第16話 レプリカ
ソルセリアはその広大な国土から、多様な気候や自然環境に恵まれた国でもある。北部は夏の暑さも比較的控えめで過ごしやすい温度だったが、南下していくごとに車内の気温は上昇の一途を辿っていった。
どのくらい、車を走らせていただろう。倦怠感と悪心を伴いながら、ナイアの意識はぼんやりと覚醒する。
車窓の外を見れば、穀倉地帯を主とする平原が広がっていた。現状にそぐわない、何とも牧歌的な光景である。
「あ、起きたんだ。おはよ」
もしもこれまでの記憶が全て夢だったのなら、と一瞬でも夢想した自分が馬鹿みたいに感じる。前方に座ってハンドルを握っているのは、イェレではなく彼を追う秘密警察だ。
ちらりとアルコアの方に視線を遣ってみたが、彼は目を見開いたままぴくりとも動かない。時折揺れる車体に合わせてぐらぐらと動くだけだ。魂がすっぽりと抜け落ちた空の器じみた様相は、見知った相手とはいえ不気味ですらある。
ともあれ、緊急事態ということに変わりはない。アルコアが行動不能である以上、この状況を打破できるのは自分のみだ。
上手く回らない頭で、ナイアは打開策を考える。一番手っ取り早いのは今すぐにこのジープから飛び降りて脱出することだが、アルコアを人質に取られている以上それはできない。何より単身で脱出したところでナイアの体調不良が続いている限りまともに動ける気がしない。しかも、ここは民家などほとんど見受けられない大平原の真っ只中だ。無事に集落までたどり着ける可能性を考える方が無駄だと、ナイアもよくよく理解している。
であれば、人気がありそうな場所で助けを求めるのが今のところでは最善のように思える。その場合、アルコアの身柄が枷になるが──一か八かで行動に出てみなければ状況は変わらない。このまま何もできず秘密警察の男に始末されるよりも、何かしらの行動を起こした方がましなことはわかりきっている。
荒く息を吐き出し、ナイアは突っ伏していた上半身を起こそうとする。……が、顔を上げれば吐き気が襲いかかり、上手く息ができない。吐きたくても吐けなかった先程よりは良い──ように思えるが、状況が状況故に今度は嘔吐を止めなければならないのだから厄介だ。最悪、自分の吐瀉物と最期を共にしなければならないと考えると、今以上にげんなりとした気持ちになる。
「なあに、きみ、今も具合悪いの?」
何度も浅い呼吸を繰り返していたのが、秘密警察にもわかったのだろう。彼は急にジープを停車させると、窮屈そうに隙間から上半身をねじ込ませる。
「もう、これじゃぼくが悪者みたいじゃない。ほら、手伝ってあげるから早く楽になって?」
男が右手に履いていた革手袋を取り去る。あっと思った時には遅く、ナイアの顎は男の左手で持ち上げられ、半開きの唇に長く骨張った指が侵入していた。
苦しい。呼吸ができない。体内に蔓延る不快感がかき混ぜられ、浅くも深くもない場所に凝っていた残留物が逆流する。
視界が滲むのは、生理的に流れた涙故だろうか。揺らぐ眼前の輪郭が不鮮明なまま、ナイアは胃の中にあったものを紙袋へと吐き出した。
出せるだけのものを戻したナイアは、うつむいたままげほげほと咳き込んだ。喉が渇いて仕方がない。息を吐き出そうとすれば、自分でも驚く程に
水が欲しい。透明で、濁りのない、冷たい水が。
「わがまま言わないでね」
掴まれた顎を強引に引かれる。ナイアが全てを理解するより先に、彼女の唇は奪われていた。
唇を閉じようとしたが遅い。厚く長い舌が、上下の唇を押し開けるようにして入ってくる。ぬめりを帯びたそれは口内をかき回し、生温い唾液を流し込む。口腔粘膜、歯、その裏側まで舐め取って、引っ込めようとした舌さえも絡め取り、男はナイアを蹂躙した。
窒息する、そうナイアが思った瞬間に男は離れた。互いの口の端からは糸を引いた唾液が垂れているが、息の上がったナイアとは対照的に男の呼吸はひとつも乱れていない。
「ふふふ、この前の仕返し。苦しかった?」
未だ涙の滲む視界の端で、男が微笑んでいる。頬を上気させ、垂れた唾液を舐め取りながら、恍惚とした表情で。
「ほんとうはね、この前ぼくにしたみたいに、何か尖ったものを目玉に突き刺したかったんだ。でも、イェレはそういうのきらいだろうから、ちょっぴり優しくしちゃった。感謝してくれてもいいんだよ?」
「……それは、誰に?」
「へんな質問。ぼく以外に誰がいるっていうの?」
長い指が伸びる。何をされるのかと身構えるが、それはナイアの口の端についた、どちらのものかわからない唾液を拭い取っただけだった。
「それより、きみってゆっくりしゃべることもできるんだねえ。前に会った時は、すごく早口で何を言っているのかわからなかったのに。イェレに教えてもらったの? ちゃんとした話し方」
「……もとから適切な会話のしかたは知っている。いつでもああいった振る舞いをしている訳じゃない」
「へえ、そうなんだ。ぼくてっきり、早口でしかしゃべれないおかしな子をイェレが憐れんだものかと思ってたんだけど……それならどうしてきみはイェレといっしょにいるの?」
