第15話 解く

 ナイアの目的地であるルクィムは、ソルセリア南端に位置するガクルックス州のノセリダラ市に存在する──というのがアルコアの見解だった。しかし神殿というからには人里から離れた場所に建造されたと考えるのが妥当であり、現在の市街地や整備された地域にある可能性は低い。そのため、一行はひとまずガクルックス州の州都であるエドワルゴを目指すという方針で満場一致していた。

 ナイアとしては、早いところ当初の目的を果たしたい。そのためなるべく道草せずにエドワルゴへ行こう──と、天形の屋敷を出発した際にイェレへと進言した。


「……気持ち悪いぃ……」


 ──が、時機タイミングとはそうなって欲しくない時に限って悪いもの。

 前方の運転席に額をくっつけ、ほぼ倒れ込むような姿勢になりながら、ナイアは今にも吐きそうな声で呻いた。正直なところ、できることなら今すぐにでも吐きたい。


「うーん、昨日からずっとぶっ続けで車走らせてたからね。酔っちゃうのも仕方ないよ」


 運転席と助手席の間から顔を出しつつ、イェレが苦笑する。彼の顔にも疲労が滲んでいるが、他者の心配の方が勝るらしい。鞄から取り出した紙袋をナイアの口、その真下に置いた。何とも用意周到である。

 イェレの言う通り、ナイアは車酔いの真っ只中にいる。気が付けば悪心と吐き気に襲われ、今では頭も痛くなってきた。一息に食べたものを戻せたら幾分かすっきりするだろうが、出てくるのはえずく声ばかり。自分でもかなり情けない姿を晒していると思う。

 そして何よりナイアを苦しめているのは、自分から先を急かしておいて車を止めてしまっているという事実だ。幸いにもナイアの体調が悪化したのは道中の小さな町の中だったので最悪の事態は避けられたが、それでも道草を食っていることに変わりはない。申し訳なさと情けなさ、そして単純な気分の悪さからナイアは顔を上げることすらままならなかった。


「姫さんよ、気持ち悪いのはわかるが、さすがに何も飲まず食わずってのは体に毒だ。死にまでは直結しないだろうが、病院送りにでもなったら面倒極まりない。軽くでも良いから何か食った方が良いぜ」


 いつもは他者を食ったような態度のへスペリオスからもまともに諭されては、返す言葉もない。彼の表情は窺い知れないが、正論には違いないので深く項垂れるばかりである。


「ナイアの状態を鑑みるに、水分及び栄養補給は必要不可欠だ。当機が残り、二人で必要物資の購入に行くことを提案する」


 ついにはアルコアがこのように進言した。せめて自分に必要なものは自分自身で調達したいが、今立ち上がったら眩暈に見舞われそうで怖い。車から降りた瞬間に倒れて病院送りなど、大迷惑にも程がある。

 もとより返事をする気力のないナイアは、瞼を下ろして一同の会話に耳を傾けることにした。ここで眠れたら楽だが、今はそれどころではない。せめて視覚情報を減らして負担を削ろうという魂胆だ。


「そうだね、ちょうど買い出しに行きたいと思ってたところだし、ここらで外に出ようか。おれは食料品を見てくるから、お前はその他の物資を揃えてきて。アルコアの認証書パスがあるとはいえ、無駄遣いはするなよ」

「それくらい、お前に言われるまでもなく理解しているさ。お前こそ煙草や火酒ウォトカに国家の金を費やすんじゃないぞ?」

「嗜好品は自腹で買うよ。お前と違って節度を持ってるんでね」

「火酒を直飲みするヘビースモーカーが節度を語るなよ」


 予想以上にイェレが上戸ザルだったのは驚くべきことだが、気分が優れない時に酒について考えるのは悪手だ。儀式だなんだと言われて無理矢理酒を流し込まれた時の胸焼けや酩酊は、できれば繰り返したくない経験である。

 何はともあれ、車酔いでダウンしたナイアのためにイェルニアの男二人は買い出しへと繰り出した。車内には、ナイアとアルコアのみが残される。

 視界を閉ざしつつ、ナイアは町へと向かった二人のことを思った。具体的には、彼らが用いる通貨代わりの許可証についてである。

 これまでの旅路が成り立ってきた一因として、アルコアの所持する国家認証書がある。これはソルセリア全体に奉仕する限られた職の者にのみ配布されるもので、この認証書を提示すれば大抵の支払いを通過することが可能となる。アルコアいわく認証書にはいくつかの予備があるそうで、それらは必要に応じて一行に預けられる。此度はイェレとへスペリオスがそれぞれ予備を持って出かけたのだろう。

 そういった代物が手中にあるため、車の燃料や日々の食料品に日用品、突然の出費もアルコアの認証書でどうにかしてきた。平生から頼る部分が大きいのに、この期に及んで彼の力を借りるとなると抑えてきた抵抗感が暴発しそうだ。


「嘔吐は引き続き困難か?」


 気を紛らわせようと今までの出費を振り返っていたところ、あまりにも直球過ぎる質問が飛んできた。紛うことなく隣席のヒューマノイドである。

 人が吐きたくても吐けない状態なのにそこまで剥き出しの質問をするのはどうかとか、もう少し配慮というものを搭載した方が良いんじゃないかとか、言いたいことは山ほどある。つくづく今の体調不良が恨めしい。

