第7話 洒涙雨
善悪という単純な物差しで計れることではないが、ナイアは生まれてこの方色恋沙汰なるものと関わりを持ったことがない。恋愛感情から他人を好ましく思ったことはまだないし、今はそれどころではないということもある。況してや、肉体関係に対する興味など皆無に等しい。
とにかく、ナイアにとって恋愛や性愛とは専門外であり、一生関わり合いになることなく過ごしていくものと仮定していた。
「ひゅう、姫さんてばやるじゃねえか。俺たちの見ない間に、男前を引っ付けて帰ってくるとはな」
故に、一方的に絡んできた上にずっと後ろを付いてくるアルコアを見たヘスペリオスから冷やかされた時は、露骨に不機嫌な顔をしてしまった。別にナイアは背後のヒューマノイドを好きで連れてきた訳ではないし、むしろ付いてこられたくないとすら思っている。
舌打ちしたいのを堪えて、ナイアはイェレの側まで歩を進めた。館内は禁煙ということもあり、ヘビースモーカーの彼は口寂しそうな顔をしている。
「イェレ。ルクィムの場所がわかった。急いで目的地に向かおう」
「それは……まあ、朗報なんだろうけど……後ろの人は誰? こいつの憶測は大外れってわかるけど、一応身の上は明らかにして欲しいな」
「アルコアだ。この者の存在証明のため同行する」
「許可していないと言っているだろう。どっか行け」
「それは無理だ」
このように、いくらナイアがすげなく追い払おうとしてもアルコアが退く様子はない。放っておけば──いや放っておかなくても後ろを付いてくる。まるで水鳥の雛である。
「なあんだ、そっちの坊っちゃんの片思いかよ。それはそうと、姫さんの存在証明とは大きく出たな。どういう経緯で、そんな壮大な目的に至ったんだ?」
待っている間に読んでいたらしい雑誌を閉じつつ、ヘスペリオスが問いかける。アルコアに対する興味はまだ消えていないようで、面白げに彼を見つめていた。
正直に言ってこれまでの説明を一字一句完璧に再現できる気はしなかったので、ナイアは黙りを貫く。案の定、アルコアが無機質な眼差しで応えた。
「この者──ナイアは、市民証明書はあるもののソルセリア国民として登録されていない、ソルセリアでの存在が確認できない状態にある。故に、国民の生活と安全を管理するヒューマノイドの当機が、ナイアの身元を確定させなせればならない」
「ふうん、ヒューマノイドねえ。今時の機械ってのは色々あるんだな。それにしても、証明書はあるのに籍が決まってないたあ、変な話もあるものだ。姫さん、偽の証明書を掴まされてるんじゃないか?」
「──それはないよ。正規の登録個体である俺が確かめたんだから。その証明書は本物だ」
アルコアとヘスペリオスの会話に、第三者の声が割って入る。先程、ナイアの市民証明書を検分した司書の青年だった。先程向けられた朗らかな笑顔はなく、一切の感情を映さない無表情でこちらに語りかける。
同じだ。ナイアは直感する。
アルコアと司書。彼らの顔かたちは全くの同一だ。お互いに無表情な今だからこそわかる。二人とも眼鏡をかけていることも、理由のひとつだろうか。
司書はゆっくりと歩を進め、一同の前に立つ。こうして並ぶと、アルコアとは背丈も変わらない。
「アルコア。同じ人間を基底として創造されたヒューマノイド。君はとある不具合によって、その任を解かれているが……一体何が目的だい?」
「目的は先程言った通りだ、プロキオン。当機は、ナイアの存在証明を成し遂げる。それが当機の使命であり存在意義でもある」
「何を言い出すかと思えば……私情を交えた軽率な行動は我らにとって
ナイアとしては、勝手に決めるな、と口を突っ込みたかったが、二人──いや二機はそれどころではないのだろう。周囲を通りかかる利用者が皆一様にぎょっとした顔をする程、彼らの漂わせる空気は張り詰めていた。
ソルセリアという国家の秩序を守るために創造されたヒューマノイド。アルコアの口振りからして、司書──プロキオンも同類と見て良さそうだ。
(州と同じ名称ということは、この司書がプロキオン州におけるヒューマノイドの中でも最高責任者……と見るのが妥当か)
だとすれば、なるべく関わり合いになりたくないというのがナイアの本音だ。どんな事情があろうとも、国家権力を敵に回すような真似だけは避けたい。
それはイェレも同様のようで、先程からじりじりとヒューマノイド二機から距離を取っていた。こちらに気付いたのか、無言で目配せをしてくる。背中側に回した右手のうち、親指と小指のみが折り曲げられる──3、ということか。
こちらの言葉なきやり取りはまだ気付かれていないようで、アルコアとプロキオンの会話は続く。
「理解しているとも。だが、当機は既に
「……だから自分勝手に動いても良い、と言うのかい。ソルセリアを放り出して、一個人を優先する、と」
2。薬指が折り畳まれる。
「当機がソルセリアでできることは果たした。これよりは正しき道ですべきことをする」
「正しき道……だって? 我らにとっての正しさはソルセリアそのものだ。愛すべき祖国を愛し、恒久的な維持を確立させる──自らの意義すら忘却し、君はどこに向かおうというのだい、アルコア」
1。中指も下がった。そろそろだ。
「どこだって良いだろう。おまえには関係のないことだ、プロキオン。当機の意識は既に当機だけのもの。ヒューマノイド間における
「切り離した、って──本気で言っているのかい? それは基底者からの離反だ。到底許されることではない」
「許されずとも良い。当機は当機の好きにやる。おまえも自身の任を──」
