第3話 不良少女
彩香が下田とパチンコの話をしている時、一人の少女が同じ喫茶店で、一人コーヒーを飲んでいた。
彼女の名前は杉山ゆあ。学校の制服を着てはいるが、学校に通っているわけではなかった。
「おい、ゆあ。今日もダーツでもしにいこうぜ」
明らかに不良少年と思えるような男に声を掛けられ、ゆあは眼光鋭く、その男を見上げた。不良少年と思しきその男は、一瞬ひるんだのを、ゆあは見逃さなかった。
「いいわよ」
と一言だけいうと、スックと立ち上がり、レジを済ませて、自分から先に店を出た。
そんな少女がいたなどと知る由もなかった彩香だったが、下田は彼女が出ていくのを気にしながら似ていたことに、まったく気付かなかった。
ゆあは、さっさと不良少年を振り切るかのように先に先にと進んでいる。少年の方もゆあの行動をとがめることもなく、暗黙の了解のようについていった。普通であれば、男性を押しのけて女性が先に行くというのは、男性のプライドを傷つけるようなもので、男性とすれば、少なからず面白くないと思うのだろうが、少年にはそんな素振りはほとんど感じられなかった。
表に出ると、そこからダーツバーまではさほど距離はなかった。ゆあは足早なので、五分もかからずに到着し、中に入ると、一瞬ムッとくるようなタバコの煙が蔓延していたのだ。
ゆあはタバコを吸うわけではない。タバコの臭いは本当に嫌いで、以前なら二十分と我慢できなかったはずなのに、慣れというのは恐ろしいもの。今ではずっと中にいてもそれほど嫌な気にはならなくなっていた。それはきっと我慢するという限界を超えたからなのかも知れない。ゆあは結構我慢することを今までに余儀なくされてきたこともあって、我慢に対して、感覚がマヒしているところがあった。
「今日も学生服なんだな」
店に入ると、カウンターの奥のマスターからそう言われた。
「こんにちは、マスター。ええ、これが私にとっての戦闘服のようなものなの」
と言っていた。
「まるで昔映画であった『セーラー服と機関銃』みたいだな」
マスターの年齢がいくつくらいなのか分からなかったが、少なくとも四十歳は超えているだろうと思っていた。
十八歳のゆあにとってみれば、四十歳の男性というのは、遠い存在に感じるに違いない。ただ、学校の先生や親は違った。いくら年齢が離れていて、遠い存在だと思ってみても、尊敬などありえなかった。そういう意味ではここのマスターに対しての尊敬の念は、ゆあにとって今までに感じたことのないものだった。
――これって本当に新鮮な気持ちだわ――
と思うのだった。
ゆあが、学校に行かなくなった理由は、先生によるセクハラが原因だった……と、言われている。
中学の頃というと、成長期であり、どちらかというと晩生だったゆあは、中学二年生になって、急に成長してきた。
胸は膨らんできて、体型もそれまでの幼児体型から、
――大人のオンナ――
という雰囲気になってきたのだ。
そんなゆあの中学二年生の時の担任は、まだ大学を出てから三年目くらいの人で、実はゆあの憧れの先生でもあった。
しかし、ちょうどその頃、先生は失恋したようで、ショックを表に出していた。そんな先生をゆあは気の毒に思い、
「先生、大丈夫ですか?」
と、気にかけていたのだ。
先生の家は知っていたので、時々差し入れを持って行っていた。先生も最初は失恋のショックで、他の女性に目もくれることはなかったが、次第に心が癒えてくるのを感じると、この思いが、
――この生徒は俺のことを好きなんだ――
という思い込みに発展していた。
この教師は、自分の喜怒哀楽を我慢することなく表に出していた。それが生徒と触れ合うためには一番いいと思っていたこともあって、気持ちを隠すことをしなかった。それがゆあの心を打つことになったのだが、悲劇はここから始まったと言ってもいい。
――先生を、私なら癒してあげられる――
という思い込みがゆあにはあった。
それまではまだ自分が子供だと思っていたのだが、急に身体の発達を感じると、精神的にも大人になったかのように感じていた。
先生は、そんなゆあの気持ちを知ってか知らず科、先生の方はゆあの気持ちよりも、身体に視線が行くようになっていた。
――あの時、彼女の気持ちをもっと見つめることができていれば――
と、先生は後になって感じたことだろう。
しかし、そんな思いはゆあには届かない。むしろ、自分が先生を癒すという思いが強かっただけに、相手が何を感じているのかというのは二の次だった。
これがゆあにとって致命的だったのかも知れない。
お互いに相手のことを思いながら、気持ちはすれ違っている。すれ違っているというよりも、最初から見ている方向が違っていて、それだけ見ている目的が違うのだ。
「杉山君は、どうして僕をそんなに気にしてくれるんだい?」
と、先生はゆあに言った。
「えっ、先生が落ち込んでいるのを感じたので、私にできることがあれば、できるだけしてあげたいと思ったんです」
と、ゆあとすれば、自分の癒してあげたいという気持ちを抑えて話したつもりだった。
この言葉はゆあをハッとさせた。
――私は先生のことが好きなのかしら?
