてなんだろうねえ。ぼくたち、みんなのまねして、がんばってるつもりなんだけど……」


 うつむき、男は口をつぐむ。湖面に映った顔は、今にも泣き出しそう。

 ナイアは一度、掴まれた手首を見た。──左手なら、利き手ではない。、なんとか取り返しはつくだろう。


「……お前は、どうしてイェレが欲しいんだ」


 ずっと抱いてきた疑問を投げ掛ける。男の顔が、おもむろに持ち上げられた。


「……なんできみに聞かれないといけないの? もしきみが満足するような答えだったら、きみはイェレをくれるの? それとも、アルソニアン共和国に来てくれる?」

「ただの純粋な疑問だ。他意はない」


 お前がここまで躍起になる理由を明らかにしたいだけだ、と告げれば、男はまたしてもむくれ顔を見せた。しかしその表情のまま行動に移ることはなく、何度か口を開いたり閉じたりしてから、恐々といった様子で切り出した。


「あのね、ひみつにしてくれる?」

「うん。お前が、オレの信頼を損なうようなことをしなければ」

「……やっぱり、生意気。でも、さっきのは気持ちよかったから、とくべつに教えてあげる。──イェレはね、ぼくの憧れなんだよ」


 だから近くに置いておきたいの、と男は耳元で、気恥ずかしそうな小声で囁いた。


「一目見た時からね、すごくいいなって思ってたんだ、イェレの──ううん、イェルニアのこと。暖かい春も、きれいなお花も、豊かな麦畑も、深い緑色の森も、小川のせせらぎも、凍らない海も、小鳥のさえずりも、ずうっと守られてきたきれいな街も、しんしんと降る優しくて柔らかい雪も……全部、ぜーんぶ、ぼくたちが欲しかったものだった。それを、当たり前のように享受できるイェルニアが、とっても羨ましかったんだ」

「……イェルニアは併合されたと聞いたが?」

「併合はできたよ。でも、みんなぼくたちの言うことを聞いてくれないの。ぼくたちのしてきた努力を無茶だって言うし、すぐ病気になったり、役目を放り出したり、挙げ句の果てには逃げ出したり、ぼくたちに反抗したりするんだ。ぼくたちが欲しくて堪らなかった幸福が当然のものだって思ってるから、泣き言しか言えないんだよ」


 だからね、と男は語気を強める。


「イェルニアの希望である、イェレをぼくのものにできたら、きっとイェルニアの人たちも反省してくれると思うんだ。イェルニアだけじゃない、イェルニアみたいに併合された、幸せな土地のみんなも──イェレがこっちに付いたって知れば、きっとごめんなさいって謝ってくれるよ。そうしたら、ぼくも今までのことは水に流して、どんな人とも仲良くする」

「どんな人とも?」

「そう。だってイェレはそれができるからね。ぼく、ちょっとだけだけどイェレといっしょに暮らしてたことがあるんだよ。その時のイェレはすごくいい子でね、誰かのためにがんばれる子だった。困ってる子がいたら助けに走って、いじめっ子がいたらいじめられてる子を庇ってた。ああいう人ばかりだったら、こんな世界も少しはうまくいきそうなものなんだけど──人はそうもいかないよね。みんな自分のことでいっぱいいっぱいなんだもの。他人のことなんて見ていられないし、見ていてもすぐに踏み台にして、自分の糧にする。最近はそういう人ばっかり。だからみんなが協力できるように、ぼくたちはそういう環境をつくってるんだけど……どうしてか、今度はぼくが悪者にされるんだ。おかしいよね」


 湖水の染み込んだ靴が重い。おもむろに動かすと、足裏でざり、と塩の中に沈み込む。まるで波打ち際の砂浜だ。湿って重さを増した砂は、意思なく足下を鈍らせる。

 ね、と男が呼び掛ける。朝日を浴びたその顔は、半分が黒く染まっていた。


「きみは生意気で愛想がなくて、げんなりするくらいの甘ったれだけど、ちゃんとぼくの話を聞いてくれたね。ぼく、誰かとしっかりお話しできたのって久しぶり。お話しってこんなに楽しいんだね」

「……言っただろ。適切な会話のしかたは知ってるって」

「あは、そうだっけ? うん、でも、そっちの方がいいよ。ぼくはゆっくりしゃべるきみが好き」

「不本意だけど、同感だ。オレも、できることならいつもこのままでいたい」

「アルソニアン共和国に来なよ」


 何の脈絡もなく、男はそう言った。え、とナイアが瞬きする間も与えず、彼はお互いの空いている手も握り込む。


「きみ、混血でしょう? ぼく知ってるよ、ソルセリアには、もともと住んでたエレニとはちがう人たちがいるって。今のソルセリアを形作った人たちに迫害されて、今もいやな思いをしてるんでしょう」

「それは……間違っていないけど……」

「アルソニアン共和国では、髪の毛とか肌の色で人を断じたりしないよ。どれだけ勤勉で、誠実で、いい子であるかが判断材料だ。ソルセリアよりもずっとずっと素敵なところだよ。冬はちょっぴり……いや結構寒いけど、みんなでがんばれば乗り切れる。そうやって歩んできたんだ、ぼくたちは。きっときみにも向いてるよ。ね、イェレといっしょにアルソニアン共和国へ行こう。そうしたら、ぼく、素敵なところをたくさん案内するから──」

「──ご歓談中失礼しますね!」


 唐突に割り込んできた第三者の声。ナイアにとって、聞き覚えのない女のそれは、二人の背後から聞こえてきた。

 男の顔が一気に表情を失う。ナイアを強引に引き寄せ、ぐるりと勢いをつけて振り返る。


「……誰? なんでぼくの邪魔をするの? ほんとうに失礼なんだけど」


 向かった先にいたのは、背の高い一人の女性。腰まで届く長い赤毛の中に、一本だけ三つ編みが混ざっている。猫のような目元はエレニらしくない──肌色こそ白い方に入るが、先住民系の顔立ちだとナイアは判断する。

 彼女は睥睨を向けられても笑顔を崩さなかった。人当たりの良さそうな笑みを浮かべたまま、はきはきとした声で応じる。


「わたしはポポカ! ラゴッシア風の通り名では、リアマ・イグニフェールといいます! 本名では受け入れてもらえないことの方が多いので、特にこだわりがなければリアマと呼ぶのが良いでしょう!」

「へえ、ポポカね。やたらかわいい発音だけど、もしかして赤ちゃんの頃の名前をずっと名乗ってるのかな?」

「いいえ、地元に幼名の風習はありません! しかし最近では本名で呼んでくれる人もいます。大変喜ばしいことです!」

「どうでもいいよそんなことは。それで、ぼくたちに何の用? 大事なお話をしてたのに邪魔してくれたんだ、それなりの内容なんだろうね?」

「勿論! では単刀直入に申し上げますね!」


 ポポカが一歩踏み込む。夜空にも似た深い青色の瞳が、ナイアと秘密警察に突き刺さった。


「あなた、そちらの方──ナイアさんを誘拐した犯人でしょう? 悪いことは言いません、こちらにナイアさんを引き渡してくださいな!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る