第2話

「ミヤは、誰が好きなの?」

それは、もう、中学生くらいになったヒナからの、突然の質問だった。もうすぐ、ヒナが来てから一か月くらいになる。

「え?」

私は驚いて、手にしていた編み物を取り落とした。最近、編み物の本を読んだヒナは、編み物に興味を持っていた。私もそれまであまり興味がなかったけれど、ヒナのおかげで少し、編めるようになった。今は二人で、編みぐるみに挑戦していた。出来たら、ハルにあげようと二人で話していた。

 実は、ハルにもヒナが見えているみたいなのだ。まだ、言葉を話せないからいいのだけれど、それでも、ヒナの方を指さして、何かを言っている時はドキッとする。

 でも、不思議な事に、私の前ではそれをするのだけれど、お母さんにはしないのだ。ヒナは、赤ちゃんをあやすのがとても上手で、時々こっそりあやしている。私もお姉ちゃんだから、お母さんから頼まれることがあって、それが嫌だと思う事があったけれど、今は思わなくなっていた。それは、ヒナがいるようになってから、だと思う。私の心の中で、引っかかっていた何かを、ヒナが溶かしてしまったようだ。

「私は、皆が、好き。もちろん、ヒナも」

私はそう言ってヒナに向かって微笑んだ。

「ハルも?」

そう言われて、どきりとした。ヒナは、感じていたのかもしれない。私がハルに感じていた、もやもやした感じ。

「うん」

私は少し、喉の奥に苦いものを感じながら答えた。

「お母さんも?」

「うん」

そう答えると、ヒナはぱっと明るい顔で笑って、良かった、と、言った。やっぱり、何かを感じていたんだろうと思う。でも、ヒナがくる前は、誰かに同じことを聞かれたら、うん、とは、答えられなかったと思う。少し、心に引っ掛かりがあっても、そう、答えられたのは、ヒナのおかげだと思う。だって、ハルや、お母さんが好きだという気持ちは、全くの嘘ではないから。それはきっと、ずっと私の心の奥にあって、毎日の暮らしの中ででてくる、寂しいとか、苦しいとかの気持ちの中に埋まってしまっていたもの。それを、掘り出してくれたのは、やっぱり、ヒナなんだと思う。

「私も、皆が好き。ミヤも、マナミも、カナタも、ハルも」

そう言って、ヒナは、立ち上がると大きく背伸びをした。そして、小さな声で付け足した。

「おかあさん、も」

「見えてないのに?」

私は驚いて聞き返した。

「うん。お母さんが、ハルをあやしたり、皆のご飯を作ったりしてるのを、見てるのが好き。それと……」

そう言って、ヒナは言葉を切って、

「ナイショ」

と、言って笑った。なんだそりゃ、と、心で思って、ヒナを見つめる。ヒナは、窓の外を見て居た。

そこには、大分膨らんだ月があった。


 それは、満月の出来事だった。その日はちょうど日曜日で、私とヒナとマナミは、カナタを誘ってピクニックに行こうとしていた。お弁当も皆で作って。そうして、私たちは大きなバスケットを持って、カナタの家に行った。家の前で、カナタを呼ぼうと、大きく息を吸った、その、時だった。


ガシャーン!


 家の中から大きな音がした。何かが割れるような音。そして、どん、とか、がたっ、とか、何かがぶつかるような音。

「カナタ!」

私たちはそう叫んで家に飛び込んだ。途中にいくつかドアがあったのに、私たちは真っ直ぐに走って、一番奥のキッチンへと入った。

 そこには、床に倒れているカナタと、その傍に立っている男の人の二人の人間がいた。

 割れたビール瓶を持ったその人は、カナタのお父さんだった。学校行事にもほとんど来ないし、顔だって知らない。でも、一目でわかる。カナタによく似た顔。でも、カナタの優しい目が、大人の男の顔の中できつく吊り上がっている。そして、哀しい色をしている。

「カナタ!」

真っ先にそう叫んで、倒れているカナタに駆け寄ったのは、マナミだった。マナミに呼ばれて、カナタは薄く目を開けた。その、前髪の間から、真っ赤な血が、すぅっと流れて来た。

「きゃあああああああっ!」

マナミが大声を上げた。

「うるせぇ!」

そう言って、カナタのお父さんが割れたビール瓶を振り上げた。顔が赤い。お酒臭い。私は咄嗟にマナミとカナタを庇うように抱きしめた。

 私は知っていた。カナタが、父親に暴力を振るわれている事。でも、カナタは父親を庇っていた。そして、それを誰にも言わないでほしいと言っていた。だから私は、その事を胸の中にしまっていた。