それまでは、
――癒してあげたい――
とは思っていたが、好きだという感情ではないと思っていた。
もっとも、それまで誰かを好きになったという経験のないゆあは、先生を本当に好きなのかどうか自分でも分からなかった。
そのうちに、先生の視線に、それまでと違っている何かを感じた。それが、オトコとしての本性からの視線であるということに気付かなかったのだ。
――どうしたのかしら? 先生――
と思いながら、なるべくいやらしさを感じないようにしようと思っていたのだ。
しかし、その思いは違っていた。いや、違っていたというより、間違っていないのだが、認めたくないという思いだったのだ。
先生は失恋してからそろそろ三か月が経とうとしていた。普通なら立ち直ってもいい時期なのに、先生の中で立ち直るきっかけが見当たらない。
その理由は、ゆあがいたからだった。
自分の中で付き合っていた人への未練を断ち切りたいと思っているところに、教え子の女の子が優しくしてくれる。付き合っていた女性とは似ても似つかぬ雰囲気で、しかも、相手は自分の教え子だ。同じ次元で見てはいけないと思いながらも、その時の先生にはそんな感覚は皆無だった。
――何をどうしていいのか分からない――
そんな思いが交差した。
それはゆあにも言えることで、ゆあには、恋愛経験はおろか、まだこの間まで子供だったという意識が強かったのだ。
――私にとって先生って、ただの憧れなのかしら?
その頃になると、自分が先生を好きになりかかっていることに気付いた。
ただ、それは好きになったから感じたわけではなく、好きになりかかったことで気付いたことだったのだ。
好きになったのと、好きになりかかったのでは違う。好きになりかかった場合、それが憧れなのか、恋に憧れている自分に憧れているだけなのかということを、無意識に感じている場合がある。
しかし、好きになってしまうと、考え方は一変する。
目の前に見えていた光景が、まったく違うものに感じられるに等しい。悪い意味であれば、鬱状態になった時に感じる目の前の光景の変化に似ている。
ゆあはまだ鬱状態を経験したことがなかったので、よくは分からなかったが、その後にやってきた鬱状態では、完全に今まで見ていた光景が、まったく違うものに変わってしまうことを経験した。
たとえば、信号機の色である。
昼と夜とで信号機の見え方が違うのは、子供の頃から感じていた。
昼に見る時の青信号は、緑色に感じられたが、夜に見ると、真っ青だった。この感覚だけは覚えていたので、鬱状態に陥った時、
――昼でも夜のようだわ――
と感じた。
最初はそれが信号の色から感じたことだとはすぐには分からなかったが、分かってくるようになると、それが鬱状態であると初めて感じた。
――何なの? この感覚は――
と、鬱状態に陥ったということを自覚できていなかった時期が、最初にはあった。
先生もその時、ゆあが陥った鬱状態のように、同じものを見ていても、ゆあとは違って見えていたのかも知れない。
ゆあは、最近になってそのことに気付き始めた。
最初はショックでそんなことを感じることもなかったが、
「時間が解決してくれる」
とよく言われるが、ショックなことを感じたことのなかったそれまでのゆあには、完全に他人事だった。
先生の家に上げてもらうことも、それまでには何度かあった。先生はコーポのようなところでひとり暮らしをしていて、家事も自分でしていたようだ。ゆあが先生のところに来る時も、いつも夕飯の準備をしようとしているところで、
「じゃあ、私が作ってあげるわ」
と、用意されたものから調理していった。
――先生から受け継いだバトンなんだわ――
と思うと嬉しくなり、さらに炊事を自分でやっている普段の先生を思い浮かべて、にこにこしてしまっている自分を感じると、ゆあは恥ずかしさから顔が真っ赤になるのを感じた。
「先生、もうすぐだからね」
と言って、鼻歌を口ずさみながら、調理に勤しんだ。
そんなゆあの後ろ姿に、先生はどんな気分だったのだろうか? 制服にエプロン姿、オトコの人にとって、これほどそそられる姿がないのではないかということに、その時のゆあはきづかなかった。
先生は、最初こそ、目のやり場に困っていたようだったが、次第にその視線は熱いものになっていた。
――先生に見られている――
という思いがあったのは事実で、
――もっと見てほしい――
と思ったのも事実だった。
しかし、まさかそれが先生の男としての我慢の限界まで追いつめてしまうことになるなど、思ってもいなかった。それだけ甘かったというべきか、オトコというものを知らなかったことが生んだ悲劇なのだが、ゆあには、自分がコウモリであることに気付かなかった。
コウモリというと、
「獣に出会っては鳥だといい、鳥に出会っては獣だ」
という。
そうやって、自分の身を守ってきたのだが、そのたとえは、あまりいい意味で使われることはない。
まるで日和見的なところがあるという意味に使われることもあるだろうし、どちらの仲間にもなることができず、
「孤独な動物だ」
というニュアンスで取られることもある。
ゆあはコウモリのたとえをそれまでに聞いたことがあった。まさか自分がコウモリのようになってしまうなど想像もしていなかったので、
――自分に起こったことが他人事だったらいい――
と思いながら、コウモリを思い浮かべていた自分は、本当に他人事のように感じていたに違いない。
「先生、おいしいもの作りますからね。待っていてくださいね」
と、ニッコリと笑って後ろを振り返った時、先生の顔がドキッとした表情になったことは感じた。
――もっと、私を感じてほしい――
と感じている自分を何とか押し殺そうと思う自分が本当はいたということをその時のゆあは感じていたのだろうか?
