第2話 野球場での出会い

 その機会は一週間後に訪れた。

 その日は予定していた友達との約束をドタキャンされて、どうしようかと迷っていた時だった。数日前から約束をしていたのだが、

「ごめん。今日、彼とどうしても会わなければいけないんだ」

 と頭を下げられればしょうがない。

 その友達は、彼氏との仲が微妙な時期で、最近まで、

「別れた方がいいのかしら?」

 と愚痴をこぼしていたのだ。

 彼女はすぐにネガティブに考えてしまう方で、ただでさえロクなことを考えないのに、重大なことを簡単に、

「別れた方が」

 などと口にするようになると、赤信号だった。

 まだ、愚痴を聞いてあげるようがマシである。

 ただ、喧嘩の内容は大したことではない。普通のカップルなら、一日経てば言い争ったことすら忘れてしまいそうなことなのに、彼女の場合はなぜか尾を引くのだった。彩香は友達の彼氏がどんな人なのかを知らない。知りたいとも思わなかったが、さすがにこれだけ愚痴を聞かされると、気にもなってくる。

 そんな彼女が

「彼氏と会わないといけないの」

 と言っているということは、何かの結論が出るに違いないと思った。

「いけないの」

 という言葉には二つの意味があると思っている。

 彼氏が何かを決意して会おうと思ったのか。もしその場合は別れを告げられる可能性も結構な確率であるだろう。もう一つは、彼女の方から呼び出した場合である。その時は、彼女の方から別れを切り出すことはないと思っている。

「女性って、男性と違ってギリギリまで我慢するのよ。我慢している間は相手にその思いを知られないようにしながらね。だから我慢ができなくなってキレてしまえば、もう後戻りのできないところまで来ているの。その時、相手の男性は初めて別れの危機に気付くんだけど、後の祭り。そんなことって結構あるんじゃないかな?」

 と言っている友達がいて、その話を聞いて彩香は、

「うんうん」

 と、納得しながら頷いていたが、その友達は、

「え~? そうなんだ。私には分からない」

 と言っていた。

 天然なところがあり、さらにネガティブにしか考えられない彼女は、女性から見るとイライラするタイプなのだが、男性から見ればどうなのだろう?

「守ってあげたいタイプ?」

 という男の子がいたが、彼女に対しての意見はその男の子だけからしか聞けなかった。

 他の人にも聞いたような気がしたが、彼女に対しての答えを得ることができなかった。ひょっとすれば何かを答えていたのかも知れないが、あまりにも印象に残らない返事だったのか、それとも彼らが戸惑いながらの返事だったことで信憑性のなさを感じたのか、まったく意識していなかった。

 そんな彼女にできた初めての彼氏。

「え? あなた今まで彼氏がいたことがなかったの?」

 他の人は驚いている。

 見た目にはかわいらしさがあり、無垢なところが魅力だと思っていた彩香も、意外だった。あまりにも意外なので声が出なかっただけで、声が出れば、奇声をあげていたかも知れない。

「ええ、彼氏と呼ばれる人はいなかったわ」

 と彼女がいうと、興味津々の女の子がさらに質問をした。

「告白とかされなかったの?」

「いえ、されたことはあるんだけど……」

 というと、

「そんなに面食いなの?」

「そんなことはないわ。他の人とタイプはそんなに変わらないと思う。それにね。デートをしたことはあるのよ。でも、続かないの」

 それを聞いた彩香は、

「合わなかったじゃないのかしら?」

「どういうこと?」

「デートまでこぎつけたということは、お互いにお付き合いする気はあったということよね。でも、次はなかったということは、そのデートはぎこちなかったんじゃない?」

「ええ、そういえば、ほとんど会話がなかったような気がするわ」

「なるほどね。相手の男性はかなり気を遣っていたと思うんだけど、それでもあなたが会話に乗ってこなかったことで、冷めてしまったのかも知れないわね。ひょっとするとあなたを好きになって告白してくる男性は、熱しやすく冷めやすいタイプの男性ばかりだったのかも知れないわ」

 というと、他の友達も、

「そうね。言い方は悪いけど、告白してきた男性は、あなたの中に新鮮さを見たのかも知れない。でも、その新鮮さを一度のデートで台無しにしてしまった。気を遣わなければいけない新鮮さなんて、ありえないと思ったんじゃないかな?」

 と言っていた。

 それを聞いた本人は考え込んでいたようだが、

「そうかも知れないわね。じゃあ、私が悪いというわけではないのよね。これからまだまだ彼氏ができるチャンスがあるということね」

 普段からネガティブにしか考えようとしない彼女が、この時ばかりは、楽天的な考え方をした。

――開き直ったのかしら?

 と感じたが、どうやら、その考えに間違いはなかったようだ。

 それから少しして彼女から、

「私、彼氏ができたの」

 と、今までにない嬉しそうな表情で話していた。

 嬉々としたその表情は、他の女の子からも感じたことのない特別な感じがして。

――これも彼女の魅力の一つなんだわ――

 と感じた。

「よかったじゃない。そんな人なの?」

 と聞くと、ニッコリと笑って、

「ごく普通の男性」

 と答えた。

「なるほど、あなたには一番いいのかも知れないわね。気を遣うことを自分で意識しないような男性であればいいわね」

 と彩香は答えた。

「ええ、私もそう思う」

 彼女は、それからしばらく彼との蜜月が続いていたようだった。

 ただそのうち、

「彼が少し冷たくなったの」

 死んだような目をしている彼女を見かけて話を聞いてみると、そういって泣き出したのだ。

「どうしたの? あれだけ楽しそうだったのに」

「ええ、ずっと夢のような時期が続いていたのに、最近は話をすると、返事も上の空になってきたのよ」

 という。

「そんなことだってあるわよ。長い間付き合っていれば、ずっとラブラブなんてありえない。その人にはその人なりのプライバシーもあるでしょう? 仕事だってあるんだし、あなたのまだ知らないその人の家族だっている」

 というと、彼女は考え込んでいるようだった。

「そうよね。確かに私は彼のまだ何も知らないような気がする。いろいろ聞くのも悪いと思うし、本当に話したいことがあれば彼が話をしてくれると思っていたから」

 と彼女が言った。

「そうなのよ。それがあなたが彼に気を遣っているということなのよ。あなたが今まで付き合ってきた男性も同じ気持ちだったのかも知れないわよ」

 というと、

「ああ、そうかも知れないわね。私が知らず知らずに態度が変わっていたのかも知れないわ」

「そうとは限らないわよ。今のあなたのように、ラブラブな期間を過ごしていたことで、それを当然と思うようになると、少しだけ雰囲気が違うだけでも、まったく性格が変わってしまったかのように見えてしまうんじゃないかしら? そう思うと、あなたはそんなに悩む必要はないと思うのよ」

 というと、

「ええ、でも私、彼に少しきついことを言ったかも知れないわ」

「何て言ったの?」

「私のことを嫌いになったの? それならハッキリと言ってって言ったのよ」

 と言って、うな垂れた。

「う~ん、その言葉で彼が少し我に返ったのかも知れないわね。もし本当に嫌いになったのなら、ズバリ指摘されたことでドキッとするだろうし、嫌いになんかなっていないのなら、どうしてそんな発想になるのかと思ったんでしょうね。しかもその後にハッキリと言ってほしいと言われても、すぐに答えられるわけもないことをいきなり問い詰められると、自分のことを本気で考えてくれていないんじゃないかって勘違いするかも知れないわ」

 と指摘した。

 この指摘は今でも悪い指摘ではないと思ったが、相手を考えての指摘ではなかったことを彩香は後悔した。

――ネガティブにしか考えられない相手にいうことではないわね――

 と感じたからだ。

 でも、彼女は思ったよりも落ち込んでいるわけではなかった。

――心配はしているけど、別れることまではないと思っているのかも知れないわね。もしそうなら私も幾分か救われた気がするわ――

 と思った。

 それから少しして、彼女の付き合っている人から連絡があった。二人が付き合い始めてから、何度か会っていた。彼女からは、

「親友なの」

 と紹介されて悪い気がしなかったので、いつの間にか彩香は二人の間のことの相談役のようになっていた。

 連絡をもらったのは初めてではなかったが、少し緊張した。

「どうしたの?」

 と彩香が聞くと、

「彼女と喧嘩したんだけど、仲直りするタイミングが分からなくてね」

 と直球で聞いてきた。

 彼のそんなところを彼女も好きになったのだろう。そういう意味では二人はお似合いのカップルに思えただけに、別れるということは考えたくはなかった。そんな時の相談だっただけに、彩香も少し安心した。

「大丈夫よ。彼女も仲直りしたいと思っているようよ。二人のタイミングが今は合っていないだけなのよ」

 と彩香は言葉を選んで話した。

 もしここで、

「あなたが冷めたように感じた」

 などというと、きっと彼は、

――やっぱり二人は合わないのかな?

