泳げないプール 第19話

 わたしは、どうすればいいんだろう? どうするのが、正解なんだろう?

 わたしっていま、とても嫌な人間になっていないか?

 あなたが犯人でしょ? やったのはわかってるの。証拠はぜんぶ揃ってる。往生際が悪いんだね。とっとと潔く認めなよ。ほら、早く——そういうふうに、田中ゆずの目には映っていないか? 

 推理って、誰かを傷つける手段じゃないはずなのに。

 わかった、と一言言って、立ち去りたかった。でも、できなかった。目の前の女の子が、苦しそうに見えたから。隠し通すのは、精神的にきつい。一人で、すべて抱え込むことになる。認めてしまった方が、気が楽。わたしはそう思っている。田中ゆずもそう思っている。そんなふうに、わたしには見えた。思い込みかもしれない。

 それでも——姉のすずが、プールの件について記事を書いてしまう。それを知ったとき、本人はもっと苦しむことになるんじゃないか? いくら血の通った姉妹、それも双子の姉妹とはいえ、はりきってその件に取り組んでいる姉に、本当は自分がやった、自分が犯人だなんて、言えるわけがない。どっちにしろ、背負い込むことになるのだ。

 凛を見る。静かな頷きだけが、ひとつ返ってきた。

「大丈夫。沙希の選択は——きっと間違いじゃない」

 凛がそう言ってくれているように、感じた。わたしは、覚悟を決める。切り札を出す。

「田中ゆずさん。絵の具セット、見せてくれない? いっぱい絵の具が入った箱」

「えっ」

 クッションが田中ゆずの手から離れ、床に転がった。いきなりそんなことを言われれば、びっくりするのも無理はない。それまでクッションで隠れていたTシャツの胸には、なかなかチャラい感じのフォントで、『NO MORE CRY』と英語のプリントが。それを着ている女の子は、ちょっと太い眉と眉の間を狭めて、意味がわからないという顔つき。わたしは、そんな田中ゆずの目を、まっすぐ見つめて言う。

「お願い」

 有無を言わさない言い方だったかもしれない。語気が、ちょっと強くなった。でもそれが功を奏したのか、田中ゆずは無言で頷いて、立ち上がる。学習机のところまで歩くと、机の下から絵の具のバッグを引っ張り出す。水色だった。

 これがある場所は、自室の可能性が一番高いと踏んでいた。だから、どうしても部屋に上がりたかった。予想は、当たっていた。田中ゆずは、絵の具のバッグを手に提げて、また元の位置に座る。

「開けてもらっても……いい?」

 そう訊くと、また無言の頷き。バッグのファスナーがゆっくりと開けられ、中から赤いデザインの、長方形の薄い箱が取り出される。「30」という、白い数字が見えた。三十色セットか。どのくらいするんだろう? その隣に、同じ白の字で、「REFLEX WATERCOLOR」の表記。

 どこか躊躇するように、太ももの上で、絵の具入りの箱が開けられる。中は——いろんな色が揃っている。銀色のラベルの、チューブタイプの絵の具が敷き詰められていた。ただ、完全にじゃない。厳密には、二十九色。あと一色足りない。青の区画が、一色分だけ空いている。そしてその一色は、わたしのポケットの中にある。

 わたしはそれを抜き取る。ターコイズブルーの、同じメーカー、同じデザインの水彩絵の具を田中ゆずに提示して、

「これが、プールの底に落ちてた」

 その瞬間、田中ゆずの表情が凍りついた。そんな表情は、させたくなかった。けど、心を鬼にして続ける。

「その絵の具セット、足りないのは、この一色じゃない? あなたが……プールに落ちたとき、一緒に落としたものじゃない?」

 田中ゆずの視線が、わたしの手元から、自分のももの上——一色だけ抜け落ちた絵の具セットに落ちる。そのまま、顔は上がらない。つらい沈黙。やがて、セミの鳴き声はおろか、クーラーの作動音さえもかき消しそうなほど、とてもか細い声で、

