第3話 理不尽でマナー違反な連中
その日は、思ったよりも暑い日で、実に寝苦しい日でもあった。クーラーを入れると、寒くなりそうで、頭痛持ちの人間には、結構きついものがあった。
前の日は仕事が遅くなって、家に帰るとそのまま着替えもせずに布団に入り込み、眠ってしまったと思っていた。だが、実際にはちゃんとパジャマを着ていて、
――少々意識が朦朧としていても、やることだけはやるんだな――
と、潜在意識の強さに感心したものだ。
眠りに就いたのが何時だったのかハッキリとしない。家に着いた時、夜の帳が下りていたのは間違いないので、午後八時は過ぎていただろう。目が覚めて時計を見ると午前零時頃、思ったよりも目覚めが早かった。
暑さからの寝苦しさで目が覚めてしまったのだが、思ったよりも早かった。ある程度熟睡していたことを思うと、午前二時は過ぎていると思っていたのに、思っていたよりも、眠りは浅かったのかも知れない。
――夢を見ていた――
普段の夢なら、目が覚めるにしたがって忘れていくものだったが、その日は、目覚めの瞬間よりも、時間が経つにつれ、夢を思い出すようになっていた。
――あれはつかさだったのではないか?
子供の頃に出会ったつかさ。
不治の病で死んでしまったつかさ。
意識の中で堂々巡りを繰り返すようになった原因を作ったつかさ。
隆二にとってつかさという女の子は、今でも神秘的に頭の中に記憶されていた。
――本当につかさは死んでしまったんだろうか?
今年二十五歳になった隆二は、いまだにつかさのことを夢に見る。
そして、目が覚めてから次第に忘れていく夢とは違い、つかさを夢に見た時は、目が覚めるにしたがって、思い出していくのだった。だから、逆に夢が鮮明になっていく感覚を覚えた時、
――つかさの夢を見たんだ――
と思うことで、余計につかさが鮮明に記憶の中からよみがえってくるのを感じる。
しかし、つかさは夢の中だけの存在であり、現実にはいないのだ。だから思い出してしまう夢は決して楽しい夢ではなく、切なくも悲しい夢であることに違いない。
夢の中のつかさは、元気だった。不治の病などとは信じられないほど元気で、真っ白いワンピースが眩しいお嬢様だった。それは。初めて出会った時のつかさを思い出させ、何も知らない自分を今の自分は羨ましく思えるほどだった。
夢に出てきたつかさは、高校生くらいであろうか。子供の頃に出会ったつかさとも、成長して今の年齢に達したつかさとも違う。
――どうして、この年齢のつかさなんだろう?
と考えたが、考えれば考えるほど、答えは一つしかなかった。
――高校生くらいのつかさと一緒にいたかった――
という気持ちが強かったからだ。
「私、高校生になった夢を何度も見るのよ」
つかさはそう言っていた。
病気のせいで、高校に通えなかった彼女は、高校生にならずに成長し、そのまま帰らぬ人になってしまった。そのことを思うと、
――俺の頭の中だけでもm、つかさを高校生にしてあげよう――
と感じるのだ。
二十五歳になった隆二の頭の中には、高校生を想像するつかさと、出会った時の二十歳前のつかさだけしか残っていない。だから、今から見れば年下でしかないのだ。
――俺は、年上のつかさに憧れていたはずなのに――
と感じたが、実際には自分が年上になってしまうと、年上であることに安心していた。
どうして年上の自分に安心するのかを考えてみたが、それは自分が死ぬこともなく、順調に成長しているのを感じるからだろう。それぞれの年齢で刻めば、それなりに悩みがあったり、人生に疲れたような気分になることもあったが、基本的には前を向いて生きているので、その安心感は妥当ではないかと思うのだ。
隆二はつかさと出会った時のことを思い出していた。
「確か、白い閃光を感じ、後光が差しているその先に、白いワンピースを着たつかさがいたんだっけな」
隆二は声に出して思い出してみた。
声に出さないと、ハッキリと思い出せない気がしたからで、隆二にとってのつかさがどんな存在だったのか、思い出しただけでは分からない。
――ひょっとして、その時も分かっていなかったんではないかな?