(でも、嫌だ)

本当は嫌だった。これ以上カナタが、そして、誰かが傷つくこと。

 目を閉じた私の後ろで、ガシャン、と、何かが壊れる音がした。


 私が恐る恐る目を開けて振りかえると、目の前にはヒナの背中があった。ヒナは、両手を広げて、私たちを庇うようにカナタのお父さんと向かい合っていた。

「何だ、お前っ」

カナタのお父さんが、怯えたような声を出した。そして、一歩後ろへ下がった。その手から、さっきより小さくなった瓶の、注ぎ口だけが、ぼとりと落ちた。それと同時に、紫色の液体が、ぴちゃりと床に落ちた。

「ヒナっ」

私ははっとして立ち上がった。ヒナを見上げると、左手で額を抑えていた。その指の隙間から、紫色の液体が流れ出ては落ちていく。

「ヒナ、それ、血?」

震える声でヒナに訊くと、

「ごめん。気持ち悪い、よね?」

そう言って、寂しそうに笑った。

「何だお前、何だお前っ、化け物か、化け物なんだな?お前たちも仲間か!」

そう叫んで、カナタのお父さんは、引き出しからナイフを取り出した。私は驚いた。

 怖かった。怖かったけれど、

「私たちは、カナタ君の友達です!」

そう言って、ヒナの前に飛び出していた。

「カナタ君にも、ヒナにもけがをさせて、今度はそのナイフで私たちを刺すの?どれだけ周りを傷つけたら気が済むの!」

自分でも驚くほど大きな声が出た。

 止まらない。もう止まらない。胸の奥で、ずっと、ずっと、声をあげていた、もう一人の、私。

「私、知ってる。カナタが、ずっと前から体に痣を作っていた事。あなたに、殴られているんだってこと。どこかに相談することだってできたのに、カナタは、あなたと分かれるのが嫌だって」

そう言って、涙が出て来た。

「痛い思いも、怖い思いも、いっぱい、いっぱいしてるのに、それでも」

ヒナが私の肩を抱いてくれた。私はその手に触れた。

 暖かい。暖かい手だ。

「あなたを、一人にするのが嫌なのよ」

カナタは優しい。本当に優しいから、その痛みも、全て、受けようとしてしまう。

「すればいいだろう」

帰ってきた言葉は、信じられない言葉だった。

「一人にすればいい。嫌なら。それをしないのは、痛い思いをしたいってことじゃないのか?」

男の口元が、醜くゆがんだ。私はその男を、もう、カナタのお父さんだなんて、思いたくなかった。ここにいるのは、ただの、男なんだ。私ですらそう思うのに、カナタはまだ、この自分勝手な男を、父だと思っているのだろうか。