「ああ」
と、ドキッとした表情とは裏腹に、返事はハッキリとしない。そんな時が本当は危険なのだということを知らないゆあは、その時、自分の先生を見る目がどんな感じだったのか、分かるはずもなかった。
――私はまるでメルヘンの世界のお嬢様のようだわ――
少しでも現実とかけ離れた妄想をしている方が気が楽である。
しかもその妄想を、
――自分だけの世界のこと――
として考えていた。
だが、相手の男はどうだろう? これまであまりモテたことのない人であれば、女の子から優しくされればいくら教師だとはいえ、魔がさすということがある。そのことをその時のゆあはまったく感じていなかった。
――いや、感じていたのかも知れない――
鬱状態になりながら、自虐に走らなかったのは、きっと自分が先生のためにしていることが実を結ぶと思っていたからだろう。見返りを求めてはいけないはずなのに、気が付けば見返りを求めている。それは自分の中にある開き直りがそうさせたのかも知れない。
「先生……」
調理をしているゆあの後ろから先生が抱き着いてきた。
「杉山君……」
ゆあは、反射的にコンロのスイッチを切った。火事になることを恐れたのだろう。
「先生、痛いですよ」
というと、
「あ、ごめん。痛かった?」
先生はすぐに我に返ってしまったようだ。
ゆあはそんな先生にその時、物足りなさを感じた。自分が小悪魔になりたいという気持ちを持っていることにその時初めて気付いたのだ。
「大丈夫です。優しくしてください」
この言葉が、どういう意味を持つのか、その時のゆあは知らなかった。
「分かった。大丈夫」
――何が大丈夫だというのだろう?
ゆあは、そう思って、先生を振り返り、微笑んだ。
ここまでの行動や会話は、他人が見れば、
「女性の方から誘惑した」
とみられることだろう。
「優しくしてください」
という言葉が、暗黙の了解であるということを示しているからだ。
先生がそこで、
「いいんだね?」
と聞けば、ゆあも暗黙の了解であることを理解したことだろう。
しかし、その時のゆあはそこまで頭が回らなかった。だが、自分の中では先生と深い関係になってもいいという思いがあったのも事実だった。
ただ、その思いは一貫したものではなく、その時の流れに任せたものだった。先生はそれから本当に優しくなった。しかしその優しさは、オトコとしての本能がもたらす優しさであり、ゆあにとって大きな勘違いを生むものだった。
――これで先生は私のもの――
とゆあは感じた。
その時に先生は、相手が本当にゆあでなければいけなかったのかどうか、疑問だったに違いない。
――僕は本当にこの娘を好きなんだろうか?
と思ったに違いない。
その日、ゆあは先生に処女を捧げた。
「初めてだったんだね?」
と先生がいうと、ゆあは恥じらいの中で、
「ええ、先生、ありがとう」
というゆあのこの言葉を先生は、
――ありがとうということは、処女喪失の相手に僕を選んだだけで、本当に好きだなんて思っていなかったんじゃないか?
と思い、少し気が楽になった。
しかしそれはあくまでも先生の勝手な理屈で、処女喪失という一大イベントで、ゆあの素直な気持ちだった。それを先生が分かっていなかっただけで、ただ、それも先生にとって無理もないことではないか。なぜなら、その時の先生には後悔の念があり、都合よく考えてしまうからだった。
ゆあの後悔の念というのはなんだったのだろう?
この時、この場所で先生に抱かれたことなのだろうか? それとも先生を相手にしたことなのだろうか? それとも、先生を愛しているという気持ちに翳りを感じたからなのだろうか?
あとからいろいろ考えるが、自分の中で結論など出るはずもなかった。
ゆあは、先生の部屋で一晩止まった。その日が土曜日だったので、学校はなかったが、先生は出勤しなければいけない。二人は九時頃に朝食を終えて部屋を出たが、その時ちょうど間が悪いことに、表を掃除中だったのが、PTAの代表の一人だった。
さすがに、この光景を見ると黙っているわけにはいかない。携帯で写メを撮って、それを証拠にしようと思った。さっそくPTAに声が掛かり、臨時で集会が開かれ、ゆあと先生の知らない間に、事態は悪い方へと進んでいったのだ。
そんなことを知らないゆあは、二日間ほど、先生に抱かれたことを身体が覚えていることもあって、先生のことばかりを考えていた。
先生の方は、なるべく忘れてしまいたいという意識があったからなのか、本当に普段と変わりのない生活を進めていたのだ。
それから一週間ほどが経って、二人のことが校長先生や教頭先生の耳に入り、臨時の職員会議が開かれ、その時、初めて自分の立場がまずくなってしまっていることに先生だけは気付いた。
――これはまずい――
と感じたことだろう。
最初に感じたのは、自分の保身だった。いくら生徒が誘惑してきたとはいえ、手を出してしまったのは自分だったからだ。だが、少し考えると、生徒を守るのが先生の役目、自分の保身ばかりを言ってはいられなかった。
――じゃあ、どうすればいいんだ?
