泳げないプール 第16話

 携帯を見ると、もうとっくに一時を回っている。

 パタンと閉じると、凛と目配せ。わたしたちは、田中家の家のピンポンを鳴らすため、そろりと敷地内に入る。店の横の壁と、駐車中の軽トラックの間を縫うように進む。通学鞄を押さえながら、おじゃましまぁす、とささやいた。これ、不法侵入に当たるんだろうか。もういいや。別に、やましい目的があるわけじゃないんだし。

 背後でアスファルトを原付が走る音がし、わたしたちはびくっとしたが、そのまま通り過ぎていった。ほっとして、足を進める。

 二人とも、なぜか忍び足。やだ、これじゃ本当に泥棒みたいじゃない。そう気づいたときには、インターホンの前に立っていた。『田中』という表札が出ている。

 ここで、ある問題に直面する。ずばり、どっちが鳴らすか問題。

 凛を見ると、さっと首を横に振った。わたしも、さっと首を横に振る。言葉を交わさなくても、意思の疎通は可能。どちらも、考えていることは一緒。ならば、闘いは避けられない。衝突あるのみ。わたしと凛は、片腕を前に出して、

「最初は、グー」

 お互い、ささやき声で言う。

「じゃんけん……」

 ぽん、のかけ声と同時に繰り出されたのは、凛がグーで、わたしがパー。……勝った。

 わたしは高揚のあまり、広げていた手のひらをぐっと握り締め、青空に向かって高々と拳を持ち上げる。勝利の雄叫び。

「っしゃあ!」

 即座に凛が、しー、と人差し指をくちびるに近づける。

「沙希。ここ、ひとんちの敷地内だからね」

 優しい注意のされ方だった。わたしは思わず、口を押さえた。

「あっ、ごめ……」

 凛がふふっと、笑みをこぼす。

「まあ、そういう熱くなるとこ、沙希らしくて可愛いけどね」

 わたしだって女子だけど、面と向かって可愛いなんて言われると、さすがに照れてしまう。

 それに凛の言う通り、わたしは勝負事になると熱くなる。自他ともに認める、負けず嫌いだ。いつだったか——休み時間中、もう理由は忘れたけど、何かの経緯で笹本と教室で腕相撲をした。悔しいことに、三回やって三回とも負けた。笹本は手加減しなかった。かといって手加減なんかされたら、それはそれでムカつくんだけど。わたしはムキになって、強く再戦を申し入れた。だけど笹本はやんわりとそれを断って、代わりに冗談っぽく言ったのが、

「お前、そんなに熱くなりすぎると、いつか溶けちゃうんじゃないか?」

 だった。わたしの名前に氷の文字が入っていることとかけた、うすら寒いジョークだ。もちろんそのとき、仕返しにケツ蹴りを一発、お見舞いしてやった。

 

 慎重な手つきで、凛がインターホンに指を伸ばす。

「じゃあ、押すね……」

「うん……」

 固唾を呑んで、見守る。こういう経験は、いままでなかった。これまで、身の回りで起きた事件を推理して、解決に導いたことは何度かあった。でも、犯人の家に直接出向くなんて経験は、一度もなかった。警察じゃないんだ。いまさらだけど、ただの女子高生がやることじゃない。犯人に直接、「あなたは犯人だよね?」と訊くなんて、そもそも本当はしたくない。

 凛がボタンを押す。

ピンポーン、とチャイムが鳴った。十秒待つ。……出ない。無言で凛と顔を見交わす。凛はちょっと首を傾げたが、もう一度、チャイムを鳴らした。十秒待つ。……やっぱり出ない。誰もいないのかな、と思っていたら、ドアの向こうでガチャリと、鍵がまわる音がした。

 ゆっくりとドアが開けられ、少しだけ開いた隙間から顔を出したのは——。

 わかっていても、一瞬、田中すずかと思った。

 ショートボブで、前髪は下ろしている。やや丸顔で、薄いそばかすがあった。小柄な体つきで、わたしや凛よりも十センチ以上は低い。だから、どうしてもちょっと見下ろす形になってしまう。茶色いヒョウ柄のフレームの丸メガネの奥は、やや吊り目で、そこにはどこか警戒心が込められている。

 髪型やメガネのデザインといった、細かい違いはあるものの、どう見ても姉と瓜二つ。これが、一卵性というやつか。双子だと事前に知っていなければ、田中すずと間違えていただろう。だけどこの子は、

「田中ゆずさんね? わたしたち、浜野高校の三年生なんだけど——いま、時間大丈夫? ちょっと訊きたいことがあって」

 田中ゆずの顔が、こわばった気がした。ドアの隙間から、警戒する目でわたしたちを見上げながら、おずおずと訊く。

「なんですか、訊きたいことって……?」

 わたしは考える。ここで、「プールの件で」とストレートに言えば、次の瞬間にはバタンと扉は閉まっているかもしれない。まずは、中に入れてもらうことが肝心。言葉を選ぶ必要がある。遠回しに、しかし仄めかすように言う。

「部活に関することで、話したいことがあるの。あなたにも関係すること。すぐに終わるから、お話できないかな?」

 なんの部活かは、あえて言わない。美術部のことなのか、水泳部のことなのか、考えさせる。考えさせている間に、わたしは言葉を重ねる。

「ほんとにすぐ終わるから。どうかな?」

 田中ゆずは悩んだ。少なくとも、そう見えた。たっぷりと時間を空けて、ためらいがちに口が開かれる。

「すぐに、終わるんですよね……?」

 凛がさっと頷く。

「うん。すぐ終わる」

 伏し目になりながらも、田中ゆずは答えた。

「……わかりました」

 小声で言って、

「でも、ここで話すのは、ちょっと……」

 背後を気にする仕草。

「近くに公園があるんで、そこで」

 まずい。

 気は乗らないけど——それでも推理の裏づけには、どうしても田中家の家に上がらせてもらう必要がある。それも、田中ゆず自身の部屋に。本人がすんなりと自白してくれれば、それが一番手っ取り早いんだけど——まあ、そう簡単に認めてくれる保証なんてない。部屋に上がれなければ、わたしたちが提示できるのは状況証拠だけ。でも、部屋に上げてもらえれば、状況証拠以上のもの——言うなら切り札を出せる。そうならないことに、越したことはないけど。

 わたしは首を横に振った。ちょっとおどけてみせる。

「外、めっちゃ暑くてさ。今日すっごい猛暑でしょ? これ以上いると、もう干からびそうなんだよね」

 苦い顔に、手で扇ぐ。実際、ものすごく暑いし、額は汗ばんでいる。それを踏まえた上で、あからさまに暑がるアピールをしながら、わたしは言葉を継ぐ。

「中、入れてもらえないかな? お願いっ。この通り」

 手うちわをやめて、顔の前で両手を合わせた。苦しい言い訳だったかな。どう見ても怪しい二人組だ。それでも制服と鞄のデザインで、浜野高校の生徒だということは一目瞭然だと思う。ちょっとでも、懸命さが伝わっていればいいんだけど。

 田中ゆずは、少し口を曲げた。曲げたけど、

「それなら」

 とちょっと不満そうにしながらも、

「……どうぞ」

 ドアが大きく開けられ、わたしたちを、仕方なしといった感じに招いてくれた。……よし。第一関門突破。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る