第2話 透明

 厚手のタオルに顔を埋めれば、自然と瞼が下りた。ふかふかとは言い難い量産品だが、水分を吸収してくれるだけありがたい。ぬるいシャワーは気持ち良かったが、それも冷めれば先程浴びた雨水と変わりない温度になる。

 叶うことならこのまま眠ってしまいたかったが、それよりも優先すべきことがある。ナイアは瞼を持ち上げると、体をくまなく拭き上げて傍らにあった衣類に腕を通した。所々よれた、ぶかぶかのシャツ。腰の位置でベルトを締めれば、幾分かましに見えた。

 身支度を最低限整えられたので、シャワールームの扉を開ける。一応施錠してはいたが、相手が待ち構えていたらなかなかに厄介だ。応戦できるよう武器は携帯しておいたが──使用の必要はなかった。


「──服、大丈夫そう?」


 部屋の最奥、窓際に彼はいた。くるりと振り返り、初対面と変わらない穏和そうな笑みを浮かべて問いかけてくる。

 不快とまではいかないが、腑に落ちない。ナイアは思わず顔をしかめた。

 直接的な危害はまだ加えていないとはいえ、青年はナイアから脅迫された身なのだ。だというのに、こちらの要求を二つ返事で受け入れたばかりか、自宅であるアパートメントにまで招き入れて、このままでは風邪を引くからシャワーを浴びるように、などと平気で宣った。危機感もへったくれもない提案に、さすがのナイアも唖然としたものだった。

 しかし、シャワーを浴びさせてもらった上に衣服まで借りたのでは、礼のひとつでもしなければ割に合わない。それだけの気まずさを感じさせる程、青年は人がかった。

 こくりとうなずき、ナイアは青年へと近付く。遠目ではわからなかったが、彼は喫煙していたようだ。片手には紫煙をくゆらせる紙巻き煙草があった。


「オレからも問おう。お前こそ大丈夫か? 自分で言うのも何だが、オレは脅迫者なんだぞ」


 今だって武器を持っている──とは言えなかったが、ともあれ青年が心配になる程度にはお人好しな挙動をとっているのは事実だ。相手に裏があるなら話は別だが、素でこういうことができるならだいぶ危なっかしい。

 何とも失礼極まりない問いかけだが、青年は眉尻を下げて苦笑するだけだった。一度煙草を咥え、煙を吐き出してから答える。


「そう言われたら肯定するしかないんだけど、さ。なんだか、君のことを放っておけなかったんだ。こんな雨の中、子供が一人、しかもずぶ濡れで突っ立っているとなったら、不審よりも心配の方が勝るよ」

「命の危機をちらつかせる相手であっても、か?」

「勿論。大人として見過ごせないからね」


 何度も子供扱いされては、ナイアも面白くはない。むっと唇を引き結ぶが、青年はどこ吹く風だ。


「それに、君の目的はまだはっきりとしていない。ゲノ族の大願とやらが、おれにはまだわからないし……その辺りを明らかにしないと、動き出すにも動き出せない」

「……たしかに」


 青年の言葉は正しい。少なくとも、ナイアには筋が通っているように聞こえた。

 こちらの計画に協力させるには、ある程度の情報共有はしておくべきだろう。何もかも秘匿していては、いざという時に足並みが揃わない可能性がある。ナイアにとっても、それは望むところではない。

 とはいえ、ナイアとて全てを知り尽くしている訳ではない。加えて、伝える情報の選別も難しい。ここは慎重に事を進めるべきだろう。


「ゲノ族は略奪者ワスターティアがやって来る以前からアルティマ大陸に在った部族のひとつだ。略奪者の植民により、部族の大部分が殺害あるいは奴隷の身に落とされ、逃げ延びた者たちは南方に身を潜めた。そうして数百年の間、略奪者たちへの報復を胸に潜伏していたという訳だ」

「報復……というと、大願というのはエレニ──ああ、君たちは略奪者と呼んでいるのだっけ。彼らへの復讐かい?」

「多分そうだろう。だが、確たることではない。全ては女神ナイアが決めることだと、神官が言っていた」

「ナイア……って、君のこと?」

「ゲノ族の部族神だ。オレはその現身となったので、便宜上そのように名乗っている」


 紛らわしいので以後は女神と冒頭に付ける、とナイアは前置きする。


「ナイアは破壊と殺戮を司る女神だ。その吐息は刃であり、その視線は禍であり、その声は万物を破壊せしめるという。容赦なく命を奪い、血を浴びては呵々大笑し、臓物と酒と美少年が大好物。見目の良い少年の首は大事に刎ねて収集し、腐り落ちればまた新たな贄を求める。伝承によれば目から破壊光線を出せるらしいが、オレは出せない」

