第10話 ぽたぽた

 イェレはある程度移民の共同体に通じているとのことだったが、あてがあるから心配するなと先導したのは彼ではなくツェツィーリアだった。


「名前から考察するに、お兄さんは旧イェルニアの人だろ? だったらあたしに任せなよ、ちょうど会いに行こうと思ってた相手がいるんだ」


 そうしてたどり着いたのは、規則的な集合住宅の一室。四階の二十三号室前──423と記されたプレートを数回確認してから、ツェツィーリアはここだ、と呟いた。


「パンデス市十六番地第九号住宅郡、423号室──きっとここだ、間違いない」

「知り合いの家なのか?」

「うーん、知り合いって程ではないけど、あたしが一方的に知ってて、近々顔出したいなーって思ってたんだよね。きっと悪いようにはしないから、一泊くらいならさせてもらえるんじゃない?」

「なんというか……大丈夫なのかな……?」


 不安感を隠しきれないイェレを余所に、慣れた手つきでツェツィーリアは扉を叩く。呼び鈴が付いていない以上、こうして呼び出すしかない。

 ややあってから、扉が細く開いた。僅かに明かりの漏れる隙間から、お世辞にも良いとは言えない顔色の少女が覗く。


「あの……どちら様で……」

「ふっふっふ、名乗る程の者ではない──って一度言ってみたかったんだけど、さすがにここは身柄を明らかにしないといけないね。まあここは少し溜めて──」

「ああっ、あなたは、もしかして……⁉️」

「いや反応早いね⁉️ 察しが良いのは助かるけど、もう少し勿体ぶりたかったなー。そうさ、あたしこそク──」

「──、ですよね……⁉️」


 二度も言葉を遮られた挙げ句、自らの望む答えではなかったのだろう。ツェツィーリアは喜劇でもそうそうない勢いでその場に崩れ落ちた。

 少女が目を向けているのは撃沈しているツェツィーリアではなく、彼女の傍らに立つイェレだ。ぱちぱち瞬きする彼を前に、少女は躊躇いなく扉を開けた。


「あのっ、大したおもてなしはできないんですけど、どうぞ上がっていってください! お茶くらいなら、出せますから……!」

「あっ、いや、そんな、気持ちだけで十分だよ。欲を言えば、おれたちを一晩泊めて欲しいんだけど……」

「はい! 喜ん、で……」


 狼狽えるイェレに対してにこにこと迎え入れようとした少女だったが、扉を大きく開けたことで全容が見えたのだろう。はたと口をつぐみ、恐々と尋ねた。


「……こ、この人たちは、イェルニオス様のお連れ様ですか……?」

「? そうだけど……」


 イェレはいまいち状況を掴みきれていないようだったが、ナイアは既に少女の内心を理解していた。うつむき、そっと後退する。


「……イェレ。オレは別の場所で夜を明かす。お前ならまだしも、オレのような……混血が押し掛けるのは迷惑だろう」

「どうしたの、ナイア。そんな、遠慮しなくても……」

「──反エレニを掲げる先住民は、子供を誘拐する」


 今にも踵を返して立ち去りそうなナイア、そして彼女に問いかけるイェレのやり取りを断ち切ったのは、驚く程平坦な声だった。

 一同の視線を集めた声の主──アルコアは、相変わらず涼しい顔をしている。一切の温度を宿さない眼差しで、彼は事務的に続けた。


「戦後間もなくして、ソルセリア内の児童誘拐が多発した。現在に至るまで、根本的な解決には至っていない──故に、人々は仮定した。一連の誘拐事件は、エレニを憎む先住民や、その血、意思を継ぐ者の仕業であると」

「そんな……」

「無論、これは仮説に過ぎない。アルティマ大陸の先住民による誘拐事件の検挙はまだない。ソルセリア住人にとって忌避すべきものが、定まらない犯人像として投影されただけだろう」


 アルコアは淡々と語るが、その場の空気は完全に冷えきっていた。当然ながらナイアは口出しする気になれなかったし、イェレは見るからに愕然としている。423号室の少女は唇を噛み、肯定も否定もしない。色眼鏡をかけているツェツィーリアの表情だけが読み取れなかった。

 少女の反応からして、恐らく図星だったのだろう。それに対してナイアが何か思うことはないし、妥当な結果だとさえ感じる。

 ソルセリアのエレニたちは、濃い肌を持つ先住民や混血を見下すと共に後ろめたさを感じている。だからこそ、彼らに関する情報の記された資料は一般人の目に触れることを禁じられているし、歴史の授業ではありのままの過去を教えない。ただエレニは偉大で、それ以外の人々を教化し導かなくてはならないという、酷く抽象的な文言を刷り込まれる。

