月の女神と地球の子供
零
第1話
その日は嫌な事があって、
本当に、本当に嫌な事があって、
私は、それを我慢できずに、飛び出すみたいに学校から帰っていた。
いつも一緒に帰っているマナミからも、いつも放課後一緒に勉強しているカナタからも、逃げるみたいに。
頭にきて、収まらなくて、それでも収めようとして、頭も心もぐちゃぐちゃだった。
だから、最初は、聞き間違いかと思った。
誰もいない、田んぼの真ん中で赤ちゃんの声を聞いたのは
その日は冬も終わりに近かったけれど、田んぼにはまだ雪がたくさん残っていた。私が住んでいるのはとても田舎で、学校の周りは田んぼだらけだった。
それが、夏とか、もう少し温かくなってからなら、気にする事じゃなかったかもしれない。田んぼで働いているお母さんが、赤ちゃんを連れている事はあると思う。でも、今は冬で、誰も田んぼになんかいない。だから、私はびっくりして、赤ちゃんの声を探した。だって、とてもはっきり聞こえたから。誰かが赤ちゃんを置き去りにしたなんて思いたくないけれど、テレビのニュースで怖い話を何度も聞いてたから、不安になった。
赤ちゃんは、田んぼの中に在る、小さな祠の前に居た。小さな篭に入っていて、真っ白い布でくるまれていた。私は、まるで昔話の本に出て来る赤ちゃんみたいだと思った。
私はすぐに赤ちゃんを抱き上げた。私は小学五年生だけれど、赤ちゃんの抱き方くらい知っている。だって、去年の夏に妹が生まれて、私はお姉ちゃんになったばかりだもの。
私が抱き上げると、赤ちゃんは泣き止んだ。そして、にこっと笑った。
知ってる。赤ちゃんは笑ったように見えても、笑ってないんだって。あんまり小さい赤ちゃんは、まだ笑えないんだって。でも、可愛いって思って欲しいから、そう思って守ってほしいからそういう顔をするんだって。そう、分ってたって、やっぱりかわいい。だって、私も人間だから。赤ちゃんじゃないから、そう思う。この子だけじゃなくて、もちろん、妹のハルの事だって、そう思った。可愛いって。
でも、私はすぐに気が付いた。親はどこだろう。でも、周りを見回しても誰もいない。もう夕方で、どんどん寒くなる。それに、私は知っている。赤ちゃんには何が必要なのか。お母さんのお乳がいる。替えのおむつだっている。でも、私はお母さんみたいにお乳はあげられない。おむつだって持っていない。私一人ではどうしようもない。私に出来るのは、この赤ちゃんを間違いなく保護してくれる人のところへ運ぶことだと思った。
そして、真っ先に思い浮かんだのはやっぱり、お母さんだった。
「お母さん、ただいま。あのね、赤ちゃんがね」
「ミヤ、おかえりなさい。今、ハルが寝た所だから、静かにしてね」
「あのね、お母さん、赤ちゃんが」
「うん。だから、寝た所だから」
お母さんが、私の話を聞いていないみたいだったから繰り返していったのに、お母さんは少し怒っている様な顔になった。それを見て、私は少し寂しい気持ちになった。
妹が生まれてからお母さんはずっとこんな感じだからだ。
私が話しかけても、私の話を聞く気があるのかないのか。返事をしても曖昧で、すぐに静かにしてね、って、言う。お母さんは、ハルの世話で忙しくて、だから、仕方がないってわかっているけれど、それでもやっぱり、寂しさは消えない。
でも、今の私は、気にするべきはそんなことじゃないって気づいた。だって、私はずっと、両手に赤ちゃんを抱いているのだもの。お母さんにだって、見えるはずなのに。どうしてお母さんは何も聞かないのか。そんなに、私のことを見て居ないのか。それはそれで哀しいけれど、そんなことで、めげていられない。
「お母さん。これ」
私はお母さんの機嫌を損ねないように、小声でそう言って、赤ちゃんを差し出した。
「……何?」
お母さんは私の手の中をじっと見ているけれど、不思議そうな顔をするだけだ。