先生は悩んだ。
しかし、考えられることを考えても、そのまま事態が進展するはずもなく、考えるだけ無駄だと思うようになった。
ただ、考えないようにしようと思えば思うほど、いつの間にか考え込んでしまうのも人間の性というべきであろう。ゆあの顔を思い浮かべては、シャボン玉のように消えていくその顔が虚しく感じられた。
そのうちに、問題は大きくなっていった。
「杉山さん、校長室へちょっと」
と言われて、ゆあは校長室へと向かった。
先生がちょくちょく教員会議に参加していることは分かっていた。それに先生の家に行くことを控えていたゆあだったが、そんなゆあを先生は横目でチラッとは見るが、何もリアクションを示さないことも気になっていた。
――いよいよ来たんだわ――
とゆあは感じた。
校長室に入ると、校長先生、教頭先生、そして問題の先生がいた。
「杉山さん。あなたが以前、山口先生の部屋から朝、二人で出かけていくのを見たという人がいるんですが、本当ですか?」
と、教頭先生が切り出した。
その時チラッと山口先生を見たが、先生は目を合わそうとはしなかった。
――そんな――
と一瞬、ゆあは感じた。ビックリしたというよりも、呆れたと言った方が正解だったかも知れない。
そんな先生の態度を見てゆあは、
「ええ、本当です」
と言い切った。
「どういう状況だったんですかね?」
と教頭先生がデリケートな部分を含んでいる話のはずなのに、ズバッと聞いてきた。
ゆあは却って申し訳なさそうに聞かれるよりも、ズバッと聞かれる方がよかったような気がして、
「私は先生が好きだったので、お食事を作ってあげたんです」
「それだけですか?」
と聞かれて、また先生を見ると、今度はこちらを見ながら、ハッキリとしない顔をしていた。
それを見るとゆあは、完全に自分の中で何かが切れたような気がした。
「いいえ、先生に抱かれました」
露骨にそう答えた。
それを聞いて、校長先生は少しビックリしたような表情だったが、教頭は落ち着いてさらに続ける。
「合意の上だったと?」
――要するに学校側にとってはそこが問題なんだ。私たちの気持ちなんて、まったく関係ないんだわ――
と思うと、さらに冷めた気分になり、
「いいえ、合意の上ではありません。先生から無理矢理にです」
と言い切ってしまった。
少なくともその時ゆあは、言い切ってしまったことを後悔していなかった。
――ざまあみろ――
という感覚まではなかったが、先生を擁護する気持ちにはさらさらならなかった。
「山口先生。これはどういうことですか?」
と教頭に言われたが、先生は一言も言い訳をすることはなかった。
――先生、ひょっとして、ずっと強引に迫ったと言われていたんじゃないのかしら?
と、思った。
その時のゆあには、罪悪感が残ったが、先生に対して悪いことをしたという後悔はなかった。
――どうして後悔しなかったんだろう?
と後になって思ったが、やはりその時の先生の顔にハッキリとした思いがなかったからではなかったかと感じていた。
先生は、ずっと何も言わなかったことで、自分が認めてしまうことになるのを分かっていたはずだが、何も言えなかった。その思いがハッキリしない表情に出てきたのかも知れないが、それをゆあが勘違いしたのかも知れない。
そのことはゆあの頭の中にもあった。しかし。だからと言って、口に出してしまったことを撤回する気にはならなかった。
――撤回するんだったら、先生が自分から撤回すればいいのよ――
と思った。
だが、被害者が認めていることを、容疑者がどんなに弁解しても、通るわけもない。しかも最初は黙秘していたのだったら、なおさらである。
それから先生はしばらくすると休職扱いになった。どんな処分が下ったのか分からないが、いつの間にか先生を辞めていた。
「あんな先生、辞めて当然よね」
とクラスではもちろんのこと、学校全体がそんな雰囲気になった。
あゆは複雑な心境だった。
――学校全体が私の敵になったかのようだわ――
と感じた。
なぜそう感じたのかというと、
――先生の悪口をいう権利があるのはこの私だけなんだから――
という思いがあった。
その思いを抱いている時は、自分が校長室で言った「偽りの事実」をあたかも、本当のことのように感じているからで、それができなければ、まわりを敵に感じるなどということはないだろう。
それから、ゆあは学校に来なくなった。受験が迫っているというのに、まわりは真剣に心配したが、急にゆあは学校に行くようになり、しっかり勉強して、とりあえず高校に入学まではできたのだ。
「何とかあの子も、ショックから立ち直ってくれたんだわ」
と、両親は安心していた。
高校入試に成功したのだから、そう感じても無理もないことだろう。
だが、高校入試に向かっている時のゆあは、本当のゆあではなかった。入試というイベントに向かっている生徒は皆神経がピリピリしているはずなので、ゆあの精神状態がおかしくても目立つことはなかった。しかも高校に合格したのだから、誰もが、
「やっと立ち直ったようね」
と思ってしかるべきだろう。
だが、本当は違った。
高校に入学することのできたゆあは、それまで自分の仮の姿を表に出していたのだ。高校に入学すると、すぐに学校に行かなくなる。家には、
「行ってきます」
と言っておいて、夕方までどこにいるのか、下校時間になると、普通に帰ってくる。
そんな毎日を繰り返していたが、そんなことがずっと分からないままでいられるはずもない。一年生の夏休み前くらいに、担任の先生から連絡があった。
「お嬢さん、学校に来られていませんが」
と言われ、
「えっ」
まさに親は青天の霹靂だった。
その頃のゆあは、完全な転落人生だった。学校に行くという選択肢はゆあの中にはまったくなく、道を歩いていて声を掛けてきた男の子と仲良くなっては、その日一日を一緒に過ごす毎日だった。それだけに親や先生が探しても、なかなか見つかるものではない。人が集まってくるようなゲームセンターやカラオケ、そのあたりを探しているようではゆあを見つけることなどできるはずもない。
――誰も私のことなんか分かってくれないんだわ――
自分を探しているのを分かっていたゆあだったが、自分を見つけることができないまわりに対して、
――ざまあみろ――
と思いながらも、見つけてくれることのできない自分の孤独さを噛みしめているという複雑な心境に陥っていた。
だから、一緒にいる人はその日限りの相手にしていた。
孤独なくせに、人と馴れ合いのような関係は嫌いだった。馴れ合いをするくらいなら、ずっと一人でいる方がいいという思いに至っていた。もう少しこの環境に慣れてくれば、孤独を寂しいと思わなくなるに違いないと思っていたが、その思いは意外に早くやってくることになった。
毎日違った男の子と一緒にいる日々に、ゆあは次第に飽きてきた。三か月ももたなかったことだろう。気が付けば声を掛けてくる男の子を避けるようになっていて、そのうちに声を掛けてくる男の子もいなくなっていた。
――私の雰囲気が独特で、声を掛けにくくなってしまったんでしょうね――
とゆあは自己分析したが、まさしくその通りだった。
それからゆあは、一人で公園に佇んでいたり、河原で昼寝をしていたりした。河原で横になって昼寝をするなど贅沢に感じられるほど時効のいい時で、気が付けば、流れる雲を見ていて、何も考えていない自分にハッとなっていた。
――私って、絶えず何かを考えていたような気がしたんだけどな――
とゆあは、雲を見ながらそう思った。
本当は何も考えていないように思っていたが、我に返った時にその時考えていたことはおろか、何かを考えていたという意識すら忘れてしまったのではないかと思えた。それだけボーっとしている時間がゆあにとって、それまでにはなかった時間だったということであり、新鮮な気がした。
――何かしないともったいない――
ボーっとしている時間が楽しかっはずなのに、何かをしたいと思うようになったということは、それまでの自分とどこかが変わったからではないかと感じたのも、空を見て新鮮さを感じた自分と同じ感覚だということに気が付くと、それまでの自分の生活をすべて否定してみたくなった。
「何をしたいのかしら?」
人と関わる何かをしたいとは思わない。ゆあにとって今まで何が楽しかったのかというと、何かを作ることだった。
「そうだ。絵を描いてみよう」
目の前に広がった光景を、素直な気持ちになって描いてみれば、意外と描けるような気がした。
――私になんかできっこない――
この思いが今までのゆあの中には確実にあった。
何かをやってみたいと思うことは何度もあったし、実際にやってみたこともあったが、すぐに諦めていた。
できないということを最初に考えてしまうと、できるかも知れないこともできなくしてしまうのが、思い込みだということに気付いていなかったのだ。
――それともできないということがデフォルトであるかのように、自虐的な考えになってしまっていたんだろうか?