と感じた。
つかさに対しては、彼女が不治の病だと聞く前は、いくら相手が年上であったとしても、自分の方が男であり、世間を知っていると、会話の中から感じたことで、彼女よりも優位に立っていると思っていた。
それは、自分がまだまだ成長期で、背伸びをしたいと思っていたからだということに気付いていなかったからだろう。
しかし、つかさが不治の病であるということを知ると、次第に自分の背伸びが恥ずかしくなり、何をどうしていいのか分からなくなる。そんな時、
――この状況を切り抜けられれば、僕は大人になれるんだ――
とも感じた。
目の前にいる不治の病で苦しんでいる人を足場にして自分の成長を考えるなど不謹慎だと思っていたのに、何ともやりきれない気持ちだろう。自分の中で言い知れぬジレンマに陥っていたことに、その時の自分は気づいていなかった。
つかさという女性がそのまま成長すれば、どんな女性になっていたのか、いろいろと考えてみた。
――まるで乙姫様のような雰囲気に、僕のような質素な雰囲気の男性はまるで浦島太郎ではないか。僕にだって、乙姫様のような女性に好きになられる可能性だってあるんだ――
と感じていたり、
――出会った時の神秘的な雰囲気と、不治の病に冒されているという彼女の境遇とが自分の頭にあるせいで、彼女を神聖な領域として見てしまっていたけど、結局、彼女が死ぬことはなく二十歳を迎えると、ただの人だったというイメージが頭の中に残っているかも知れない――
とも感じた。
また、
――自分には触れることのできない相手であり、まるで絵の中の存在のような彼女には、永遠に憧れが残るだけで、交わることのない平行線を描くというジレンマに苛まれていき続けなければいけない――
とも感じた。
そうなると、どこかで彼女との別離を考えなければいけなくなり、別離がジレンマを解消してくれることになるのかどうか、自分でも分からなかった。
いろいろ考えていると、結局最後は、
――彼女も二十歳になればただの人――
という結論に落ち着いてしまう。
彼女がいなくなってしまったから、そんな結論を強引に引っ張ってきたのかも知れない。隆二にとって、今まで出会った女性で印象に残っているのは、つかさだけだったのだ。
思春期を通り過ぎてからの隆二は、自分が女性を異性として感じるよりも、女性を憧れとして感じている自分にビックリしていた。
――白いワンピースを着てみたい――
これは最初に感じたことで、その思いの原点はつかさにあるに違いない。
実際に白いワンピースを着てみたことがあった。幸いにも隆二は男性の中でも小柄で、少し大きめのワンピースであれば着れなくもなかった。ワンピースに袖を通す時のドキドキ感は、今までに感じたこともないような興奮だった。
最初にワンピースを着てみたのは、高校生の頃だった。さすがに女性用のかつらを持っているわけではなかったので、鏡で見たその姿は嗚咽を催すもので、
――こんな姿、もう見たくない――
と思ったが、せっかく着たワンピースをすぐに脱ぐ気にはなれなかった。
肌に纏わりつくワンピースの生地、身体が熱くなるのを感じたが、妙な汗も出てきた。汗を出てきたからであろうか? 身体から異臭がしてくるのを感じた。
別に、香水を振り掛けたわけでもなかったのに、その匂いは決して嫌なものではなかった。
――つかさに感じた匂いだ――
あの時、つかさにどんな匂いを感じたのか思い出せずにずっといたが、確かに匂いを感じていたことだけは覚えていた。それが、何も振りかけていない自分がワンピースを着ただけで感じるようになるなんて、
――何かの力が働いているのではないか――
と感じられた。
――つかさって、どんな女の子だったんだっけ?