全ての指が下がった瞬間、ナイアとイェレは駆け出していた。
あっ、とプロキオンが声を上げるが遅い。走り出した二人と、一瞬遅れて飛び出したヘスペリオスは二機との間隔を広げつつある。館内を走るのはマナーとしてどうかと思うが、今は非常事態だ。なりふり構ってはいられない。
「おいおい、お前らってば示し合わせてたのか? だったら俺にも合図くらいしてくれよ」
「合図ならしてたよ、お前の方が背高いんだからわかるだろ」
「そうかい、なら次は俺にもわかるようやってくれ。ところで俺たちはなんで逃げてるんだ?」
「なんでも何も、面倒事に巻き込まれたくないだけだ。ルクィムについてはわかったし、あいつらの会話はオレたちと関係ない。だったら逃げるのが得策だろう──ヒューマノイドが気になるなら、お前だけ戻るが良い」
「相変わらずだな姫さんは。あいつらに挟まれるよりも、ド派手な逃亡劇の方が俺好みだ」
イェレとヘスペリオスのやり取りを小耳に挟みつつ図書館を飛び出せば、外は運が良いのか悪いのか──ナイアとしては圧倒的に後者である──どしゃ降りとまではいかないが雨が降っていた。初夏のソルセリア北部は何かと雨が多い。
傘もささず、ばしゃばしゃと水溜まりを踏みつけながら三人は走る。目指すは車を停めてある駐車場だ。まだレイマックを見物したい気持ちはあるが、残念ながらこれきりになりそうだ。
無事に州営の駐車場へ滑り込んだ三人ではあった──が、その足は一斉に止まる。
「遅かったな」
「お前──!」
三人が乗って来たジープ。その目の前にある人影は、ナイアたちもよく知るものだ。
雨に打たれながら、無機質な視線を向ける青年──アルコアを前に、ナイアは一瞬言葉を失う。彼女の代わりに問いを投げ掛けるのは、明らかに面白がっているヘスペリオスだ。
「おう、さっきぶりだな。てな訳で単刀直入に聞かせてもらうが、なんでここにいる?」
「おまえたちの行動パターンを予測すれば容易いことだ。加えて公共交通機関におまえたちの痕跡はなかった──したがって、車両による移動が当てはまったまで」
「……何のつもりだ、ヒューマノイド。オレをどうしたい」
淡々と受け答えするアルコアを、ナイアはじろりと睨み付ける。武器──は失ってしまったが、こちらは五体満足だ。相手の隙を突けば、勝ち目は十分にある。
アルコアは雨に濡れた前髪の奥から、不気味な程透明な眼差しを寄せてくる。ぞわりと二の腕が粟立つのを感じたが、自分とて女神ナイアの現身。ナイアは歯を食い縛り、アルコアの視線を真っ向から受け止めた。
「どうしたい、と問われてもな。先程告げた通りだ。当機はきみの存在証明をしたい。市民証明書は存在し、我々に認識されていながらも、国のデータベースには記録されていない人間。詳らかにしないという選択肢があると思うのか?」
「では、オレを監禁して満足するまで暴き立てでもするつもりか? 言っておくがオレにはやるべきことがある。お前などに付き合ってはいられないぞ」
「……?」
こてん。アルコアが首をかしげる。
突然の子供じみた仕草に、ナイアは思わず脱力しそうになった。どうにか足を踏ん張って耐えれば、つん、と肩をつつかれる。振り返ると、そこには見慣れた表情で苦笑するイェレがいた。
「ナイア、彼はもしかしたら、おれたちに同行したいだけなのかもしれないよ」
「……は? 何故」
「何度も言わせないでくれ。当機はきみについて知りたい。これは当機の個人的な──いや、個機的、というべきか? とにかく、これは当機のみで完結する問題だ」
それに、とアルコアは続ける。
「きみにルクィムの情報を提供したのは当機だ。車両の運転もできる。同行者として申し分ないと思うが、どうだろうか」
「どうだろうかじゃない。お前はソルセリアの不穏分子扱いなんだろう? これ以上騒ぎを起こされるのは困る」
「当機のみで騒動を発生させる確率は極めて低い──他のヒューマノイドとのコネクションは既に切断しているし、あちら側も当機を
「……お前、自分で言っていて悲しくならないのか?」
三対一の状況で表情を変えずに絶賛孤立宣言とは、相当な度胸の持ち主か、あるいは厚顔無恥なだけなのか──ナイアにはわからない。
しかし、イェレとへスペリオスがアルコアを明確に拒絶していないのは確かだ。二人とも、何故かナイアの方を窺っている──まるでこちらの意見を仰ぐかのように。
どうやら、この中で最もアルコアを御すべき人材に選ばれてしまったらしい。面倒なことになった、とナイアは思うが、そもそも彼を連れてきたのは紛れもない自分自身。責任を取るのは当然といったところか。
「……とりあえず、この天気だからな。お前を雨天の中放り出す訳にもいかない。ルクィムまでの道案内に徹すると約束するなら、同行させてやらんでもない」
「当機は着水程度で故障するような造形ではない。むしろこの雨のおかげできみの了承を取り付けられたのなら、雨天を好ましく思っても良いくらいだ。当機はずっときみに会いたかったのだから」
「おっ、熱いねえ。こりゃ全身全霊で応えてやらんと可哀想だぜ、姫さん」
「うるさい。外野も内野も余計なことを言うな」
口をへの字にしてそっぽを向くと、髪の毛から水滴が飛び散った。さながら犬のようで、ナイアはますます面白くない。
そんな彼女とは対照的に、イェレは微笑ましげな、ヘスペリオスな愉快そうな、そしてアルコアは僅かに目尻を弛めて、ナイアの判断を受け入れたのだった。
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