「うん、出せなくて当然だ。それにしても物騒な女神様だね」

「ゲノ族は周辺部族との抗争を勝ち抜いて勢力を築いたらしいからな。好戦的な部族神になるのも、致し方のないことだろう。アルティマは広いが、居住可能な地域は限られている。開発の進んでいない時代ならば尚更だ。増えゆく人口に対応するため、手近なところから戦いを吹っ掛けていったんだろう」


 当たり前だが、伝聞で語られるのを耳にしただけで当時の光景を見た訳ではない。本当のところはどうなのか知らないが、単純に考えればきっとこうだろう──と思いつつ、ナイアは憶測した。

 ネウナ大陸の人間からしてみれば、なんとも血なまぐさい話に違いない。多かれ少なかれ引かれる覚悟はしていたナイアだが、仰ぎ見た青年の表情はあくまで穏やかだった。揺らがない、それでいて不気味な程透明な眼差しがナイアに向かう。


「そうか……今の価値観だとあり得ないけれど、ゲノ族にとってはそれが最も合理的な考え方なのだろうね。否定はしない」

「ならばオレに協力してくれるか?」

「それは──」


 言いかけたところで、青年は口をつぐんだ。それは彼が返答に臆したが故ではない──第三者の介入があったからだ。


「──イェレ!」


 ばがん、と音を立てて凹む扉。外側からただならぬ衝撃を加えられているのだと推測するのは容易だった。

 何をするにも優しげだった青年の表情が、一気に強張る。近くのフックに引っかけていた肩掛け鞄を掴むと、唐突な出来事に硬直したナイアの肩をぐっと引き寄せた。

 べこり、べこりと扉は幾度も凹む。そうして間もなくドアノブが落ち、ぬっと太い指が隙間を縫って現れた。


「こんばんはあ、イェレ。久しぶりだね? こんなところにいるなんて、びっくり。まさかソルセリアまで逃げたなんて、ぼく思いもしなかったよお」


 無理矢理に開かれたドアの向こうから覗くのは、顔の右半分に傷を負った男の顔。少年と青年の間といった顔つきと声色だが、開ききった瞳孔やそれに似つかわしくない満面の笑み、そしてひしひしと伝わる殺気からただ者でないことは明らかだ。顔の位置からして、相当な長身だろう。

 青年は答えず、煙草を床に落とす。ぐしゃりとそれを踏み潰し、鋭い眼光でもって応える──決して友好的とは言えない反応だ。

 男も、彼の反応はおおよそわかりきっていたのだろう。あはっ、と笑うと、今度は視線をナイアの方に向けた。


「それにしても──そこのはだあれ? イェレ、きみと同郷のひとには見えないねえ。ねえ、どうやって仲良くなったの? ぼくの知らないところでおともだちなんか作って、生意気だねえ。ソルセリアのひとなのかな? それとも移民? どっちにしたって、ぼくは嬉しくないかなあ。きみにおともだちができるなんて、ぼくは願ったことすらないんだもの」

「──!」


 ナイアの喉が鳴る。息が詰まり、口の中に鉄錆の味が広がった。

 まずい。このままでは

 ナイアの口が開く。ぼそぼそと、本人とその近くにいる青年にしか聞こえない声量で──しかし今までのナイアの声とはがらりと変わる、地の底より響くかの如きそれが、唇からこぼれ落ちる。


「女女女お前は女なのかこのナイアの贄は少年と決まっている女であってはいけない規範を破ることは許されないナイアを欺くことも許されないお前はナイアを謀ったのか人の子神の道理に逆らうか」

「ナイア……?」

「ナイアは欺瞞を許さぬたとえゲノ族であろうとも空言そらごとは断じねばならぬあがないは命でなければならぬお前は女神に叛し、やめて、お前は贄である贄ならばナイアに従順でな、違う、ければならぬ聞いているのか混じり物の人の子」

「なあに? 独り言が大きすぎるよ。変な子」


 胸元を押さえながら苦しげにうつむくナイアを差し置いて、男はいたって朗らかに言う。指に力がこもる度、扉は不穏に軋む。


「まあ良いや、ぼくはイェレに用があるんだ。ね、ぼくといっしょにアルソナ──ああ、今はアルソニアン共和国だね。ともかく故郷へ帰ろうよ。今ならなんにもしないであげるから」


 みしり。扉が悲鳴を上げる。男の上半身が、強引にねじ込まれる。

 青年は目をすがめた。一歩、後ずさったところで──細長い銀色が閃く。


?」


 投擲されたのはマイナスドライバー。真っ直ぐに飛んだそれは男の右目に突き刺さる。

 男の顔から笑顔が消えた。一瞬にして温度を奪ったのは、男物のシャツを身に付けた細身の子供。


「このナイアの言を遮るか紛い物の分際で紛い物の分際で紛い物の分際で血も通わぬお前に名誉ある死は与えない消えろ消えろ消えるが良いナイアは怒っている」


 ぐるぐると焦点の合わない目が、男の姿を捉える。息継ぎなしに紡がれる言葉は殺意を孕み、憤怒の色を帯びている。

 男は躊躇いなくマイナスドライバーを引き抜いた。そのまま握り潰し、唇を引きらせる──恐らく、笑っているつもりなのだろう。潰れた右目からは液体が流れ落ちるが、血液のそれではない──油のそれに近しい琥珀色の粘液が、白い頬を伝って落ちる。