改まって思い出そうとすると、ハッキリとは思い出すことができない。
――新鮮な感じがして、高貴な感じだったな――
最初に思い出すのは、こんなに漠然としたものだった。
しかし、この漠然とした思いをきっかけに、どんどんいろいろなことを思い出してくる。それはどうしてなのか、最初は分からなかったが、
――きっと、あれから何度も夢を見ているからであろう――
と感じるようになった。
しかもその夢が普通の夢と違い、目が覚めるにしたがって思い出してくるという、
――本当に夢なんだろうか?
という思いを抱いてしまう夢だったのだ。
そう考えると、
――夢というものは、一つの種類だけではなく、他にもいろいろあって、自分以外の人は他の種類の夢を見ているのかも知れない――
と感じてきた。
夢について話をすることはあっても、それは内容についてであり、夢そのもののメカニズムについて話をすることなどないからだった。
だが、そのために、他の人が夢についてどう考えているのか分からない。ひょっとすると、夢の種類が一つではなく、複数あるのが当たり前だと思っている人もいたりすると、自分の考えが傲慢なものではないかと思えてくる。
だが、他の人を見ていると、何も考えていないように思う。もし、絶えず何かを考えている人がいれば、その人の考えている姿は見えてくるものだと思うのだ。見えてこないとするならば、自分がその人によほど興味がないか、相手が他人に意識されないように作為的に感情を隠そうとしているとしか思えない。
だが、感情などというものは、隠そうとすればするほど、相手に看破されるものではないかとも思え、結局、
――人が何を考えているかなど、見えるわけはないんだ――
という結論に至ってしまう。
そうなってくると、人のことなど考えるのは無駄なことのように思えてくることで、
――人に関わるのは嫌だ――
という考えに至るのだ。
人に関わるのが嫌だという考えは、漠然としたものから来たものではなく、考えに考えて、考えが一周することで行き着いた先にあるものだといえるのではないだろうか。
隆二は、つかさの夢を見るたびに、目が覚めてから、いろいろなことを考えるようになった。
目が覚めるにしたがって夢の内容を思い出していくのだが、完全に目が覚めてしまうと、今度は夢の内容をまた忘れてしまう。
それは完全に夢の世界から離れてしまい、現実世界に戻ってしまうからであろうが、それよりも、夢についてであったり、自分のことを現実的に考えようとしてしまうからではないだろうか。
いろいろなことを考えていると思っているは、結局はいつも同じことを考えている。プロセスは違っていても、行き着く先が同じであれば、同じことだと言えるのではないだろうか。
隆二が目を覚ました時、いつも汗を掻いている。それは夢を見た時でも、夢を感じなかった時でも同じであるが、夢を見た時の方が、圧倒的に汗の量は半端ではないほどにすごいものだ。
シャツに沁みついた汗は、搾れば洗面器に張ってしまうほどの量である。そんな時、身体に冷たさを感じ、身体全体に重たさを感じてしまう。
そんな日は、一日を通して、身体にダルさが残っている。
――今日も夢を見るんだろうか?