「う、ううん。ごめんなさい。綺麗な花を摘んだんだけど、落としちゃった、みたい」
私がそう言うと、お母さんは迷惑そうにため息を吐いて、奥へいってしまった。妹のハルは夜泣きがひどくて、お母さんは眠れなくていつも疲れている。頭がひどく痛む時もあるって言ってた。多分、今日はその日なのだろう。
私は、ハルが少しだけ嫌いだった。ハルが生まれる前のお母さんは、本当に、優しかったから。その分だけ、今のお母さんが冷たく感じて、それがハルのせいのような気がしていた。だから、少しだけ、嫌い。
でも、それは本当に少しだけだ。私は、ハルと同じ赤ちゃんを可愛いと思ったのだから。その時、ハルのことを、思った。そして、助けなければと思った。だから、ハルのことも、本当は、嫌いなんかじゃないんだろうと、思う。
思いたい。
そして、一つ、大変な事に気付いた。
この赤ちゃんは、お母さんには見えていないのだ。
私はその赤ちゃんを、自分の部屋へ連れて行った。交番へ行くことも考えたけれど、お母さんに見えないなら、お巡りさんにも見えないかもしれない。正直、怖かった。誰にも見えない赤ちゃんを抱えて、私はどうすればいいんだろう。
「あー」
その時、赤ちゃんが声を上げた。私は赤ちゃんの入っているバスケットを覗き込んだ。機嫌よく笑っている。でも、ハルもお腹がすいたり、おむつが汚れたりしたら機嫌が悪くなる。そうなったら、どうしたらいいんだろう。そんな私の心を知らずに、赤ちゃんは笑っている。何故か、その笑顔を見て居たら、私も何だか笑いたくなった。怖い気持ちとか、不安な気持ちとか、心の中のぐちゃぐちゃがすーっと楽になった気がした。
「ふふ、」
私は赤ちゃんを抱き上げた。温かくて、柔らかい。ハルと同じ。一つだけ違うのは、匂い。ハルは、ミルクのような、甘い匂いがするけれど、この子はしない。ハルは、おむつが汚れると、その匂いがするけれど、この子はしない。花のような、いい匂いがするけれど、何だろう。何となく、おかしい。
見えない赤ちゃん。それだけなら、幽霊なのかも、とか、思ったかもしれないけれど、この子は触れる。触れる幽霊もいるのかな。私だけに見えて、私だけに触れる。
結局、その日は二人でベッドで眠った。小さな小さなその手を、私はずっと握っていた。不思議な事に、赤ちゃんは、ミルクをあげなくても、おむつを交換しなくても泣かなかった。私が抱っこしていれば、機嫌良く笑っていて、私が離れる時は、私のお気に入りの熊のぬいぐるみを置いてあげるとそれに触ってにこにこしていた。学校は、春休みに入るから、当分離れる心配はないけれど、このままでいいわけもない。
「取扱説明書って、ついてないのかな」
赤ちゃんの入っていたバスケットを探してみても、他には何も入っていない。
朝ごはんを食べ終わって、部屋に戻ると、赤ちゃんは機嫌よくクマのぬいぐるみで遊んでいた。ハルよりは大きいのかなと思った。ハルはまだ、おもちゃで遊んだりはしないから。
そんなことを考えていると、ドアをノックする音がした。私は何となく、そっとドアを開けた。そこに立っていたのはクラスメイトのマナミだった。
マナミは分かりやすく落ち込んでいた。俯いて、目を合わせないまま、口を開いた。
「ミヤごめん。昨日あたし、カナタにひどい事、言ったよね」
そう。昨日の嫌な事の発端はマナミだった。マナミが同じクラスの大人しい男の子、カナタに言いがかりをつけたのだ。私はカナタと一緒に勉強する事が多かった。カナタは大人しけれど頭が良くて、本当にいろんなことを知っていて、一緒に勉強しているとはかどるし、楽しかったからだ。マナミは何が面白くなかったのか、そのことでカナタを責めたのだ。私がカナタと勉強しているのは嫌々だとか、クラスの皆がカナタを嫌っているとか、根も葉も無いことで、カナタを傷つけた。カナタが、大きな目に涙を溜めて、泣きたいのをぐっとこらえていたのが、私の心を突き刺した。