 と感じることだろう。

 あくまでも二人は一時的にすれ違っているだけだということを強調し、いずれまだ出会ってからは、さらに愛が深まるということを悟らせなければいけなかった。そういう意味でのタイミングという言葉は悪い言葉のチョイスではなかったはずだ。

 少し彼と話をしたが、話の根幹は最初のタイミングという言葉が凝縮してくれていたようだ。

「分かりました。僕の方から今度連絡を取って、話をします。きっと仲直りしてみせます」

 と言っていた。

 最初に彩香が可能性という確率を考えたが、彼が冷めたという選択肢はこの時に消えていたのだ。

 だが、彩香が彼女から、

「彼に会わなければいけないの」

 という言葉を聞いた時、彩香の中でまるで自分が彼女になったかのように考えているのを感じた。

――私がこんなに感情移入するなんて――

 と自分でもビックリだった。

 それよりも、彩香は彼女の考えの中で可能性の中に感じた確率を考えていた。

――最近、確率というのをよく気にするようになったわ――

 と考えた。

――そうだ。せっかくだから、今日、スタジアムに行ってみよう――

 と思ったのも、確率ということを思ったからだ。

 実は彩香はいつも無意識に確率を考えていた。無意識なので、表に出てこない。それが今回表に出てきたことでスタジアムという発想が出てきた。これも何かの確率に違いないと思った。

 彩香はどちらかというと出不精だった。誰かに誘い出してもらわなければなかなか自分から行動することもない。幸い、いつもどこかに誘ってくれる人はいたので、ずっと引き籠ることはなかった。

 ただ、合コンの人数合わせが多かったのはあまり嬉しくはなかった。合コンに出かけてもなかなかいい人に出会えるわけでもない。会話も弾まない時間を黙々と過ごすのが好きな人がいるわけもない。

 そんな中でこの間野球に誘ってもらったのは嬉しかった。ただ、外野席の雰囲気は好きにはなれなかたtが、もう一度違う席でゆっくりと野球を見てみたいという気分にさせられたのはよかったと思っている。近い将来野球を見に行こうと思ったのが今日になっただけで、今日が特別というわけではなかった。

 野球場までは、バスで行った。満員なのは覚悟していたが、想像していたよりも結構時間が掛かった。最初に来た時は地下鉄に徒歩だった。地下鉄の駅を降りてから十分以上歩いたが、球場へ向かう人の波の中を歩くのは、あまり好きではないのでバスにしたのだが、バスの混雑も似たようなもので、

――結局一人であれば、バスでも地下鉄でもあまりいい気分になれないのはしょうがないことなんわだ――

 と感じていた。

 バスは球場の目の前まで運んでくれる。したがって球場前のバス停に到着すると、乗客はドッと降りることになる。バスの中には球場までのピストンもあるが、球場を途中とする路線バスもたくさんある。球場利用以外の客からすれば、球場へ向かう客の多さには、うんざりしているに違いない。

――私がこの路線に住んでいれば、きっと苛立ってしまうことでしょうね――

 と感じていた。

 野球観戦の客は、一目見ただけですぐに野球観戦だと分かる格好の人がほとんどだ。応援チームの帽子をかぶっているのは当たり前のこと。レプリカユニフォームを着ていたり、応援のためのミニメガフォンや、応援旗を持っている。話題も選手の話やチームの動向など、

――ファン総解説者――

 と言えるのではないかと思うほど、詳しい話に花が咲いているようだった。

 チケットは当日券を購入するつもりで出かけたので、入場券売り場では少し並んだ。

――どこでも並ばなければいけないんだわ――

 と、すでにうんざりとした気持ちになり、帰りたいとまで思うようになっていた。

 帰ろうとまでは思わないまでも、

――もう二度と来ようとは思わないわ――

 と感じていた。

 しかし、入場してしまうと、あとはそこまでひどくはなかった。ここまで来るのに、相当うんざりしていたことと、ほとんどの人が外野席に流れることで、内野席への客は限られている。

 入場料もリーズナブルな外野席と違って、

――毎日のように応援に来たいと思っている人にはちょっと厳しいかも?

 と思うと、それだけゆっくり見ることができるという証拠だと感じた。

 場内に入ると、やはり席は十分に空いていた。外野席のように人で溢れているわけでもないし、応援団がいるわけでもない。客を見ても、まばらな席にはゆったりと座り、お弁当やファーストフーズなどおのおの買い込んで、試合が始まるのをゆっくりと待っていた。

――この雰囲気だったら、ゆっくり見ることができるわ――

 指定席というわけではないので、空いている席の中で好きなところを選ぶことができる。通路を歩きながら、グラウンドを見て、好きな席を選ぶことにした。

――さすがに外野席よりもかなり近くに感じられるわ――

 ベンチ裏が近いせいか、選手がベンチ前でキャッチボールなどをしているのが目の前に見えるようだった。

――こんなに近くで見れるんだ――

 野球に興味がなかった彩香だが、選手のキャッチボールを見ていると、見入ってしまう自分に気付いた。グラブにボールが吸い込まれてから、時間差が少しあってから、

「ズバーン」

 という音が響く。

 その音の大きさに、彩香は魅了されたのだ。

 外野席から見ていると遠近感すら定かではない状態で見ているので、本当に遠くから見ているだけで、楽しみといえば、応援団と一緒になって皆バカ騒ぎするしかない状態なのだ。

 彩香は、入場してから場内に入るまで、裏通路にある店を見てきた。ファーストフーズを買い込むのが目的だったが、その後、グッズ売り場に行った時、見つけたのがファンブックだった。

 そこには選手のデータも詳しく書いてあり、プロフィールを含めたところで詳しく書かれていた。確率を気にして入場したので、データが掛かれているのは嬉しいことだった。

「これください」

 あまり安いものではなかったがそれでも購入したのは、ホームチームだけではなく、他チームの選手のデータや、過去の選手の表彰履歴も書かれていた、それが嬉しかったのだ。

 席に座って試合開始までまだ少し時間があるので、ファンブックを見ていた。購入時には気付かなかったが、最後の方のページに、数ページ、何も書かれていないスコアブックが掛かれていた。

――野球ファンなら、これくらい書くことができるということでの付録のようなものなんでしょうね――

 と感じた。

 最後のページには、スコアブックの書き方が掛かれていた。これも至れり尽くせりなのだろう。彩香はスコアブックを使うかどうかまでは分からないが、買ってよかったと思った。

 彩香が球場入りしたのは、試合開始前一時間くらいだった。会社は球場からすぐで、この日は前に残業した調整で、午後三時に退社できた。こんな日には今までならすぐに家に帰っていたのだが、その日は最初から野球にいくつもりでいたので、昼前くらいからなんとなくワクワクしていた。

 途中までは次第に見に行くことを後悔しかけていたが、入場するとそれまでの苛立ちが少し和らいだ。

――問題は帰りだわ――

 と思っていた。

 それも、最後まで見るから帰りに混むというのは分かっているので、

――七回が終わった頃に帰ればいいんだわ――

 と感じた。

 元々、チームの勝利に興味があるわけでもなく、極端な話、勝とうが負けようがどちらでもよかったのだ。

 野球が見れて、気になっている選手を近くで見ながら確率を考えたりするのが楽しいと思っているだけなので、ラストまで見る必然性はまったくなかった。

 入場した時見た外野席は、まだ満員というわけではなかった。それより気になったのは、

――こんなに人の流れが激しいとは――

 と思ったことだった。

 どんどん人が入場してくる。ただ、それだけではなく、別方向からの人の流れも激しかった。裏に入っていく人も多くて、席を確保してから奥の売店やグッズ売り場を散策する人が多いのだろうと感じた。やはり、外野席というのは、野球を純粋に見る人から見れば、想像もできない世界だったのかも知れない。

 それでも、試合開始三十分前くらいになると、最初ほど人の流れは激しくなかった。入場してくる人は相変わらず後を絶えない感じだったが、

――やっぱりここでよかったわ――

 と、まるで他人事のように見ているのは面白かった。

 三十分前になると、場内放送が始まった。

「本日はご入場ありがとうございます」

 といえ、ウグイス嬢の声から始まって、その次には、その日のスターティングメンバーが発表された。

――そういえば、バッテリーは最初から電光掲示板に書かれていたっけ――

 と感じたが、考えてみれば、こちらのリーグでは予告先発であるということを思い出した。

 それを教えてくれたのは、初めて野球を見に来た時に一緒に行った友達だった。

「これ、常識ね」

 と言っている割には表情が勝ち誇ったような表情だったことで覚えていたのだ。

 一通りスターティングオーダーが発表されると、しばらくは場内は落ち着いていた。選手も練習が終わり、フィールドには誰もいない状態だった。

 少ししてからグランド整備の人たちが出てきてトンボを掛けている。これも野球場の風景の一場面なのだろう。

 そのうちに、ホームチームの応援歌が流れてきて、いよいよ試合開始が間近であることを予感させた。

 時間は試合開始五分前になっていた。

「お待たせしました。選手の入場です」

 という声とともに、ホームチームのベンチ前に、チアリーダーが両脇に立ち並び、選手のための入場ゲートを作っていた。

「まずは、ライトフィールド……」

 と、選手の名前と背番号が場内放送され、その後選手が現れて、ファンに手を振りながら、チアリーダーの作ったゲートをくぐりながら駆け足で自分のポジションに元気よく飛び出していく。

 捕手まで入場が済むと、最後には投手の入場である。

 それまでの歓声とは一味違った歓声に、彩香は少し興奮していた。

 その日の先発がエースであることは、情報として分かっていたので、見に来る一つの楽しみにしていたが、さすがにここまで歓声が違うということは、エースという存在が一味違ったものであるということを改めて感じさせられた。

――やっぱり野球って面白いのかも知れないわ――

 まだ一度しか見に来たことがなく、しかも、前に来た時は最後までうんざりさせられた外野席での観戦だったにも関わらず、

――やっぱり――

 と感じるというのはおかしいのかも知れないと思いながら、それを我ながらおかしいと思った。

 エースがマウンドで投球練習を始めた。他の選手に目が行くことはなく、彩香の目はエースにくぎ付けになった。

「野球って、ピッチャーがボールを投げないと始まらないのよ」

 と友達が言っていたが、

――何を当たり前のことを言っているのかしら?

