夏の朝、推理するわたし 第2話

 高校は、浜野町にある。

 千葉市中央区といっても、浜野町の位置は区内でほぼ南端。地元である市原市の北端とは、村田町を挟んだすぐ先だ。三十分以上の遅れで、JR浜野駅から五百メートルほど離れた、県立浜野高校に到着する。

 昇降口で急いで靴を履き替え、ばたばたと階段を駆け上がった。三年二組の教室の前に立つ。

 上がった息を整えると、静かに後方の引き戸を開ける。席に座っている何人かの同級生がこちらを振り返った。みんな、なんだ氷室か、と言った感じに、すぐに机に向き直る。夏期講習に参加しているのは、クラスの三分の一強だから、教室にいる生徒の数はざっと十五人といったところだ。みんな、思い思いの好きな席に座っている。理系のクラスで、男子の方がちょっと多い。

 ただ意外なことに、いや幸運なことに、先生の姿はなかった。先生はいなくても、教室は静かだ——全開にした窓の外でセミがミンミンとやかましく鳴いているから、ぜんぜん静寂っていうわけじゃないけど。

 そう。浜野高校の普通教室に、クーラーなんて大層なものは完備されていないのだ。だから教室は、風でも吹いてこなけりゃ普通に暑い。それでもみんな、真面目に机に向かっている。まあ受験生だからある意味、当たり前かもしれない。

 中腰になって、できるだけ反省しているふうを装いながら、後ろから三番目の、真ん中辺りの席にそっと着席した。前の席には、苅谷凛がいる。

 座るやいなや、凛が振り向いて、悪戯っぽい表情で声をかけてくる。

沙希さき、おっそぉい」

「わかってる。反省してる」

 答えたあと、舌をちょっぴり出した。

 凛は腕を組んで、

「で? 遅刻の理由は?」

 と上目遣いに訊いてくる。

「あらやだ。尋問みたい」

「尋問よ、これは。さあ氷室沙希さん、答えてください」

「自白します。二時間サスペンスです。録画してて溜まったやつを、消費しまくってました。夜遅くまで」

「それで寝坊、か。相変わらず好きだねえ」

 凛が呆れたように笑う。このやりとりが周囲の同級生に聞かれていると思うと、なんだか恥ずかしくなって、わたしは強引に話を逸らす。

「先生は?」

 と小声で訊いた。

 凛は小さく首を左右に振る。

「いない。出てった」

「え、出てった? なんで?」

「わかんない。教室に入った瞬間にだよ? 急に、『一時間目は自習です』って言って、すぐに出ていったの」

「ええ、何それ」

「ね、困惑するよね」

「一時間目って数Aだったよね? 富永先生?」

「富永先生。てか、数学の担当ってぜんぶ富永先生じゃん」

「ああ、そっか」

 富永先生は女性の数学の先生で、年齢は二十代後半と若く、丁寧な言い方をすれば、ぽっちゃりしている。はっきり言ってしまえば——肥満体型だ。普段は、優しくて人当たりのいい先生なんだけどな。わたしはどうしても気になって、