とも思ったことがあったくらいだ。
ゆあは、絵を描くと言っても、油絵や水彩画というイメージではなかった。最初は普通の鉛筆でデッサンをするくらいのイメージで、そのうちに、色鉛筆くらいは使ってみてもいいかもと思うようになっていた。
普段は立ち寄ったこともない図書館に行き、絵画についてのコーナーを探した。専門書が多い中で、入門書のようなものを見つけると、本棚から取り出して、閲覧室まで数冊手に持ってやってきた。
窓際の席に座ったのだが、
――そこから見える光景を絵に描くとしたら、どんな光景になるだろう?
というイメージも一緒に抱いていた。
それから毎日のように図書館に朝から訪れて、昼過ぎまでいたが、毎日同じ席で、頭の中にはデジャブがあり、まるで同じ日を繰り返しているような不思議な感覚に、頭の中では勝手に絵が出来上がっている想像をしていた。イメージトレーニングとは少し違っているが、目の前の光景がウソではないと思えることが、その時のゆあには一番大切なことだった。
図書館の窓から見える光景は、いつも佇んでいる河原の上流にあたるところだった。
――この川が流れていったところにいつも私はいたんだわ――
と、想像するとまるで昨日のことのように思えるのに、図書館の中から見える光景を見ていると、河原の光景が、ずっと昔に見ていたかのように思えてくるから不思議だった。
図書館で、絵画の基礎編について読んでいると、実際に描いてみたくなった。文房具店で鉛筆や消しゴムなどの筆記具と、スケッチブックを買うと、さっそくいつもの河原に赴くことにした。
――やっぱり、毎日見ているこの光景だわ――
まったく変わったという光景を思わせない目の前に飛び込んできた風景は、少しでもいつもの場所とずれていれば、まったく違う角度から見たように思えるのではないかと感じさせるものであった。
いつもの場所に座って、スケッチブックを膝の上に置く、そして、揃えてきた鉛筆を取り出して、いざ描こうと思ってスケッチブックに目を落とすと、
「あれ?」
目の前にある真っ白いスケッチブックなのに、ところどころに斑になっているのを感じた。
――色が違っているのかな?
と思ったが、そうでもない。
まるでシミがついているかのように思えていたスケッチブックだったが、一瞬目を逸らしてもう一度目を戻すと、今度は真っ白い色に戻っていた。
しかし、少しの間、同じように目を落としていると、またしても、真っ白い色がくすんでくるのを感じた。
――どうしてなんだろう?
最初はまったく分からずに、鉛筆を落とす気にはならなかったが、どれくらい時間が経ったのか、その正体が何なのか分かった気がした。
――そうだわ。立体的に見えるのよ――
真っ白いスケッチブックやカンバスというのは、すべてがまったく同じ色であるため、平面にしか見えない。しかし、それだけに遠近感が取れなくなり、いつの間にか視力の感覚がマヒしてきているのだ。それに気付かないと、真っ白いものを見続けると、頭が痛くなってくることもあるだろう。それだけ真っ白い色というのは、目には刺激的なものに違いない。
ゆあは、どうして立体的に見えるのかを考えていた。
――目の前にあるスケッチブックのどこに最初、鉛筆を落とそうかを考えていたんだわ――
と感じた。
最初に思ったのは中心だった。
中心を考えると、その中心をまわりから攻めてくるように判断するものなのか、それとも全体を見て、客観的に判断するものなのかということを感じた。
どちらともいえない中で、気が付けば全体を見ている自分がいた。しかし、その時どうしても客観的になれない自分がいることに気付いた。その瞬間、目の前に写っている白い色が閃光を放って光っていると思ったようだ。
一瞬でも目を瞑ることができればよかったのだろうが、その時のゆあは目を瞑ることができなかった。そのため、直接閃光を目に浴びてしまい、ところどころに斑なシミが残ってしまったようになったのだろう。それを残像として片づけられればいいのだが、頭の中で整理できなくなってしまったことで、白い色に感覚がマヒしてきて、立体的に見えることで、遠近感がマヒしていることに無意識に気付いた。そのため、頭が考えを制御できなくなり、激しい頭痛に襲われたのだろう。後から冷静になって考えたゆあは、ここまで考えることができていた。
――我ながら、すごい分析力だわ――
と、感心していた。
――まるで白い色に拒否されているようだわ――
と感じた。
絵を描く一番最初の段階から、一番大きな壁にぶつかった気がした。
これから以降、絵を描いていれば、もっと大きな壁にぶつかるかも知れないという思いはその時のゆあにはなく、これが一番大きな壁であり、それだからこそ、この壁さえ乗り越えられれば、あとは少々のことはあまり問題ではないような気がしていた。
勝手な想像ではあったが、ゆあは、まず目が慣れてくるのを待った。その間に、スケッチブックのどこに最初、鉛筆を落とすのか考えていた。
――どこに落としても、結局は一緒なのかも知れないわ――
最初の一歩が気になって仕方がないだけで、実際に落とした場所から展開させることというのは、さほど難しいわけではないと思えた。
――絵を描けないといっている人は、案外この第一関門を突破できずに、諦めてしまっているんじゃないかな?
