第3話 文鳥

 ソルセリア連合諸州は、正式名称をフェデレイション・ノーヴァ・ソルセリアという。今より百年と少し前、決起した各州の領主たちを中心として国家が形成された。

 彼らはもともとソルセリアに縁を持つ人々ではなく、かつて植民のためにやって来た者たち──先住民たちはもっぱら略奪者ワスターティアと呼ぶ──を祖先とする。そのため、現在のソルセリアで上流階級に位置するのもネウナ大陸に関係する血筋の者が多い。

 ……とはいえ、ネウナ大陸も広いので、大陸全土の国々、あるいは人々が植民地支配に躍起になった訳ではない。精力的だったのは、大陸西方の白き肌を持つ人々──現地ではエレニと呼ばれる人種である。

 赤銅色の肌を持つ先住民のほとんどは虐殺され、売り飛ばされ、故郷を捨てさせられた。逃げ延びた者たちも、以前のようには暮らせないだろう。今やアルティマ大陸にいる純血の先住民はほとんどおらず、多くがエレニとの間に生まれた混血だ。当然ながら、彼らの地位も高いとは言えない。

 略奪者と混血に滅びを。彼らの創造物に破壊を。それこそがゲノ族の使命であり、大願である──。


「……うっ」


 鼻先が何かにぶつかったことで、ナイアの意識は覚醒する。暗闇の中にあった視界は徐々に鮮明になり、ぼやけた輪郭も収束する。

 そうだ、あれから自分とイェレは街を脱出──する前にたまたま転がっていたほぼ錆びかけの自転車を見つけて、これ幸いと拾ってから郊外へ出たのだった。イェレの背中に掴まって揺られているうち、ついうつらうつらとしてしまった。

 ならばぶつかった先はイェレの背中か。なんとなしに気恥ずかしさを覚えつつ、ナイアはゆっくりと顔を上げた。


「ああ、ごめんね。起こしちゃったかな」


 視線に気付いたのか、イェレが振り返る。目元にはうっすらと隈が浮かび、顔色も心なしか青く見えた。

 空を見る限り、夜明けから一時間は経っているだろう。ということは、イェレは夜通し自転車を漕ぎ続けていたことになる。


「イェレ、次はオレが──」

「いや、大丈夫。それよりも、前にいるバカをどうにかしなきゃ」

「バカ?」


 さすがに申し訳なくなり、代わろうかと提案しよう──としたところで、イェレが柔らかく遮った。しかしその中に含まれたとげはとても聞き逃せるものではなく、思わずおうむ返しになってしまう。


「おいおい、二人揃って俺をバカ呼ばわりとは不敬だな。まあ急いでいるところを唐突に話しかけられた側からしたら、悪口のひとつも言いたくなるか」


 イェレを挟んだ前方から聞こえてきたのは、この場の誰でもない男の声。ナイアはひょこりと上半身を傾けて様子を窺う。

 そこにいたのは、イェレよりも上背の高い男だった。ひとつに結わえた長い銀髪が、朝焼けを反射してきらきら光る。透き通るような肌はイェレとよく似た──恐らくはエレニのものだ。いくら混血といえども、ここまで白い者は見たことがない。素朴で優しげな印象を与えるイェレとは対照的に、洗練された鋭利な面立ちをしている。

 彼は年期の入ったジープ、そのボンネットに腰かけていた。長い脚を組みながら、くつくつと喉の奥で笑う。


「それにしても、なあ? お前がこんなひいさんを連れて逃亡劇とは、何やらのっぴきならない事情がありそうじゃないか」


 にいと口角をつり上げた男に対して、ナイアとイェレの表情は強張った。

 男は今し方、姫さんと口にした。ゲノ族は代々酋長を長として成り立ってきた部族だ──王室がなくとも、権力者は。つまり、彼の言う単語が女性を意味すると女神は知っているのだ。

 このままでは、また。唇を噛み、どくりどくりと脈打つ胸を押さえながら、ナイアは男を睨み付けた。


「おっと、そう睨んでくれるなよ。何、俺は外見そとみの話をしているんじゃない。お前の内情も含めた二人称だ」

「……どういう、ことだ」

「そのままの意味さ。お前の中にいるのは、砂埃にまみれた連中が持ち込んだ唯一の神──『大いなる神』とは根源を異にする存在だろう?」

「……!」


 ナイアは思わず息を飲む。体中を巡ろうとしていた痛みと痺れ──女神ナイアに自我を奪われる時、必ず発生する現象だ──は消えていたが、それでも跳ねる心臓は落ち着かない。

 『大いなる神』──それは今より一千年程前に興った、ネウナ大陸中央部を起点とする信仰。天におわすという姿なき神は人々に試練を与え、優れた清らかな魂を天上界へと導く。排他的で、自分勝手で、人を罰することはあっても物理的に救うことはない、支配欲と迫害の権化のような神性。

