泳げないプール 第9話

 びっくりしたあ。考え事でしばし下がっていた顔を、とっさに上げる。

 凛は見るからに困惑しているし、梢に至っては露骨に不快そうな顔をしている。でも、そうしたわたしたちの反応を気にも留めず、声高々に田中すずは宣言する。

「この、『学校のプールの水が消えた事件』、号外として取り上げます! こういう謎めいた事案、インパクトありますし、スクープにするにはうってつけなんで。慣例として、八月号だけは元々発行されないので、その埋め合わせにちょうどいいです!」

「はあ?」

 梢が、苛立ちを滲ませた声を出す。

「ちょっと! やめてよ、勝手に。ただでさえ盗撮魔のことだってあるんだし、これ以上、水泳部に変なイメージついたらどうしてくれんのよ」

「ちっちっちっ」

 したり顔で田中すずが、人差し指を右に左に傾ける。その仕草、若干古くない?

「わかってないわね、副部長さん。記者にはね、報道の自由があるのよ」

「うっさい、エセジャーナリスト! とにかくそんなの、絶対認めないから」

 食ってかかる梢に対して、田中すずはどこか余裕ありげだ。小馬鹿にしたように返す。

「あれ、知らなかった? 記事を書くのに、河村さんの許可は必要ないのよ。わたくし新聞部部長・田中すず、報道の権利をとくと行使させてもらいまぁす」

 田中すずのひょうきんな言い草が面白くて、つい吹き出しそうになってしまう。苛立っている梢の手前、笑うに笑えないけど。案の定、お笑い好きでゲラの凛は肩を揺らしていた。笑いを押し殺そうと、手のひらで口元を抑えている。

 そんな先輩二人に挟まれて、拳を固く握り締める梢。悔しそうだ。なんか、梢に申し訳ない。

 そして田中すずは、ぐるっとこっちに背中を向けたかと思うと、一直線に駆け出していく。なんの前触れもなく、唐突に。呆気に取られていると、走るスピードを緩めることなく、首だけを振り向かせる。田中すずはプールサイドに響き渡る大声で、口早にこう言い残したのだ。

「号外は、今日中に完成させる予定なんで! 明日の朝にでも読んでくださいね! ハマコー新聞は北棟の昇降口向かいの、いつもの掲示板に貼ってますんで!」

 フェンス際の日向たち水泳部員も、走り去る田中すずを目で追っている。すぐに出入り口に消えて、田中すずの姿が見えなくなると、半ば呆れ笑いで凛はつぶやいた。

「なんか、台風みたいな子だね」

 梢は下唇を噛んでいる。

「くそ、すずめのやつ……」

 一方でわたしは、田中すずの最後の言葉が頭に引っかかっていた。「昇降口向かいの、掲示板」。その言葉で、ついさっき見たばかりの光景が、すっと脳裏に浮かび上がる。

そうだ。新聞部の記事の隣に貼られていた、あのポスター。パステルカラーのデザインが印象的な、あのポスター。美術部の、夏の展覧会の開催をお知らせするあのポスター。

 まさか。

と思った拍子に、漠然とある考えに至る。そして、不意に思い出す。じゃあ、さっき一瞬だけ気になったあれって……。

 気づくと、わたしの足は動き出していた。田中すずの真似じゃないけど、彼女がたどったのと同じ直線ルートを、まっすぐ走る。駆け抜ける際、口をぽかんと開けた後輩たちの姿が、横目に見えた。

「ちょっと、沙希!?」

 後ろから、凛の驚いた声がする。でも、わたしは振り向かない。

 出入り口には向かわずに、その手前で急ブレーキをかけた。プールの角を左に折れて、数歩進んで、立ち止まる。少し息が上がっている。たった十メートルぐらいしか走っていないのに、完全に運動不足だ。部活を引退した途端、運動する機会がめっきり減った。

 そして、見下ろした先にあるのは、プールのふちに立てかけてあった、ふたつの通学鞄。の、すぐそばの、「1」の番号がついた白のスタート台。もっと厳密に言えば、スタート台の上に不規則に散らばった、謎の青い塗料。いや、もう謎じゃない。やっぱりこれって……。

 遅れて、凛と梢がやってきた。二人とも、走ってついてきたらしい。

「いきなり、駆け出して。どうしちゃったの、沙希」

 凛が整った眉をひそめて、訊いてくる。わたしと同様に少し息切れして、言葉が途切れ途切れだ。

「そうですよ」

 梢は、まったく呼吸を乱していない。さすが現役の運動部。

「氷室先輩に、すずめの人格が乗り移ったのかと思っちゃいました」

「何それ」

 からかうような梢の冗談に、ちょっと笑う。それから凛を見て、例の青い塗料を手で示す。

「凛。これさ、さっきまで、凛のお尻の下にあったんだけど」

「えっ」

 塗料を認めると、凛がくしゃっと顔を歪めた。

「やだ、ちょっと。なんでよりによって、こんなとこに」

 不満げに言って、スカートのお尻をわたしに向ける。

「ねえ、ついてない?」

 凛のプリーツスカートは、まったく汚れていない。綺麗な状態だ。グレーの生地に、青は一切見られない。

「大丈夫。ついてないよ。それにこれ、もう充分乾いてるから」

「ほんと? よかった」

 安心して、凛ははにかんだ。

 そう。予想が正しければ、スタート台にこの塗料が付着してから、少なくとも三時間以上は経過してるはず。それも夏の強い光を浴びていたわけだから、乾燥も早かっただろう。いまは、太陽は雲に遮られているけど。

 ——二人はこの塗料、なんだと思う?

 自分の中で一応の答えを出している質問を、あえて凛と梢に投げかようとした。参考までに、二人の率直な意見が聞きたかったのだ。でも、それは果たされなかった。今度は、わたしがあるものを認めたから。

「1」のスタート台からすぐ真下、水のないプールの底に、何かが落ちている。

一本の、チューブ状の小さい容器……。しゃがんで覗き込むと、その正体はすぐにわかった。

これって!

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