「あは、は。痛いなあ、尖ったものを投げちゃだめじゃない。きみは悪い子だねえ」

「ナイアに過ちはないナイアに瑕疵はないナイアに不足はない紛い物が善悪を語ることは許されない許されない許されないナイアは道であるナイアは道理であるナイアは善である」

「うふ、生意気。それならぼくが再教育してあげなくちゃ──」


 ぐ、と男が身を乗り出した──矢先のことだった。

 空気が震える。突如響いた破裂音にも似たそれは、女神の現身の体勢を崩させる程のものであった。

 の目は一頻り回り、ややあってから焦点を取り戻す。酷く憔悴した様子のナイアは、のろのろと顔を上げた。


「しつこいんだよいちいち」


 二度、三度。先程と同様の破裂音が響く。青年の手に握られた回転式拳銃が火を吹いたのだと、この時初めてナイアは把握した。

 青年によって放たれた弾丸は男の額、胸部、そして扉にかかっていた掌に命中していた。恐らく狙いは外れていない。銃火器を扱ったことのないナイアでもわかる──前者の二カ所は致命傷だ。


「──ひどいなあ、イェレは。どうしてそんなひどいことをするの?」


 だが、男は項垂れることすらしなかった。むしろ左目を爛々と輝かせて、穴の空いた手に力を込める。

 扉に大きな亀裂が走る。相当な力が加えられていることは明らかだった。


「ずらかるよ!」


 気付けば、ナイアの手は青年に引かれていた。あっという間もなく、二人の体は開け放たれた窓から飛び出している。

 青年の部屋は三階。不安を煽る浮遊感がナイアの全身を包み込む。思わずぎゅっと両目を瞑った──が、痛みはやって来なかった。


「立てる? 難しかったら遠慮なく言ってくれ、君を抱えて走るくらいどうということはないから」


 はっとして目を開けると、ナイアの体は青年によって小脇に抱えられていた。落ちている間に支えられたのだろうか。恐怖に勝てなかったが故に、自身に起こったことを把握できなかったのがもどかしい。

 疲労感はあったが、ナイアにも意地と矜持がある。すぐさまうなずくと、青年は全てを理解したのかナイアを地面に下ろし、そして先程と同じように手を引いた。


「申し訳ないけれど、あいつから逃げなくちゃならない。とにかく距離を取ろう、あいつはソルセリアの地理には疎いだろうから」

「あの男は、不死身なのか?」

「一応行動不能の概念はあるけど、完全に破壊しないと無理だ。拳銃でぶち抜かれた程度じゃ動きを止められない……つまり、今のおれたちじゃあいつの動きを完全停止させられない」

「なるほど。ならば六割方不死身だな」

「そういうことにしておいてくれると助かるよ」


 青年に手を引かれながら、ナイアは夜半の街を走り抜ける。住宅街には人っ子一人見当たらず、街頭もほとんど点いていない。幸か不幸か遮るもののない夜空──欠けたる月と星々だけを頼りに、ただひたすら逃げる。逃げ続ける。

 そういえば、この街は港からそう遠くないのだった、と今更ながらナイアは思い出した。それなのにこうも人気がないとは、夜なる時間は何とも寂しいものだ。


「……ああ、聞きたいことがあるのだった」


 肩で息をしながら、ナイアは呟く。青年は振り返らなかったが、何、と相槌を打ってくれた。


「お前は先程、イェレと呼ばれていたな。イェルニアと発音が似ている……何か繋がりのある単語なのか?」


 青年の足は止まらない。規則正しく呼吸しながら、彼は一拍の沈黙を置く。然れどそのまま黙ることはなく、すぐに答えを寄越した。


「──イェルニアの男」

「……え?」

「イェルニアの、を意味する単語の男性形だよ。イェルニアでは比較的多い名前だった。出身地にちなんだ名前というのは単純明快だからね」


 つまり、と青年は続ける。


「おれはイェレ。イェルニアの男。君の求めていたものだ──偶然かもしれないけどね」


 知らず、目を見開く。

 彼の顔は見えない。笑っているのか、険しい顔をしているのか、背後からは見えるはずもない。

 ただ、夜逃げ同然に飛び出してきた身には不釣り合いな程透き通った夜の空気に溶けたその名前が、耳朶の奥に反響して忘れられなかったことだけは、ナイアにとって変えようのない事実だった。

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