泳げないプール 第10話
「どうしたの?」
上から、凛の不思議そうな声。
「ちょっと待ってて」
見上げて言うと、わたしはためらわず、よっこらせっ、とプールの底に降り立った。すると、二人がほとんど同じタイミングでわたしの名前を呼ぶ。それぞれの呼び方で、
「沙希!?」
「氷室先輩!?」
そんなわたし氷室沙希は、二人の呼びかけには応じず、その場で膝を折り曲げる。凛と梢に背中を見せる形だ。
手に取ったのは、チューブタイプの絵の具。人差し指と親指でつまんで、じっと見る。油絵の具なのか、水彩絵の具なのか、アクリル絵の具なのか、見た限り初心者にはちょっと判別がつかない……と思ったら、チューブの上らへんに小さく白い字で、「REFLEX WATERCOLOR」と英語で表記されていた。リフレックス……反射? とにかく、メーカーの名前だろう。ウォーターカラーは、ずばり水彩絵の具のこと。
その下に、「TURQUOISE BULE」とある。ターコイズブルー。知っている色の名前だ。さらに、まさにそのターコイズブルーそのものの、やや緑がかった鮮やかな青が、銀色のラベルに入っている。
スタート台の上にこびりついている青とは、ちょっと違う色だ。あっちはもっと濃い、群青色に近い青だった。もしくは、群青色そのものかもしれないけど。絵心が微塵もなければ、色彩感覚にも特別優れていないわたしには、細かい見分けは難しいと思うけど。
ともかく、これは重要な証拠品になる。携帯が収まっているのとは反対側の、スカートのポケットにそっと入れた。
真横に設えられた、ステンレス製のタラップを昇ってプールから上がると、何事だろうと思ったのか、日向を始めとした水泳部員たちがわらわらと近くに集まっていた。部員たちの注目は、わたしに集中している。なんか、照れるんだけど。
「沙希」
疑わしげに見てくる凛。首を捻って、
「ちょっとどうしちゃったの? さっきから変だよ?」
「ごめん。詳しい説明はあと」
さらっと言って、凛のそばまで歩み寄る。口元を手で隠して、耳打ちする。
「犯人、ある程度まで絞り込めたかも」
「嘘!?」
凛の、鳩が豆鉄砲を食ったような顔。ただでさえ丸い目が、もっと丸くなる。もう一度、凛の耳元に口を寄せる。わたしは声をひそめて、シリアスなトーンで言った。
「もしかしたら、犯人はまだ学校にいるかもしれない。絶対に、そうだとは限らないけどね。ただ、日向や梢たちまで一緒に来たら、犯人を下手に刺激しかねないし、最悪、逃げちゃう恐れもある。だから、わたしたちだけで行くよ」
色々と訊きたいこともあるだろうに、
「わかった」
と凛はひとつ頷くだけだった。かたじけない。
「ちょっと、ちょっとぉ」
しかめっ面の日向が、口を差し挟む。
「二人だけで何こそこそやってるんですか。何かわかったんですよね?」
「ですよね?」の時には、すでに険しいしかめ面は崩れて、眩しい笑顔に変わっていた。ほんとこの子、表情豊かだわ。破顔した日向が、立て続けに訊いてくる。
「何がわかったんですか? 何が、『嘘!?』なんですか? わたしたちにも教えてくださいよっ」
他の水泳部員たちも、ばらばらと頷いている。期待に満ちた眼差しを、部員たちに向けられる。でも、彼女たちには悪いけど……
「ごめん。重要なことが判明したのは確か。でも、いまはまだ教えられない」
すっと、日向の笑顔が真顔になる。うん、ほんとに表情豊かだわ。黙った日向をよそに、「えー!」という不満の声が、後輩たちからたちどころに上がった。
ふくれっ面の梢に、問いただされる。
「氷室先輩、どういうことですか。なんで教えてくれないんですか」
「とにかく!」
わたしは声に力を入れる。
「これからわたしと凛は、ちょっと行くところがあるの。悪いけど、場所はあんたたちには教えらんないけど」
またもや巻き起こる、「えー!」というブーイング。うちの水泳部、相変わらず元気。二回目のブーイングでは、日向も参加していた。
気にせず通学鞄を回収しようと、身を屈めたとき、
「昭和生まれ……」
誰かが、ぼそっと言うのが聞こえた。
「ああっ?」
きっと顔を上げて、思わず荒っぽい声を出してしまうと、部員の何人かが怯えた顔をした。栞を含めた、主に一年生かな。怖がらせたことを少し反省しつつ、鞄を肩にかける。でも、平成生まれが何? 同学年の早生まれの子は、平成生まれだけど……いや、ちょっと羨ましくはある。同い年なのに、平成生まれの同級生の方が若者扱いされるという場面に出くわしたことが、これまで一度や二度ではなかった。凛が、「平成に生まれたかったなぁ」なんて愚痴をこぼすことも、そんなに珍しくない。
わたしは心を入れ替えて、平成に生まれた水泳部員の面々を見まわす。
「もうあんたたち、帰んな。水がないと泳げないんだし。プール掃除するには、いくらなんでも暑すぎるし。これ以上ここにいたってさ、しょうがないでしょ? 熱中症になんかなったら、ほんと洒落になんないからね。ほら、どうせなら近所の市民プール。屋内のやつとかにでも行ってさ、練習してきなよ」
一理あると思ったのか、三回目のブーイングは起こらなかった。それでも、部員たちは何か言いたげな、不満げな顔つきはしてるけど。
凛が後輩たちに、励ましの言葉をかける。
「ごめんね、みんな。あとのことは先輩たちに任せて、みんなは部活に集中して。新人大会、応援してるから!」
ちょっとの間のあと、凛はかすかに、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「どうせあたしたちは昭和生まれのおばちゃんだけど、みんなは平成生まれの若者なんだから。もっと頑張れる! 気合い入れて!」
やっぱりさっきの問題発言、凛も気にしてたんだ。凛の本気とも冗談ともつかない言葉を受けて、後輩たちもどこか気まずそうだ。
そしてわたしは、パンパンと二度三度両手を叩いた。
「はい、じゃあ解散!」
その号令を最後に、わたしと凛は泳げないプールを後にしたのだ。
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