と感じた。
これは絵の世界に限ったことではない。小説や彫刻、他の芸術に関係することすべてに言えるのではないか。
――そういえば、将棋の世界でも聞いたことがあるわ。一番隙のない布陣というのは、最初に並べた状態であり、一手指すごとに、そこから隙が生まれてくるって――
将棋の、最初の布陣を考えた人ってすごいと思う。完全な減点法の将棋の世界と、何もない盤の上に一つずつ置いていく以後という加算法の世界。どちらも結局は同じようなものではないかと思うのは、ゆあだけではないかも知れない。
――絵というのは完全に加算方式のように思っていたけど、実際には減算方式も含まれているのかも知れない――
と感じたのは、最初に鉛筆を落とす位置で悩んでしまったからだ。
絵画でも最初に何もないわけではない。真っ白なスケッチブックやキャンバスがあるではないか。それこそが将棋でいう最初に並べた布陣、つまりは隙のない布陣と言えるのではないだろうか。そう思うと、あの時の頭痛を催したという現実も、まんざら理屈として考えられないことではないかも知れないと思えた。
――じゃあ、真っ白なスケッチブックは、百でもあれば、ゼロでもあるということなのかしら?
何かの作品を描こうとして白いスケッチブックに向かった時、そのことを無意識にでも意識してしまうと、頭痛がしてくるのではないかとゆあは感じた。
あの時、確かに無意識ではあったが、真っ白なスケッチブックが、何かで埋まっているような気がしたということなのだろうか?
絵というものは、目の前にある光景を忠実に描き出すのが絵だと思っていたが、果たして本当にそう言えるのだろうか?
「絵というのは、目の前の光景を忠実に描き出すだけではなく、時には大胆な省略もありではないかと思うんだ」
という絵の先生のインタビューを聞いたことがあった。
その人は、新進気鋭の作家として世間ではブレイクしかけの絵描きであり、特に若い人からの支持は絶対で、、あるで宗教の教祖のような怖さを孕んでいるような人だった。
だが、その人のすごいのは、若い人だけではなく、中年以上の人の支持もあることだった。
若い人のほとんどは、絵画に興味のない人ばかりで、彼に対しては、画家としてのイメージよりも、前衛の芸術家としてのイメージを抱くことで、まるで教祖を敬っているかのような雰囲気をまわりに醸し出していた。
しかし、中年以上の支持者のほとんどは、画家であったり、少しでも絵に携わっている人はほとんどだった。
「彼に才能があるのかどうか分からないが、彼の絵には絵としての力とは別に、人を動かせるほどの何か不思議な力を有している」
という評価を与えている人もいた。
ゆあが、絵を描いてみたいと思ったのは、その画家の影響が強かった。
学校に行かなくなって、毎日のように違う男と遊んでいる時、ちょうど特集で放送していたのが、その画家のことだった。
その人は、ほとんどマスコミの前に姿を現す人ではなく、新進気鋭というだけではなく、神出鬼没というイメージまで醸し出されていた雰囲気に、世間は注目していた。
ゆあも、その時は漠然として番組を見ていたが、次第にボーっとしている時、この画家のことを考えていることが多かったようだ。しかし、この画家のことを考えていると、不思議に我に返った時、この画家のことを考えていたという意識が消えているのだ。まさしく、神出鬼没な新進気鋭と言える画家だった。
河原で佇んでいた時、何を思ってなのか、それともタイミングの問題だったのか、絵を描きたくなったのは、その画家への思いがずっと残っていたという意識が無意識に潜在していたからだろう。
――やっぱり、絵っていいわ――
と、素直に感じたのだった。
「なかなか素敵な絵じゃないか」
絵を描けるようになったばかりのゆあにそういって声を掛けてきた男性がいた。彼は軽薄そうに見える男性で、肩にかけているものがギターであることは、ケースを見ただけでゆあにも分かった。
「ありがとう」
胡散臭さを感じながらも、褒められると嬉しいもので、それだけ普段から誰とも話をしていなかったということで、声を掛けられただけで嬉しかった。
そのためこの返事は少し他人事のようではあったが、気持ちの籠ったものであるのは間違いのないことだった。
「俺も昔は絵を描いてみたいなんて思ったことあったけど、今はギターばかりだな」
と言った。
「上手なの?」
とストレートに聞くと、
「それは自分の口から言えることじゃないさ」
と言って、おもむろにカバーを開けると、ギターを弾き始めた。
「まあ、こんな感じだな」
上手なのか下手なのか分からなかったが、ここで聞かせたということは、それだけ自信があるということなのか、それとも寂しさから、誰かに聞いてもらいたいという気持ちがあったからなのか、どちらにしても、ゆあには親近感が感じられた。
彼は、ゆあの隣に座り、ゆあの描いている絵を見るというよりも、ゆあが描いている絵の元になっている光景を一緒に見つめた。
「なるほど、ここなら何かを描いてみたいと思えるスポットだね」
「ええ、昔からこの光景は好きだったんですよ」
というと、彼は別の話を始めた。
「目の前に見えている光景というのは、角度によってまったく違って見えるものだって知ってた?」
「それはどういう意味ですか?」
「君は天橋立って知っているかい?」
急に話が飛んでしまった。
「ええ、日本三景の一つだっていうことくらいは知っているわ」