「そうか、お前たちも、殴られに来たんだな。だったら、遠慮はいらないよな」

男はそう言って、ナイフを捨てると、殴りかかって来た。それに吹っ飛ばされたのは、ヒナだった。

「ヒナ!」

私がヒナに駆け寄ろうとすると、今度は足で、私を蹴ろうとした。そこに割って入ったのはカナタだった。

「許さない」

低い声だった。聞いたことも無いような。

「ボクのことはいい。でも、ボクの友達にひどいことしたら、許さないから!」

「うるせぇ!子供の分際で何ができる!」

男は叫んだ。

「できるよ」

ヒナが静かに言った。

「みんな、ここへ。私の傍に」

そう言ったヒナの全身が、少しだけ、光っているのが見えた。

「子供はあんたのおもちゃじゃない。物でもない。一個の人間なんだ。大人のくせにそれが分からないなんて、男のくせに、弱いものを守ろうと思わないなんて、」

ヒナに触れると、ヒナの身体の光が私達にも移って来た。まるで、私たちは一個の命みたいになった。

「絶対に許さない!」

そうして、私たちは、全身でその男の胸に叩き込んでやった。私たちの、怒りと悲しみと、誰かを思うそれぞれの気持ち、全て。


気が付くと、私は真っ白い場所にいた。そこには何もなくて、誰もいなくて、私一人だった。

 最初は。

「ミヤ」

振り向くと、そこにヒナがいた。見たことのない、銀色のドレスを着て。

「ヒナ?」

「うん」

ヒナは、静かに微笑んでいる。その顔を見て、私は今のヒナになら聞いてもいいような気がした。そして、今でなければ、聞けないような気がした。

「ヒナは、どこから来たの?」

私がそう言うと、ヒナは上を指さした。そこにはぽっかりと穴が開いていて、真っ黒い夜空が見えた。黒い中にまん丸い満月が見える。

「月?」

「そう、とも言えるし、違う、とも、言える」

私が首を傾げると、ヒナはくすっと笑った。

「私の両親は、月から私を地球に送った。でも、故郷はきっともっと遠い」

「知らないの?」

「うん。私が思い出したのは、それだけ」

「そっか」

私たちは黙ってしまった。そこから先は、聞きたくない。何故だか分からないけれど、ヒナは、何か怖い事を言おうとしている様な気がした。

「ミヤ」

「……うん」

「私は、行かないといけないの」

「うん」

知ってた。心のどこかで、それを感じていた。ヒナが、月を見上げるのを見た時、ヒナがかぐや姫に見えた。だから、ヒナはきっと、いつか月に帰ってしまうと思っていた。心の、どこかで。

「月に行くの?」

「一度はね。多分そこに、私の両親が残した手がかりがあると思う」

「故郷の?」

「そう」

「どうしても?」

「……うん」

今度はヒナの返事が遅れた。

「行かないでって、言ったら、困る?」

そう言ったら、目の前が涙で滲んで、ぽたりと涙が落ちた。いつだってそうだ。私は、言いたいことが言えない。こう言ったら、誰かが困る。そう思うと、自分の気持ちを口に出すことは、いけないようなことに思えて。何度も何度も言葉を飲み込んだ。

「うれしい」

ヒナはそう言った。

「困るけど、うれしい」

ヒナの目からも涙が零れて落ちた。私たちはしっかりと抱き合った。

「優しいミヤ。いつも自分が後回しで、周りを気遣って、でも、気持ちは言葉に出した方が良いよ」

「うん」

「私を気持ち悪く無いって言ってくれて、嬉しかった」

「だって、本当だもの。ヒナは気持ち悪く無い。こんなに、こんなに、優しくて、あったかくて」

私たちはそっと腕を緩めた。そして、おでこをくっつけた。

「きれい」

私の中に、ヒナの匂いや、姿や、声が、少しでも長く残るように。

「私には、ミヤが綺麗だよ、マナミも、カナタも、ハルも、お母さんも。この地球で見た全てがきれい」

「うん。私もここが好き」

「きっと、私の故郷は、そう言う物が失われている」

「えっ」

私は驚いた。生まれてからずっと、当たり前にある美しい風景。ヒナの故郷にはない、ということが、すぐには分からなかった。

「失われているから、私はここに来たんだよ。綺麗なものを、学ぶために」

「綺麗な物」

「そう」

「でも、カナタのお父さんは……」

「大丈夫。彼も、傷ついていただけ。母親の命と引き換えに生まれたカナタに、どうやって接していいのか、ずっと悩んで、悩んで、悩んで、心が擦り切れてしまっただけ。それは、私が……」

そう言って、ヒナは、何かを考えて、小さく首を横に振った。

「ううん。皆の思いで、修復できたはずだから」

「本当?」

「うん。一見、怖いように思えても、その心の奥には、確かにきれいなものがある。それも、学んだ」

そう言ったヒナの姿が光に包まれて薄くなった。旅立ちの時が来たのが分かる。空から、同じように光る何かが降りて来た。何かが、迎えに来たんだ。かぐや姫のように。

「ヒナ」

私は叫んだ。

「離れても、離れても、一緒だよ!」

声の限りに叫んだ。

 辺りが真っ白になって、小さく、ありがとう、という声が聞こえた。


 気が付くと、私は自分のベッドで寝ていた。外から鳥の鳴き声がしている。部屋を見渡した。隣にも、部屋のどこにも、ヒナはいない。知っていたけど、泣きたくなった。

「そうだ、カナタ!」

ヒナのことを思い出したら、カナタの家でのことも思い出した。私は跳び起きて外へ走りだそうとしていた。

「ちょっと、ミヤ!どこへ行くの?」

お母さんに呼び止められたけど、

「大事な用事なの!」

そう言って、カナタの家に走る。途中でマナミと会った。

「ミヤ!」

「話はあと、今はカナタの家に!」

「うん!」

マナミはすごく話したそうだったけど、とにかくカナタの無事を確認しない事にはいられなかった。

 私達二人は、それからすぐにカナタの家の前に着いた。でも、どうしようか、迷う。ヒナの言っていたことは、本当だろうか。カナタのことは、本当に、もう、大丈夫なのだろうか。怖い。でも、確認しなければ、もっと怖い。