「わたしがやりました……。わたしが、プールの水を抜きました。ぜんぶ、言う通りです。……ごめんなさい。ごめんなさい……」

 自白。わたしは、切り札を使って、それをさせた。罪を認めさせた。それも、彼女自身の部屋で。最低だ。最低だ、わたし。こうするしかないってわかっていても、腹の底に、嫌な、ドロドロとした気持ち悪い感情が渦巻いている感覚がする。ほんとに……最低。

 沈黙を打破するように、凛の口が開かれた。

「どうして、そんなこと……。水泳部は、別に怒ったりしないよ? 正直に話してくれれば、きっと許してた。笑い飛ばしてた。あの子たち、はっきり言ってバカだし、いまひとつ、熱心さには欠けるけど……それでも、優しさだけが、取り柄だと思うから」

 はっとしたように、田中ゆずが顔を上げる。

 そう。うちは、底抜けに明るいあのテンションだけが強みだ。自慢できる長所はきっと、あれだけ。いまは……ちょっとギクシャクしちゃってるけど。

 仮にも、そんな些細なミスでうちの部員が責めたりするようなことがあれば、わたしがあの子たちをガツンと叱りつけている。人の、故意ではない失敗を、むやみに責めるべきじゃないと思うから。それも、大勢で。

 田中ゆずの目尻には、涙が浮かんでいる気がした。もう一度、同じ言葉が繰り返される。

「ごめんなさい……」

 そうつぶやいたあと、ぽつぽつと言葉を足していく。

「気が、動転していて……。プールに落ちて、汚しちゃって、とにかく隠さなきゃって。頭が真っ白になって……とにかく、必死でした。プールの、汚れた水を抜くことだけを、考えてました」

 落ち着いた声で、凛が訊いた。

「蓋を開ける用の工具は、実家から?」

「はい」

 小さな頷きだった。

「うちの店に、そういう商品があるって、たまたま知っていたので。勝手に、拝借しました。……『らくらく開けれるちゃん』です」

 そこは、「くん」じゃないのね。奇をてらったのかな。

「ぜんぶ……」

 わたしをちらりと見て、

「先輩のおっしゃった通りです。……こんなこと、するべきじゃなかった。正直に、打ち明けるべきでした。頭が、混乱してました。本当に、ごめんなさい」

「いいの」

 わたしは言った。もう充分、苦しんだよ。だからさ、

「もう謝らないで。わたしたちは、別にあなたを責めにきたわけじゃないから。怒りにきたわけじゃない。ただ、真実が知りたかっただけだから」

 凛もこくこくとしている。

 わたしは、ずっと握りしめていたターコイズブルーを、そっと絵の具セットに戻す。空いていた隙間が、埋められる。絵の具セットは、本来の三十色になる。わたしはにっとして、笑顔を見せた。

「大丈夫。うちのバカたちには、文句なんて絶対言わせないから。元部長の権威を発動して、勝手なマネはさせない。先輩風びゅんびゅん吹かすから。安心して」

 ははは、と凛の乾いた笑い。

「ありがとうございます……」

 田中ゆずはそこで初めて、笑顔を見せた。ほんの小さな、薄い微笑みだった。初めて、これまで重たく沈み込んでいた空気が、ふっと軽くなったような気がした。室内の空気はクーラーで冷たいのに、わたしたちの間に流れているそれは、もう冷たくはなかった。

 しかし、次の言葉だけは、まったく予想だにしていなかった。意表を衝かれるって、こういうことを言うのかもしれない。心臓が、ドクンと強く波打った。田中ゆずは、こう言ったのだ。

「あの……プールの水を抜いたのは、もちろん、わたしです。それは絶対に、全面的にわたしが悪いです。でも、落ちたくて落ちたわけじゃない」

 声は沈んでいるけど、はっきりとした口ぶり。

「誰かに、背中を押されたんです」

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