私はマナミにくってかかった。もう、何を言ったのか覚えていない。でも、最後に
「そんなマナミの方が汚いよ!」
心にも無い事を口走ってしまった。そのことを、実は今でも後悔している。マナミは確か、お兄さんが居て、つまり、妹だ。妹らしく、はきはきと自分の意見を自由に言って、それでも周りの注目を集めていて、慕われている。そんなマナミをどこかでうらやましいと思っていたのかもしれない。私にも、頼ってくれる友達はいるけれど、その友達の前で、私は無理をしていることが多いから。そのままの自分で居て、それでも皆に頼られているマナミは、すごいと思っていた。同時に、妹、というものが、そういうものだとしたら、私はそのうち、ハルにも同じ気持ちを持つのかもしれないと思った。それを、少しだけ、ずるいと思った。今ですら、お母さんの手を独り占めしているのに、と。
「ううん。謝るのは私の方だ。マナミにひどいこと言った。一番汚いのは、私だよ」
「そんなことない」
マナミは首を振る。そんなことなくない、と、私は心で思った。自分でもわかってる。最近の私はどこかがおかしい。何かがおかしい。心の中にとても大きな穴が開いていて、その穴が、嬉しいとか、楽しいとか、そんな気持ちを全部吸い取ってしまっているみたいに。元々がそうだったのかな。私はそういう人間だったのかな。そう思うと、泣きそうな気持になる。そんなことが、時々あった。
「うー、」
その時、赤ちゃんが声を出した。すると、マナミは赤ちゃんの方を見て、
「ハルちゃんミヤの部屋にいたの?あれ?でも、確かさっき、おばさんが抱っこしてたような……」
と、言って不思議そうな顔をした。
(マナミにも見えるんだ!)
それが、私が最初に思った事だった。それは、少し怖くて、少しほっとして、そして、少し寂しい感じがした。
「分かったわ」
私が今説明できることをどうにか説明すると、マナミは真面目な顔でそう言った。
「信じる、の?」
私は正直、びっくりしていた。もし、私が他の人に同じことを言われたら、すんなり信じられるかどうか分からない。
「ミヤの言うことだもの。信じる」
「ありがとう」
嬉しかった。何だか、久しぶりに自分の話を聞いてもらえたような、そんな気がした。無駄な話はたくさんしたけれど、ちゃんと心を伝えるような話は、ずっとしていなかったような気がする。それを感じる機会をくれたのは、この赤ちゃんなのだ。そう思うと、何だか余計に可愛く見えた。
「正直、困ってたんだ。どうしようかって」
「カナタ、呼んでみたら?」
「カナタを?」
「あいつ、物知りだし、何かわかるかも」
「そうか」
私はぱんと手を叩いて立ち上がった。そうだ。カナタなら、何かわかるかも知れない。色んなことを知っているカナタなら。
「電話、してくるね」
そう言って部屋を出る時、後ろから小さな声で、謝りたいし、と、聞こえた気がして、私は可笑しくなった。
「こんにち、は」
カナタがおずおずと部屋に入って来た。
(そういえば、カナタどころか自分の部屋に男子を入れる事すら初めてだ)
と、私は後から気付いた。
「ど、どうぞ」
変に緊張して、おかしな言い方になってしまった。でも、カナタは気にしてないみたいだった。
「あの、良かったのかな。おばさん、赤ちゃん抱えて大変でしょう?」
カナタがおずおずと言った。
「大丈夫。静かにしてれば、平気」
カナタは内気で、なかなかクラスの男子にも打ち解けられないでいた。転校してきたばかりということもあるだろうけど。カナタはいつも教室の隅で本を読んでいた。だからだろうけれど、頭はすごく良くて、先生に何度も褒められているのを見た。それが却って男子のやっかみを招いて、からかわれていることもあった。私が止めたけど。