 としか思っていなかったが、まさかその言葉の裏に何かが隠されているとまでは感じなかった。

――こういうことだったんだ――

 と、いまさらながらに感じたが、エースの一挙手一同に目を奪われてしまっている自分が最初は信じられなかった。

 一言でいえば、

「格好いい」

 という言葉で片づけられるのだろうが、それ以外にも何かを感じた。

 それが、

――マウンド上の孤独だ――

 ということに気付くまで、少し時間が掛かった。

 その日のうちには分かったつもりだったが、分かった瞬間がいつだったのかということは自分でもピンと来るものではなかった。

「プレイボール」

 主審がそう言った。

 その声はハッキリと聞こえなかったが、主審のプレイボールの宣告で試合が始まるということは常識として知っていたので、思い込みがあったのかも知れないが、その時の彩香にはハッキリと聞こえたような気がした。

 エースが第一球を投じた。この瞬間、球場内は静まり返って、皆が固唾を飲んでいるような気がした。

「ストラーイク」

 主審のストライクの宣告に、それまで静寂だったスタジアムが歓喜に包まれた。

 その瞬間、静寂だった時間があったということが遠い過去だったような気がしたが、間違いなくあった瞬間であり、それがどれほどの長さだったのか、彩香は気になっていた。

――結構長かったような気がするんだけどな――

 と感じたが、遠い過去だと思っていることで彩香は自分の感覚がマヒしてきているのではないかと思っていた。

 一回の表のビジターチームの攻撃は、別にチャンスがあるわけでもなく、三人がすべてアウトになることで終了した。いわゆる三者凡退である。

――こういう時、ラジオの解説では、無難な立ち上がりっていうんでしょうね――

 と感じていた。

 今日、野球観戦に来る前、テレビで試合を見たり、テレビのない時は、ラジオをつけて試合を聞いたりしていた。テレビを見ていることで、ラジオを聞いていても想像はつくので、ラジオを不便だとは思わなかった。

――ラジオの方が、想像力を豊かにしてくれる分、ドキドキできるので楽しいかも知れないわ――

 と感じた。

 相手チームの先発もエース級だったので、投手戦が予想されたが、一回を終わってみているだけで、

――この試合、本当にあまり点数が入らないのかも知れないわね――

 と感じた。

 根拠があるのかと聞かれると難しいが、しいて言えば、

「球場の雰囲気がそんな雰囲気だから」

 としか言いようがないだろう。

 エース級が投げているというだけで、ピッチャーがモーションに入る寸前には、それまで賑やかな応援だったものが、急に静まり返る。

 と言っても、完全な静まりではない。どちらかというと、ざわめきを含んでいると言っていいだろう。それはホームチームの応援席も相手チームの応援席も同じで、本当にファンも一球ごとに固唾を飲む試合運びというのは、緊張感に包まれていて、何とも言えない。それを見ていると、

――エース級の投手というのは、毎試合こういう雰囲気で投げているんだ――

 と感じた。

 エース級と言われる人は成績だけではなく、雰囲気の操作やゲームに対しての責任感の強さも要求されるのだろうと彩香は感じた。

 前の試合を見た時は、応援団やその周辺のファンによるお祭り騒ぎに閉口していた彩香だったが、席が違うというだけではなく、選手に近づいただけでここまで感じることができるものかと自分でも不思議に思えてきた。

 試合は三イニング目が終了していた。一球ごとのインターバルは、緊張感から長く感じたが、気が付けば三イニングはあっという間に過ぎていた。実際にここまで三十分くらいしか経っていない。実際の試合運びもかなり早かった。

――やっぱり試合がしまっていると、こんなにも時間が早く経つものなのね――

 と感じていた。

 三イニングが過ぎると、少しイニングのまたぎが時間をかけているようで、緊張感を和らげるにはちょうどよかった。

 それまで見ていなかったが、まわりを見てみると、さすがに入場者が増えてきたのか、さっきまで空席が目立っていた内野席も、結構埋まってきていた。気が付かなかったが隣にも男性が据わっていて、彼もグラウンドを注視していた。

 彩香がその人を見つめていると、

「ん? 何か?」

 と、彼がニッコリと笑ってこちらを見た。

 言い方は面倒臭そうだったが、表情は笑っている。どちらが本音なのだろう?

「え、いえ、お隣に人が来られたことに気付きませんでしたので」

 というと、

「えっ、そうなんですか? 僕が、失礼しますと言った時、あなたは、こちらを向いて頷いたんですよ」

 と言われた。

「えっ?」

 彩香には覚えがなかった。

「私がですか?」

「ええ、少し上の空かなとは思いましたが、、まさか無意識だったとは思いませんでした」

 と彼がいうので、

「それは失礼しました。あなたは、よく野球を見に来られるんですか?」

 と聞くと、

「ええ、仕事が終わってから来ることは結構ありますよ。やはり内野席はいいですよね。選手が近くに見えて、落ち着いて見える」

 という彼の言葉に、

「そうですね」

 と曖昧に答えたが、まったくその通りであり、考えていることが同じだと思うと、ホッとした気分になった。

「あなたも結構来られるんですか?」

「いえ、私は初めてなんです。この間、友達と外野席に来たのが野球場に来たのが初めてだったんですよ。いきなり外野席に連れていかれると、あの雰囲気にはついていけないと思いました」

「そうですか・外野席というのは、最初から騒ぎたいと思っていく人にはちょうどいいんですが、何も考えずに行くと、圧倒された気分になりますよね。特に野球を見にいくという目的が頭の中で強く持っていると、何をしにきたのか分からなくなると思いますね」

「あなたは、外野席に入ったことは?」

「ありますよ。ただ、一人で行くことはない。友達に誘われていくんですが、その時は最初から騒ぐだけというつもりでいくので、それはそれでいいんですよ」

 と彼はまたニッコリと笑った。

「そうですよね。でも、私はもう外野席にはいきたくはないと思います。やはり私にはインパクトが強すぎました」

 と彩香がいうと、

「あなたは正直なんですね。僕も本音はそうなんですが、誘われるとまた行くと思います」

 と言われて、彩香は一瞬ドキッとして、顔が赤面しているのが分かった。

 それを見ながらにこにこ微笑んでいる彼から、まるで心の奥を見透かされている気がしてドキドキしたのだ。

 ただ、余計な想像までされては嫌だという思いもあり、正直という言葉がどこまで彩香の中で嬉しいものなのか自分でも分かっていないだけに、変な想像をされるのはつらいと思わせた。

「あ、僕はここから歩いて二十分くらいのところにある建設会社に勤めている者で、名前を下田隆文といいます。営業をしているんですが、なかなか難しいですよね」

 と言って、髪を照れ隠しに掻いていた。

 そんな彼のベタな反応に、

――この人こそ、嘘がつけない正直者なのかも知れないわ――

 と微笑ましく思えた。

「私は棚橋彩香といいます。仕事は普通のOLです」

 と、漠然とした答えを返した。

 彼が具体的に答えてくれたので、自分ももう少し答えてもよかったのだろうが、彼のペースに引き込まれそうで嫌だった。まだ知り合ったとまでは言えない雰囲気に、どこまで話していいのか、疑問に感じるほどだった。

 下田という男は、年齢的には彩香よりも少し若いかも知れない。しっかりして見えるが、まだ学生の雰囲気が残っているような気がするくらいで、一人で野球を見に来るあたり、彩香には少しまだ彼という人間を分かるには早すぎる気がした。

 そんな会話をしている間に、試合は続いていた。

 気が付けば、四回の攻撃が終わっていて、五回の表に進んでいた。スコアは相変わらずどちらにも点数は入っておらず、まだまだ投手戦の様相を呈していた。

 五イニング目のマウンドに向かうエースの姿は、さっきまでとは少し違っているような気がした。

「さっきまでとは少し違う感じがしますね」

 というと、

「ほう、分かりますか?」

「ええ、なんとなくさっきまでの緊張感と違っているような気がするんです。何と言えばいいのか、さっきまではまわりの雰囲気がピッチャーを包んでいたような気がしたんですが、今はピッチャーのオーラがまわりを巻き込んでいるような感じがするんです。見ているとピッチャーが大きく感じられますね」

 彩香は、ピッチャーの素振りを一回からずっと見てきたつもりだが、そのインターバルに最初の頃と少しずれを感じた、まるで自分に何かを言い聞かせているような気がするようだった。

「彩香さんは、野球はお詳しいんですか?」

「いいえ、この間友達に連れてこられるまでまったく知りませんでした。でも、今日来る時は少しだけ予習をしてきたつもりではいたんですが、それはあくまでルールのような形式的なもので、あとは実際に見なければ分からないものだっていう感覚は持っていました」

 なるほど、その通りですね。じゃあ、僕が少しずつ教えていってあげましょうね」

 という彼に対し、

「ありがとうございます」

 と素直に答えた。

「このイニングというのは、ピッチャーにとってのターニングポイントなんです。五イニングを投げ切れば先発投手としての責任回数を投げ切ったということで、勝ち投手の権利を得ることができるんです。でも、今日はまだお互いに点数が入っていませんから、勝ち投手としての権利にこだわっているわけではないと思いますよ」

「ただの通過点という感じでしょうか?」

「そこまでいうと、少しかわいそうな気がしますね。彼はエース級の投手です。五イニングを投げ切るというのは、自分の中での最低限の仕事だと思っているんじゃないかな? 僕にはハッキリとは分からないけど、ここからが彼にとってのサドンデスの気分なのかも知れませんね」

 と彼がいった。

「そういえば、この間外野席で試合を見ていた時、友達同士が話をしていたんですが、ピッチャーには、百球制限というのがあるような話だったですが、本当なんでしょうか?」

 と彩香が聞くと、

「それは、人それぞれですね。先発ローテーションの投手は、五回を投げ切るとその次に考えるのは、百球という節目です。どうしてなのかというと、野球というのはほぼ毎日試合がありますよね。だから先発投手の数に限りがあると、どうしても次に投げるまで、日数が少なくなる。本当は完投がベストなんでしょうけど、完投させてしまって、次回の登板までに体力が回復しないと、炎上してしまうことになるでしょう? 長いシーズン、チームにとっても、そのピッチャーにとっても、得なことは何もないんですよ。下手をすると、体力が戻らずにそのまま投げれば打たれるということを繰り返していると、ファームに陥落なんていうこともありえなくない。だから、監督や投手コーチがいるのであって、彼らがしっかり選手を管理する必要があるんですよ」