「富永先生の様子、どんな感じだったの?」

「ううん、なんかね。顔は無表情なんだけど、声が怒った感じだった。うん、確実に怒りを滲ませてた」

 つまり教室に入った瞬間、先生はなぜだか急に怒って、授業を放棄したらしい。そして、自習の時間になった。

「どうしてだろ?」

 わたしがぼそりとつぶやくと、隣の席の引退したばかりの元水泳部——笹本涼二(ささもとりょうじ)がにかっと白い歯を見せて、

「氷室、お前が遅刻したことがわかったから、怒って授業のやる気失せたんじゃね?」

 なんて、的外れなことを言ってくる。

「はあ? 先生、わたしのこと何か言ってたわけじゃないんでしょ?」

「……言ってないけど」

「じゃあ、違うじゃん。わたしのせいじゃないじゃん」

 食い気味にそう責め立てると、笹本はひきつった顔で、

「お、おう」

 と答えた。

 ぷっ。この反応は少し愉快だ。笹本を黙らせるには、怒ってみせるのが一番効果的だと知っている。なぜなら、わたしも同じ水泳部だったから。

 見ると、凛も手で口を覆い隠して、笑いを堪えている。凛も同じく水泳部だった。だから、わたしたちは笹本の扱い方を十分、心得ているのだ。

 通学鞄に手を伸ばす。筆記用具に数学Aの教科書やノートなんかを出しながら、ちょっと冷めた感じで言った。

「まっ、自習ってありがたいけどね。朝っぱらから確率とかって、複雑でちょっと頭こんがらがりそうだわ」

「同感」

 凛は首を縦に振ってから、ちょっと苦い顔をした。

「昨日の最後の授業とかもさ、あれ最悪だったよね」

「ああ」

 と、わたしも思い出して、げんなりして下唇を突き出してしまう。わたしは言った。

「四時間目の物理ね。確かに最悪だった」

 凛が迷惑そうな顔で、不満をぶちまける。

「関口先生、雑談のつもりか知らないけどさ、宇宙ゴミの問題をすっごい説教くさく言ってたよね——なぜか高校生のうちらに。しかも、わざわざ黒板になんか色々書いちゃってさ。極めつけは、『どうせお前たちも普段からポイ捨てとかやってるんだろ。もっと環境を大切しろっ』だって。直後、キンコンカンコーンで授業終わり。後味、さいっあく」

「ね、意味わかんないよね。やってないし、そもそも宇宙とカンケーないじゃんってね」

「昨日は意味わかんない説教で終わって、今日はいきなり先生が怒って授業放棄って……このクラスどうなってんの?」

「うちら、先生からの評判悪いのかな」

 言いながら、わたしは苦々しく笑った。わたしたちは、理系の学部を受験することを想定したクラスなのだ。ちょっと眉間に皺を寄せながら、頬杖をつく。

「でも、関口先生は通常運転だけど、冨永先生が怒ったのはよくわかんないよねぇ。普段、温厚だし、怒ったのなんて初めてじゃない?」

 わたしの言葉に、凛も同意見だったようだ。

「ねぇ。優しい先生のはずなのに。あたしもさ、それがすごい気がかり」

 そうしてわたしと凛は、授業終了を知らせるチャイムが鳴るまでの十五分間、自習なんてやらずに、「どうして温厚なはずの冨永先生はいきなり怒って、授業を放棄して帰っていったのか」という疑問を二人で想像を巡らせていた。

 周りの迷惑にならないように、できるだけ小声で。でも、それらしい理由は一向に見つからない。


 夏期講習にも、授業と授業の間の十分間の休憩時間(準備時間?)がある。

 一時間目の自習が終わると、教室は打って変わって賑わいを見せ始める。教室から出て行ったり、友達と団欒したり、真面目に勉強に取り組んでいたりと、三者三様だ。

 わたしと凛のふたりは、やっぱり一時間目が終わっても相変わらず「冨永先生の行動の謎」について、続けて意見を出し合う。

 どうしても気になるのだ、冨永先生に何があったのかを。いや、正しくは先生は何が気に障ったのか、だろうか。

「やっぱりさ、お腹痛くなったんじゃないの?」

 凛のその推理を、わたしは首を横に振って否定する。

「だったらあとから戻ってくるはずじゃない? いきなり、『自習です』なんて宣言しないと思うけど」

「だから、もう授業どころじゃないくらいお腹痛かったのよ。あとのことなんか考えられないくらい」

「そしたら、苦しそうにするはずだけどなぁ。冨永先生、苦しがってたんじゃなくて、怒ってたんでしょ?」

 凛は小さい唇を尖らせて、

「じゃあ、沙希はなんだと思うの?」

 と不服そうに訊いてくる。

「ううん、やっぱ難しいな。わたし、その場にいなかったし」

「でも沙希、ミステリー大好きじゃん?」

「まあねえ。『オリエント急行』と『Yの悲劇』はバイブルだよねぇ」

 凛がわたしの机に両腕を乗せ、前のめりになって顔を近づけてくる。ぱっちり二重の目で、覗き込まれる。

「でしょ? 生粋の、ミステリー好きの沙希なら絶対解けるよ。それが理由で遅刻したぐらいだもん」

 片目をつぶって、お茶目っぽくそう言われる。

「それに沙希って、推理、超得意じゃん」

「そ、そうかな?」

「そうだよっ」

凛の口調が、熱を帯びてくる。圧を、圧を感じる……。

「思い出して、沙希。二年の時の『プールサイド花火事件』も『水着紛失事件』も、解決したのは他でもなくあんただよ?」

 そんなこともあったなぁ。凛の力説にわたしはロングの髪をかきながら、宙に視線を逸らす。

「ま、まあ、あれはね。なんか、解いちゃったよね」

 事実なんだから、照れ臭さを感じつつも認めてしまう。すると我が意を得たとばかりに、凛はにやっとした。

「じゃあ、女子高生探偵、氷室沙希さん。今回も見事な推理をお願いします」

 凛の意地の悪い言い方がおかしくて、つい笑みをこぼしてしまう。それから仕方ない、といったふうに溜め息をつき、

「犯人、じゃなかった……富永先生の立場になって、推理してみよっか」

 びしっと、凛が指差してくる。

「それ探偵っぽい! そうこなくっちゃっ」

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