 私たちは、頷き合って、カナタを呼ぼうと息を吸い込んだ、

「カ」

第一声が出る前に、ドアが開いて、中から、あの、男の人、が、顔を出した。一瞬ドキッとしたけれど、

「やぁ、ミヤちゃんにマナミちゃんだね。カナタならいるよ。ちょっと待ってて」

そう言った、その男の人は、カナタの父親の顔をしていた。あの時見た顔と、同じ顔。でも、カナタにそっくりな、優しい顔になっている。私たちはぽかんとしてしまった。何が起きたのか分からない。昨日の、恐らくは、昨日起きたあの事件は、夢だったのだろうか。そう、思ってしまうほどに。


「夢じゃないよ」

そう言って、カナタは空っぽのバスケットをマナミに渡した。

「これ……」

「うん」

私たちは、公園で、ベンチに座っていた。

あの日、ヒナと、カナタと、マナミで一緒に座った、ベンチ。マナミの手の中のバスケットは、あの日、お弁当を入れて持って行ったものだ。中身は綺麗になくなっていたけれど。

「ヒナが、食べた、んだと思う」

カナタが言った。

「ヒナが?だって、今まであの子、何も食べなかったのに」

「うん。食べた、って、言い方はおかしいのかもしれない。でも、ヒナはあの時、たくさん、たくさん力を使ったはずだし、その分は何かを食べないといけないと思うよ」

「エネルギーの補給、ってやつね」

そう言ったのはマナミだ。確かに私も、それなら納得できる。

「父さんね」

カナタがそう言った時、私はドキッとした。多分、マナミも同じだと思う。顔が真っ青になっていたから。きっと、私の顔も、青くなっていたと思う。

「ボクが気が付いてから、ずっとああなんだ。目が覚めた時、とてもとても心配された。そして、たくさんたくさん謝られた。父さんは、自分がボクを殴ったりしたことを覚えてるんだ。本当に、土下座して謝られたよ」

「謝ったからって……」

マナミが悔しそうに言う。でも、カナタは静かに頭を振った。

「良いんだ」

そう言ったカナタの横顔は、大人みたいだった。

「父さんね。哀しかったんだって。ずっと、黙ってたけど、母さんは、身体が弱かったんだって。ボクを産まなければ、もっと生きられたかもって、思ってしまって、ボクにつらく当たったんだって」

「そんな、」

「何かがうまくいかなくなるとね、母さんが居ないせいだ、つまりは、ボクが生まれた所為だって、心が爆発しちゃって、殴ってしまったって。でも、殴った後に、とてもとても後悔したって、言ってた」

「そんなの、本当かどうか、分からないじゃない!」

マナミが大きな声を出した。その目からはぽろぽろと涙が流れている。

「マナミ、」

「アタシ、怖かった。あの時もだけど、カナタがいつもあんな思いをしてたなんて、知らなくて、そう思ったら……」

「ありがとう」

カナタは静かに微笑んでそう言った。

「マナミちゃんも、ミヤちゃんも、本当に、ボクを思ってくれているよね。ありがとう」

面と向かって言われると、私も何だかくすぐったい気持ちになった。でも、

「私は、何もできなかったことを、本当に悔しいと思うし、後悔してる」

ヒナの言うように、自分の思ったことを口に出してみた。

「それから、これから、もし、」

「そうよ。これからまた同じことが、」

「起きないよ」

私たちの心配を遮ったのは、カナタだった。

「ヒナちゃんが、そう言ってた」

「会ったの?」

「うん」

「……実は、アタシも」

「私もだよ」

私たちは顔を見合わせて笑った。ヒナは、ちゃんと一人一人にお別れを言って行ったんだ。マナミやカナタに、ヒナのことをどう説明しようかと思っていた私は、少しほっとした。

「その時、ヒナちゃんが言ったんだ。もう大丈夫だって。お父さんの中の暴力の根っこは、ヒナちゃんが癒したからって」

「あ」

私とマナミが間抜けな声を出したら、カナタはふふっと笑った。そう。誰もが覚えのある、あの、感覚だ。ヒナが、教えてくれた、あの感覚。涙が零れるような、そして、心のどこかがすぅっと楽になる、感じ。覚えがあるからこそ、信じられる。ヒナは、本当にそれを、カナタのお父さんにしてくれたのだと、その時気が付いた。

 私たちは、ヒナが残して行ってくれた、とても暖かいものを、皆で抱きしめた。

「元気でやってるよね」

「うん。絶対にね」

「また、会えるといいよね」

そう言って、顔を見合わせた、私達は、声を揃えて言った。


「それはもう、絶対!」



そうして私たちは、時々、月を見上げる。

いつでも、私たちを見守ってくれている。

ヒナのような、暖かい光を。


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月の女神と地球の子供 @reimitsuki

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