「なるほどですね」

「選手自身も自己管理が当たり前になっています。野球に限らずスポーツの世界はどこもそうなんじゃないかな?」

 と彼は言った。

 グラウンドでは、この回は少しピンチもあったが、落ち着いてピンチを回避し、この回も点数を与えなかった。

「さすがエースだわ」

 と彩香がいうと、

「エースというのは、こういう時に慌てたり騒いだりはしないもので、当たり前のことをしたという顔をするものなんじゃないかな? 彼が本当に笑うとすれば、試合が終わって、チームが勝っている時しかないんじゃないかな? 今の彼は投球数からしてもまだまだ少ないので、完投だってできなくもない。それだけのスタミナを持っているのも事実だし、それがあるから、彼がエースだと言われるんじゃないかって思いますよ」

 と、下田は冷静だった。

――この人の話を聞いていると、私も野球に詳しくなれるような気がしてくるわ――

 と感じた。

 それだけ彼の話は分かりやすいものだった。しかも話が分かりやすいだけではなく、話し方も穏やかで、相手に分かりやすく話すということに長けているのが分かった。それが生まれついてのものなのか、環境や経験で備わってきたものなのか分からないが、彩香にはそのどちらも感じられるような気がした。

「試合もだいぶ進んできましたね。そろそろどちらかに点数が入ってもよさそうな気がします」

 と彩香がいうと、

「そうだね。でもね、投げているのはエース級でしょう? エース級というのは、他の投手と違って、決して慌てないことが必須なんですよ。たとえばこれだけ緊迫した試合運びだと、どちらかに先に点が入るとして、点を取られた方の投手が慌て始めて、そこから大量点に結びつくこともえてしてあったりするんだよ。緊張の糸が途切れる時というのが、人間にとって一番陥りやすい落とし穴ではないかと思うんだ:

 と彼がいうと、

「そうかも知れませんね。特に点が入るとそれまで鳴りを潜めていた応援団が急に下記を取り戻しますからね」

 と彩香がいった。

「でも、逆もあるんだよ。点を取られたピッチャーがその後落ち着いて投げるケースがある。緊張がほぐれたことが却っていい方に影響するということだね。そういう時は一点の代償なんて関係ないんだよ。だから、今度は点数が入った方の投手の方が、その一点を守らなければならないと思うことで、余計に力が入って、その一点を守れなくなることも結構あることなんだよ」

 と言った。

「なかなか難しいですよね」

「よく、ゲームが動くというけど、その通りなんですよ。ゲームの動きの一番の形はやはり点が入ることでしょうね。そしてその次は投手交代だったりします。それまでまったくその投手に歯が立たなかったバッターが息を吹き返したりしますからね。だから、監督や投手コーチにとってピッチャーの変え時というのが一番難しいですよ。ピッチャーの気持ちも大切だし、ゲームの流れを無視することもできない。ジレンマを抱えながらマウンドに向かう監督の姿は、本当に人間模様という感じがしますよ」

 と、彼はしみじみと語った。

 彩香の気になっている選手もその日はヒットが一本も生まれていなかった。ちょうど昨日までで、六打数のヒットと、それまでの打率が三割を超えていただけに、少し目立つ気がした。

 ただ、本来なら、他の選手であれば六打数ノーヒットくらいはなんでもないのかも知れない。しかし、気になっている選手は、ほとんど毎日ヒットを打っていて、三試合ノーヒットというのは、シーズンでも珍しかった。

――スランプなのかしら?

 と思っていたが、そこは最近野球に興味を持つようになった期間の浅さなのだろう。単純に数字でしか判断していなかったようだ。

 下田に、自分が好きな選手の話もした。

「ああ、彼ならこれくらい今までにも何度もあるので気にすることはないよ」

 それまでピッチャーの話をしていた二人が今度は野手の話になった。

「僕も彼のことは気にしてみているんだけど、彼はヒットを量産しているわりには、それほど他の選手ほど人気があるわけではない。打順も四番というわけでもなく、六番や七番が多いんだ。他の選手のように派手ではないところがそれほど人気の上がってこないところなのかも知れないね」

 と言っていた。

「でも、あれだけ打つんだから、人気が出てもおかしくないのにね」

 というと、

「昔の野球。そう昭和の野球だったらそうかも知れない。まだあの頃は、野球ファンというと、男性ばかりで、野球場に来ているのは、ほとんどがサラリーマンで、それ以外は家族連れくらいのもので、若い女性ファンなんて、ほとんどいなかったからね」

――彼はいったい、いくつなんだろう?

 と思うほど、詳しかった。

 そのことに気付いたのか、彼が続けた。

「いやいや、僕がその頃から野球を見ていたわけではないよ。でも、僕の祖父がぷら野球選手だったらしく、よく父親からその話を聞かされていたんだ」

 というので、

「じゃあ、お父さんも野球選手を目指していたの?」

 この疑問は普通の疑問だと思った。

「いや、そんなことはないよ。野球少年だったのは確かなようなんだけど、自分でもプロを目指そうなんて思っていなかったというし、おじいさんも息子にそんな夢を持ってほしくなかったっていうんだ」

「おじいさんはどんな選手だったの?」

「ピッチャーだったという話は聞いているよ。でも、記録や記憶に残るような選手ではなくて、一時期のファンがその当時覚えている程度の選手だったらしい。それでもお父さんはおじいさんが野球選手だったということが誇りだって話をしてくれたんだ」

「お父さんはどんな大人になったのかしら?」

「普通のサラリーマンだよ。大きな夢を持つこともなく、平凡に過ごしたんだ。今はもうすぐ定年を迎えるので、本当にお疲れ様という感じなのかな?」

 と言って微笑んだが、その笑みにはどこか翳りが見られた。

 どうやら、下田は父親の生き方に疑問があるのかも知れない。

「下田さんは、どうして野球を見に来るようになったんですか?」

 下田が、暇さえあれば野球を見に来ているという話はさっきの話の中で出てきたことだった。そのことを別に深く考えることもなかったので、話の中でスルーしたが、今の話を聞いて、もう一度掘り下げてみたくなったのだ。

「元々、野球を見るのは嫌いじゃなかったんだ。野球という競技というよりも、選手の成績だったり、順位だったり、記録だったり、そういう紙面上のところに興味を持ったというべきかな?」

「それは、おじいさんの過去の成績を見ようとしたということがあったとか?」

 と聞くと、少し黙り込んだが、すぐに話し始めた。

「そうだね。きっとそうだったんだろうね。お父さんからおじいさんが野球選手だったということを聞いて、なるべくお父さんの記憶にあるおじいさんの選手としての情報を引き出したんだけど、情報という情報は引き出せなかったんだ。だから、図書館に行ったりして、昔の野球名鑑だったり、大きな図書館ならあるかも知れないと思って過去の選手の成績を載せた本があるかどうか探しに行ったりしたんだ」

「そうだったんですね。それで見つかりましたか?」

「ああ、見つかったよ。ある程度詳しい本もあったけど、僕には過去の野球名鑑という市販で売られているような本程度で十分だったんだ。写真もついていたし、少し古いけど、おじいさんの投げる姿が残っていたりしたんだ」

「それはすごいですね。図書館なら置いてあるんですね」

「そうだね。すべての図書館ではないけど、県立図書館くらいなら、持ち出し禁止で、入場も許可のいる場所だったら置いてあった」

「よかったですね」

「それから、僕はおじいさんの成績を見て、野球という競技を見るというよりも、選手の成績などに興味を持つようになったんだ」

「そうなんですね」

 彩香は、このあたりから、相槌しか打たなくなっていた。

「選手の成績を見ていれば、その選手がスランプなのかどうかって分かるようにもなってくるんだよ」

「えっ? 成績が悪くなったからスランプっていうんじゃないんですか?」

「僕も最初はそう思っていたけど、成績が悪いのはそれだけが原因ではない。それにスランプと言っても技術面から陥るスランプもあれば、精神面から陥るスランプもあるよね?」

「どういうことですか?」

「技術面で陥る場合は、たとえばケガをしたりして、それが完治していないのに、自分のポジションが他の選手に奪われることを恐れて、なるべく早く復帰しようと思うだろう?」

「ええ、そうでしょうね」

「でも、実際には本当に身体すべてが完治しているわけではないので、その部分を無意識にかばって動こうとするだろう?」

「ええ」

「プロの世界というのは、すべてが完璧でなくても通用するほど甘いところではないということはよく分かるよね? つまりは、バランスが崩れているんだよ」

「なるほど」

「でも、本人はそのことに気付かない。今まで通りやっているつもりでも、思ったように結果が生まれない。それは本人が完治に近ければ近いほど陥ることではないかと思うんだよ」

「なるほど、無意識だから分からない。分からないから治しようがないというわけですね?」

「その通り、僕はこれが技術的なスランプの一部ではないかって思うんだ。もっとも、これを精神的と思う人もいるかも知れないけどね」

 確かに彼の言う通りだった。

 こうやって話を聞くと、

――なるほど――

 と納得できる。

「じゃあ、精神的なスランプというのは?」

「それは、プロの選手と言っても人間だから、野球を一歩離れると普通の人間だよね。確かに私生活でも野球中心の生活をしている選手もいるけど、百パーセントそういうわけにはいかない。一人で生きているなら分かるけどそんなこともない。家族もあれば、チームメイトもいる。家族のゴタゴタが精神的に自分の技術を凌駕することだってあるんだよ。だから人間なんだ。また野球の中の世界でも、同じチームメイトと言っても、そこはライバル。皆が仲間というわけでもない。ライバルを蹴落として自分が上に上るなどというのは当たり前のこと。それくらいの気持ちがなければプロではやっていけないという人もいるだろうね。それこそ精神論だよね。いくら技術がともなっていても、精神的に弱ければスランプにも陥るというもの。要するに人間に完璧な人などいないということだよ」

「そうなんですね。厳しいですね」

 というと、

「昔、面白い人がいて、『スランプというのは一流選手が口にすることで、お前のような中途半端な選手はスランプとは言わないんだよ』って言った人がいるって聞いたことがあるんだ」

