第11話 飴色

 ふわりと漂う香ばしい匂いによって、ナイアの意識は呼び起こされた。自転車に乗せられていた時とは異なり、体の痛みはほとんどない。ぼんやりと浮かび上がる見慣れない天井を目にして、仰向けに寝かされているのだと気付く。

 ここはどこだったか。ナイアは寝起きで朧気な記憶を手繰り寄せようとする。まだ頭がふわふわとして、上手くものを考えられない。


「……起きたの」


 頭上からかかった声をきっかけに、ナイアはゆるゆると視線を上げた。見れば、やや傷んだ茶髪がこちらに向かって垂れている──この部屋の住人であるハリナに見下ろされていた。

 寝転がったまま応対する訳にもいかず、ナイアは身を起こす。頭がほんの少しくらくらとしたが、すぐに収まった。

 ハリナは近くの椅子に腰かけて、何やら内職をしていたようだ。絆創膏だらけの指の間に、作りかけの造花が見えた。


「イェルニオス様──ああ、あなたはイェレと呼んでいるのだっけ。彼とお連れの方は、台所にいるわ。朝食を作ってくださったの。今は余り物で自分たちと、あなたの分に取りかかっている頃合いでしょう」


 聞いてもいないのに、ハリナはつらつらと言葉を並べ立てる。しかし目線は一切合わない──合わせようとしていないのだ。

 徐々に明瞭になりゆく視界を確認しつつ、ナイアは幸薄げな少女を見遣る。明るい中で観察してみると、彼女の頬にうっすらとそばかすが散っているのがわかった。


「……クラリッサさんなら、昨日の夜のうちに出ていったわ。リハーサルに間に合わせたいんですって」


 沈黙に耐えきれなかったのか、それともナイアの疑問をいち早く察したのか。どちらであるかはわからないし、はたまたどちらも含むかもしれないが、ナイアが何か言う前にハリナは先手を打った。

 ツェツィーリアと名乗っていた、天賦の歌姫。ナイアの記憶にある彼女は、声も上げずに泣きじゃくる自分をひたすらあやしてくれていた。ナイア自身、何がどうしてあのような状態に陥ったのかさっぱりわからないが、ともあれ迷惑をかけたことは事実である。礼のひとつも言えずに別れたというのは、なかなか心苦しいものだった。

 そういえば、とナイアはひとつ瞬きする。目の前にいるハリナに会うため、クラリッサはお忍びでここまで来たのだと言っていた。あれから、ハリナは憧れの歌姫と言葉を交わすことができただろうか。


「……ツェツィーリア……クラリッサとは、話せたか」


 未だに本名を呼び慣れないナイアは、途中で訂正しつつ尋ねる。クラリッサのことだから約束をおざなりにはしないだろうが、念のためだ。


「……ええ。一年も前に、届くなんて思わずに駄目元で出した手紙なんかを受け取ってくれて、覚えていてくれた。私が想像していた通りの人柄だったわ。気さくで、お喋りで、あたたかい……太陽みたいな人。見ず知らずのあなたに対しても、すぐに駆け寄って寄り添えるのだから、きっといい人なんでしょう」

「そうだな。彼女には申し訳ないことをした」

「……でも、あの人と母親を重ね合わせるのはどうかと思うわ。とても素敵な人だけど、親しみやすいとは言えないし……なんでも一人で完結させてしまいそうなところがあるもの。それに、あなたのお母さんって、そんなに溌剌はつらつとした感じだったの? だとしたら、結構変わってると思うけど」

「母親……」


 自分から呟いておいて何だが、ナイアに母親の──いや、両親の記憶はない。気付いた時には女神の現身として扱われ、ナイア本人もそれを当然のこととして受け入れていた。

 故に、ナイアは親の顔も知らない。恐らく、屠ったゲノ族の中に血の繋がった者もいたのだろう──そう考えてはいるが、特にこれといった感慨を覚えることなく過ごしている。ゲノ族のすえたちは女神の贄となり、いずれ来るべき略奪者への報復の糧となることを心から望んでいた。でなければ、ナイアを残して部族そのものを女神に捧げるなどという真似には及ばないはずだ。