と寝る前に感じるが、気持ちとしては、
――夢を見たい――
と感じる。
それは、前の日の夢の続きを見たいと思っているからで、本当は夢の続きなど見れるはずがないと分かっていながらの思いであった。
つまりは、一日を通してダルさの残る汗を掻いた時というのは、決して怖い夢ではなかった。目が覚める時には、
――このまま目が覚めてほしくない――
と思えるほどのいい夢を見ていたのだ。
そんな時というのは、夢を見ている時に、
――自分は夢を見ている――
と感じるもので、それを完全に目が覚めるまで、感じているのだった。
そんな感覚でいても、目はいつものように覚めるもので、気がつけば出かける準備ができていた。着替えが終わると頭の中は仕事のことでいっぱいになっていて、これもいつものことだった。
しばし、夢のことは忘れていた。ネクタイを締めると、仕事モードになるからで、仕事をしていると、嫌なことも忘れられると思っていた。
会社までは電車で行くのだが、毎日の満員電車にはウンザリしてしまう。それよりももっと嫌なのは、駅に向かうまでに見かけるサラリーマンの中に、咥えタバコをしている連中を見かけることだった。
――今の時代、タバコを吸う人の方が珍しいんだから、マナーを守らない人は目立つんだよな――
と思っていた。
これは同僚も同じ意見のようで、その同僚はタバコを吸う愛煙家だった。
「タバコのマナーって、一時期はよかったんだけど、また悪くなっているような気がするんだよな」
と隆二がいうと、
「そうだよな。本当は愛煙家の俺たちとしても、タバコが吸える場所が限られてくるのは非常に辛いんだよ。実際に限られてくることよりも、その分肩身が狭く感じられる方が辛いというもので、嫌煙の人はどう思っているか知らないけど、たまったものではないよな」
とその同僚は言った。
「でも、本当の愛煙家というのは、ちゃんとマナーを守れる人じゃないかって思うんだ。一部の不心得者のために、嫌な思いをすることになるんだよな。ただでさえ、今は空気がきれいになっているんだから、余計にタバコの匂いって目立つんだよ。それを分かっていないんだろうな」
と隆二がいうと、
「それは愛煙家から言わせてもらっても同じことだよ。本当にあいつらのせいで、ちゃんとルールを守っている人間まで白い目で見られる。それは理不尽なことじゃないかな?」
これが、愛煙家の本音なのだろうと、隆二は思った。
「それは俺も思っていたよ。ルールを守れないやつらに言ってやりたいものだ。『お前たちは嫌煙家だけではなく、愛煙家まで敵に回したんだぞ』ってね」
というと、
「まさしくその通りだよな。一部の不心得者には、そんなことが分からないんだ。そんな連中は、仕事をしても、家庭を持っても、ロクなことはないよな」
二人は、そんな会話をしながら、お互いのストレスを解消させることで、溜飲を下げていた。
その頃から、隆二は自分の中に不思議な力が芽生えていることに気付いていた。それは力が芽生えたことを最初に感じたのではなく、自分の身体に変調を感じることで分かったことだった。
しかも、身体に変調を感じたのも、その前に精神的な矛盾を感じたことから始まっていた。その矛盾というのは、
――俺の中に、もう一人の自分がいることに気がついた――
というものだった。
もう一人の自分と言ってしまうと御幣があるかも知れない。
――俺の中に、もう一人、誰かが潜んでいる――
というべきだろう。
それはまるで
――ジキルとハイド――
のように、別人格の誰かが潜んでいるのだ。
もし、これを他の人にいうと、
「それってただの二重人格なんじゃないか?」
と言われるかも知れない。
しかし、二重人格であれば、もう一人誰かが潜んでいるとは言わない。
――もう一つの人格が潜んでいる――
というだろう。
そして、二重人格であれば、本人にもそれがどんな性格なのか分かっていて、そっちの性格に陥ってしまうことが分かるようになるはずだ。
しかし、隆二にはもう一人の自分がどんな性格なのかも、いつどんな時に、もう一人の自分が現れるのか、分かっていない。
気がつけば、自分に戻っているのだが、どこか違和感だけが残っていて、その違和感が何を起こしたのかも分からない。ただ、おかしな気分が残っているだけだ。
しかも、もう一つの性格が表に出たという意識があるのに、他の人が自分に対しておかしな態度を取ることはない。別の性格を示したのであれば、まわりの人も混乱してしまい、元に戻ったとしても、まわりはまだもう一人の性格ではないかと思い、そのように対応してくるはずである。
まわりからは、一切そんなおかしな態度で接せられるようなことはない。こちらからおかしな様子を見せれば、早いタイミングで反応があるはずなのに、違和感があった時に限って、普段よりも余計に落ち着いた雰囲気をまわりが醸し出しているのだった。
――思い過ごしなんだろうか?