「どういうことなんですか?」

「僕にもよくは分からないけど、ひょっとすると、そうやってその人を戒めながら、励ましていたのかも知れないね。一つの言葉に正反対の二つの意図を持たせる言葉なんて、そうあるわけでもない。そういう意味では、この言葉が後になっても言いつがれてきているというのも分かる気がするよね」

「そうですね。私も野球に興味を持ってから、昔の選手の言葉というのも、本で見たりするようになりましたね」

 市販で売っている野球名鑑にも幾種類かあって、彩香の買った本には、ちょうど、そんなコーナーがあったのだ。

「下田さんは、おじいさんの成績を見て、どう思いましたか?」

「今の野球とは同じ野球と言ってもまったく違っているので、何ともいえないけど、きっと当時とすれば、平凡な選手だったんじゃないかって思うよ」

「昔の野球と今の野球ってそんなに違うですか?」

「うん、違っているよ。だって、日本の野球の歴史って、百年以上もあるんですからね。それを思うと、昭和から平成に変わった頃は、もうすでに近代野球に近づいていたはずなんだ」

「昔の野球ってどんな感じなんだろう?」

 というと、

「そうだな。特に投手に関してはかなり考え方が違っていたかも知れないね」

「そんなに違ったんですか?」

「今は、ピッチャーも分業制になっただろう? 先発投手が百球をめどに投げて、そこからあとは中継ぎ投手がいて、彼らが最長一イニングを任される感じで、最後の一イニングを抑えと呼ばれる人が出てくるよね?」

「ええ、それが当たり前ですよね?」

「でも、今から三十年以上前くらいは、中継ぎや抑えなんていなかったんだよ。先発ピッチャーは、完投して当たり前、だから、途中交代というと、打たれたりピンチを迎えることでベンチから見切られる結果で降板したんだ」

「そうなんですか? じゃあ、先発ピッチャー以外は、あまりよくは思われていなかったみたいじゃないですか?」

「ベンチとしては、選手を駒と考えているとすれば、ただの駒でしかないんだろうね。見ているファンは、ピッチャーが変わったことで、応援しているチームは負けるかも知れないと一応の覚悟はしていたんだろうね」

「今とまったく違いますね」

「だから、今のようにセーブやホールドなんて記録もなかったので、先発が崩れてからマウンドに上がる選手のことは、記憶にも記録にも残っていないことが多いというわけだよ」

「じゃあ、今のようになったのは?」

「きっと、野球発祥の国であるアメリカの影響なんじゃないかな? 向こうは、日本に比べて国土が広いから、移動などもきついし、しかも試合数も多い。だから連戦の中で先発投手の数に限るがあると、どうしても先発投手を休ませるために、あとのイニングの投手を育てるという急務があったんでしょうね」

「なるほど、だから、百球をめどになんて話が出たわけですね」

「それにね。昔のピッチャーは皆先発ばかりが記録に残っているから、成績もすごかったんだよ。今では二ケタ勝利をあげれば、エース級でしょう? 昔は二十勝というのがその境目だったんだ。だから、優勝チームの中には、二十勝投手が数人いたりしたこともあったくらいなんだ」

「最高でどれほどの勝ち星があったんでしょうね?」

「年間で四十勝した人もいるようだよ」

「四十勝ですか? それはすごい」

「そうだよね。年間百四十試合として、三試合か四試合ごとに先発して、そのほとんどで勝たなければできない成績だよね。信じられないと思うよ」

「そうなんですね」

 彩香は少し考え込んだ。何か胸騒ぎを覚えたからだ。

「それでね。その時四十勝した選手は、あまり長くは活躍できなかったんだ。十年ちょっとくらいは頑張れたようだけど、晩年はそれほどでもなかったということだよ」

「それは、スランプ?」

「ある意味ではそうかも知れない。でも、ピッチャーの使う肩というのは、他の人の使わない筋肉や筋を使うことになるんだ。だから、消耗品でもあり、投げれば投げるほど、悪くなることはあっても、よくなることはない。もちろん、それはピークを迎えてからの話だけどね」

――これが私の中でさっき感じた胸騒ぎの正体だったんだ――

 と彩香は感じた。

「ということは、その経験があるから、今のように、ピッチャーを酷使しないようにしているのかも知れませんね」

 というと、

「その通り」

 と、下田は答えた。

 彩香は、その言葉に嬉しさは感じず、何とも苦虫を噛み潰したような気分になっていた。

 下田はさらに、

「ピッチャーというのは、ベンチ入りの選手の数が限られているので、野手の数との絡みで、何人までベンチ入りさせられるかというのも問題だよね。たとえば、中継ぎ投手などは毎試合ベンチ入りしていないといけない。抑えに至っては、ベンチ入りしないことが許されないほどになっている。でも、難しいのは、抑えというのは、監督としても結構気を遣うし、抑えの投手も、そのおかげで体調管理が難しかったりもするんだ」

 彩香にはその言葉の意味が少し分からなかった。

「どういうことなんですか?」

 と聞き直すのも当然である。

「抑えの投手というのは、エースなんですよ。しかも先発投手のように数がいるわけではない。つまりは、チームで唯一の抑えのエースというわけですよね。確かに一イニング限定で投げさせたりはしているけど、延長戦に入ったりすると、当然イニングをまたぐことになる。だからしh-無によってはダブルストッパーを用意しているところもある。でも、ストッパーというのは精神的な強さを求められるので、自分が唯一でなければ気が済まない人もいたりする。そのあたりが難しい人もいますよね」

「ええ、確かにそうですね」

「そして、抑えの投手というのは、投げる試合が限られるということを覚えておくといいですよ」

「どういうことですか?」

「抑えのピッチャーには、セーブという成績が付くのは知っていますよね?」

「ええ」

「じゃあ、そのセーブがつくのはどういう条件なのかご存知ですか?」

「いいえ」

「一イニング限定であれば、三点差以上の得点差であれば、ポイントはつかないんですよ。その条件として、マウンドに上がった時にランナーがいなければ三点差。一人ランナーがいれば、二点差、そして二人いれば一点差の時にマウンドに上がる必要があるんですよ。要するに、あまり点数が離れていると、ピッチャーにとって楽ですよね。そんなタイミングでピッチャーには、簡単にポイントを与えられないということですね」

「いろいろあるんですね」

「先発投手でも、責任イニングというのがあって、五回を投げ終わっていないと勝ち投手の権利がないと言いますよね。それと一緒です」

「そうなんですね」

「つまり、抑えの投手を登板させる条件として、少なくとも同点以上で、三点差までの間で勝っている時でないと、抑えの投手を登板させられないということですね。それでも抑えの投手はいつもベンチ入りしている必要があるし、用意もしていなければいけない。いつでも行けるようにですね。でもチームが弱かったりすると、いつも最後のイニングで負けていたりすると、登板機会もない。毎試合用意をしながら実践登板がないというのは、いくら何年も抑えをしている人でも、体調管理が難しいんです」

「本当に大変なんですね」

 彩香は、そこまで奥の深いものだということを知らなかったので、相槌を打つくらいしかできない自分に少し情けなさを感じていた。

「抑えの投手というのは、本当に難しいもので、一人のピッチャーが何年も抑えで君臨するというのは結構難しいようですよ。毎年抑えが変わるチームもあるくらいですからね」

「でも、そんな難しいポジションなんだから、今年は抑えを務めた人が、来年は少し楽なポジションを務めたり、それまで中継ぎだった人が抑えをするようなこともあるでしょう?」

「確かにありますけど、難しいところですね。やっぱり抑えというのは、精神的に強い人でないといけないですよね。最後の最後で出てきて、せっかく勝っている試合を逆転されてしまっては、かなりの罵声を浴びるのは必至ですからね」

「でも、一試合だけでそんな判断は酷なんじゃないですか?」

「それはそうだけど、ファンというのは現金なもので、分かっていても試合の勝ち負けで一番の責任がある人を一人作らないと、気が済まないんですよ。熱狂的なファンであればあるほど、そんなものなのかも知れませんね」

「ちょっとかわいそう」

「そうだよね。ファンというのは、本当に理不尽で、自分のストレス解消のために野球を見ている人もすくなくない。でも、プロというのは、そういう人の存在を認めてこそのプロなんじゃないかって思うんです。やっぱり試合を見てもらって給料をもらっているわけですからね」

「そう一刀両断に言われては、何か夢も希望もないような気がしてきますね」

 彩香は、下田に対して言っているわけではないが、自分の中で気持ち悪い部分があることを理解しながら、言葉にしないと気が済まない状態だった。

「でも、抑えのピッチャー以外の中継ぎの人も、彼らの方がピンチの場面で出ていくので、結構大変かも知れませんよ。ファンからすれば、抑えてなんぼだって思っているでしょうからね」

「そうですね。ランナーがいる時の方が多かったりしますからね。一人だけを相手に投げる人もいるくらいですから、いくら分業制と言っても、ちょっと考えますね」

「昔の野球のように、先発ピッチャーが完投するのが当たり前という時代であれば、一人だけを投げるなんていう投手は、あまり注目されなかったけど、今では分業制というおかげで、それも立派な仕事と思われるようになったのはいいことなのかも知れませんね」

 彼のいう、

「昔の野球」

 というのは、見たことはなかったが、元々今の野球も最近見始めるようになった彩香なので、それほど違和感があるわけではない。

「昔の野球というのも見てみたい気がしてきましたね」

 と彩香がいうと、

「僕もそう思うんだけど、それを見ることができないから、本や資料で見て、いろいろ想像するんですよ。それはそれで面白いですよ」

 と下田はいう。

――この人は、結構ロマンチストなのかも知れないわ――

 と彩香は感じた。

 彩香は、どちらかというと現実的な性格なのだが、たまにロマンチックになることがある。

 そんな時は、自分がロマンチックになっているという意識がない時が多い。

 ふと我に返って、

――今、何を考えていたんだろう?