「行ったことはあるかい?」
「いいえ、あなたは?」
「僕はあるよ。そこでね、天橋立を見るのに、高台のようなところがあって、そこでは面白い見方をするのが有名なんだ」
「どんな見方なの?」
「後ろ向きに立って、身体を前に倒して、股座から覗くんだ」
「へえ、どんな感じなの?」
「場所にもよるんだけど、海が空に見えたり、空に昇って行く竜の姿に見えたりするらしいんだ。僕も覗いてみた時、素直にそう感じたんだけどね」
「すごいわね」
「僕は、ちょうどその時、絵を描きたいと思いながら、なかなか描けなかったんだけど、天橋立で股のぞきをした時、急に描けるようになったんだ」
「何がきっかけだったの?」
「僕は絵を描けない理由が分からなかったんだ。最初からまったく描けなかったんだけど、その理由というのが、最初にどこから筆を落としていいのかが分からなかったんだよね。でも、天橋立で股のぞきをした時、海が空に見えたり、竜が昇って行く姿を見た時、普段見ている光景が、陸がほとんどだって気が付いたんだ。つまりは自分が暮らしている世界が一番広く見えるという錯覚なんだけど、逆さになって見ると、空が一番大きいんだよ。よくよく考えてみると、空が一番大きいのは当たり前のこと。実際に見えている光景が思い込みだと思うことで、なんとなくだけど、絵が描けるような気がしてきたんだよね」
「じゃあ、どうして絵を描くのをやめてしまったの?」
「絵を描けるようになったのが、ゴールじゃないんだよ。実はそこがスタートラインだってことに、なかなか気付かずにね。そのため、すぐに壁にぶつかっては、先に進めなくなる。次第に億劫になってきたんだな」
「分かる気がします。私は今やっと、あなたのいうスタートラインに立てたという気がしているんですが、なるべく勇み足にはならないようにしようとは思っているんですよ。絵を描けるようになっても、絵にだけ集中するわけではなく、他のことにも興味を持ちたいと思っているんです」
それはいいことだ。
彼の名前は清田政治というが、彼は絵を描くのを休止して、音楽の道を志している。絵を描くことに少し疑問を感じていた頃、中学時代の友達に出会って、音楽を勧められたという。
音楽は中学の時に少しギターをしていたが、ちょうど友達のバンドでギターがいないので誰か探していたというのだ。
「ちょうどよかった。俺たちと一緒にやろう」
と誘われ、すぐに了解したという。
「俺が人から請われたことなんて、今までに一度もなかったんだよ。相手に望まれてやることの素晴らしさを、この時、初めて知ったんだよ」
ゆあは、この時の清田の顔を新鮮に感じ、いつの間にか好きになってしまっていた。
絵を描くのは相変わらずだったが、彼のバンドメンバーとも仲良くなっていった。しかし、彼の仲間の一人にロクでもないやつがいて、ゆあを誘惑してきた。ゆあが断ると、逆切れしたのか、その男は力に任せて、ゆあを蹂躙。ゆあは、またしても精神を壊してしまった。
――私って、どうしていつもこんなことになるのかしら?
と考えていた。
ダーツバーに通うようになったのは、それから少しして、これまでの経験から、オトコは怖いというイメージとは別に、自分になら、少々の男は手玉にとれるというくらいの思いも持っていた。
普段は、河原で絵を描いていて、夜になると、ダーツバーで遊んでいる。まったくしhがった性格がゆあの中に存在し、しばらくそんな毎日に感覚もマヒしていったのだ。
「ダーツと絵を描くのって、似たようなものなのかも知れないわ」
というと、
「何だい? どういうことだい?」
と、軽薄な男連中は、ゆあの言葉の意味を真剣に考えてはいないようだった。
「絵を描くことは最初、減算方式に思えたんだけど、実際には加算方式なの。それって確率という意味ではどんどん減って行っているのよ。それはギャンブルにも言えることで、私のようにダーツが下手な人には、的に当たる確率なんて、どんどん上がっていくように思うの。実際には減算方式なのに、加算方式のように感じる。絵とは逆なんだけど、ニアミスという意味で似ているような気がするの」
というと、
「面白いことをいうよな。俺は高校を中退したんだが、中退するまでは野球をやっていたんだ。中学時代はそれなりに有名校で、四番を打っていたのさ。高校もいくつか誘いが来て、その中の一つの高校に野球で入学したんだけど、まわりについていけなくて、結局切り捨てられる結果になって、中退さ。いわゆる転落人生なんだけどな」
ゆあは、今までにそんな人を嫌というほど見てきているつもりだったが、彼は少し違った感じがした。それは、彼にはまだ野球への未練があり、普段はアルバイトをしながら生活する傍ら、少年野球でコーチや審判のアルバイトをして、何とか野球の世界に踏みとどまっているようだ。
――普通なら、ボールを見るのも嫌になるような気がするのに――
と感じたが、ゆあには、その気持ちが、どこか分かる気がしていた。
その理由の一つに、彼が清田とどこか似ているところがあったからだ。
清田は、ゆあが仲間に蹂躙されたという事実を知った時、ショックからか姿を消した。最初は、
――私が一番いてほしい時に姿を消すなんて――
と思ったが、後になって冷静になると、彼が姿を消してくれたおかげで、立ち直ることができたような気がした。
