第4話 悪魔

 白石が朱音に向き直り「千坂博士……」と真剣な声をかけた。


「博士は、放射線に強い生物の研究をしていると聞きます」


「大学のころから10年ほど、クマムシの研究をしています。それが何か?」


 心中、本題に入ったと緊張する。


「是非、廃炉作業に御助力いただきたい」


 白石と岩城はそう言うと床に手をつき、深く頭を下げた。


 朱音は、白石の髪の薄い頭を見ていた。2人の仕事に手を貸すということは、悪魔の所業を自分の手で行うことになると理解していた。


 答えが欲しい。……朱音は、遺影を見上げて亡き夫の言葉を求めた。しかし、彼の声が聞こえることはなかった。


「どうかしましたか?」


 眠った遼平を抱いた哲明がやってきた。一介の科学者に過ぎない娘に向かって、白石と岩城が頭を下げた姿勢を崩さない様子に異様なものを感じたのに違いない。


「人工出産システムを開発したころ、千坂は私をゴッド・サイエンティストと呼びましたが、本当はマッド・サイエンティストだと言いたかったのだと思います。そう言わなかったのは彼の優しさもありますが、あの時、千坂はそれが必要悪だと考えていたと思うのです」


 朱音が話しはじめると、白石と岩城が手をついたまま顔だけを上げた。


 2人の顔を見ながら考えた。今さら良い子ぶることはない。他人に好かれようとは思わない。それでも、超えてはいけない一線がある。越えなければ変えられないものがあることもわかる。その判断は、すでに科学の領域にはないことだ。政治や倫理、神学の話になる。


「手を上げてください」


 哲明が静かに声をかけた。


「いいえ。了解していただけるまでは、頭を上げるわけにはいきません」


 白石が、上げていた頭を再び下げた。


「今日は葬儀の席ですから……」


「葬儀の席だからこそ、お願いするのです。私の依頼は、亡くなった千坂さんにも了解をいただきたいのです。大切な奥さまを大変な仕事に引きずり込むことになるのですから……」


 岩城が真新しい畳を見つめながら言った。その瞳は真剣だった。誰かが毒を飲まなければ、廃炉作業は完結しないと言っていた。自分ができることなら、喜んで毒を飲もう。そんな覚悟が見えた。


「……私ができるなら、そうします……」彼が言った。「……しかし、今回ばかりは私の能力ではどうしようもない。神は、能力を授けるという点に限って言えば、不公平な存在だと思い知らされます。それで何としても千坂博士の助力が必要なのです」


 岩城の言葉を白石が継ぐ。


「お父様とお母様にも、お許しいただかなければなりません。御嬢さんを私にお貸しください」


 芝居がかった言葉に、哲明と知世は顔を見合わせた。なんの説明もなしに許せと言われても答えようがない。


「具体的には、どんなことをするのですか?」


「それはお話できないのです。としか申し上げられません」


「そんな話に了解しろというのですか?」


 知世の声が震えていた。


「お願いします!」


 岩城の振り絞る声……。


「良いじゃないか。君にしかできないことだ」


 朱音が聞いたのは千坂の声だった。


「あなた……」私に悪魔になれと?……見つめる遺影は微笑んでいた。


 少し考えて白石に向かう。「……条件があります。それをのんでいただけるのなら、お引き受けしましょう」


「聞かせてください」


「私と彼とで開発した人工出産システムを公認していただくことです」


「もちろん。喜んで」


 想定していたのだろう。白石は即答し、スマホを取った。その場で厚生労働大臣に連絡を入れ、人工出産システムの認可と、国家事業として施設の建設予算を計上するよう命じた。


「これでよろしいですな」


 白石は床に手を着きながらにじり寄る。


「朱音。大丈夫なの?」


 一国の首相が頭を下げるような依頼に、知世が案じていた。


「お母さん。私なら大丈夫よ。知らんぷりを決め込んだら、千坂に叱られるわ。彼は、自分のことは置いても他人のために働く人でしたから」


 朱音は、千坂の遺影を見上げた。




 4月戦争の3年後の春、中国政府が、4月戦争の発端となったミサイルはN国のものではなく、N国近海に侵入した米国潜水艦が発射したものだ、という分析を発表した。


 日本政府は「そんな馬鹿なことはない」と軽く否定、米国は「3発のミサイルはN国のもので、3分の2の確率で迎撃は成功した」と当初の立場を堅持した。


 千坂の葬儀の3カ月後、朱音は熊木田コンツェルンの支援を受けて設立した研究所を閉鎖し、国立つくば生命科学研究所を設立した。その後わずか1年で放射線に耐性のあるを開発した。その研究は極秘事項で、極一部の政府関係者以外に知る者はいない。


 チサカ細胞は人工生命体へと進化を遂げるが、それは後のことだ。


 爆心地周辺30キロ圏内は汚染がひどいために除染されることなく〝聖域〟と呼ばれ、自衛隊さえ入ることなく放置された。日本には、聖域を除染する科学技術も財政的余裕もなかった。


 人が消え失せた放射能まみれの世界。それでも草木は芽吹き、桜公園があった場所では、焼け焦げたソメイヨシノが一輪の花を咲かせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜、燃ゆ ――2031―― 明日乃たまご @tamago-asuno

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