 見ず知らずの少女を怖がらせるのは、ナイアの本意ではない。幸い野宿には慣れているし、寝苦しい気温でもないので、外敵にのみ気を付けていれば一晩くらいなんとかなる。イェレは心配してくれるかもしれないが、これでもそこそこ丈夫なのだ。


「いや、この子が誘拐犯ならあたしたちも完全にグルでしょ。つまりは取り越し苦労ってこと!」


 ──と、前述のように提案しようとしたところ、それを見越したかのように透き通った声が先手を打つ。

 発言者ことツェツィーリアは、悪戯っ子のように口角を上げた。恐らくナイアよりも年上のはずだが──表情が子供のそれに似ているので、どうにも大人として見ることができない。


「周りの大人たちも、君の身を案じた上で教えたのかもしれないけどさ。エレニ以外が皆誘拐犯だとしたら、いくらソルセリアでも少子化で滅亡不可避よ? 無理に泊めろとは言わないし、そもそも泊めてもらいたがってるのはこの人たちだからあたしから言えることはそんなにないけど、自分の目で確かめていないことを根拠に行動するのは良くないなーってお姉さんは思うのです」

「あ……でも……」

「それに、さ! 詳しいことはよく知らないけど、こっちにはええと……なんとか様がいるんだし! 何かあったら華麗な身のこなしで敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げてくれるよ。だから安心しておもてなししな!」

「いや、ちぎっては投げないよ」


 後に付け足された台詞で全体的に台無しな気がしないでもないが、ともあれ少女は納得してくれたようだ。先程よりも表情を弛緩させた彼女は、小さくうなずいてから一行を中へと促す。


「……どうぞ。あまり広くないし、私以外も住んでるんだけど……それでも良ければ」

「ありがとう。……ええと……」

「ハリナ。ハリナ・ミフニク。私の名前です」


 聞き馴染みのない発音。一統言語こそ遣ってはいるものの、異国情緒の感じられる姓名だ。

 これが異国の言葉なのだと、噛み締めながらナイアは部屋へと足を踏み入れる。室内は薄暗く、部屋の中央に設置されているカンテラが唯一の光源だった。その灯りを囲むようにして、三人の子供が座っている。男児が二人、女児が一人。皆ハリナよりも年下に見えた。


「イポリタス、パウラ、マーシン。お客様よ」


 ハリナがそう呼び掛けると、子供たちは緊張した面持ちで立ち上がった──が、すぐに各々の顔に輝きが灯った。彼らの視線は、全てイェレに注がれている。


「イェルニオス様だ!」

「すごい、本物⁉」

「どうしてソルセリアにいるのお?」

「わ、わわ、待って待って、ちょっとたんま……!」


 わあっと歓声を上げて駆け寄る子供たちを避ける訳にもいかなかったのだろう。イェレはあっという間に囲まれて、意図的ではないのだろうが身動きを封じられた。腕白な男児からは腕にぶら下がられ、否が応にも遊んでやらなければならない状況に陥っている。嫌がってはいなさそうだが、イェレの顔には明確な困惑が浮かんでいた。

 好き勝手に群がる子供たちを注意することもなく、ハリナな微笑ましげに眺めている。その眼差しには確かな慈愛がこもっており、子供たちに対する彼女なりの愛情が感じ取れた。


「むー、このあたしよりも人気者だなんて、妬けちゃうな。もしかして、お兄さんって結構な有名人?」


 これに面白くなさそうな顔をしているのがツェツィーリアである。彼女は大人げなく唇を尖らせながら、いち早く腰かけた椅子の上で足をばたつかせた。相手が同じエレニだからか、ハリナが苦笑しつつ柔らかな口調で応じる。


「イェルニオス様は、祖国の希望なんです。私たちが私たちでいられる、証のようなもの……と言うべきでしょうか」

「証……?」

「ああ、そんな大それたものじゃないよ。おれの名──イェレの由来が、ある称号だったことが理由なんだけど」


 思わず首をかしげたナイアに気付いたのか、照れ臭そうにはにかみながらイェレが補足する。


「イェレって名前は、前に言ったみたいにイェルニアの男性系、つまりイェルニアの男という意味を持つんだけど、もともとは名前じゃなくてイェルニオスという称号だったんだ。今はもうないイェルニアの王家が、国のため尽くした忠義の士を称えて与える称号にして名誉の印。イェルニオスの名を冠する者は、それこそイェルニアの勇士なんだ」


