夏の朝、推理するわたし 最終話
席を立ったわたしと凛は、廊下に立つ。
さっき富永先生が出入りしたであろう、教室前方の引き戸はすでに開いている状態だ。だから、「ガラガラガラ」と敢えて声に出しながら、扉を開ける仕草をして、教室に足を踏み入れる。まあ、これは軽いおふざけ。黙って凛が、後ろをついてくる。たぶん、苦笑いしてるんじゃないかな。
わたしは、事件が起きたその時の瞬間を想像しながら、
「富永先生は教室に入った途端に、おそらく何かを見つけて怒った。それは、授業をする気が失せるようなレベルの、怒りだった」
とつぶやく。
「肝心なのはその何か、だよね」
凛が背後で当たり前のことを言う。
「ううん……」
あごに右手を添えて、もう片方の手で右肘を支える。そのポーズのまま、しばらく周りをきょろきょろと見渡す。
教室の後方で、笹本が男子たちと何やら馬鹿な話で盛り上がっている。聞こえてくる言葉の節々から察するに、たぶん下ネタだろう。そんなもの最初から聞こえてなかったかのように無視して、何か手がかりがないか集中する。
不意に、視界の隅にあるものを捉えた。黒板だ。
向かって左上の隅っこに、白いチョークで刻まれている。ああ、こんな簡単なことだったんだ。むしろ、なんでいままで気づかなかったんだろう。愕然として、ちょっと両手で頭を抱えてしまう。
「どしたの、沙希」
凛がびっくりしたように、訊いてくる。
だけど、わたしはそれには直接答えず、
「こっち」
わたしの足は、自分の指さす黒板の方に、つかつかと進んでいく。
「ん、なになに? 何を見つけたっていうの?」
凛の興味津々そうな声が、後ろから飛んでくる。
「ほら、あれ」
教壇に上がり、黒板の前に立った。わたしの真横に、凛。凛との身長差はほとんどない。わたしが百六十四センチで、凛はそれよりも一、二センチ低いくらいだ。
わたしはもう一度、黒板の左上の部分に書かれた文字を指さす。
「富永先生が怒った理由、たぶんこれじゃないかな」
「あっ……」
そこには白いチョークで、「デブ」という二文字が書かれていた。
「なんて直接的な」
凛が青ざめた顔で言う。続けて発せられる言葉は、憤っている。
「最低、これ。一体誰がなんのつもりで書いたの? こりゃ、富永先生も怒るわ。授業放り出して当然だよ」
わたしは素早く首を横に振る。
「これ、誰かがわざと書いたわけじゃないと思う」
「え、なんでそう思うの? だって、誰がどう見たって悪口じゃん」
「凛、思い出して。昨日の最後の授業さ、物理だったでしょ?」
「うん」
「関口先生、最後にどんな話してた?」
「え。宇宙ゴミの話でしょ?」
「宇宙ゴミを、英語に訳したら?」
怪訝そうにしながらも、凛は答える。
「……スペースデブリ?」
「そう。スペースデブリ」
途端に、凛の目が大きく見開く。ぱっちり二重が、さらにぱっちりになる。
「まさか」
「その、まさかよ」
わたしは得意げに微笑む。
「昨日、関口先生ってさ、授業の最後の方に雑談の一環で、環境問題について熱心に喋ってたでしょ? スペースデブリとかについてさ。それでここの左上に、『デブリ』って三文字をチョークで書いてたんだと思う。で、授業終了後、日直当番がちゃんと黒板を消さなかったせいで、デブリの『デブ』の部分だけが、偶然にも残ってしまった。昨日の最後の授業は物理だったから、当然この『デブ』の文字は、翌日の一時間目になっても残ったまま」
凛がわたしの後を引き取る。
「それでこの二文字を見つけた富永先生は、自分が馬鹿にされていると勘違いして、怒って授業を放棄した……」
「真相は、これじゃないのかな」
「すっごいじゃん、沙希っ。あんた、ほんとに女子高生探偵だよ」
わたしは笑い、ぶんぶんと顔の前で手を振った。
「やめてよ、こんなのポアロだったら一秒で解いてるよ」
そう謙遜し、黒板消しで「デブ」の二文字を消す。
そう。この教室に、意図的にこの二文字を残す人間がいるなんて、そんなこと思いたくないじゃない。
そろそろ次の授業が始まる。次は……英語。うん、読解力って大事。席に戻ったわたしたちは、英語の教科書にノート、単語帳といった参考書を用意する。
凛が振り向いて、困ったような曖昧な笑顔で訊いてくる。
「それで、どうする? 富永先生の誤解、解きにいく?」
「ううん……難しいね」
わたしは小首を傾げる。
「この話をしちゃえば、『先生は太ってますよ』って遠回しに言っちゃうことになるんだもん」
「まあ、普通に考えれば、そうなるよね。じゃあ、やめとく?」
「……やめとこっか」
隣から笹本が、
「何をやめるんだ?」
と呑気に訊いてくる。
わたしは、とっさに悪知恵が働いた。
「ねえ笹本。あんた、富永先生に、昨日の地学で習ったスペースデブリの話が面白かったですって、話してきてくれない?」
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