第8話 こもれび

 パンデスはプロキオン州南側に接するアダーラ州の州都である。車を走らせれば、大体四、五時間で到着する──と、アルコアは言っていた。

 アルコアも運転はできるようだが、運転手であるイェレは他者に頼るのがあまり得意ではないようだ。放っておけば一度の休憩もなしにパンデスまで飛ばしかねなかったので、ナイアはとある場所での一時的な休憩を提案した。


「アラマフー緑地、ねえ。ま、寄り道には適してるだろうな」


 片手で庇を作りながら、ヘスペリオスは目をすがめる。今日の彼は髪の毛を結ばずにそのまま下ろしていた。

 アダーラ州北端に位置するアラマフー緑地は、市民の憩いの場として名高い。ちょうど雨上がりということもあってかピクニックにやって来る家族連れも多く、周囲には和やかな空気が漂っていた。

 さすがに家族連れの中へ入る訳にもゆかず、一行は人気の少ない木陰を選んで腰を下ろした。木々の間から漏れるこもれびは暖かく、初夏の爽やかな空気と相まって心地が良い。


「じゃあおれは少し休むから、何かあったら起こして……」


 幹に寄り掛かるや否や、イェレはそう言って眠りの中に沈んでいった。相当疲れていたのか、もしくは眠りにつくのが早い方なのか──できることなら後者であって欲しい。


「やれやれ、こうして見ると大きな赤ん坊だな。頑張り屋なのは悪くないが、ぶっ倒れるまで働き詰めってのはただの愚行だ。過労死とか一番つまんない死に方だ、本当にやめてくれよ?」


 ヘスペリオスから頬をつつかれても、イェレが起きる気配はない。すっかり撃沈している彼は、規則正しい寝息を立てながら熟睡していた。

 体を冷やしてはいけないので、できれば腹に何かかけてやりたいところだが──ナイアは羽織るものを着用していない。途中で購入したシャツとハーフパンツを着回して過ごしている。これからもっと暑くなるから、上着の必要性はなくなるだろう。

 イェレの顔にかかる髪の毛をそっとどかしていると、そういえば、とヘスペリオスが話題を変えた。


「ルクィムとやらの場所がわかったって話だが、結局どこにあるんだ? そいつが知ってるみたいだけど」

「なるほど、情報共有か。良いだろう」


 ナイアの隣で置物のように座っていたアルコアは、話を振られたのをきっかけに口を開いた。姿勢が変わらないので、機械がいきなり起動したようで気味が悪い──彼は人間そっくりのヒューマノイドだから、あながち間違ってはいないのかもしれないが。


「ルクィムは南方に接する隣国、プルマ=カクトゥシア──ああ、正確にはラゴッシアの属州か。とにかく国境にあたるガクルックス州に存在した地名だ。現在はノセリダラ市の一部に属している」

「ガクルックス州──というと、ここからかなり遠いんじゃないか? 車でいけるものなのかよ」

「……高速道路ハイウェイを使えば、船舶や飛行船を利用する必要はないらしい」


 放っておくとアルコアとヘスペリオスだけで会話が完結しそうだったので、若干不満げながらもナイアは口を挟んだ。もともとルクィムは自分の目的地なのだから、蚊帳の外にされるのは心外だ。

 ソルセリアは簡略化デフォルメすると逆さまの台形に似ている。その全てが平坦な土地という訳ではないから、国道だけを通るとなるとなかなかに不便だ。

 そこで登場するのが、前述の高速道路である。もとは戦闘機の緊急離着陸に利用される予定だったが、幸か不幸か先の大戦ではアルティマ大陸にまで戦火が及ぶことはなかった。当時の杞憂をそのまま取り壊すのは時間も費用もかかりすぎるということで、近年増加する車両利用者のための有料道路としたのだ。今では各地の主要都市を繋ぐ大動脈として、過半数マジョリティからはソルセリアになくてはならないものと認識されている。──高速道路延伸に対する反対運動も、起こらなくはないのだが。

 とにかく、車を使うならば高速道路一択だ。これはナイアの憶測だが、イェレは公共交通機関を使いたくはないだろう。いつ例の秘密警察と鉢合わせるかわからない状況の中で、不特定多数と乗り合わせるような真似はしたくないはずだ。

 珍しく懐から煙草とジッポライターを取り出したヘスペリオスは、なるほどねえ、と口角をつり上げた。ついこの間散々殴り付けておいて言えることではないが、やはり彼は色男である。煙草を嗜むだけで絵になるとは、何ともずるいものだ。


「何を利用するにしても、エドワルゴの経由は避けられない。詳細な道程に関しては、この男の起床後に打ち合わせるのが最適と見る」


 無機質に締め括ってから、アルコアはちらりと傍らの喫煙者に視線を寄越す。


「おまえはパンデスを目的地にしていると聞いた。歌劇の鑑賞が目当てのようだな」

「おう、その通りだ。何か文句でもあるのか?」

「文句はない。だが、当機の知る限りでは、パンデスで行われる歌劇は明後日が初演と聞いている。今回は出演者の関係からも相当な規模になることが予測されるが──ヘスペリオス、といったか。おまえは入場券を入手しているか?」


 抑揚のない、いかにも機械的な問いかけ。小鳥のさえずりは麗らかな空気によく馴染み、沈黙は一瞬だがその場の空気を弛緩させる。

 ヘスペリオスはすぐに返答せず、ゆっくりと時間をかけて煙を吐き出した。そのまま目線を上に遣り、まさに天を仰いでから、妙にすっきりとした笑みで言う。


「まさか。当日券でいこうと思ってた」

「そうか。ならば休憩などしている場合ではないな。明後日の公演に間に合わせるには、前日入りなど愚策にも程がある。当機は今すぐの出発を提案する」

「待て、アルコア。歌劇を見たいのはあくまでもこいつなのであって、オレたちは関係ないぞ」


 一緒くたに語られるのは何か違うと思い、すかさずナイアは指摘する。歌劇に一切の興味がないという訳ではないが、こちらには先約があるのだ。寄り道ばかりもしていられない。

