泳げないプール 第13話

「美術部ってさ、どこにあるんだっけ?」

 わたしの言葉に、凛がきょとんとした顔になる。丸い目をぱちくりさせている。

「え、あたし知らないよ。沙希も?」

「あれ、凛も? わたし、美術室って一度も行ったことなくて」

 例の展覧会のポスターには、美術室が校舎のどこにあるかなんてわざわざ書かれていない。

「あたしも。音楽と美術の選択授業、一年の時からずっと音楽選んでたから」

「わたしも、わたしも」

 と、自分の顔を指さす。

「ほんとに? 一緒じゃん」

 絵心のないわたしにとって、消去法的に選択肢は音楽一択になる。普段からJ-POPはよく聴くし、子供の頃はモーニング娘。に憧れていた。

 お互いの新たな共通点を見出したことで、なぜかわたしと凛はハイタッチ。

 凛とは二年から同じクラスになったから、これは初めて知る新事実——部活が一緒だから、知り合ったのは入学当初からだけど。入部してすぐに意気投合して、仲良くなった。

 浜野高校のカリキュラムでは、音楽と美術のどちらかを選択できる。毎年、一学期の初めに選び直すことができるんだけど——まあ、そんなに大した共通点ではない。でも考えてみれば、凛が一年から三年まで音楽の授業を選び続けたのも当たり前か。中学に上がるまでは、スイミングスクールに通うかたわら、バイリオンも習ってたって聞くし。おまけに、そろばん教室にも通ってたって。わお、英才教育。手先が不器用なわたしは、楽器はてんでダメだ。気を取り直して、わたしは言う。

「ひとまずさ、南棟に向かおっか」

 わたしの提案に、

「そだね」

 と凛も賛成してくれた。

 いま、わたしたちがいる北棟には、一年から三年の普通教室や、職員室、保健室なんかが入っている。たまに利用する図書室も、この棟にある。そして、音楽室や理科室といった文化系部活の部室に使われる特別教室は、たいてい南棟にある。美術室も、例外ではないだろう。

 浜野高校の校舎は、上から見下ろすと正方形に近い形をしていて、漢字の口や、カタカタのロの字に見える。ちょうど、上の横棒が北棟で、下の横棒が南棟だ。左右の縦棒が、東西の渡り廊下。四つの辺の内側に、広い中庭がある。生徒の憩いの場だ。

 わたしと凛は、ふたつの縦棒のうちの一本、北棟と南棟を繋げる渡り廊下を目指して、歩いていた。西側の縦棒の方。

 職員室を通りがかる。引き戸の前を通り過ぎたとき、ちょうど後ろでガラガラと横開きのドアが開いた。

 なんの気なしに振り返ると、職員室から出てきたのは富永先生だった。ぽっちゃり体型の、可愛らしい女性の数学の先生だ。年齢は、二十七だったかな? わたしの九つ上。お世話になっている先生で、

「あ。先生」

 わたしと凛は足を止める。

 富永先生は後ろ手に引き戸を閉めると、わたしたちを見て、

「あれ」

 ちょっと当惑気味な様子。

「氷室さんと苅谷さん。まだ学校いたんだ? ドーナツ食べに行ってるかと思ってた」

「ああ」

 わたしは決まり悪く笑う。詳細は濁しながらも、本当のことを言う。

「ちょっと、色々あって。残念ながら、一旦、ドーナツはおあすげになっちゃってるんです」

 今日、四時間目の数Ⅱが始まる直前まで、この三人でドーナツの話題で盛り上がっていた。わたしもそうだけど、先生も大好物らしく、〈クランキー・クリーム・ドーナツ〉の新作は前から楽しみにしていたらしい。販売初日の今日、学校帰りに食べに行くんです、って話したら、感想聞かせてね、と顔を綻ばせていた。

