ブルード・サック
ドッザウヒ
第1話
1
或る街路樹の陰、その片隅で、カタツムリが群れている。
樹に隠れるように据えられたガードレールにへばりつき、一面に生え揃った苔をこそぐように食べながら移動している。
そうした群れの中ほどで、『彼』はいつものようにのそのそと、皆と並んで生きている。
苔むしたガードレールの先に、まだ新しい鳥の糞が落ちている。
その直線上には、『彼』がいる。
『彼』は、鳥の糞もろとも削り取るように食べる。
糞に混じった虫の卵が、『彼』の身体に入り込む。
『彼』は、そのまま進んでいく。
2
『彼』は、胴のあたりに違和感を覚えた。
ちょうど甲羅の付け根のあたりでなにか小さなものがうごめいていて、それが勝手に身体の中を移動しているような気がする。
しかし、『彼』はその異常を気にしなかった。
それからしばらくして、『彼』がそのうごめきに違和感を覚えなくなってきたころ。
そのあたりから、思考に靄がかかったようになることが増えた。
頭が回らず、しばらく立ち尽くしていたかと思えば、次に気が付いたころには周囲の景色が少し変わっている。
それはまるで、己の意識とは別の何かが、『彼』の身体を動かしているかのようで。
しかし、『彼』はその異常を気にしなかった。
3
最初のころ、群れのカタツムリたちは、その『彼』の行動を胡乱げに眺めていた。『彼』は、カタツムリにとって快適なガードレールを抜け出して、あろうことか日差しが照り付ける樹の上に登り始めたのだ。
そしてひときわ張り出した枝の先に立ったと思うと、『彼』はそこで己の触覚を振り回し始めて。
それからしばらくの間、降りてくることはなかった。
日陰から離れていては身体が干からびてしまうし、そもそもそんなことをする意味がない。
なにがしたいのか、そしてなぜそんなことを始めたのか。
到底理解の及ばない『彼』の行動は、その不可解さから、周囲の関心を集め始めていた。
――ふと気づけば、周囲の光景が一変していた。
日の当たらない苔むしたガードレール脇から、視界が一変していた。
そのうち、『彼』の命知らずな行動に心酔する者が現れるようになる。
依然として『彼』の目的はわからなかったが、とにかく勇敢であることには変わりがない、と考える者たちが。
そしてその数はゆっくりと増えていき、ついには群れの大半が『彼』の動向を熱心に見守るようになっていった。
傍から見れば、陰気な木陰から抜け出して、光の射し込む樹上に進み出た『彼』の行動は勇気あるものに思えたのかもしれない。
しかし、果たして『彼』の行動は、その不気味に膨れ上がった触覚にぎっしりと詰まっている寄生虫に操られたものでしかなかった。
体中を侵食し尽くした寄生虫が脳にまで達し、『彼』の意思にかかわらず身体だけが動いている。
大きく肥大した触覚を振り回すことで『彼』の存在をアピールさせて、新たな宿主たる鳥などに『彼』を捕食させることだけが寄生虫の目的であった。
下から見上げるばかりのカタツムリたちには、それを知る由などない。
『彼』の行動に対して、ただ無邪気に尊敬の眼差しを送るばかりであった。
『彼』が大きな街路樹の幹肌を登りはじめてから、その天辺に到達するまでの間。
その身体を動かしていたのは、『彼』の勇猛で輝くような意志の力、などではなく。
その身に深く根を張った、寄生虫の純然たる本能、そのはたらきでしかなかった。
この頃になると、『彼』の思考能力は半ば機能していなかった。
目的意識もなく、虫食いのようになっている記憶を疑うこともやめてしまって。
意志に反して動く身体に身を委ね、ただ無機質に触覚を振り回すだけの存在に変貌しつつあった。
もうどれだけの時間、こうして樹の上に居るのか、それすらわからない。
認識することができない。
少しずつ、少しだけ、少しずつ。
削れていく。摩耗していく。
それは、どれだけ大切にしていたものであっても、平等に、残酷に。
それから数日が――カタツムリたちにとっては途方もないほどの時間が――経過しても、『彼』が樹の上から降りてくることはなかった。
ただひたすら天に向かって肥った触覚を振り回し続ける姿は、いっそ狂気的に映った。
いつまでも樹上から降りてくる気配のない『彼』に興味を失ったのか。
それとも、理解の及ばない行為に命を捧げているようにしか見えない『彼』の姿に、根源的な異質さ、あるいは恐怖を感じたのか。
しかし、結果として、次第にカタツムリたちは樹の周囲から離れていき、樹上の『彼』に関心を示すようなこともなくなっていって。
まるで、そこには何事もなかったかのように。
暗く、湿っていて、それでいて居心地のよいガードレールの苔を食べ続ける生活に戻っていったのであった。
4
『彼』は遂に思考することもできなくなり、樹下のカタツムリがとうにいなくなっていることに気付くこともできない。
脳に陣取った虫によって休みなく酷使され続けた身体は、いよいよ端から干からび始めていた。
そして、その時が訪れた。
不意に、翼を広げた大きな影が樹にやってきて、すり抜けざまに『彼』の身体をさらっていった。
カラスだ。
『彼』の半ば干からびた身体とは、比べ物にならないほどに大きな、黒い鳥。
クチバシに獲物を咥えたまま、カラスは『彼』が生涯の大半を過ごしてきたあの樹のあたりからぐんぐんと離れていく。
その時になって、『彼』は久しぶりに自分だけの意識を取り戻した。
『彼』がぼやけた視界で状況を把握しようとしたときにはもう、電信柱のてっぺんで身体の大半をついばまれていた。
そして、いよいよ頭を喰われそうになったとき、『彼』の体内から、とりわけ触覚のあたりから、致命的に大きななにかが抜けていった。
しかし、『彼』にはそれらを感じ取ることができない。
ゆっくりと虫に侵されてきた身体は、もう『彼』のために動くことはできない。
5
そうして『彼』のいのちが消えて、その身体がすっかりカラスの腹に収まったころ。
その胃袋の中でなにかがゆっくりとうごめき始めたことを、そして遂に彼の虫が目的地に到達したということを、『彼』が知ることはなかった。
ブルード・サック ドッザウヒ @Dozzauhi
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