泳げないプール

泳げないプール 第1話

 自分では意識していないつもりだったけど、自然と顔に出ていたらしい。出し抜けに、

「沙希、嬉しそう」

 と凛に指摘されたのだ。苅谷凛らしく、どこか悪戯っぽくて茶目っけのある言い方だった。

 わたしは照れ隠しせずに、素直に答える。

「そりゃあ、嬉しいよ。だって、ずっと楽しみにしてた夏限定の新作ドーナツ、ついに食べれるもん」

 おそらく満面だろう笑顔を凛に向けると、凛も頬を緩めてふふっと笑った。

 四時間目の数学Ⅱが終わり、晴れて自由の身となったわたしたちは、お昼時の廊下を連れ立って歩いていた。気分が上々なのは、ドーナツのことだけじゃないと思う。富永先生が出した微積の小テスト、満点だったのだ。

 

 わたしたち二人の他にも、夏期講習を終えた何人もの同級生たちがぞろぞろと同じ方向に進んでいて、浜野高校はまのこうこう北棟二階の廊下はそれなりに混み合っている。

 授業から解放された直後の廊下は、笑いの交じった生徒たちの話し声でざわざわと騒がしい。リノリウムの床を歩く、きゅっきゅっという足音が重なって鳴っている。わたしや凛の理系志望クラスの人数は十五人程度だが、他に文系志望クラスと国立志望クラス、AO入試対策クラスなんかもあり、授業の時間がまったく一緒のため、下校時刻になると結構な人数になるのだ。

 夏休みが始まって、今日で六日が経つ。それは、夏休み初日から開始された高校の夏期講習が、同じく今日で六日が経つことを意味する。

 夏期講習の特別授業は八時半から十二時半までだけど、それでも四時間は長い。長い苦行を終えたばかりのわたしたちは、これから至福を堪能しにいくのだ。ドーナツという名の至福を。

 目的は、〈クランキー・クリーム・ドーナツ〉、夏限定の新作。「COLD SUMMER VACATION」と題された今回の企画では、サイダー、メロンソーダ、クリームソーダをそれぞれモチーフにしたドーナツが期間限定で販売される。もちろん今日、三つともぜんぶ食べるつもりだ。

 一週間前から、この日を待ち遠しにしていた。この日のために夏期講習を頑張ってきたと言っても過言じゃない。これこそが、知らぬ間にわたしの口角が上がる理由だった。

 凛と横並びに階段を下りながら、ぼやくように言う。

「〈クランキー・クリーム〉、やっぱり混んでるかなあ」

 凛の落ち着き払った声が返ってくる。

「混んでると思うよ? 期間限定のドーナツ、今日からなんだし。しかも、千葉市内には一店舗しかないし」

「だよねぇ。行列、覚悟しとかないと。なんで千葉は〈そごう〉店だけなんだろ? 船橋には三店舗もあるのに」

 踊り場の、こちらに笑いかけてくる綺麗な女優のポスターを横目に、そう不満を漏らすと、凛が苦笑を浮かべた。

 一階まで下りる。昇降口に向かおうとするところで、急に凛が立ち止まった。

 わたしも足を止め、

「どうしたの?」

 と訊くと、

「ねえ、あれ藤田くんじゃない?」

 凛が指さした先、昇降口向かいの掲示板の前に立っているのは、確かに同じクラスの藤田聖也だった。元テニス部で成績優秀。おまけに優男っぽい感じでそこそこ顔が良いからか、一部の女子にモテる。なんとなくだけど、他の男子と比べて落ち着いていて、少し大人びた印象がある。ちょっとやそっとのことじゃ、騒いだり動じたりしないような。もっとも、わたしは全然タイプじゃないけど。

 夏休みだからだろうか。着ているのは制服だけど、彼の肩にかかっているのは通学鞄ではなく、ブルーのトートバッグだった。

 藤田を見つめたまま、凛が首を捻る。

「テニス部引退してるし、夏期講習にも参加してないし。……あ、藤田くん、確か推薦だったよね? じゃあ、なおさらなんで学校来てるんだろ?」

「さあ」

 と、生返事する。何かの掲示物を、熱心そうに見入っている藤田の横顔を眺めながら、わたしは短いあくびをした。

その間にも、受験を控えた同級生たちが、わたしたちの横を次々と通り抜けていく。階段の前に立ちすんくんでいるせいで、邪魔になっている。

「凛、行くよ」と、声をかけようとした。でも、それよりも先に、凛がこちらを振り向いた。二つ結びの、短い三つ編みが、小さく揺れる。ぱっちり二重の目には、好奇の色が浮かんでいた。……嫌な予感。次に発せられた言葉は、予想通りのものだった。