 でも、とイェレは目を伏せる。


「イェルニアの王政は百年近く前に解体されているから、それ以降正式にイェルニオスと認められた者はいないんだ。イェレという名前は、イェルニオスの愛称──つまり過去の勇士たちにあやかって生まれたもの。少なくともおれには、輝かしい功績なんてひとつもないよ」

「しかし、おまえは現にイェルニオス様と呼ばれている。個人的な知人にも見えない。やはりおまえは相応に名の通った存在なのではないか?」


 イェレとしては話を締め括りたいようだったが、空気を読まないヒューマノイドは思い通りにさせてくれない。真顔で立ち尽くしたまま、じろりと冷俐な目線を向けてくる。

 はあ、と溜め息をひとつ。イェレは誤魔化せないことをわかっているのか、不本意そうな顔をしながらも弁明した。


「あまり大したことじゃないけど……地元にいた頃は広報の仕事とかしてたから、それなりに顔も割れちゃっててさ。今こういうことになってるのも、それが理由」

「イェルニアでは著名だった、ということか?」

「著名って程じゃないよ。ただちょっと、公に向けて顔を出す機会があっただけで……人気者とか、著名人とか、そういうのではないから……」

「──要するに、ご当地有名人ってことだね!」


 どんどん尻すぼみになるイェレの声は、場違いな程明るいツェツィーリアの声によって遮られた。

 彼女は勢い良く立ち上がり、ずんずんと大股で歩を進める。そうしてたどり着いた先は、ぽかんとするハリナの前だった。


「このお兄さんが君たちにとってすごい存在ってのはわかったよ。でも、こっちの超絶美麗万能お姉さんの目的は、お兄さんをちやほやさせることではないのだ!」


 ずばり、とツェツィーリアはよく通る声で切り込む。その場の視線が、一斉に彼女へと向かった。


「ハリナ・ミフニク。君は去年、 ヒュリアに手紙を出したよね。覚えてる?」

「えっ? あ……言われてみれば、たしかに……」

「おい! 忘れかけてるんじゃないよ! そりゃ忙しかっただろうけど、君とは違う方向性で超忙しかったあたしはずっと、ずーっと覚えてたんだぜ⁉️」

「……すまん、ヒュリアとはなんだろうか」

「ヒュリア連邦はネウナ大陸西部、エレニア地方中央部に位置する連邦共和制国家だ。文化芸術の分野ではエレニア地方随一とも称され、レイマックと同様に世界的な学術機関も多い。ソルセリアに対して外交使節団の派遣や駐留も定期的に行っているため、我々ヒューマノイドには現時点で友好国として設定されている」

「解説ありがとう。続けてくれ、ツェツィーリア」

「あーもう、二人とも天然ちゃんなんだから! 良いかい、ここはあたしの独壇場! 言うなれば独唱ソロ! 静かに注目してくれよなっ!」


 会話の最中に知らない知識を補充していたら、案の定ツェツィーリアから叱られてしまった。正直、地図を見ても国土の大きな国家しか目に入らなかったので、同じような大きさの国がひしめき合っているエレニア地方──略奪者たちの祖国もここに位置している、エレニたちにとっては父祖の土地だ──のことは端から眼中に入れていなかった。申し訳ないことだが、これまでアルソニアン共和国くらいしか位置関係を正確に認識できていなかったことをここに白状しよう。……絶対に口に出せはしないが。

 やっと場の空気を我が物とした──と自覚しているらしいツェツィーリアは、腰に手を当てながら仕切り直した。


「とにかく、ハリナ。君はヒュリアに──正確にはヒュリアで活動している歌手に手紙を出した。幸運なことに、その手紙はちゃんと海を渡ってネウナ大陸まで運ばれ、歌手本人のところまで届いた。ここまで大丈夫?」

「……はい」

「で、だ。手紙を受け取って熟読した歌手は気付いたのさ。自分は来年ソルセリア、しかも送り主に程近いパンデスでの公演で主役を張る。小うるさい見張りやら報道者マスコミの目を上手く掻い潜れば、慣れない異国の地で頑張る送り主に直接声をかけてあげられるんじゃないか、ってね!」


 しかーし、とツェツィーリアは逆接を用いる。ずっと聞き手に回っているハリナと子供たちの目が右往左往した。


「君たちは利口だ。少なくとも、このお兄さんがいなければあたしたちを警戒するだけの目はある。だから、いきなり世界の歌姫が君のためにお忍びでやって来ました……なんて宣っても、信じてもらえないことはわかってる。──ので!」