 結論から言えば、ナイアに母親の記憶がない以上クラリッサと重ね合わせることすらできない。一度首を横に振ってから、ナイアは話題を変えることにする。


「お前の親はどうした? 昨晩も見かけなかったが……留守にしているのか?」

「死んだわ」


 返答は呆気なかった。ここで強く見つめるべきではないとわかっていても、目線はハリナの方を向いてしまう。

 こちらの反応などわかりきっていたのだろう。ハリナは心底面倒臭そうな顔で嘆息した。


「移民船に乗って、故郷を脱出する時……いくつかの船は、アルソニアン共和国の砲撃によって沈没したの。そこに私の両親が乗っていた、それだけのことよ」

「だが、お前は」

「……運が良いのか悪いのか、私は人混みの中で両親とはぐれて、同じ船に乗ることができなかった。だから生き残ってしまった。大したことなんてできない足手まといなのに」


 自嘲するように笑い、教えてあげる、とハリナは囁く。


「私といっしょに暮らしている子たちはね、血の繋がったきょうだいではないの。皆家族と離れ離れになって、行き場をなくした子供たち。今ここにはいないけれど、ネリユスという一番年嵩の男の子が、同じような立場の子供たちで家族になろうと言って、ここまで引っ張ってきてくれたの。彼は今も、私たちを養うためにダムの建設へ行っている。……ダムなんて、イェルニアの比にならないくらいあるのに」

「……他の子供たちは?」

「仕事に行ったわ。イポリタスとマーシンは靴磨き。パウラは下町の食堂で下働き。私はもともとあまり体が強くないから、あの子たちに頼ってばかり。せめて、飴色の革靴や美味しいご飯を与えてやりたいけど……こっちに来てから、もっと動けなくなってしまって。結局、あの子たちには指を咥えさせるしかできないの」


 ハリナの手は完全に止まっていた。中途半端な造花に力がこもり、作り物の茎がたわむ。


「ネリユスが出払っている以上、あの子たちの保護者は私。私が、あの子たちを真っ当に育てなくちゃならない。……それなのに、私にできることといったら、あの子たちを差別の加害者にすることだけだった。私たち移民だって、ソルセリアの人たちからは良く思われていないのに……」

「別に気にしていない。いないものとして扱われることには慣れているし、誤解ならクラリッサが解いてくれた。お前のきょうだいたちは、見知らぬ来訪者に警戒していただけだ」

「あなたが本気でそう思っていたとしても、私は鵜呑みにできないの。納得なんて、できるはずがない……」


 うつむき、ハリナは息を吐き出す。それでも彼女の顔色は悪く、見るからに苦しげな表情をしていた。

 何故この少女は、こうも自罰的なのだろう。ナイアはハリナを苦しめたくて、先のように発言した訳ではないのに。

 ハリナが唇を震わせる。そこからこぼれる声は、酷く掠れてか細かった。


「……あなたが悪者なら良かった。救いようがなくて、庇い立てる余地すらなくて、私たちに害を与える存在なら、どれほど良かったことか……。あなたがイェルニオス様や、私の唯一の希望になってくれた歌声の持ち主を連れてくるような人でなければ、どれほど……」


 そこでハリナは言葉を切った。うつむき、一度瞑目してから、何事もなかったかのような、取り繕った無表情で顔を背ける。


「話はここまでにしましょう。でないと、いつまで経ってもあなたの朝食は運ばれてこない。……イェルニオス様はお優しいから……あまりにも優しすぎるから、終わりを明確にしないと出てこられないわ」

「……ハリナ」

「あなたになんか、会いたくなかったわ。お願いだから、ここに来るのはこれで最後にして。私たちは平行線でいた方が穏やかに暮らせるの。……少なくとも、私はそう思う」


 言うだけ言うと、ハリナは今度こそこちらを見ずに内職を再開した。たどたどしい手付きで作り物の花弁を開き、花らしく整えていく。

 ナイアはどうしたら良いかわからず、手持ち無沙汰に自分の両手を見た。傷こそないものの、硬く無骨な手。ゲノ族を葬り血を浴びた、清らかさとは反対の掌。

 真偽を抜きにして、このような手で花に触れるべきではない。花を愛する者は、きっと許さないだろう。


「……ナイア、おはよう。朝ごはん、できてるよ」


 声をかけられ仰ぎ見れば、そこにはぎこちない微笑みを浮かべるイェレがいた。先程の会話を聞いて、出るに出られなかったのだろう。ハリナにも気付かれていたようだし、変なところで不器用だ。

 隣に立つアルコアは、相変わらず喜怒哀楽いずれにも該当しない無の顔でこちらを見ている。料理の手伝いをしたからか、眼鏡のレンズがほんの少し曇っていた。

 ナイアは平静を装いつつうなずき、イェレから皿を受け取る。控えめに齧ったトーストは、温かいながら味を感じることができなかった。

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