泳げないプール 第20話

 ……え。

 誰かに押されたから、プールに落ちた。

 そんな可能性は、これまでまったく頭にのぼらなかった。自分の不注意で、落ちてしまったんだろうと。勝手に、そう思い込んでいた。絵の具を回収し忘れたりするような、そのおっちょこちょいさゆえに、プールに落っこちてしまったんだろうと。そういう、先入観があった。

 でも、そうじゃない、と。田中ゆずは、それを否定している。

 嘘をついているようには、見えなかった。そもそも、そんな嘘をつくメリットがない。

 田中ゆずは、誰かに背中を押されたと、そうはっきり言っている。じゃあ……誰に?

「誰にっ?」

 気づくと、勢いに任せて尋ねていた。「誰かに」って、本人は言ったのに、わざわざそう訊いてしまっていた。

 田中ゆずは一瞬、わたしの鋭い焦り声にうろたえたようだった。それでも、

「わかりません。一瞬のことで、何がなんだか」

 力なく首が振られる。ただ、言葉は続けられた。

「急に……押されたんです。

 ご存知の通り、わたし朝から一人、プールで水彩画を描いていました。『1』の数字の、白い台の隣に座って。スケッチ用紙を膝に乗せて、そうやって描いてました。でも途中で、暑さに耐えられなくなっちゃって。セミの声も、すごいし。

 七時過ぎから描き始めたんですけど、八時半を過ぎたあたりですかね、もう、引き上げることにしたんです。続きは部室で——美術室で描こう、と」

 途中で口を挟んだりせず、田中ゆずの話に耳を傾ける。わたしも凛も、真剣に。

「それで、部室で写真を見ながら描くために、デジカメで、何枚かプールの風景を撮影して。そのあとで、帰り支度を始めたんです。そのときです——不意に、背中を押されたのは。わけもわからずに、ザバーンと。

 デジカメは首にかけていたので、カメラもろとも、水に落ちちゃって。先輩のおっしゃったように、パレットやバケツも、弾みで一緒に。一瞬、何が起きたのかわかりませんでした。気づいたときには、プールの水は取り返しがつかないほど、いろんな色に染まって……。もう、パニックで……」

 一体、誰がなんのために……。誰が、そんなことを。単なるいたずら……? いや、それにしては悪質すぎる。

「心当たりとか、ある?」

 と凛の質問。気遣わしげな訊き方だった。

「ゆずちゃんに、そういうことを……してきそうな人とか?」

「ありません」

 また、首が横に振られる。

「……わたし、こんな引っ込み思案な性格だからか、小学校の頃はよくいじめれてたんです。クラスのいじめっ子たちの、標的にされて。でも、そのたびにすずが……姉が守ってくれました。いじめの証拠写真を押さえては、わざわざ、いじめっ子たちの自宅のポストに投函したりして」

 なんとなく、田中すずらしいな、って思った。まだ、知ってから一時間も経っていないのに。あの性格なら、簡単にそういうことをやってのけそうだ。

でも、大事な人が悪意をぶつけられたり、傷つけられたりしたことを知ったとき、そういう行動に走るのは、理解できる。

「ですけど……浜野高校では、おかげで友達に恵まれて。美術部の仲間は、みんな優しくて、いい人たちで。自分でも言うのもなんですけど、充実した毎日を、送ってました。幸いにして、たいしたトラブルにも遭わず。だから、思い当たる節がほんとに何もないんです。いきなり、押されて……。なんで。ほんとに、意味がわからないです」

 今度は何か、悪意のようなものを、漠然と感じる。悪意を持って、他人をプールに突き落とした——直感だけど、そういう匂いが、ほのかに漂っている気がする。

 だって、プールだ。プールには、水がある。水があれば……水難事故だって起きる危険性は常にはらんでいる。水難事故が起きれば、最悪、溺れ死ぬこともある。

 もしも、もしもプールに突き落とされた田中ゆずが、透子みたいに脚を怪我していたら? 水中で脚がもつれて、うまく浮かび上がれなくて、沈んでいって……最悪のケースだって、考えられる。

 ……犯人がやったのは、そういうことなのだ。

 だからこそ、悪意を感じにはいられない。あくまでも冷静に、わたしは訊く。

「犯人の姿は? ちょっとでも見えなかった?」

 田中ゆずは今度は、首を横ではなく、縦に振った。ちょこんと、小さく。

「水中に落ちた衝撃で、メガネが外れてしまって……。わたし、裸眼だとほとんど見えないので。それでも、顔を上げたとき、一瞬だけでしたけど——走り去っていく、誰かの後ろ姿が、ぼんやりとだけ見えました。本当に、うっすらと。白いシャツのようなものを着ていて、たぶん、男の人だったと思います。黒髪の」

「白いシャツの、男の人、か。黒髪の……」

 凛が低くつぶやいた。

「普通に考えれば、うちの男子生徒なのかな」

言って小首を傾ぐと、凛は質問に移る。

「下半身は? どんなもの履いてた?」

 また、横に首振り。

「上半身しか見えませんでした。わたしはプールの中なので、見上げる形になっていたから……後頭部と、背中しか」

 そう答えてすぐに、

「あ」

 と、田中ゆず。

「そういえば、肩に青いカバンのようものを、かけていたような気も……」

 自信なさげな言い方だった。確信は持てない、ということか。またもや凛が、

「青いカバン、のようなものか……」

 とさっきと同じローテンションでつぶやく。と、そのとき、わたしの隣で唐突に、『ジンギスカン』が流れ出した。「ジン、ジン、ジンギスカ〜ン♪」と飛び抜けて元気な、軽快な歌が部屋に鳴り響く。凛はおもむろに携帯を出すと、

「あ、お母さんから電話」

 と一言。

 ……着うた、なんでそれ? ……いや、いい曲なんだけどさ。ちょっと、『ジンギスカン』のせいで、それまでの緊張感が和らいでさ、変に、気が抜けちゃうよね。いや、いいんだけどね。いいんだけど、この曲聴くと、不思議と否応なしに笑顔になっちゃうのよ。いまは、笑いたい気分じゃないんだけどなぁ。……見れば、田中ゆずもちょっと苦い笑みになっている。

「ごめん。ちょっと出るね」

 そう言って、凛は部屋の隅に寄る。扉の前で声をひそめながらも、五畳半の部屋だから普通に聞こえてくる。

「もしもし? お母さん? だから、お昼は外で食べてくるからって言ったじゃん。そう。〈そごう〉にドーナツ食べ行くの。ううん。……まだ。学校の近く。……はあ? 一人で行くわけないじゃん。沙希と一緒だよ。うん。大丈夫。暗くなる前には帰ってくるから。……はいはい。わかってるって。じゃあ、もう切るね。バイバイ」

 パタン、と携帯を閉じて、深い溜め息。戻ってくると、開口一番に、

「ごめんね。うちの親、過保護でさ」

 知ってる。その返事を、わたしは頷きで返した。苦笑いつきで。

 それっきり、しばし無言の時間。

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