 高らかに言い放ち、ツェツィーリアは色眼鏡を外す。そのまま投げ捨てる──ことはなく、いそいそと胸元にしまった。見栄えよりも私物を大切にする心の方が勝ったようだ。

 色眼鏡の取り扱いについてはさておき、ツェツィーリアはわざわざ靴を脱いでから傍にあった椅子へと片足を乗せた。得意げに口角を上げると、彼女はあらわになったカンラン石の如き双眸を煌めかせる。


「あたしがあたしであることを証明するためには歌うしかないってことで! ツェツィーリアことクラリッサ・ナイトハルト、勤務外だけど一曲披露しちゃうぞ!」

「クラリッサ・ナイトハルト──⁉」

「そ! 新鮮な反応ありがとね、ハリナ! んじゃ、明日からる作品からアリアをひとつ──『女傑カエキリアの誓言』」


 すう、とツェツィーリアが深く息を吸い込む。彼女が口を開いた時──そこから紡ぎ出されるのは、先程までの弾むような声音ではない。


「『晴れ渡る空、重圧なる曇天、石を穿てる雨降りし時

そこに迷える民草あれば、このカエキリアが立ちましょう

我が剣、我が盾、我が心に誓いを以ていざ行かん、正義の徒よ

たとえこの身が朽ちるとも、この意思挫けることはなし

我が身ひとつとなろうとも、流れる血潮を以て軍勢を成さん

愛すべき祖国よ、いざや照覧あれ!

カエキリアの勇姿、覚悟、そして魂を!

我こそはカエキリア、我こそがカエキリア

お前たちの火種であり、勇気をおこすものなり!』」


 澄み渡り、然れど確かな重圧をもって体内に沈み込む歌声。

 高い技巧と繊細な装飾が施されたそれは、素人が耳にしても常人の域にとどまらないとわかる代物だった。誰もが言葉を失い、息を飲み、そして彼女の美声に酔いしれた。

 歌劇を知らないナイアでさえも、その超絶技巧を前にしては立ち尽くすしかなかった。──ある情動が、意図せずあふれ出すまでは。


「母さん」


 ぽつり。

 ナイア自身、己の口からどうしてその単語が滑り出たのかわからなかった。ただ、気付いた時にはその言葉を口にしていた。


「母さん」


 繰り返し呟けば、知らず頬が熱くなった。涙を流しているのだとナイアが気付くまで数秒の時間を有した。

 ツェツィーリアに一般的な母親像を重ね合わせたつもりはない。だがこぼれ落ちた単語はたしかに母親を表すものだったし、涙は絶えずぽたぽたと流れ続けている。歌に対して感動はしたが泣く程ではないと思うし、悲しみを覚えている訳でもない。何もかもわからないまま、ナイアは泣いている。


「ちょ、ちょっとちょっと、どうしたのさ! どうせならあたしの歌声に感動して泣いてくれよ、もう!」


 真っ先に駆け寄ってきたのはツェツィーリアことクラリッサだった。表面的な文字列よりもずっとずっと優しい声で、彼女はナイアに語りかける。


「すまない、自分でもわからないんだけど、急に……」

「大丈夫、大丈夫。すごいものに触れたら、知らず心に揺らぎが生じるものだよ。感受性豊かなのは良いことだぜ。ほら、手巾ハンカチ貸したげる」

「っう、ありがとう、本当に──」

「謝るなよ、全然可愛いものだから。──ほら、皆ぼけっとしてないで! こっちのことは気にしなくて良いから、各々できることをやっててくれよ。機械人間君は涙を採取しようとするな! ヤバい奴に見えるぞ!」

「…………」


 不満げな顔をしているアルコアを追い払い、クラリッサはやや強引にナイアの腕を引く。逆らわずに従えば、彼女の胸元に額がぶつかる。


「あたしは末っ子だし、ちゃんと可愛がられたことってあんまりないから、上手くできるかわかんないけど……でも、溜まってるものがあるなら発散した方が良いよ。あたしなら歌ってどうにかするけど、君はそういうの慣れてなさそうだしさ。こんな時くらい、お姉さんの胸を借りなさい。この先、やらなきゃいけないこともあるんだろ?」

「……うん」

「だったら今甘えときなよ。あたしは要領が良いから、当初の目的はちゃんと達成する。君を落ち着かせたら、ハリナたちとの約束を果たすさ。だから、君が心配することは何もないんだよ」


 余裕ぶった口調とは裏腹に、クラリッサの手付きは恐々としている。慎重に、壊れ物を扱うかのような手付きで、ナイアの頭を撫でる。

 優しい掌。仄かな体温。そして頭上から降り注ぐ、聞いたことのない言語で紡がれる子守唄。

 その全てが心地よく、それでいて胸を締め付ける。自覚のない切なさに包まれながら、ナイアは声も上げずに涙を流し続けた。

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