私はといえば、たまたま分からない問題をカナタにきいて、分かるようになったのがきっかけで、カナタと話をするようになった。そして、その事をクラスの皆に言ったら、少しずつだけど、カナタは皆に認められて行って、今では頼りにされる場面も出て来た。私はそうなったのはカナタがもともと持っていた魅力だと思ってる。今まで気づかなかっただけで。私が問題をききにいったみたいに、ほんの小さなきっかけで、誰かの素敵な所が見える。それを教わった事も嬉しかった。だから、そんなカナタが誇らしかった。皆に囲まれて、照れたように笑っているカナタを見て、全く心が痛まなかったと言えばうそになるけれど。
「だーいじょうぶよー。カナタ、いるかいないかわかんないくらい静かだもん」
「こおら、マナミ!」
「本当のことでしょう?」
かくいうマナミもカナタをからかっていた一人だった。そして、昨日は昨日で面倒なことが起きたのも事実だ。
「本当のことでもなんでも、言っていい事と悪いことが……」
「これが悪いことだっていうの?」
「だから、しー、だよ」
当のカナタが私たちの間に割って入った。相当勇気のいることだったろうと思う。顔が必死になっている。
「あ、赤ちゃん、起きちゃうよ……」
そう言われて、私たちははっとなって籠の中を見た。そう。赤ちゃんはこの部屋に、もう一人いたのだ。
「ごめん」
最初に謝ったのは、マナミだった。
「えっと、その、昨日も……ごめん」
いいづらそうに、ごもごもと、口の中にこもる言葉を、それでもカナタはちゃんと聞いていて、にっこり笑った。
「この子……?」
カナタにも事情を説明して、三人で赤ちゃんを覗き込んでいた。お母さんに見えなくて、私たちに見えるっていう事は、子供にだけ見えるという事なのか。本当のところは分からないけれど、私たちはそう考える事にした。
「可愛いね」
そう言うカナタの顔が、ふわりと花が開いたようにほころぶ。可愛いのはどっちだと心で思いながらマナミを見ると、マナミは頬を赤くしていた。からかってもいいところなのに、何も言わない。多分、マナミもカナタのことを、可愛いと思ったのだろう。もしかしたら、マナミがカナタをからかっていたのは、小学生の男子にありがちな気持ちなのかもしれないと、私はこっそり思った。
もちろん、このことはマナミには内緒にしようと思う。
「この子、本当に何も食べてないの?平気なの?」
カナタが不思議そうに言う。
「うん。だから、おむつの交換も要らないみたい」
「お風呂も?」
「うーん。それはどうか分からないけど、実際、汚れてる気配、無いよね」
皆で見ても、赤ちゃんはすやすやと眠っているだけで、特にどこかが汚れて不機嫌、という様子はなかった。
私はインフルエンザで寝込んだ時のことを思い出した。熱でしばらくお風呂に入れなかったのだ。その時、一番汚れを感じたのは髪の毛だった。私はショートボブだったからそれほど長くはなかったけれど、それでも油をつけたようにべたべたで、嫌なにおいのする自分の髪がショックだった。晴れてお風呂が許可されて、思いっきり髪を洗えた時の気持ちよさと言ったら。
だから、髪が汚れてくれば分かるはず。まだ一日目だから汚れないのかな。
でも、服はどうなんだろう。ハルはお母さんが毎日着替えさせて綺麗なものを着せている。この子にも、必要なんじゃないだろうか。
マナミが来て、カナタが来て、二人に赤ちゃんが見えて居ると知って、安心した。だからだろうか。新しい疑問が次々と出て来る。
「ね、名前、つけたの?」
考え込んでいる私にそうきいてきたのはマナミだった。
「え?ううん」
私は首を横に振った。
「何で?」
「だって、親がいるでしょ?親がつけた名前があるはずじゃない。勝手に変な名前で読んだら、親が迎えに来た時困るでしょ」
「そっか」
「だったら、」
ずっと黙っていたカナタが口を挟んだ。