 『大いなる神』は、ネウナ大陸のみならずアルティマ大陸でも権勢を誇っている。と言っても、それは植民にやって来た略奪者が信仰していたのであり、諸部族がそれぞれ信じていた土着の神々──いわゆる精霊信仰は異端として苛烈な排斥と破壊を受けた。たとえそうした地霊を信ずる者がいたとして、大っぴらに口外することはできないだろう。かつてのような異端審問はなくとも、国教である『大いなる神』以外を信仰するとなれば迫害は避けられない。現在ナイアたちが踏む地──ソルセリアの共同体コミュニティは、『大いなる神』の信仰を基盤として成り立っているも同然なのだから。

 ともかく、目の前の男はナイアの内側にいる存在を看破した。イェレにすら明かしていない秘密を知っているという事実は、ナイアを動揺させるには十分過ぎた。

 一度深呼吸してから、ナイアはイェレを見る。彼の横顔は険しく、昨夜の訪問者に向けるものには及ばないが確かな警戒心と緊張感を帯びている。


「……で、お前は何が理由でおれたちの前に立っている? ただ邪魔をするだけなら、早いところ退いて欲しいんだけど」

「ハ、いつになく邪険だな、イェレ? イェルニアから遠く離れた異国で出会ったってのにそりゃないぜ」

「……お前たちは、知り合いなのか?」


 イェレの刺々しい言葉尻にも、男が臆した様子はない。大袈裟に肩を竦めた彼を見て、ナイアは黄金色の双眸を丸くする。


「おっ、良い質問だな。だがすぐに解を与えるのはつまらん。お前はどう見る、姫さん?」

「は……? ……他人以上、友人未満とか?」

「ははは、大体合ってるが、言葉にされると地味に傷付くな。とりあえずこいつとは同郷、俺もイェルニアの男という訳だ。イェレと違って、まんまな名は持っていないがね」

「……それ以上無駄話をするつもりなら轢くぞ。正直、お前に割く時間なんてないんだ」


 男は雑談を楽しみたいようだったが、追われている身としてはそうもいかない。イェレは早くも相手を障害物認定したらしく、自転車のペダルに片足をかけていた。


「つれないね、相変わらずだなイェレ。だが、ひとつ忠告しておく。ここで俺を轢くのはお前の利にならんぞ」

「……何?」

「単純な話だ。俺には車がある──お前が乗ってるそれよりも、遥かに便利な代物だ。お前は追われてるんだろう? 後ろの姫さんにも、特別な行き先がある。俺はそれらを──お前たちの事情を全てわかってる」


 イェレの喉が上下するのがわかった。ナイアもまた、片目をすがめて男を見遣る。

 彼とは初対面のはずだ。イェレのアパートメントでの会話を聞かれていたのなら辻褄は合うが、あそこに彼程の長身が隠れられる場所はなかった。……盗聴の線は、まあ考えられなくもないけれど。

 ともかく、イェレはこの男に好意的ではなさそうだ。ならば今信用するのはまずいだろう。何せ、信用できる要素が全くない。ナイアとて、誰も彼も信じて付いていく程のお気楽な質ではない。


「……お前の目的はなんだ」


 にらみ合いを続ける男二人の空気に耐えかねて、たまらずナイアは問いかける。イェレは心配そうな目線を向けてきたが、男の方は待ってましたと言わんばかりに笑みを深めた。


「そうだな、お前たちの旅路への同行だ。俺は現在進行形で退屈していてね──何か刺激になるような出来事が欲しかった。そこにお前たち二人が通りかかったんで、ありがたく便乗させてもらおうかと思ってね」

