泳げないプール 第14話

 開けた瞬間、ツンとするような独特な匂いがした。

 油絵の具の匂いだろうか。窓は開け放たれ、壁際の棚には石膏像がずらりと並んでいる。これ、昼間はいいけど夜になると生物室のガイコツとか人体模型みたいに、ちょっと不気味かもしれない。普通教室のものと比べるとかなり小さな黒板には、『締め切りまであと十日!』の文字。

 中にいたのは、五人。四人が女子で、一人が男子。みんなばらばらの位置で、キャンバスに向かって黙々と作業に取り組んでいる。よほど集中しているのか、扉が開けられても、誰も気にする様子がない。誰一人として、会話を交わしていない。部屋は沈黙に包まれている。夏の展覧会に向けて、本腰を入れているのだろう。

 わたしと凛は、中には入らずに廊下と部屋の境目に立っている。

一番手近に、木製の椅子に座って、イーゼルにキャンバスを立てかけて絵を描いている男子がいる。後ろ姿しか見えないから、表情はわからないけど、何やら真剣な雰囲気だ。背中越しに、描きかけのひまわり畑が見える。これは、油絵かな。その絵の制作者に、わたしは話しかける。

「ねえ、きみ」

 返事がない。聞こえてないのかな。少し声量を上げる。

「ねえ、きみ。ちょっといい?」

 すると男子はびくっとしたように、肩を振るわせた。上体を捻って、こっちを向く。たったいま初めてわたしたちの存在を認識したとでもいうような、驚いた顔をしている。口が半開きだ。筆を持ったまま、

「え、なんですか?」

 ためらうような訊き方だった。どことなく、不信感を抱いたような。構わず、あらかじめ用意していた質問をわたしはぶつける。

「訊きたいことがあるんだけどさ。美術部に、プールの絵を描いてる人っている?」

「え」

 怪訝な顔をされる。それから目を逸らして、考え込むようにする。短い髪をかきながら、

「ええと、プールの絵……。どうだったかなぁ……」

 いるのかいないのか、はっきりしなさいよ。煮え切らない態度に、つい眉間にしわを刻みそうになっていると、

「どうかしました?」

 活発そうなツインテールの女子が、わたしたちのそばまでやってきた。水色のカチューシャをつけている。

「美術部に何かご用でしょうか?」

 人の良さそうな笑顔に、はきはきとした丁寧な喋り方。責任感が強そう。この子が部長だろうか。

 浜野高校では、上履きとしてスポーツシューズを履く。ブランドは学校指定で統一されていて、シューズのロゴの色で学年がわかる。黄色が一年で、青が二年、赤が三年だ。ツインテールの子はわたしたちの赤を見て、上級生だと知り、敬語で話しているのだろう。ちなみに、ツインテールの女子は青だった。なんとなく、この子なら期待できるかも。と思っていると、さっきと同じ質問を凛がした。

「あたしたち、美術部でプールの絵を描いてる人がいないか探してるんだけど、そういう人って、いたりするかな?」

 返答は早かった。なぜか困ったように笑ったけど、歯切れは良かった。

「ああ、ゆずのことですね。題材の一個に、うちの学校のプールを選んでますね。水彩画で描くって、息巻いてました」

 プールの絵を描いている部員、やっぱりいた。それも水彩画。さっき拾ったのは、水彩絵の具。合致する。一瞬、凛と顔を見合わす。

「でも、それが何か」と訊かれそうな気配。先手を打って、わたしは訊く。

「そのゆずって部員は? いま、ここに?」

 ツインテールの二年生は微妙な笑みのまま、首を横に振る。

「うちの部長です。いまはいません」

 部長だったのか。水を抜いた犯人は、美術部部長……。そして、部室には不在と。たぶん、帰宅したのだろう。

「ただですね」

 と、言いかける。わたしと凛は、次の言葉を待つ。困り顔ではあるものの、愛想良く話してくれた。

「ゆず、今日ちょっとおかしかったんですよ。早朝から、この学校のプールをモデルに、水彩画に取り組んでたんですけど——朝の時間なら、水泳部はまだ活動していないので。だからその時間帯を使って、一人プールで描いてたみたいなんですけど。一時間もしないうちに、ここに戻ってきて。あ、ここっていうのはこの美術室のことですね。

 で、戻ってきた時にびっくりしたのが、なんとゆず、びしょ濡れだったんですよ。『どうしたの!?』って訊いても、悲しいことにがっつり無視されて」

 びしょ濡れ……ってことは、そうか。本人も落ちたんだ。あ、それで画材道具も一緒に……。きっと、本人がプールに落ちたから、身の回りの道具も弾みで一緒に落ちてしまったのだろう。

「普段は、仲いいんですけどね。そのまま、ひったくるようにして自分の鞄取って、何も言わずに帰っちゃいました。本当はあんな子じゃないんですけどね。どうしちゃったんだろう?」

 ビンゴだ。もう間違いない。

 確信を得ると、ついついわたしは、ツインテールの子を戸惑わせるほどの勢いで、他の部員たちを振り返らせるほどの大声で、尋ねていた。

「その子の家の住所、わかる!?」

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