ナイアの頬を指の腹で撫でながら、男は小首をかしげる。片目をすがめて、獲物を吟味するかのような視線をこちらに向ける。
彼は沈黙を好まないだろう。扉を無理矢理にこじ開ける怪力の持ち主に対して、無計画に逆らうのは悪手だ。
駄目元で女神ナイアと意識を交換できないものかとも考えたが、旧き女神はそうも都合良く起き上がってはくれない。今までも何度か試してみたが、ナイアの考え得る方法では女神を呼び覚ますことができなかった。意識はいつも乗っ取られ、一方的に体の制御を奪われる。たかが現身では、神の支配権を手に入れるなどできないのだと嘲笑われているようで不愉快だった。
ナイアは一度、唾を飲み込む。喉の渇きが癒えることはなく、むしろ痛みが増したが──それでも答えなければならない。
「オレにはイェルニアの男が必要だ。そこに現れたのがイェレだった──理由がこれだけじゃ不満か?」
「不満だよ」
即答だった。間髪入れる隙も与えられなかった。
先程よりは幾分かましになった視界に、男の顔が映る。笑っているが、瞳の最奥はがらんどうだ。傷に覆われた方の瞼が、ぴくぴくと痙攣する。
ねえ、と呼び掛けられる。反応する前に、大きな手が両の頬を掴んでいる。
「きみはイェレのことをどれくらい知ってるの? まさか何も知らないでいっしょに過ごしてたなんてことないよね? あの子の実像、ちゃんと理解してる?」
「わからない」
答えれば、男の口の端が僅かに歪む。彼が望む返答ではなかったのだろう。
だが嘘は吐けない。女神ナイアは欺瞞を嫌う。ナイア自身も、自らの意思を偽るのは好かなかった。
「お前がイェレの何なのかは知らないし、本国にいた頃のイェレは見たことがないから、オレに同じ目線を求めたところで無駄だと思う。オレの知るイェレは、呆れる程のお人好しで、いつもへらへら笑っていて、暇さえあれば煙草をくゆらせて火酒を直飲みするような奴だ」
最後はつい最近知ったことだが、嘘ではないので大丈夫だろう。自分で言っておいて何だが、イェレという青年はなかなかの不摂生だ。
男はしばらく同じ表情のまま沈黙していた。まるで時が止まったかのような数秒間。その間に動くものはひとつとしてない。
「……ほんと、生意気。ぼく、きみみたいなひととはお友達になれる気がしないよ」
ぱっと顔を掴んでいた手が離れる。まだ頬がじんじんと熱を持っていたが、ひとまず顎ごと砕かれる可能性が低くなったことに安心する。
男は既に正面を向いていた。いつの間にか吐瀉物を受け止めた紙袋も彼が持っており、開いた窓から外に投げ捨てられる。
「ナイア。きみはイェレのこと、お人好しだと思ってるんだね」
ルームミラーに男の目元と、酷く憔悴しきったナイアの姿が映る。青白い顔に窶れた表情、我ながらとんだ醜態を晒していると思う。
それがどうした、と言い返してやりたかったが、安堵した反動か押し寄せた疲労感がそうさせてくれなかった。最早口を開くことすら億劫なナイアを余所に、男は突き放すような口振りで続ける。
「言っておくけど、あの子にそんな言葉は似合わないよ。そう思われる度に、いやな気持ちになってるんじゃないかなあ」
「……イェレ本人が言うならともかく、他人のお前が言うのでは説得力に欠けるな」
「だってイェレは人じゃないもの」
ジープが発進する。地面がくぼんでいたのか、一度車体が大きく揺れた。
「……馬鹿を言うな」
やっとのことで絞り出せたのは、あまりにも弱々しい否定。背中を流れる冷や汗を相手に気取られないよう、どうにか無表情を保ちつつナイアは運転席を睨む。
「まさかイェレもヒューマノイドだと言うのか? 人によく似せた機械だと?」
「笑えない冗談だね。ヒューマノイドなんておぞましいもの、造ってるのはソルセリアくらいだよ。イェレはそんなのじゃない」
レプリカだよ、と男は囁くように言った。
「イェレはイェルニアという国の複製品。国家への帰属意識、愛着、妄執を人の形に押し込めた、イェルニアの幸福を一身に押し付けられたイェルニオスの集合体。イェレは人のお腹から産まれてきた訳じゃない。人の手によって調整され、生成された人工的ないのち」
「……嘘だ。そんな夢物語じみた話、誰が信じるものか」
「別に信じてくれなくても良いよ。でも、気になるのなら試してみれば? イェレはイェルニアという
おはなしはおしまい、と軽く告げて、それきり男は沈黙する。ナイアとしても、これ以上言葉を重ねる気力が起きなかった。
イェレが人間ではない。人によって創られた、ヒューマノイドとは似て非なる生命体。
現実味のない話だ。一息に信じるなんて、無理がある。
イェレ。心優しく、それでいてどこか壁のある、どこにでもいそうで似たものを見付けられる気がしない、イェルニアの男。
車窓を流れていく麦穂を目で追う。翳るその色に彼の髪色を思い出し、ナイアは口の中で小さくその名前を呼んだ。
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