「……イェレ、こいつが付いてくることに関してどう見る? オレはやめておいた方が良いと思う」

「同感だ。車は欲しいけど、こいつがいたら絶対面倒事のもとになる。連れてくなんてまっぴらだ」


 そうか、とナイアはうなずいた。そのまま自転車の荷台から降りて、男を見据える。


「という訳だ。車だけ置いていけ」

「いくらなんでもそりゃないだろう。せめて等価交換にでもしてくれなきゃ話にならん。取引とはそういうものだ」

「なるほど。では別の手段に出る」

「お? なんだなんだ」


 揶揄を含んだ眼差しを向ける男。ナイアは彼に、今しがたイェレの腰に吊り下げられていたホルスターから抜き取った回転式拳銃を向ける。


「寄越さないというのなら、実力行使に出るまでだ」

「な──ナイア? それ、おれの拳銃……」

「悪い、少し借りる」


 銃口を向けられたとあっては、さすがに危機感が募るようだ。優雅にボンネットに腰掛けていた男は、唇の端を僅かに歪めながら地に足を付けた。


「おいおいおいおい、正気か姫さん? 見たところ、くっついてる女神じゃなくてお前自身の判断っぽいが……まさかこの俺を殺して車だけ奪うと?」

「そうだ」

「ははは、いいね! 覚悟の決まった目だ、そういうのは嫌いじゃない。初めて見た時から文鳥みたいで良いと思ってたが、今の方がずっと──いった⁉️」


 言い切る前に、ナイアは動いていた。

 銃声は響かない。その代わり、拳銃そのものが放物線を描いて投擲され、男の額に直撃する。


「お、おれの銃!!」


 銃声の代わりにイェレの悲痛な叫びが響いたが、イェレ以外に気にする者はいなかった。

 彼がぐらついた隙を、ナイアは見逃さない。だん、と地面を蹴ると、そのまま男の腹に飛び蹴りを食らわせた。倒れ込む男の上へ馬乗りになり、握った拳を何度も振り下ろす。


「いてててててて、なかなか良い拳してるじゃないか。生半可な攻撃じゃ壊れない体にはしてるが、こうも連続で来られるとさすがに堪えるな」

「喋る余裕があるのなら降参したらどうだ」

「俺にも矜持があるんでね、そう簡単に頭を下げはしない。……が、それはそれとして普通に痛いのは本当だ。いつになったら止めてくれるんだ?」

「お前が黙るまで」


 軽快に会話こそしているが、ナイアの手は止まらないし男は殴られ続けている。さすがに場馴れしているのか避けられることも多いが、何発かは顔に当たった。鼻血だって出ている。つまり確実に相手は消耗している──根気強く殴ればいけるかもしれない。

 最早自分のものか相手のものかさえもわからない血の滲む拳を勢いよく振り上げた──が、それを下ろす前にナイアの体は浮いている。彼女が両脇を抱えられたのだと気付くまでに、数秒間を有した。


「はいはい、そこまでにしよう。それ以上殴ったら、君の手がぼろぼろになっちゃうよ」

「イェレ……」


 ナイアを制止したのは、案の定イェレだった。先程投げられた拳銃は手早く回収されたのか、再びホルスターに戻っている。

 粗相をした猫のように持ち上げられては、いくらナイアといえど気勢を削がれる。しゅんと項垂れ、おもむろに血まみれの両手を下ろした。


「やれやれ、とんだお転婆だな。腕白なのは嫌いじゃないが、暴れすぎるのも困り者だ」

「その割には元気そうだけどな。──で、お前は結局どうしたいんだよ。おれたちを試すような素振りは見せてるが、肝心の目的が一切わからない。それで取引だなんて笑わせるな──ついでにお前が言ってるのは多分キンパラの腹部だ、文鳥の目は金色じゃない」


 ひょいと起き上がった男は、相変わらず冷ややかなイェレの眼差しに肩を竦めた。流れ落ちる鼻血を拭うこともせず、口元に弧を描く。


「いや何、そんなに難しい話じゃない。俺は最近、歌劇にはまっていてね。アルティマ大陸にやって来たのは単なる暇潰しだが、ラジオから流れてきたこれがなかなか面白い。近々ソルセリア中西部にあるパンデスって街で、オキニの歌手が主役を張るってんで、ヒッチハイクしながら向かおうと思ったんだが──捕まえたのが運悪く強盗団だったものでね。結局車だけ残っちまった」

「……それで、おれに運転をしろと?」

「そういうこと。俺に運転なんてできないからな。そっちの姫さんも免許を持ってるってんなら、別にお前じゃなくても良いが」

「すまん、無免だ」

「なら決まりじゃねえか。イェレ、お前が運転して俺をパンデスまで連れていってくれ。怪我人をこんなところに置いておく程、冷たい人間じゃあないだろう?」


 茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、男はイェレの肩に腕を回す。振り払われることを見越してか、ぐっと引き寄せて互いの体を密着させる。

イェレは露骨に嫌そうな顔をしたが、無駄とわかっているからか抵抗はしなかった。


「……わかったよ。ナイア、悪いけど、こいつは殴れば引いてくれるような聞き分けの良さを持ってない。パンデスまでの辛抱だと思って、我慢してもらっても良いかな」

「そういうことなら、構わない。先に手を出したのはオレだ。負傷者を放り捨てて行くのは、いくらなんでも後味が悪すぎる」

「それなら決まりだ。いやあ、話のわかる二人で良かった。俺はヘスペリオスだ、これからよろしく」


 血まみれの顔で男──ヘスペリオスは笑う。女神ナイアなら喜びそうな絵面だが、どういう訳か彼女が前面に現れる気配はない。

 どのような反応をしたものか悩んだ末、ナイアは眉尻を下げながら、こちらこその意味を込めてうなずいた。

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