とも思ったが、実は違和感というのは、悪い方の違和感ではなく、スッキリとした気持ちよさが残る違和感であった。
――ストレスが一気に解消されたかのようだ――
普段から理不尽なことに腹を立てることが多くなってきているのに、スッキリとした気持ちよさを感じている時は、理不尽なことがこの世から消えてしまったかのような満足感、いや、達成感に近いものがあった。
――達成感?
満足感だけにとどまらず達成感があるというのは、自分の目指すものが叶った時に感じることであり、しかもそれは自分の手柄である時に感じるものだった。
――俺の中にいる誰かというのは、いったいどんな力を持っているのだろう? 達成感を感じるのだから、自分だという意識があるのだろうか?
だが、少しすると、自分の中の誰かの存在を感じなくなってくる。それはまるで目が覚めるにしたがって忘れていく、普通に見る夢のようではないか。また、沸々とよみがえってくるストレスと理不尽なことへの憤り、前にも増して、ひどくなってくるのを感じる。
――スッキリとした気持ちよさが終わったあとの反動なのだろうか?
とも感じられた。
しかし、それこそ、自分の中にいるその人間が、自分ではないという証拠ではないだろうか。もう一人の誰かが本人の意識以外のところで何をしているのか、分かればいいのだが、どうして分からないのだろう。分かってしまうと都合が悪いのか、その誰かの存在は、少なくとも隆二には知られてはいけないものなのかも知れない。
それでも、
――いつかは、現れてくれるに違いない――
と感じた。
もう一人の自分という発想は、思ったよりもたくさんの人が感じているのだということを誰かから聞いたことがあった。しかし、ジキルとハイドのような発想を自分の中に抱く人は誰もおらず、この発想は二重人格であったり、自分の中にもう一人の自分がいるという発想よりも、さらに進んだ発想であるということを隆二は感じていた。
それは長所と短所のようなものではないかと思った。
――長所は短所の裏返しであり、そのくせ、隣りあわせでもある――
という。
裏返しだったら、見ることができないはずで、理屈的には合っているように思うが、隣り合わせだとすれば、目の前にあっても、気付かないもののように感じると、それはまるで、
――路傍の石――
のようではないか。
路傍の石というのは、目の前にあっても、決して誰にも気にされることはない。
――あって当たり前――
という発想からか、なくても別に気に掛けられるものではない。
ただそれが本当に重要なものなのか、それは誰にも分からない。
――路傍の石のみぞ知る――
とでもいうべきであろうか。
隆二は、通勤時間帯があまり好きではない。駅に向かうまでの歩行者の群れであったり、満員電車の混雑具合、とにかく関わりたくない相手が人そのものだと思っているので、接近することも最近は嫌になってきた。
その日、隆二はいつものように家を出て、駅に向かったが、どこかいつもと違った違和感があった。
今までに感じた違和感とは違うもので、最初から、
――何かが起こる――
ということが分かっていたかのようだった。
いつものように、線路沿いの遊歩道を歩いていると、目の前からタバコを咥えて、あたかも、タバコを咥えて歩くのが当然と言わんばかりに歩いている姿には、傲慢さしか感じられなかった。
「キッ」
思わず相手を睨みつけて、歯軋りをした。普段はそれだけで、満足はしなかったが、自分の中で、怒りを表に出したということでの中途半端な満足があった。
――どうせそこまでしかできないんだから、やらないよりはマシだ――
と感じていた。
だが、それは負け犬の遠吠えのようで、情けない気分も半分はあったのだ。
それでも、
――自分は間違っていない。悪いのは相手だ――
という自負があるので、自己満足にしかすぎないが、それでもよかった。やってもやらなくてもストレスに繋がるのなら、やらないよりもいいと思ったのだ。
