Inversion of a immediate happy end

硯哀爾

第1話 傘

 驟雨しゅううが地を叩く。土はぬかるみ、遠くの空で雷鳴が轟いている。

 木々が影を落とす中で、現身うつしみたる人間は自らの掌を見た。肌の色そのものが変わったのではないかと錯覚させる程そこを濡らしていた血液は、瞬く間に雨が洗い流していく。それでも全身に浴びた鉄錆は、いくら雨に打たれようとも消える気がしない。

 ぼうと分厚い雲を見上げれば、不意に足首を掴まれた。尋常でない力にほんの僅か驚きつつ、ああまだ生き残りがあったのか、とぼんやり思う。


「ああ……女神ナイアよ……」


 足下にいたのは、全身を切り刻まれた初老の男。這いずりつつこちらの足首にすがり付き、血反吐を吐きながら口を動かす。


「これで全ては整った……我らの悲願は果たされる……イェルニアの男さえ、揃えば……ルクィムの神殿にて、あなたを……」


 最後まで言い切ることなく、男は力尽きる。泥中に沈んだその姿を見下ろし、現身は彼の言葉を反芻した。

 イェルニアの男。イェルニアの男さえ揃えば、悲願は果たされる。そのために自分は生かされ、そして同胞たちの血を浴びた。

 イェルニアの男を探さなければ。イェルニアという固有名詞さえ知らないけれど、必ず見付けなくてはならない。自身の使命のため、たとえどのような道であっても進むと決めた。決めるしかなかった。そうして己は生かされたのだ。

 イェルニアの男を見付ける。きっとすぐには見付からない。だから人の多いところへ行こう。何もかもわからない自分でも、残されたからには果たさなければならぬことがある。そのように生きるしか、道は残されていないのだから──。


「──君、大丈夫?」


 前方からかかった声に、意識を引き戻される。考え事をしながら歩いているといつもだ。周囲が見えなくなるどころか、自己の思考に閉じこもったまま体だけが動くという不安定な状態に陥る。

 視線を上げてみれば、正面にはこちらへ傘を傾ける人物がいた──恐らく、雨の中傘もささずにほっつき歩いている自分を見て、訝しく思ったのだろう。雨に濡れるのは慣れているし、嫌いではないのだが──文明的な振る舞いではないから、不審に受け取られるのも無理はない。それを承知で雨に降られている。

 前方に立つ人物を、そっと観察する。見たところ若い。二十歳を少し過ぎたくらいだろう。栗色の髪の毛をひとつに括った、色白の青年だ。深緑色の瞳には、こちらを案じる色が浮かび、眉毛も下がり気味になっていた。

 恐らく、彼は相当なお人好しだ。見ず知らずの他人を前にしてこんな顔ができるなんて、ある種の才能ではないかとさえ思う。

 ひとまず、何も問題ないことを伝えるために首を縦に振る。それを見た青年は、良かった、と呟いて僅かに相好を崩した。


「君はこの辺りに住んでるの? 傘がないなら、家まで送ろうか」

「家……」


 青年は善意から申し出ているようだったが、返答に困ってしまう。

 この街に定住の家はない。いつも不特定の場所で寝泊まりし、運が悪い時は野宿も辞さなかった。ここしばらくはそれを普遍として生きてきたから、急に家と言われるとどうしても困惑が前に出て来る。

 今度は首を横に振ると、青年はわかりやすく心配そうな顔をした。


「家がないってこと? それは……」

「……じきにこの街を出るだけだ」


 何故こうまで心配されなくてはならないのかいまいちわからないながら答えると、一転して青年はなるほど、と得心のいった顔をした。優しげな目元が弛み、先程までの懸念が幾分か取り去られる。


「そうか、それならおれと同じかもしれないね。もしかして、君は旅をしているの?」

「そうだ。……お前もか?」


 恐々尋ねてみれば、青年はにっこり微笑んでうなずいた。同じ、というのは言葉通りの意味合いだったようだ。


「おれは訳あって海の向こうから渡ってきたんだ。ここからももうすぐ発たなきゃいけないんだけど……そこまで切羽詰まってる訳じゃないし、宿を取っているなら送るよ」

「いや、宿に泊まる予定はない。……それよりも、海を渡ってきたというのは本当か?」

「うん。何か気になることでも?」


 微笑みながら首をかしげた青年に、やめた方が良いと知っていながらもつい期待の目を向けてしまう。ずっと探してきた人物、その手がかりが掴めそうなのだ。少しは浮き足立っても許されよう。