 と感じた時、少ししてから、

――ロマンチックなことを考えていたような気がする――

 と感じ、どうしてロマンチックなことを考える時は、意識がないのか自分でも分からなかった。

――無意識というのは、まるで夢の中を彷徨っているようだ――

 と感じるが、そもそも夢を彷徨っているものだということをどうして感じるのかと、不思議に感じる彩香だった。

「ピッチャーというのは、とにかく消耗品なんですよ。投げれば投げるほど、肩に酷使という言葉がのしかかってくる。そのことを昔の人は分かっていなかったのか、それとも分かっていて敢えて、チームの勝利のために、選手を酷使したのか分からないですよね」

 という下田の言葉に、彩香は疑問を感じた。

「えっ? まさか知っていたなんてことはないでしょう? まるでそれじゃあ、チームのために選手を生贄にしたかのようじゃないですか?」

「ええ、僕はそう思っています」

「だから、近代野球ではピッチャーを守るために、今のような分業制になったということですか?」

「いや、今だって、十分ピッチャーを酷使しているんじゃないかって思うんですよ」

「どういうこと?」

「抑えの投手の話をさっきしたでしょう? あれだった十分に酷使していることになると思いませんか?」

「確かに言われてみれば……」

「それにね。昔言われていた当たり前のことを近代スポーツは否定することが多くなったんですよ。たとえば、今は練習中などでも、水分補給は当たり前になっていますが、昔は練習中に水分を摂るのは厳禁だって言われていたんですよ」

「どうしてなんですか?」

「バテるからだそうです。今は水分を摂らないと、脱水層状になって救急車で運ばれたりすることが多いでしょう? このこと一つをとっても昔とは違うんですよ。昭和の頃のスポーツ選手に、練習中水分を摂るなんて言えば、怒られるかも知れませんよ」

「でも、それは環境の変化が大きいんじゃないですか?」

「そうですね、地球規模の環境の変化ということですね。今の時代、夏の暑さは昔の暑さとはまったく違うらしいですからね。今は最高気温が三十五度を超えることなんか当たり前じゃないですか。四十度近い時もあるくらいで、体温よりも高い気温なんて、昔では考えられませんでしたからね」

「昔って、どれくらいの気温だったのかしら?」

「僕が聞いたところによると、三十年くらい前だと、最高気温が三十三度を超えることなんてほとんどなかったって聞きますよ。今でこそ電車に乗れば全車両冷房が入っていますけど、昔は冷房が入っている車両の方が少なかったって聞きます。それでも我慢できるほどの暑さだったんでしょうね」

「そうですね。今だったら、熱中症でいっぱい救急車で運ばれることになるでしょうね」

「もっとも、昔は熱中症なんて言葉もなかったくらいですからね。日射病という言葉があったと聞きますね」

「日射病ですか?」

「ええ、それが熱中症とどう違うのかは分かりませんが、それだけ今と昔とでは暑さの次元が違っていたんでしょうね」

「それは規模が違うんじゃなくて、次元が違っているということですか?」

「ええ、あなたのいうのは、日射病の延長戦にあるのが熱中症ということなんでしょうか、私には、どうも違うように感じるんです。だって、熱中症というのは部屋にいる人だってなるっていうでしょう? 冷房の効いている部屋でもなる人がいることもある。日射病という言葉は限定的な気がするので、僕は敢えて、規模が違うとか、度合いが違うとかは言わず、次元が違っているという言い方をしたんです」

 と、下田は言った。

「なるほどですね」

 と言って、彩香は少し考え込んでしまった。

「少し話が脱線してしまったけど、ピッチャーはとにかく消耗品なんですよ。だから、なるべく選手を肉体的な部分だけで見るんじゃなく、メンタルな部分でも見ておかないと、精神的な部分で壊れていく人もいるでしょうね。精神的に傾いていれば、いくら身についているといっても、フォームのバランスを崩してしまう。バランスを崩せば、当然今まで投げれていたボールもうまく投げれなくなり、相手に簡単に打ち返される。そうなると、ピッチャーも自分のフォームの狂いに気付いていないと、さらにフォームを変えようとするかも知れない。それは本末転倒なことなのに、気付かないことが自分の罪であることになってしまいます。そのうちに、体のバランスを崩すことで、故障も起こしやすくなり、どんどん泥沼に入り込むことになるでしょうね」

「その選手が復活できればいいんですけど……」

 というと、

「それはそうなんだけど、チームとしては、いつまでもその選手の復活を待っていられない。だから、選手の復活をバックアップしながら、並行して新しい抑えの育成もしている。もちろん、絶対的なエースがいる時でも、それに続く選手の育成もしているはずなんですよね。もしものことを考えるから。実際にもしものことが起きてしまっているわけだから、育成が急務になってくる。すでに抑え候補ができあがっていれば、そのままその人に抑えとしての地位を奪われ、取って変わられるということになりますよね。それが勝負に生きる人の宿命というべきなのかも知れませんね」

「そうですね。その抑えの人が今の自分の地位を築くきっかけになったのも、前任者が同じように崩れてしまったことからなのかも知れませんしね」

「その通り、彩香さんも分かってきたじゃないですか」

 と言われると、少し照れ気味に、

「ええ、下田さんがよく分かるようにお話してくれているからですわ」

 と答えた。

「そう言ってくれると嬉しいです。とにかくチームにとって、抑えのポジションに誰もいないということは一番困ることなんです。もし、そうなると対戦するチームが考えることは、少なくとも今までであれば、八回までに負けていれば、絶対的な抑えのエースが出てきて、あきらめないまでも、頭の中では、このまま負けてしまうと思い、首脳陣の頭の中は明日の試合を考えてしまうことになるでしょう。でも、抑えがいないとなると、最後まであきらめない気持ちが強くなり、そんな首脳陣を選手が見て、ベンチもあきらめていないんだから、自分たちがあきらめるわけにはいかないと思って、最後に逆転する可能性が大きくなります。しかも、相手は自分のチームに抑えがいないという劣勢な思いがあるので、完全に頭の中は守りに入っていますよね。スポーツというのは、守っている時も攻めの気持ちがなければ、押される一方で、それだけで完全に不利なんですよ」

「分かります。理論的にも精神的にも今のお話はよく分かる気がします」

 と彩香がいうと、

「精神的な部分と肉体的な部分を最初は切り離して考えていても、最後には必ず重ねあわさなければ考えは生まれてこない。その時にうまく組み合わなければ空中分解してしまうでしょうね。チームの首脳がそうなってしまうと、試合どころではなくなり、その試合はおろか、今後のチーム運営にも支障をきたすことになります。結構大きな問題になるんじゃないでしょうか?」

 と、下田は言った。

「いろいろ勉強になります」

「ところで、彩香さんは完全確率方式という言葉をご存じですか?」

「いいえ、初めて聞きました」

「パチンコなど、されたことありますか?」

 といきなり聞かれて少し戸惑ってしまったが、

「え、いいえ」

 と、とりあえず答えた。

 どう答えていいのか、返答に困ったからだ。

 彩香は、パチンコをまったくやったことがないわけではない。大学時代の友達に連れていかれて、少しだけやってみたことはあった。嫌いというわけではないが、嵌ることはなかった。

「彼氏が結構パチンコに嵌っていてね。私が一緒について行ってコントロールしないと、有り金全部使っちゃうのよ」

 というのが友達の言い分だったが、彼女も結構パチンコが好きなようで、彩香から見れば、

――どっちもどっちという気がするわ――

 と思っていた。

 彩香の場合は、大当たりをしては喜んで、収支よりも、大当たりを見るのが楽しみだった。そういう意味ではお金を追いかけるわけではないので、大当たりに恵まれなくなると、その台を追いかける気はしなくなっていた。さっさとあきらめてパチンコ屋を出るのだった。

 最初は友達に連れていかれてやったという気持ちが、いつの間にか暇つぶしに繋がっていき、誰かと行くよりも、一人でフラッと行く方が多くなった。

 そのうち、彩香がパチンコをしているということを知っている人は誰もいなくなり、表面上は真面目な女の子だった。もっともパチンコ以外のギャンブルをするわけではないので、普通に真面目と言ってもいいだろう。彩香の場合のパチンコの目安は、時間で制限を掛けていた。一時間なら一時間、ちょうどその時に大当たりしていなければ、さっさとあきらめるという気持ちがしっかりしていたのだ。

 そういう意味では収支も大きくマイナスになることもない。適度な遊びとしては、ちょうどよかったのだ。

 パチンコは勝つ時もあれば負ける時もある。データを集めたりするところまで徹底はしていないが、台を見極めるくらいはできるようになったと思っている。だから、一時間の間、最初に座った台でいつも粘っている。立ち回りなど、彩香の辞書にはなかったのだ。

 ただ、最近はパチンコにも行く回数が減ってきた。

――飽きてきたのかしら?

 と思うようになっていた。

 そう思うということは、パチンコという遊戯をしている自分がまるで他人事のように感じられるようになったからではないかと感じていた。

 パチンコ屋では馴染みになっていて、店のスタッフや常連客と話をすることもあり、それが結構楽しかったりする。彼らはパチンコをしているということにある程度の罪悪感を抱いているのか、いつもパチンコ屋で見る顔があると安心するようで、お互いに同類という意識を持っているようだ。

 彩香も、何人かパチンコ屋で話をする人がいる。台の動向や、自分たちの最近の成績といったありきたりの会話なのだが、会社で同僚と世間話をしているよりも、よっぽど楽しいと思えた。

――やはり私はパチンコが好きなのかしら?