「名前、探してみない?バスケットは、もともと赤ちゃんが入っていたんでしょ?それに服とか。どこかに名前が書いてあるかも知れない」
「そうか!」
私とマナミは赤ちゃんを起こさないように気を付けながらごそごそと名前を探した。しかしそれはどこにも見つからなかった。
「困ったね。どうしようか」
「もう一つ、考えがあるんだけど……」
「え?何々?」
マナミが楽しそうに訊く。
既に名前探しが楽しくなっているようだ。
「それは……赤ちゃんが起きてくれないと意味がないから、その後でいいかな」
私とマナミは訳が分からず、首を傾げた。
それから、お母さんに断って、私は家にあったジュースと、クッキーを持って部屋に戻った。カナタとマナミは赤ちゃんのバスケットを覗き込んでいた。
「あ、おかえり」
「ありがとう。ミヤちゃん」
二人は私に気付いて振り向いた。そして、
「あうー」
と、赤ちゃんも、私にお帰りと言っているようだった。
「起きたんだ」
「うん」
私がトレイを置くと、マナミはジュースを手に取って飲み始めた。
「あのね、前に本で読んだ事があるんだ。名前の分からない赤ちゃんに、色んな名前を言ってみるシーン。そうして、その名前が当たっていると、赤ちゃんが返事をするんだよ。それ、やってみたらどうかな」
カナタは少しわくわくしたような声で言った。すると、何故か赤ちゃんも何だか楽しそうにきゃっきゃっと笑った。
「じゃあ」
私は、色んなお話に出て来る名前や、クラスの子の名前を次々と言ってみた。
でも、赤ちゃんは反応しない。
「そもそもこの子、男の子なの?女の子なの?」
マナミが聞いてくる。
「さあ」
「さあって、おむつは交換しようとしたんでしょ?」
「おむつはつけてなかったけどね」
「じゃあ何つけてるの?」
「これだけ」
私はベビー服を指さした。
「で、どうだったの?」
「どうって?」
そこまで話していると、何かを察したカナタが後ろを向いた。そして、マナミが小声で
「ついてたのか、ついてなかったのかってことよ」
私はすぐには事態を飲み込めなくて、思わずぼうっとしてしまった。そして、はっと気づいて、
「つ、ついてなかった、です……でも、おんなのこって感じでもなかったの」
「つまり?」
「何にもなかった……」
その後は騒ぎそうになったマナミの口をふさいで、却ってうるさくなって、ハルが起きちゃって、カナタがお母さんに平謝りして、私がそれを止めて、と、ひたすらバタバタして終わった。
夜になって、私はパジャマに着替えて赤ちゃんと向き合った。ハルはお母さんと寝てる。私は、名前も知らない赤ちゃんと寝る。赤ちゃんはまだ眠くないのか、クマのぬいぐるみをおもちゃにしてご機嫌だった。
「本当に、あなたの名前は何なんだろうね。私はあなたを何と呼べばいいのかな」
そう呟いて、赤ちゃんと一緒にクマのぬいぐるみをつついていると、ふいに外から光が注いだ。雲が割れて、カーテンを閉め忘れた窓から、月が覗いている。
「ああ、今日は満月か」
まんまるい月を見上げて私が言うと、
「あー」
それまでクマで遊んでいた赤ちゃんが、月を見上げて口をもごもごさせていた。私は、その時、以前カナタから聞いた、月の女神の話を思い出した。確か、ハワイの神話に出て来る神様で、とても美しい女神。
その、名前は
「ヒナ……」
口からぽろりと零れたその名前に、赤ちゃんは
「あーう、」
と、手を上げて返事をした。
「ヒナ?」
「うん」
「ハワイの女神の?」
「うん」
私はマナミとカナタを交互に見ながら返事をした。翌日、目が覚めるとヒナ、こと、赤ちゃんは、赤ちゃんではなくなっていた。服も、何故かヒナの身体に合わせたように、ぴったりな服になっていた。女神の名前をもらったせいか、小さなスカートのようなひらひらもついていて可愛い。
