泳げないプール 第8話
話を本題に戻そうと、さっき浮かんだ思いつきを、わたしは口にしてみる。たぶん違うだろうし、そもそも違っていてほしいんだけど、やっぱり念には念を、ね。
「ねえ、昨日から今日にかけて、この辺で火事ってなかったのかな?」
三人分の、怪訝な視線が返ってくる。さしずめ、「何言ってんだ、こいつ?」ってところだろうか。
実際、その想像通りに、
「火事? 何言ってるんですか、氷室先輩?」
と梢が不審げに訊いてきた。取り繕うように、わたしは言う。
「ほら、学校のプールの水って消火活動にも使われるじゃない? だから、もしかしたらこの近所で火事があった、なんてこともなくはないんじゃないかって」
「なるほどね」
怪訝そうな顔だった凛が一転して、納得した顔になった。
「その可能性もあるね」
と、腕を組みながら小さく二回頷いた。可愛い見た目に似合わず、凛はよく腕を組む。
「確かに。火事のことはまったく頭に浮かばなかったです」
ちょっと感心したような梢。
「火災の大きさによって、プールの水をすべて使い切ることだってあるでしょうし」
否定されるかと思ったが、可能性のひとつとして、存外ふたりは火事の線を支持した。が、田中すずだけはきっぱりと、
「あ、それはないですね」
と首を横に振った。腕を組み替えて、凛が訊く。
「なんでわかるの?」
「ずばり、それはですねえ」
もったいぶるように、眼鏡の位置を中指で直している。ややふっくらとした唇の両端が、にっと持ち上がる。
「わたしの家、この学校と目と鼻の先にあるんですよ」
「あ、そうなんだ」
思いのほか、わたしの返答が薄かったのか、田中すずは一瞬ふてくされた顔になったが、すぐに元の上機嫌な顔に戻る。
「わたしの家、ほんとに学校からすぐなんです。角度的に、うちからプールは見えませんけど、校舎とグラウンドは確認できます。うちの実家、金物屋なんですけど、知ってます、『田中金物店』?」
わたしたちはお互い視線を交わし合うと、口々に知らない、と答える。学校の近くにあるのがケーキ屋やクレープ屋ならともかく、さすがに金物屋は、ねえ。……たとえ見かけていたとしても、記憶に残らないかな。すると、田中すずは大して気を悪くするわけでもなく、
「なんでも揃ってるんで、ぜひご利用してくださいね! ほんとになんでも揃ってるんで!」
くしゃりと顔をしかめて、梢がもどかしげに言う。
「お店の宣伝はいいから、話を進めなさいよ」
そこで田中すずは、大きく咳払い。自信満々に断言する。
「いいですか? たとえボヤでも、学校の周囲に消防が出動するような事態になれば、わたしなら絶対に気づきます」
確かに。田中すずなら、めざとく気づきそうだという予感はする。まだ会って数分だけど、不思議とそんな説得力がある。そもそもこのプールに来たのだって、部員たちの騒ぎを聞きつけたからだし。
「わたし、地獄耳なので」
自分で言うのね。
「夜中でも、近くで火事があれば、すぐに目覚める自信があります。サイレンの音とか、消防士さんたちの声とか、野次馬のざわめきとか。目を覚ます要素は色々とありますよね。ひとたび火事が起きれば、閑静な住宅街は喧騒に包まれるはずです。ですが、わたしは昨日の夜中、途中で起きたりするようなことはありませんでした。自分でも信じられないぐらい快眠でした。ちなみに、今朝は快便でした。夏バテのせいか、最近、便秘がちだったんですけどね。あ、すみません、関係ないですね。話を戻しましょう。結論を言いますと、いまのいままで、この近辺で火事があったなんて、まるで一切聞いてないんです」
田中すずの話しぶりに、ますます熱がこもる。
「なので、昨日から今日にかけて、消防は出動してません! よって、プールの水が消火活動に使われたなんてこともないと言っていいです!」
その熱量に苦笑いしながらも、
「わかった」
とわたしは答えた。なあんか、日向と似てるのよねぇ。馬が合わないのが不思議なぐらい。わたしは小さく肩をすくめる。
「まあ、元々可能性は低いと思ってたから。消火にプールの水が使われたとして、学校から水泳部にそのことが伝わってない時点でおかしいしね。それに火災なんて、起きてないに越したことはないし」
それから、こう言い足す。
「新聞部部長さんの証言を信じるよ」
凛も梢も思い直したように、
「まあ、言われてみればそうだよね」
「確かに、そうですね」
とそれぞれ頷いた。梢は撤回をすることに、ほんのちょっと不満げだったけど。
わたしは、プールを見下ろす。ちょっと考え込む。
火災だって、「のっぴきならない事情」ではあるわけだけど、これでその線も却下されたことになる。最初から可能性としては弱かったし、思いついた自分でも違うと思っていた。心置きなく、この考えは捨てれる。
それなら、やっぱり犯行は個人的な理由なのかな。消火でプールの水が使われる火災みたいに、誰から見てものっぴきならないと思える状況って、ちょっと他に思いつかないし。個人的な理由か……なんだろう。
たとえば……プールで人が溺れていたとして、暢気に水を抜いて救助しようとはしないだろう。そんなの、とんだお笑い種だ。一目散に、プールに飛び込んで直接助け出そうとするはず。
でもこれが、『人』ではなく『物』だったとしたら? 何かをプールに落としたとして、それがとても大事な物で、しかも、どこに行ってしまったのかわからないぐらい小さな物だったとしたら? さらに、それが水面には浮かばなくて、水中に沈んでしまうような物。
だったら、水を抜くという手段を選びたくなる気持ちも、わからなくもないかもしれない。
たとえば、指輪とか。それも、結婚指輪のような一生物だったとすれば。なんとしてでも取り返したくなる気持ちは、わかるような気はする。……考え方として、あり得なくはないのかな。ほら、指輪じゃなくても、何か体に身につけるもの。ネックレスとか、イヤリングとか……。
でも、そういったアクセサリーを身につけて、水泳部が入水することはまずない。そもそもアクセサリー自体、校則で禁止されてるわけだし。当たり前だけど、腕時計とかは必ず外す。
それなら、落としたのは部外者だということになる——水泳部員の犯行だという可能性は、最初から除外してるし。だけどそうなると、じゃあなんで部員以外の部外者がプールにいたのか、という問題に突き当たってしまう。
行き詰まっちゃうな、これ……。やっぱり、無理筋なのかな。でも、「物を落としたから水を抜いた」という線自体は、いい線いってるかも。一応、保留にしておこ。と決めたとき、
「決めました!」
急に田中すずが、ひときわ大きな声を上げた。
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