 それに、ヘスペリオスとはパンデスまでの付き合いと暗黙の了解で決まっている……気がする。少なくとも、イェレはずっと彼と行動を共にしたくはないだろう。


「おいおい、そんなつれないことを言ってくれるなよ。きっと姫さんも一度聞けば気に入るぜ。俺だって、ラジオで耳にするまでは歌劇なんてこれっぽっちも興味なかったんだからな」


 案の定、ヘスペリオスに納得した様子はなかった。むしろこちらにまで布教してくる胆力には、呆れを通り越して感心さえする。この男に落ち込むという概念はないのか。

 しかし、そこまで言われるとナイアも気になってくる。歌劇──というか演劇全般に縁のない人生を送ってきたので、知らない娯楽というのはなかなか想像できないものだ。歌を交えた演劇──どのように執り行われるものなのだろう。


「ならぬならぬならぬならぬならぬならぬ」


 ほんの少し、歌劇に心を寄せた──それが引き金だったのだろうか。

 ナイアの目がぐるりと回る。そうして彼女の精神を乗っ取ったのは、かつて崇められた血まみれの女神。


「女神ナイアを無視するかこのナイアを後回しにするかナイアの現身でありながらそれは許されぬお前はナイアのために生きナイアのために死なねばならぬそれがお前の存在理由である目移りの資格はない権利はない自由はない」

「おまえが女神ナイアか」


 ずい、と身を乗り出したのはアルコア。彼は一切揺らがない瞳を平生より心持ち見開き、眼前に降り立った女神を注視する。

 先程までお世辞にも機嫌が良いとは言えない物言いをしていた女神ナイアは、ふとヒューマノイドを見た。焦点の定まらない目は相変わらずだが、少し──本当にほんの少し、纏う空気が和らぐ。


「そう言うお前は略奪者の造った生命体か何故ルクィムの場所を突き止めたお前のような存在は初めて見た本当に人の如き見目をしているのだな興味深い」

「当機は情報統制のため創造されたヒューマノイドだ。ソルセリアが隠したい情報は、大抵当機の中に記録されている。それはそれとして、当機はおまえを必要としていない。現身に意識を返せ」

「健やかなる少年は好きだい愛い愛い愛いこのまま食らってやりたいが可食部が少ない贄にするには食えない部分が多すぎる如何したものか」

「異郷の女神さんに気に入られるとは、お前もやるじゃないか。──が、この俺を無視ってのは良くない、実に良くない。ナイア、だったか? こっちにも色男がいるんだが、どうだ?」


 長い指が伸び、現身の顎を持ち上げる。ヘスペリオスは意味深に微笑みながら、異郷の女神を試すように見下ろした。

 女神は動じない。しかし全くの無反応という訳ではなく、わかりやすく苛立ちをあらわにしていた。


「お前は初めから気に食わなかった何故お前のようなものがここにあるお前はナイアの神性を否定しかねん存在だ消えろ失せろ我が目に映る資格なし」

「そりゃ酷い。俺の何がそんなに気に入らないんだ? これでもおとなしくしてるつもりだがね」

「その態度その在り方その存在全てがナイアにとって度しがたきもの放任主義もいい加減にしろお前は魂をなんだと思っている認めぬ認めぬ認められるはずがない」

「悲しくなるようなことを言ってくれるなよ。俺は節度を知っている──お前とは違ってね。お前が望むなら、本気を出してやらんことも──」


 ない、とでも言おうとしたのだろうか。さらに顔を近付けようとしたヘスペリオスは、急に言葉を切った。


「いきなり首根っこを掴むなよ。嫉妬は見苦しいぜ?」

「誤解を生む発言は慎め。……ナイアが困るだろう」


 ぐいとヘスペリオスの襟首を掴んで後ろに退けると、アルコアはナイアの前で膝をついた。彼女は女神ナイアからは解放されたようだが、その目は虚ろでどろりと濁っている。まだ意識は戻っていないようだ。

 そんな彼女の頬を両手で包み込み、アルコアは無言で顔を寄せる。つん、と互いの額が触れ合った瞬間──ナイアの目は一際大きく見開かれた。


「うおおおおおおお⁉️」

「わあああああああ⁉️ 何⁉️ 何事⁉️」


 響き渡る絶叫。それはナイア一人のものではなく、傍らで午睡に興じていたイェレの声も重なっていた。

 ナイアは背後に飛び退き、イェレは対照的に跳ね起きる。地面を転がり荒い息を繰り返すナイアに駆け寄ると、その背中を擦ってやりながら周囲を見回す。


「どどどどういうこと⁉️ まさか、あいつでも来た……⁉️」

「いや、ナイアが急に驚いただけだ。敵性存在は確認されていない」

「お前が……お前がオレの個人的領域パーソナルスペースを侵害するからだ! このッ、無神経! 基本的な配慮もできないのかお前は!」

「ソルセリア開拓の副産物である当機が触れれば、女神ナイアの支配を解けると判断したまで。悪意があって至った行動ではない」

「うーん、こいつはたしかに無神経というか、とんだ朴念仁だな。なかなか面白くなってきたが、それよりも先に入場券をどうにかしなきゃならん。困った困った」

「……とりあえず、おれの休憩はここまでってことね」


 怒り狂うナイア、相変わらず無表情を貫くアルコア、そして他人事のように宣うヘスペリオス。

 三者三様の有り様を前に、寝起きのイェレは疲れきった顔で肩を落としたのだった。

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