 と思っていた時期が一番パチンコをしていて楽しかった。

 しかし、最近では、自分がパチンコを好きなのかということに疑問を感じるようになっていた。

 大当たりをしても、最初の頃ほど喜びを感じないようになっていた。その理由が最初は分からなかったが、どうやら、台の特性が分かってきたことで、連荘しない時というのが、だいたい分かるようになってきたのだ。

――そんなこと分からずに単純に喜んでいた頃が懐かしい――

 と感じていた。

 そのことを他の常連さんに話すと、

「それは誰もが通る道のようなものだよ。一過性のものだから、あまり気にしない方がいいんじゃないかな?」

 と、楽天的に話してくれた。

 そして、

「パチンコって適度に楽しむものだということを意識してさえいれば、楽しみなんてすぐに戻ってくるわよ」

 と、女性の常連さんがそう言っていた。

「そうなのかしら?」

 というと、

「それは人それぞれだけど、打っていて、他人事のように思えてくる時があるんだよ。そんな時、我に返って、パチンコをやめていく人もいるようなんだけど、その人にとって、それが一番いい選択で、やめられる時にやめるというのは潔さという意味も含めて、素晴らしい選択なんだって思うよ」

 と、もう一人常連が言っていた。

「なるほどですね。そうかも知れませんね」

 と、彩香は彩香なりに納得していた。

「彩香ちゃんは、やめてもやめなくても、あまり変わらない気がするわ」

 とさっきの女性がいった。

「どうしてなの?」

「だって、あなたは最初からパチンコを他人事のように打っているように見えたからなのよ。本人はそんなつもりはないと思うんだけど、見ていると、どこか他人事なのよ。だからのめり込むこともないし、自分の制限の中で楽しむことができる」

「それは言えるかも知れないわね。意地になってお金を入れたりしたことはなかったような気がするわ」

 というと、

「それがなかなかできないから、パチンコでイライラしたり、自分を犠牲にしたりすることになるのよ。私たち常連は、皆そんなことはないでしょう? 普通に趣味としてやっているだけなので、大当たりというものを他人事と思えるのよ。大当たりするのが目的なんだけど、その目的のために、どのような台を選ぶかということだったり、どんな立ち回りをするかということを探究するのが、本当の意味での目的になるのかも知れないわね」

「じゃあ、目的のために探究するのが本当の目的ということになるのかしら?」

 と彩香がいうと、

「そうかも知れないわね。でも、目的が二つというのもおかしいのよ。だから、最終的な目的が他人事のように思えれば、探究が本当の目的として意識することができるというものなのよね」

 と言われた。

「パチンコって奥が深いものなのね」

 彩香はそういって、皆に微笑んだ。

 他の常連の人は、それぞれにデータを持っていて、解析をすることで自分の立ち回りに生かしているようだった。

――まるでパチプロだわ――

 と感じていたが、彼らに言わせれば、

「パチプロなんて言われると心外だな。自分たちでいかにして楽しむかという同好会のような気分でやっていることなので、しいていうと、他の常連には負けたくないという思いの方が、自分の収支よりも大切な気がしているんだ」

 ということだった。

「まるでゲーム感覚ね」

 というと、

「そうだよ。パチンコはギャンブルではなく、ゲームだと思えば、結構楽しいものだよ。彩香さんも最初はゲーム感覚だったでしょう?」

「ええ、収支よりも大当たりを見るのが楽しかったものね」

「じゃあ、最近のパチンコ台についてどう思っているんですか?」

 と聞かれて彩香は、

「最近の台は、やたらと煽りがすごいのに、なかなか当たらないように感じます。少し前の台だったら、これくらいの煽りがあると大当たり確実って思えていたようなことが、結構外れてみたりするんですよ。そういう意味ではやっていて、結構疲れますね」

 と、率直に答えた。

 それを聞いて他の人も、

「うんうん、それは同感ですね。私も同じように思っていました」

 と、まわりのみんなは一斉に頷き、質問者が代表して答えた。

「パチンコ業界も、今は結構規制が厳しくなってきたので、なるべく客離れを防ごうと、あの手この手を考えているんでしょうけど、ここまでされるとさすがに冷めてしまう気分になってきます」

 と彩香がいうと、

「彩香ちゃんも結構玄人好みの考え方ができるようになってきたわね」

 と言われ、少し恥ずかしく感じられた。

「パチンコって、いろいろな確率の台があるでしょう? 大当たり確率によって、マックスだったり、ミドルタイプだったり、ライトミドルだったり、甘デジだったりと、彩香ちゃんはどれが好きなんだい?」

 と、常連の中でも一番貫録のある人に言われた。

「私は、その時の気分によって違いますけど、だいたいはライトミドルが多いかな?」

「どうしてなの?」

「マックスやミドルはなかなか大当たりに結びつかないので、時間で制限をしている私には、向いていない気がするの。かといって、甘デジだと、大当たりの確率は高いかも知れないけど、そのほとんどが出ても、下皿がいっぱいにもならない程度でしょう? あっという間に呑まれてしまって、せっかく当たったのに、その感激の余韻が冷める前に玉がなくなってしまうのはさすがにですね」

 といった。

「なるほど、やっぱり一回当たったら、持ち球でもう一回当てたいわよね。マックスだったら、確かにたくさん出るけど、次までにかなり時間が掛かる。時間制限をしていなくても、結構疲れるものなのよ。だから、僕もマックスはほとんど打たないですね」

 と、若い常連さんが言った。

「マックスの楽しみは、連荘してこその楽しみですよね。確変に次ぐ確変だったら、あっという間にドル箱が増えていって、これ以上の楽しみはないですからね。一度その楽しみを味わってしまうと、今度はやめられなくなる危険性もあるんですよ。今日は駄目でも、次こそはってね」

「それが一番危険なのかも知れませんね。僕も前に一度同じ思いをして、気が付けばその時の勝ち分の倍をその後の何回かで持っていかれて、気が付くと、金銭感覚がマヒしていました」

 という人の横で、冷静にもう一人が、

「それは誰もが通る道なんじゃないでしょうか? 僕にも同じ経験がありますよ。頭の中で計算しているつもりでも、計算を凌駕する感覚ってあるもので、マイナスになっても、前のように出ると、一気にプラスになると思うから、どんどん泥沼に入ってしまうんですよ。それが金銭感覚のマヒだと思うんですが、金銭感覚を計算できる力だと思うのであれば、実際にはマヒしているわけではないですよね。泥沼に入っていく自分を見たくないという思いから、金銭感覚がマヒしているという言い訳を頭の中に描いてしまうんでしょうね」

「それではまるで、金銭感覚のマヒは、悪いことではないように聞こえますが?」

「僕はそう思います。金銭感覚のマヒという言葉の中に、すぐにお金を使っている自分を他人事のように思うことを含めてしまっているから、言い訳のように思うんです。どうせ他人事のように思うのであれば、パチンコにのめり込んでいる自分を見ているもうひとりの自分の存在に気付けばいいのではないでしょうか?」

「それができないから、パチンコに溺れてしまうんでしょうね」

「ええ、その通り。でも、パチンコの場合は、このように他人事のように思うことが二種類あって、片方がいいことであり、片方が悪いことであるという意識は、他にも言えると思うんです。他の場合は、それぞれに力が均衡していて、お互いを打ち消すことで、他人事という意識がまったくない場合がほとんどだと思うんです。だから、他人事という言葉を聞くと、まず悪いことのように意識してしまうので、なるべく考えないようにしているんでしょうね」

「パチンコの場合は?」

「ただでさえ、パチンコをしている人には、大なり小なりの罪悪感があるので、他人事という意識を持つことは、普通なら悪いことにしか考えられないでしょう。でも、それを敢えて感じることができるというのは、意識して感じているんだと思います。それは罪悪感に打ち勝つためのものであり、罪悪感自体が他人事だと思うようになると、そこに他のことのような均衡が同じ力で保たれるということはないと思うんです。それなのに、他人事を意識させないのは、無理して他人事という意識を考えないようにしているからではないでしょうか? だから逆にふとしたことで他人事という意識を思い立てば、今度は意識からなかなか抜けてくれないことを感じるでしょう。それをいいこととして捉えるか、悪いこととして捉えるかということで、大きくその人の感覚が変わってくる。パチンコをやめたいと思っているのにやめられないと思っている人は、どうしても、他人事という意識を自分に都合よく考えてしまうからなんでしょうね」

 と、本当に冷静に淡々と語っていた。

「パチンコ屋には、パチンコの他にスロットってあるじゃないですか? あれはどんな感じなんですか?」

 彩香の友達の中にはパチンコをしている人もスロットをしている人もいた。それぞれにいろいろ話をしていたようなのだが、興味がなかった頃は何を言っているのかさっぱり分からなかったこともあって、まったく聞いていなかった。しかし、下田が勝手にパチンコの話を始めたことで、漠然としてではあるが、パチンコに興味を持った。そのついでにスロットについてもこの際だから聞いてみたいと思ったのだ。

「彩香さんはスロットにも興味があるんですか?」

「と聞かれて、

「興味があるというわけでもないんですが、友達にパチンコが好きな人とスロットが好きな人がいて、今まで興味がなかったんですが、せっかく下田さんがパチンコを教えてくれたのだから、一緒にスロットの話もしてくれると、これから友達の話にも少しは入っていけるんじゃないかって思ったんです」

「なるほど、今まではパチンコもスロットも毛嫌いしていたけど、今話を聞いて少しパチンコに興味を持った。友達のことを考えると、パチンコだけを知っているというのはなんとなく不公平な気がしたんですね?」

「ええ、その通りです」

「彩香さんは正直な人だ」

「そうですか?」

「ええ、そうですよ」

 そういって、お互いに笑みを浮かべた。

 そして下田はおもむろに話始めたのだった。

「パチンコとスロットというのは、ゲーム性という意味で違っていますね。パチンコの場合は基本的に、玉がアタッカーに入ると液晶だったり、リールが回転して、三列ある数字や図柄が揃えば大当たりということになる。でもスロットの場合は、三枚のコインを入れて、レバーを叩くと、リールや液晶が回り出して、これが揃えば大当たり。あくまでも基本的にですね」

「ということは、パチンコはアタッカーに入らないと何も起こらないけど、スロットの場合は必ずリールは回るということですね?」

「その通り。でも、大当たりの確率はそれぞれで違うし、当たるための演出も問題だったりする。演出があるからゲームをしている人はドキドキするんだし、特性を知っていると、もっと楽しいものだと思いますよ」