「ねえ、訊いてみよっか」

「ええ」

 気乗りせず、つい眉をひそめた。

「だって気にならない? どんな用があって、学校に来てるのか」

 気にならない——そうわたしが返答するよりも早く、凛は藤田のところまで小走りで駆け出してしまう。もう、しょうがないなぁ、とわたしも凛の後をついていく。

 どんな些細な疑問でも、一度気にしたら真相を確かめずにはいられない……凛はそういう性分なのだ。わたしだって謎解きは好きだけど、藤田が学校に来ている理由に関しては、正直どうでもいい。

 凛が明るく声をかける。

「藤田くん」

 いきなり名前を呼ばれて驚いたのか、藤田は一瞬肩を跳ねさせると、弾かれたように振り返った。

「苅谷さんに、氷室さんか」

 目の前に立っているのがわたしたちで、意外だったのだろう、その表情は困惑気味だ。

 わたしも凛も、藤田とは友達というほどの仲ではない。それでも凛は、好奇心を満たすためなら大して親しくない人にも気さくに話しかけることができる。わたしだって、ついこの間までは水泳部の部長だったわけだし、どちらかというと社交的な方ではあるとは思うけど、凛には及ばない気がする。

「ねえ、何見てたの?」

 と、凛。

「え? ああ、これだよ」

 藤田が、肩越しに掲示板を見る。

「美術部のポスターをね、見てたんだ」

 凛が訊く。

「ポスター?」

「来月、市民センターでうちの美術部が作品展をやるらしくてさ。それの告知だよ」

 水難事故防止のポスターと新聞部の七月号の記事との間に、パステルカラーのデザインが印象的なポスターが貼られていて、その上部には『〜浜野高校美術部 夏の展覧会2006 開催のお知らせ〜』とある。キャッチコピーは、『夏かしい風景を、見に来ませんか』。縦文字で書かれている。

 思わずにやっとする。韻を踏んでいるらしい。八月の六日から十日までの期間、浜野市民センターで開催とのこと。左の隅っこには、会場までの行き方を示す簡易な地図が載っていた。

「ふうん」

 ポスターから目線をひょいと藤田に移し、両手を背中に回して、上目遣いに凛が言う。

「藤田くん、絵に興味あるんだ?」

 凛はちょっと身をかがめて、藤田の顔を覗き込むようにしている。こういう女の子らしい仕草が、わたしにはできないんだよなぁ。凛は、そういうのを自然にやってのける。

 でも、藤田はまったくたじろぐことなく、肩をすくめて答えてみせた。

「まあね。それなりに面白そうだなって思ってさ。行こうかどうか迷ってるところかな」

 スカした言い方が、なんか腹立つな。ちょっとだけだけど。

 それから藤田は、切れ長の目でわたしたちを見据える。左目の下には、泣きぼくろがあった。普段、話すような仲じゃないから、初めて気づく。

「じゃあ、僕はこれで。二人とも、夏期講習お疲れ」

「あ、藤田くん。待って!」

 昇降口に向かおうとする藤田を、慌てて凛が呼び止めた。

「何?」

 怪訝そうに流し目をくれる藤田に、首を傾けて凛が訊く。

「藤田くん、今日さ、なんで学校来てたの?」

「……どうして?」

「ちょっと、気になっちゃって」

 少しの間を空けて、男子にしては長い髪をかきながら、藤田は言った。

「別に、大した理由じゃないよ」

 それだけ言うと、藤田は下校する何人もの同級生たちと同様に靴を履き替え、外に出ていった。

 凛と顔を見合わせる。

「理由、わからなかったね」

 すると凛は控えめに笑い、

「だね」

 と頷いた。

 何気なく、美術部のポスターをもう一度見る。

ポスターには、部長による宣伝文が記載されていた。


『浜野高校美術部部長 田中ゆず(2年)

 スイカ、花火、流しそうめん、プール、夏祭り……と夏をテーマにした絵画作品を展示する予定です。3年生が引退し、2年生と1年生のみの初めての作品展となります。大勢の皆様のご来場をお待ちしております。ぜひ、お越しください!』


「じゃあ、あたしたちも行こっか」

 凛の呼びかけに、わたしは顔を上げる。

「あ、うん」

「沙希も興味あるんだ、展覧会?」

「どうだろ。美術部に知り合いがいたら、行ってたかもしれないけど」

「まあ、そういうもんだよねぇ」

「それよりも……もうお腹ぺこぺこだよ。ドーナツ食べに行こ!」

「おー!」

 笑顔で、凛が拳を天井に突き上げる。

 ちょうどそのとき、わたしたちのそばを褐色の肌で、長身のスポーツ刈りの男が通りかかった。よく見知った顔。笹本涼二だ。わたしたちと同じ大学受験を控えた夏期講習生で、同じクラス。しかも、引退したばかりの元水泳部という点も共通している。

 笹本がにやにや笑いながら、声をかけてきた。

「お前ら、相変わらず子供みたいだな」

 わたしは笹本に睨みを利かせ、すかさず言い返す。

「うっさいわよ!」

 笹本が、ぎょっとした顔をした。

 クスクスっと、凛が笑った。

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