隣で寝ていたはずの赤ちゃんは、一晩で、小さな子供、くらいになっていた。もちろん、私達よりはずっと年下だ。幼稚園児よりも、もう少し小さい感じ。それでも、お母さんには見えなかった。ヒナはといえば、自分が見えない事が分かっているかのように、お母さんには何も話しかけようとしなかったし、傍にも行かなかった。ただ、ハルを見て、にこっと笑った。それを見たハルが、ヒナを見て笑ったような気がした。私の気のせいかもしれないけれど。
私は、ヒナを連れて公園に行った。マナミとカナタに電話をして、遊ぶ約束をした、という形にした。お母さんには、そう言って家を出た。
公園に行くと、カナタとマナミが待っていた。最初は、ヒナを見て驚いたけれど、もう何が起きても不思議じゃないよね、ということになった。それはそうかもしれない。ヒナには、不思議な事が多すぎる。
そうして、私は公園のベンチに座って、ヒナを抱いている。その両脇に、マナミとカナタがいるのだ。
ヒナは、カナタの顔をじっと見つめると、私の膝から移動して、カナタの膝に乗った。そして、カナタを見つめたままでにこっと笑うと、手を伸ばしてカナタの頭を撫でた。
「カナ、いいこ、いいこ」
そう言って、きゃっと笑い、カナタを抱きしめた。すると、カナタも恐る恐るヒナを抱きしめた。その目から、涙が零れた。
「カナ、」
「何よ、男のくせにめそめそして」
私の言葉を、マナミが遮った。すると、ヒナがぱっと笑って、今度はマナミの方へ移動した。その膝に乗って、
「あーい、マナ、いいこ、いいこ」
と、言って、マナミの頭を撫でた。すると、マナミの目も涙でいっぱいになった。それを、私やカナタに見られていると気づいたマナミは、
「じょっ、女子はいいのよ!」
「別に何も言ってないよ」
私が言うと、カナタも自分の涙を拭きながら頷いた。
「……でも、なんでだろう」
カナタが小さく言った。
「泣けたけど、何だかすっきりした」
カナタの言葉に、マナミも強く頷く。
「ヒナは、他の人には見えないし、急に大きくなるし、何か不思議な力でもあるのかもね」
私は割と真剣にそう思っていた。何処から来たのかも、そもそも人間なのかもわからない、ヒナ。でも、誰もヒナを怖がったり、嫌がったりしない。そのこと自体がもう、ヒナの不思議な力のようにも思えた。
それから、ヒナはあっという間に大きくなった。まず、三日経ったら、幼稚園くらいになっていた。そして、一週間が過ぎると、私達と変わらないくらいになっていた。その頃は、私達もヒナと一緒になって遊ぶようになっていた。公園で、ブランコをしたり、鉄棒をしたり、おにごっこ、かくれんぼ、サッカー、何でもやった。
ヒナは遊びでも、他のことでも、何でも覚えた。本も読んだ。運動もできた。私たちは毎日、遊び疲れるまで遊んだ。そして、夜は、ヒナと私で、少し窮屈になったベッドで眠った。
そして、半月もすると、ヒナは私達よりも大きくなった。その頃から、ヒナは時々、悲しそうな顔をするようになった。
「ヒナ、どうしたの?」
私達よりも背が高くなっても、赤ちゃんだった頃の癖が抜けなくて、私はずっと同じ口調で話しかけていた。ヒナは、薄い三日月を見上げていた。
「何でもない」
ヒナはそう言って、笑った。様子がおかしいと思う時、私はいつでもヒナにそう聞いた。でも、いつもヒナは同じ言葉を返す。
私は、ヒナが私より大きくなった時、聞きたいことがあった。ヒナが何者なのかという事。ヒナが知っているかどうかは分からない。でも、ヒナは、自分がどんどん大きくなっている事を何とも思っていないようだった。私達と、ヒナが、違うもの、で、あることを、知っているみたいに。その答えが何なのか、聞きたかったけれど、聞けなかった。
何だか、聞いてはいけない事のような気がした。
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