 元気になったら覚えていろ、と決意を固めていると、背中に掌を置かれる感触があった。そのまま、背骨に沿うようにしてゆっくりと擦られる。


「……当機は医療用ヒューマノイドではないから、有効的治療は不可能だが……人型である以上、できることはあるだろう。何なりと申し付けてくれ」


 もともと抑揚が少ないのでわかったことだが、アルコアの声色は僅かに揺らぎを帯びていた。心配してくれている──と考えて良いのだろうか。

 何にせよ、規則的に上下する掌は不快ではない。それでアルコアが満足するなら良いか、とナイアは身を委ねることにする。

 それにしても、ゲノ族の中にいた頃は体調を崩すことなどほとんどなかった。大袈裟かもしれないが、他者に手を加えられない中で動けなくなる程の体調不良はこれが初めてだ。

 浅い息を繰り返しながら、ナイアはありし日のことを想起する。

 女神ナイアは酒を好む。それゆえに、現身であったナイアも儀式の一環として強引に飲酒させられた。その際に与えられた酒はゲノ族が秘密裏に製造している、謂わば粗悪品だったので、そこまで酒精アルコールの強いものではなかっただろう。しかし二十歳にも満たないナイアの体がいきなり大量の酒精を受け付けられるはずもなく、初めの頃は何度か気絶したものだった。今こうして健康体でいるのは、女神ナイアの加護故か、はたまた単に悪運が強かったからか──どちらにせよ、もう酒はあまり口にしたくない。

 今の気分は、酒を飲み過ぎた日の翌日に似ている。頭がぐらぐらとして気持ち悪い。それで吐けないのだから、胸のつかえは一層悪化するばかり。

 ナイアの中には勘弁してくれと思う反面、皆といっしょで良かったと感じることもある。もしも自分一人だったのなら、どうすることもできず倒れ伏していたことだろう。

 こうしてイェレたちに感謝の念を抱きつつあったナイアだったが、ふと背中の手が動いていないことに気付く。顔を上げたら胃の中のものが逆流しそうなので、体勢はそのままに声をかけた。


「アルコア……?」


 返事はない。その代わりに、背中の手がずるりと落ちる感覚があった。

 見えていなくてもわかる。アルコアの様子がおかしい。

 アルコア、ともう一度呼び掛けると、隣で微かに身動きする気配があった。意識はあるのか、と一安心したのもつかの間、横から聞こえてきた声に耳を疑う。


「侵入、者──当機の機構システムが、破壊、され──このクラッキングは覚えが──速やかな対処を──」

「アルコア? それは、どういう……」

「解除不可能──一時、停止する──ナイア、きみはここから、離れ」


 最後まで言葉を紡ぐことなく、アルコアの声は途切れる。ぷつりと糸を切られたように、彼のいる方向から全ての音が消える。

 これはただ事ではない。人の形をしているとはいえ、アルコアはヒューマノイドだ。何か深刻な不具合が起こったのかもしれない。

 そう思い顔を上げた矢先、がちゃりと運転席側の扉が開く。イェレ、と声を上げようとしたが、ナイアの喉は彼の名前を呼ぶ代わりにひゅっと詰まった。


「あは、こんにちは。ナイア、だっけ? 久しぶりだねえ」


 半分を傷跡に覆われた顔。満面の笑みが浮かぶそれは、忘れられるはずもない。


「お前は──!」

「イェレはいないんだね、残念。でも良いか、きみを連れていけるなら十分だ。そっちは──ソルセリアのヒューマノイド、だね? 本当に人間そっくり、変なの」


 運転席へと大きな体を押し込めながら、秘密警察の男は笑う。当然のように、ナイアの言葉は顧みられない。

 何故、何故この男がここに。いや、それよりもまずは助けを呼ばなくては。

 混乱する頭で、ナイアは必死に打開策を練る。しかし窮地だからといっていきなり頭が冴える訳もなく、また気分の悪さも退いてはくれない。そうこうしているうちに、秘密警察の男はエンジンをかけている。


「お前、は……! 何を、するつもり、だ……⁉️」


 やっとのことで声を振り絞ると、男はやっとこちらを振り返った。以前マイナスドライバーが刺さったはずの眼球は、何事もなかったかのように治癒している。


「何って、わかってるくせに。ぼくはイェレが欲しいんだ。そのために、きみたちを誘拐しようと思ってね」

「誘拐……まさか、そのためにアルコアを……⁉️」

「アルコア……って、そこのヒューマノイド? いくら時機が悪かったからって、何でもかんでもぼくのせいにしないで欲しいなあ。ぼくは何もしてないよ。そいつが勝手に壊れただけ」


 ああでも、と続けつつ、男は顔を前へと向ける。


「ぼく、ソルセリアのことそんなに好きじゃないんだよね。ソルセリアが造ったヒューマノイドなら、この機会に壊しておこうかなあ。うふふ」

「……!」

「それならきみは逃げても良いよ、ナイア。ぼくのいちばんはイェレを手に入れること。それができたら、後のことはどうだって良いんだよね。ソルセリアはうちと仲良くないから、一応潰せる芽は潰しておくけれど」


 悔しいことだが、今ここで自分だけ逃げ出すという道はナイアの中で完全に塞がれた。秘密警察の男も、それを見越した上での発言なのだろう。彼は、ナイアがアルコアを見殺しにできないと確信している。人質という拘束を解く術など、今のナイアは持ち合わせていないと。

 何か言い返してやりたかったが、どれも負け惜しみになりそうで嫌だった。ナイアは唇を噛み、前方でハンドルを握る男を睨み付ける。


「そんなに見られたら恥ずかしいよ。さ、イェレが戻ってくる前に出発しよ? これからどこへ行こうかなあ」


 子供の睥睨など痛くもかゆくもないとでも言うように、男は加速器を踏む。本来の運転手を取り残したまま、ジープは煙を吐きながら動き出した。

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