「パチンコは、少しだけやっている人を見ていたことがあるので、なんとなく分かります。リーチが掛かってから演出が始まって、連続演出だったり、色が変わったり、約物が落ちてきたりするとチャンスだったりするんですよね」

「ええ、その通りです。スロットも同じような演出なんですが、パチンコとスロットの一番の違いは、スロットには設定というものがあるということかも知れません。もちろん、他にもいろいろな違いがあるので、人によって一番の違いという部分は一定しないでしょうが、分かってくると楽しいという意味で、僕は話そうかと思います」

「設定というのはなんですか?」

「設定というのは、一から六まであるんですが、数字が上がるごとに当たりやすかったり、勝ちやすかったりするというものですね。ざっくりとした言い方ですみませんが、設定がいいからと言って、必ず勝てるというわけでもないんです」

「というのは?」

「設定差というのは、その機種によっていろいろあるんです。スロットというのは、パチンコのようにリーチが掛かればチャンスが来るわけではなく、何かのチャンス役というものを引いたら文字通りチャンスになるというわけです。そのチャンス役を引くと、チャンスゾーンというところに発展して、そのゾーンにいる間は当たるための高確率状態に入っていると思えばいいでしょう。だから、まずはチャンス役を引けるかどうか、そしてチャンス役を引いて、どれだけの確率でチャンスゾーンに入るかということが大切になりますよね」

「ええ、そうですね」

「そこに設定差というのが入ってくるんです。たとえばチャンス役を引く確率として、設定一なら、三パーセントだけど、設定六なら十パーセントあるとかですね。つまり、確率が高くなればなるほど、大当たりに近づくわけで、でも、設定六でもしょせんは十パーセント、必ず当たるというわけではないですよね。しかも、それはチャンスゾーンに入るための確率でしかないですからね。でも、設定が悪いよりもいい方がいいに決まっている。だからスロットをする人は設定のいい台を探しているんですよ」

「なるほど、そうなんですね」

「パチンコの場合は設定というものはありません。あくまでも、公表されている大当たり確率をものにするために、一番考えることは、よく回る台を打つということになるんです。つまりは、どれだけアタッカーに入るかということですよね」

「なるほど、スロットの方が難しい感じがしますね」

「そうですね。まずは台の特性を知らないと、闇雲に追いかけることになってしまう。投資も増えるし、なかなか当たらない。だから、スロットにはいろいろなものが台に含まれているんです」

「たとえば?」

「たとえば、ゲーム数によって、チャンスのゾーンがあるということです。さっき言った、チャンス役を引かなければいかないチャンスゾーンとは違って、たとえば百ゲーム付近とか、二百五十ゲーム付近に、高確率になりやすいゾーンが隠れていたりします。それも設定によって、確率が上下したりするので、本当に台の特性を知る必要はありますよ」

「そうですね。そのゾーンを逃すと次まで結構あると思うと、他の台を見てみようという気になったりもしますからね」

「ええ、その通り、いろいろなところに潜んでいる設定を読むのも、スロットを打つ醍醐味だったりします。またスロットには天井というものもあるんですよ」

「天井ですか?」

「ええ、パチンコや一部のスロットにはないんですが、決まったゲーム数まで大当たりがなければ、必ず当たるというものです。これは確実に当たるので、天井が近い台を探している人もいるくらいですよ」

「それはすごいですね」

「面白いのが、天井の中には、天井に到達すると恩恵を受けられる台もあるんです。たとえば、必ず高確率から始まるとかですね。でも、その恩恵のために、ショックを受けるkともあるんですよ」

「どういうことですか?」

「ある程度まで打ち込んでいって当たらなければ、当然天井を目指すようになるでしょう? 大当たりすればそれだけで恩恵が受けられるということで、天井狙いが多くなる。でも、そういう恩恵を受けられる天井を搭載している台は、そのほとんどが天井手前で当たってしまうゾーンがあるんです。もちろん、天井に到達していなければ恩恵は受けられません。つまりは、かなりの投資をしていて、天井で回収しようと思っても、手前で当たってしまうと、投資分の回収どころか、単発で終わってしまうと、当たってもまったく嬉しくないですよね。天井に行くのと行かないのでは天と地ほどの開きがある。これもスロットの醍醐味なのかも知れませんね」

「本当ですよね。でも、それでも天井があるというのはありがたいことだと思いますね。天井に到達しても、到達しなくても、必ず当たるわけですからね」

「物は考えようということですね」

「スロットにしてもパチンコにしても、共通しているのは確率ということですね。スロットは設定によって、それぞれの場面で確率が変わってくる。複雑ではあるけど、それだけに楽しいとも思える。私のような素人には難しいかも知れませんね。しかも、スロットは当たれば、リールを揃えなければいけないでしょう? 七だったり、バーだったりとですね」

「ええ、でも今の台は揃えなくてもよかったりしますよ。大当たりが確定すれば、勝手に揃う台もあるし、揃わなくても揃ったことにしてくれる台がほとんどです。だから、コインを無駄に消費することもないし、遊びやすくなっているんですよ」

 彩香がパチンコよりもスロットに興味がないのは、揃えなければいけないという段階があるからだった。

――もし私がやるとすれば、きっと揃えられずにあたふたとしてしまうに違いないわ――

 と感じていた。

「でも、スロットの台の特性は、パチンコ屋に設置してあるその台の説明書があるんですが、それでは完全ではないんですよ。たとえば天井についてゲーム数を書いていなかったり、設定差の確率や、どこに設定差があるかなど書いてないことが多いです。だから知らない台を打つ場合は、それなりに研究していく必要があるんですよ」

「どこで研究するんですか?」

「本屋の雑誌コーナーにある、パチンコ、パチスロの攻略本を買って読むか、それともネットで調べるかですね」

「ネットでですか?」

「ええ、メーカーの公式ホームページにはパチンコ屋で出ている説明書くらいのことしか書いていませんので、たとえばその台の掲示板などを覗いてみるのもいいかも知れません。実際に打ってみた人がいろいろな情報を落としてくれていたり、または、攻略のサイトについて書いてくれていたりします。攻略のサイトは、その機種を検索しても出てきますが、より正確なサイトを探したい場合は、掲示板を有効に使うのもいいと思います」

「でも、掲示板の信憑性の問題もありますよね?」

 と彩香が聞くと、

「だから、有効性を気にする必要があります。自分で実際に打ってみて、その感触に近い内容のことを書いているサイトは信憑性が高いかも知れません。見極めは自分の感性によると思った方がいいかも知れませんね」

「なるほど、奥が深いんですね」

「ええ、その通りです。パチンコにしてもスロットにしても、問題は確率なんですよ。彩香さんは、確率については、野球を見ているので、普段から感じるものがあると思いますが、僕も野球とパチンコは似ていたりすると思うんですよ」

「野球の打率は、そう簡単なものではないですよね。その人間の出すものなので、スランプだったり、好調な時期が定期的に訪れるわけではない」

「パチンコだってそうですよ。パチンコは完全確率方式ですからね」

「さっき、一番最初におっしゃっていたことですよね」

「ええ、そうです。これはパチンコだけのものではないんでしょうが、あまり使われるものではないんですよ。福引やおみくじの確率とは少し違いますからね」

「というと?」

「福引というのは、最初に当たりを引かなければ、次の確率は上がってくるわけでしょう?」

「ええ」

「玉が五十個あって、その中に一等賞が一つ入っているとすれば、最初に一等賞を引く確率というのは、五十分の一ということになる。でも、最初にはずれを引くと、次の確率は四十九分の一ということになる。ここまでは分かりますよね?」

「ええ、分かります」

「だとすれば、どこで当たるかは別にして、五十回引けば、必ず当たるということになりますよね?」

「ええ」

「じゃあ、パチンコで大当たり確率が三百分の一という台があるとすれば、必ず三百回のうちにあたりを引けますか?」

 と言われて、彩香は少し考えた。

「確かに引けない場合がありなす」

「ね。五十回転で引けるかも知れないけど、五百回転回しても引けない場合がある。それはどうしてかということなんですよ」

「どうしてなんですか?」

「それが完全確率方式というもので、大当たりを引けなければ、次の回転でも同じ確率で抽選されることになるからなんですよ。つまり一度外れた玉を、もう一度福引の中に入れて、二回目も五十個で福引を行うということになるからなんです」

「なるほど」

 とは言ったが、彩香は少し疑問を感じた。

 それが何なのか分かりかねていたが、その疑問を感じるということを、彼は想像していたようで、

「福引なら分かるけど、どうしてパチンコの場合、ここまでハッキリとした確率が出てくるのかって思うでしょう?」

「ええ」

 彼は、財布から十円玉を取り出した。

「ここに十円玉が一つあります。これを十回投げて裏が出る確率はどれくらいですか?」

「ハッキリとは言えません」

「そうですよね。裏が何度か重なって出る可能性もあるし、表が何度も重なる場合もある。でも、それは十回だからなんですよ。それが二百回、五百回、千回と増えていけば増えるほど、二分の一に近づいてくると思いませんか? それが完全確率という考え方なんですよ」

「なんとなく分かりましたが、大当たり確率は、どこまであてにすればいいんですかね?」

「それもその人の感性でしょうね。やはり、その台の特性を知って、打ち込んでいくうちに自分で感じることで理解する。さらに回数を重ねると、大当たり確率に近づいてくるという感覚をどれほど信じられるかということなのかも知れませんね」

「じゃあ、それまでの履歴も大切だということになるでしょうか?」

「それだけを信じてやるのは危険を伴うことになりますね。やはり確率というものを頭の隅に置いておいて、自分の感覚でゲームを楽しむのがパチンコであり、スロットだと思います」

――しょせん、ギャンブルなんだわ――

 と思っていた世界だったが、話を聞いてみると、その奥の深さに驚嘆していた。

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