 お人好しそうなこの青年なら、イェルニアなる地について何か知っているかもしれない。しかし全てを包み隠さず伝える訳にもいかないので、暫し言葉を考えてから発言した。


「……お前はどこの国の出身だ? オレはとある地方の人間を探しているが、海の向こうには詳しくない。お前がそうであったら良いんだが」


 青年は一統言語──多種多様な人種が混在するアルティマ大陸における公用語である──を流暢に使いこなしていた。一定以上の学識はあると見て良いだろう。

 生まれてこの方アルティマ大陸から出たことのない身からしてみれば、海の向こう──できればこの世界の多くを占めるネウナ大陸であって欲しい──から来たという相手は未知の存在だ。アルティマ大陸にイェルニアという地名はなく、今のところ掴んだ情報は以前目にした幼児向けの童話集でネウナ大陸のどこかにあるらしいということだけ。新たな情報が手に入れられるのなら、それに越したことはない。

 問いかけに対して、青年は一瞬顔を曇らせた。しかしすぐに笑顔を張り付けて、何事もなかったかのような口調で言う。


「アルソニアン共和国。知ってる?」

「……名前だけなら」


 アルソニアン共和国。確か、ネウナ大陸で一番広い国だ。いつだったか見かけた世界地図で圧倒的な存在感を誇っていたから、よく覚えている。

 アルティマ大陸の人間は、そこそこの距離を有するネウナ大陸に関しては疎い──というのが世間の印象だという。そうした固定観念ステレオタイプに当てはめられるのは不本意だが、悲しいことに事実なのだから何と言われようと否定はできない。世間知らずだとか無知だとか、そういった言葉を浴びせかけられるかもしれないと内心で覚悟を決める。

 だが、青年はこちらの無知を責めなかった。そっか、と穏和に言い、それ以上自らの出身については触れない。代わりに投げ掛けられたのは、こちらに対する疑問。


「ところで、君はどこの国の人を探しているの? 力になれるかはわからないけど、良ければ教えて欲しいな。移民の共同体コミュニティくらいなら紹介できるから」

「……良いのか?」

「勿論。君の助けになれるなら」

 

 青年は真っ直ぐにこちらを見つめてくる。深緑の瞳に、濡れそぼったみすぼらしい姿の自分が映るのを、ぼんやりと眺める。

 何故、彼はこうも優しいのだろう。下心故の親切だろうか。だとすればこの青年は相当な悪食か変わり者ということになるが──いや、何も起こらないうちから下世話な憶測を広げるのは良くない。疑念とそれに付随すべき後悔は後回しにしよう。


「……イェルニア」


 寒さから強張る唇を動かし、ようやっと答える。先程の自分のように、知らない、と返されるのを密かに恐れながら。

 返答はすぐに渡されなかった。青年は暫しの間沈黙し、雨音だけが耳朶を叩く。

 ぷつりと途切れてしまった会話に不安を覚え、恐る恐る青年の顔を見上げる。傘に陰った彼の顔に、もう笑顔はない。


「……駄目だよ、その単語を口にしては」


 ややあってから返ってきたのは、穏やかながら強い拒絶を含んだ声音。

 青年は顔をしかめていた。苦しげに唇を引き結び、今にも血反吐を吐きそうな声で、もう一度駄目だよ、と繰り返す。


「あの国は、もうなくなった。抹消されたと言っても過言じゃない。十年前に、そう決まったんだ」

「なくなった……? イェルニアが……?」

「そうだ。もうそんな国は存在しない。移民ならたくさんアルティマに流れたけど……彼らに聞いても同じように答えるだろう。だから、悪いけどあの地について探し求めるのは──」

「わかった。なら質問を変える」


 青年の言葉を遮り、一歩踏み込む。相手が怯んだ隙を見逃すつもりはない。


「お前はイェルニアの男か」


 短く問えば、青年はひゅ、と細く喉を鳴らした。傘の柄を持つ骨張った手に力がこもり、白く変色する。

 彼は一度、口を開こうとした。だが、喉元から迫り来るき止められたのか、すぐに唇を噛んでうつむく。長いまつ毛が、白く透き通った肌──かつてネウナ大陸からアルティマ大陸へやって来た略奪者ワスターティアのそれと同じ──に影を落とした。

 直感する。この青年こそ、自らの追い求めてきたものだ。


「お前は、イェルニアの男だな」


 断言し、隠し持っていたマイナスドライバーを青年の首元に突きつける。一般的には工具として利用されるそれだが、今の自分にとっては唯一の武器だ。本来殺傷には使わないとはいえ、慣れてしまえばどうということはない。確実に急所を狙えば勝ち目はある。

 不思議なことに、青年は抵抗する様子を見せなかった。からん、と手にしていた傘が地面に落ち、再び雨が体に降りかかる。

 息を吸う。自分は青年のように、言葉を詰まらせない。それだけの覚悟を持って、ここに立っている。


「オレはナイア──かつて存在した破壊と殺戮の女神、その現身。ゲノ族の大願により、お前の身を借り受ける。──否とは言わせない」


 マイナスドライバーが鈍く光る。異郷の色を宿した瞳を前に、青年の喉はゆっくりと上下した。

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