「あらら。あんなに楽しみにしてたのに」

 残念そうに言う。おあずけになった理由は深掘りしてこないようで、安心する。が、先生は心配そうな顔をして、

「なんだか二人とも疲れた顔してるようだけど。夏バテとか大丈夫?」

 すぐに凛が、人懐っこい笑みでかぶりを振った。

「ぜんぜん大丈夫です。わたしも沙希も、暑さにはバリバリ強いんで」

 いやいや、わたしは普通だから。あんたが極端に強すぎるのよ。なぜか凛は、両腕に力こぶを作るマッチョポーズをする。タフであることをアピールしてるのかな。

「そう。よかった。そういえば、二人は最近まで水泳部だったね。そりゃ、暑さには強くなるか」

 先生は和んだ顔に、手を当てる。

「それにしては、二人ともぜんぜん焼けてないねぇ。雪みたいに真っ白。羨ましい」

 わたしも凛も、何も言わずに曖昧に笑う。ここで「ありがとうございます」って素直に返せば、若干の嫌味になりそうな気がしないでもない。別に、先生だって焼けてるわけじゃないんだけど。

「先生は」

 とわたしは話題を変える。

「これからお昼ですか?」

「そうなの」

 途端に富永先生は、心の底から嬉しそうな笑顔になった。

「学食の日替わりメニュー、今日はカキフライ定食なのよ。朝からずっと楽しみにしてたのよねぇ」

 やっぱり、富永先生はこうじゃないとね。

 四日前、先生はあることで誤解して、怒って授業を放棄した。でもいま、誤解は完全に解けている。いつもの優しい、気さくな先生だ。

 誤解自体は、その日のうちに解けた。あの日、四時間目が終わってさあ帰ろうかってなったとき、先生は教室に入るなり、わざわざクラスのみんなの前で頭を下げた。

「わたしの勘違いで、勝手に授業を放棄してごめんなさい」

 と。もちろん、わたしたちは誰も怒っていない。そもそも、授業が自習になって怒る生徒は、そうそういないはず。

 先生に笑顔が戻ってよかった。誤解されたままだと、こっちまで心が痛い。あのとき、わけのわかっていない笹本を、ある話をさせに富永先生のところまで無理やりにでも行かせた甲斐があった。

 学食の日替わりメニュー、カキフライ定食。そのフレーズだけでお腹が空いてくる。食堂は、校舎からは少し離れた別の建物にある。わたしも凛もたいていはお弁当だから、食堂には行く機会があまりないけど。

「それじゃあ二人とも。また明日の授業で」

 先生が、立ち話を切り上げる気配があった。

「明日は階差数列、みっちりやるわよ」

 げ。わたしの苦手分野。しかし、落胆している場合ではない。

「先生」

 立ち去ろうとする富永先生を、わたしは呼び止める。振り向く先生に、わたしは訊く。

「美術室って、どこにあるかわかりますか」

 先生は、その質問の意図を訊かずに、フランクに答えてくれた。

「南棟三階。の、どこかにあったはずだよ」

 それだけわかれば充分だ。礼を言って、わたしと凛は、先生とは反対の方向へ歩き出す。

 

 廊下の端まで来る。西側渡り廊下の出入り口横、階段の真向かいには、二台の自販機がずっしり構えている。自販機を指さして、

「のどカラッカラで」

 とわざとしゃがれた声を出すと、

「あたしも買お」

 と凛の返事。

 財布から小銭を出して、百五十円を投入する。迷わず目当ての物を選ぶ。「つめた〜い」のボタンを押して、取り出し口にガコンと吐き出されたのは、ファンタオレンジ。

 キャップを開けると、ぷしゅっと炭酸の抜ける音。口をつけると、冷たい爽快感が一気に突き抜ける。ぷはぁ。生き返る。

 凛も、隣の自販機で買った午後の紅茶を飲んでいる。ペット入りのやつだ。水分補給が完了すると、わたしたちは渡り廊下を通って南棟へ。

 三階まで階段を上り切る。北棟は四階まであるけど、南棟はこの階が最上階だ。注意しながら、廊下を進んでいく。化学室……化学準備室……調理実習室……トイレ……を過ぎると、「美術室」のプレートを見つけた。ここだ。

 この部屋の中に、水を抜いた犯人がいる。……かもしれない。

 凛を見ると、無言の頷きが返ってきた。わたしも頷く。覚悟を決めて、美術室の引き戸に手をかける。

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