立ち直るというのがどういうことなのか分からない。ダーツバーで遊んでいることが立ち直ったことになるとは実際に思っていないが、これ以上自分が壊れるのを抑えることができただけ、立ち直ったような気がしてもいいのではないかとゆあは思っていた。そんな時に知り合ったのが、この男性だったのだ。
彼は話を続けた。
「僕は、時々、ロシアンルーレットを思い浮かべることがあるんだ」
「ロシアンルーレット?」
「ああ、拳銃のリールが六つあって、その中の一つに玉を込める。そして、リールを回転させシャッフルさせる。そして、その状態で、一人ずつ頭に拳銃を向けて、一回引き金を引く……」
聞いたことはあったが、話を聞いているだけで、ゾッとしてくる思いを感じた。
「どうしてそんなおっかないことを思い浮かべるの?」
「どうしてなんだろうね? 夢で見ていることが多いような気がするんだけど、夢というのは、しょせん覚めるにしたがって忘れていくものなんだよね。でね、その夢を見ている時、僕はもう一人の自分を感じることができるんだ」
「それって、私にもあるかも知れないわ」
「それでね。そのもう一人の自分は、夢を見ている自分に気付くことはなくて、まったく違う世界にいるような感じなんだよ。そしてそこには別の女性がいて、その人と、確率の話をしているんだ」
「まるでパラレルワールドのようだわ」
とゆあがいうと、
「難しい言葉を知っているんだね」
「ええ、私も自分で言うのもなんだけど、いろいろな人生を歩んできたような気がするので、本を読んだりして、自分の人生を考えてみたことがあったのよ。その時、パラレルワールドという言葉を知ったの。でも、パラレルワールドというのは概念的な考えで、信憑性に欠ける気がしていたの。確率的にね。でも、今あなたから確率の話を聞いていて、さらにロシアンルーレットという言葉があなたの口から出てきたことで、私も以前に、ロシアンルーレットの恐怖をイメージしたことがあったように思えたの。その時、パラレルワールドという発想が思い浮かんだような気がしたんだけど、錯覚だったのかしらね」
というゆあの言葉を聞いた彼は、
「そうかも知れない。僕は君がロシアンルーレットを思い浮かべた時、パラレルワールドが一緒に思い浮かんだということはないと思うんだ。それはきっと、僕の言葉から連想するいくつかのパーツが積み重なった時、それをパラレルワールドを発想したからではないのかな? そう思うと、確率に対しての考え方が、パラレルワールドという考えを誘発するのも分かる気がするんだ」
「でも、ロシアンルーレットというのは、本当に恐ろしいものですよね」
「そう思うだろう? でも、それは死というものを意識するから感じることであって、確率が上がっていくということは、それがいい当たりだったら、嬉しいことなんじゃないかな? おみくじにしても、福引にしても、同じことで、最初に当たらなければ、あとはどんどん確率が上がっていくわけだからね」
「本当はいいことから始まったのか、それとも、ロシアンルーレットが起源なのかで、考え方は変わっていきますよね」
「そうだね。僕は、案外最初はロシアンルーレットだったんじゃないかって思うんだ」
「それは恐ろしいですね」
「歴史なんて、結局そんなものだろう?」
と、彼の発想は少し変わっていた。
「実は、僕の頭の中で、もう一人の自分が別の女性と知り合っているのを感じるんだ。彼女とは野球場で知り合うんだけど、それも、僕が野球を諦めきれないという気持ちの表れなのか、考えてみるとその人とは知り合うべくして知り合ったような気がするんだ。根拠はまったくないんだけどね」
彼のいう根拠が信憑性に結びついているのかどうか分からなかったが、ゆあにはその彼女が見えた気がした。
その人は、気が強く、自分一人でも生きていけるというくらいの思いを持った人で、ゆあには憧れに値する人だった。
ゆあは、自分の性格を、
――人に流されやすいタイプ――
だと思っている。
本当は自分が人を誘導できるくらいの性格を持ち合わせていると思っていたが、それは紙一重のところで、逆だったのだ。だからこそ、今まで先生のことも、清田のバンド仲間とのことも、結局は人に流される自分の性格が表に出てきたからではないかと思えるのだった。
――もし、これがロシアンルーレットだったら、当たりをまだ引いていないということになるのよね――
と感じた。
しかし、ロシアンルーレットというのは、当たりを引いてからその後のことは分かっていない。福引にしても、当たりを引けばそこで終わりなのだ。
もう一人の女性が抱いている思いは完全確率方式だった。
彩香は、
「完全確率方式は、一度大当たりを引いてから、また同じ確率に戻ったところからもう一度大当たりをリセットすることになる」
と考えている。
だから、彩香は気を強く持てるのだ。
ゆあは、いずれ自分も完全確率方式になることを願っている。彩香の存在を自分は知っているが、彩香からは自分を知ることはできないと分かっている。そんなゆあに、先が見える観戦確率方式を与えてくれる人がいるとすれば、それは、目の前にいる男、下田なのだろう……。
ゆあの成長は先が見えることを予感させる。完全確率方式こそが、先を見続ける永遠の保障なのかも知れない……。
( 完 )
永遠の保障 森本 晃次 @kakku
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