しかし、その日は急に頭が痛くなった。偏頭痛に近いものがあり、
――まるで頭が虫歯の痛みのように、ズキズキする――
と思ったのだ。
虫歯の痛みと表現したのは、
「虫歯って、放っておいて治るものではない。ただの頭痛とは違うので、ちゃんと病院にいかないと」
と言われたことが頭に残っているので、この時の頭痛は、すぐには治らないということを自覚しているということを示していた。
その場に座り込んでしまったような気がする。
タバコを吸っているやつだけではなく、まわりを歩いている人誰も気にもかけてくれない。声を掛けてくれるわけでもなく、俯いてしまった自分の横を、足音だけが聞こえてくるのだ。
こんな痛みの中でも、
――なんて薄情な――
と感じた。
もっとも、下手に声を掛けられるよりも、本当は放っておいてもらう方がいいのではあるが、それでも自分が人と関わりたくないという思いの裏づけになったようで、何とも皮肉な気分だった。
――ううう――
痛みは次第に深まっていき、そのうち、脈打っている頭が、次第に膨れてくるように感じられた。開けることのできない瞼の裏には、真っ赤な色が広がっていて、そこには黒い細い線が無数に広がっていた。それはまるでクモの巣のように環状になっていて、それが毛細血管ではないかと思うようになるまで、少し時間がかかった。
耳鳴りが聞こえる中、人が歩いている足音が次第に消えていった。頭の痛みもそのうちに麻酔がかかったかのように、感覚がマヒしていき、気を失いかけているのを感じていた。
「大丈夫ですか?」
気がつけば目を開けることができるようになっていて、目を開けると、そこには青い空が広がっていた。
決して眩しいという感じはなかった。背中は少し硬いところにのっかかっているようで、そこがベンチの上であることが次第に分かってきた。
「ああ、すみません。ベンチまで運んでくれたんですね?」
と礼を言うと、
「いいえ、あなたが自分からベンチの方まで歩いてこられたんですよ。ただ、かなり足元はふらついていましたけどね。だからよくここにベンチがあるって分かったものだって感心したくらいです」
と、助けてくれた人がそう言った。
「でも、ずっと見ていてくれたんですね。ありがとうございます。助かりました」
というと、
「少しの間、気を失っておられたようでしたので、気になってですね」
「どれくらい気を失っていたんでしょうか?」
「五分くらいじゃないですか? あなたが苦しみだしたのを見たのは、まだだいぶ向こうからでしたからね」
その人はどこかのOLさんのようだった。
「そうなんですね」
というと、
「でも不思議なんですよ。遠くから見ていると、あなたが女性のように見えたんです。雰囲気もそうですし、体型も女性にしか見えなかったのに、近づいてみると男性でしょう? 自分でも不思議で仕方がなかったんです」
それを聞いて、隆二はビックリした。
今までに、女性のような雰囲気だなどと言われたこともないし、女性のような体型でもなかったはずだからだ。
介抱してくれた彼女を見ると、
「どこかで会ったことがあるような気がするんですが……」
と思わず声に出していた。
彼女も一瞬戸惑ったが、
「そうですか? 気のせいかも知れませんよ」
と言って、笑っていたが、
「気のせいですよ」
と、完全な否定はしなかった。
しかも、その時の笑顔は、決して悪意のあるものではなく、迷惑をしているという雰囲気でもなかった。むしろ、親しみを感じる笑顔で、まんざらでもないというイメージが漂っていた。
ベンチから起き上がった隆二は、腰にまだ痛みがあるのを感じていたが、頭痛がしていたはずなのに、どうして腰に痛みを感じるのか分からなかった。しかも、この痛みは今までに感じたことのないもので、決してひっくり返ったり、こけたりしたものではなかった。
――いったいどうしたんだろう?
一人で考えていると、
「まだ、顔色が悪いようですね。もう少しお休みになっていればいいかも知れませんね」
と声を掛け、隣に座った。
「私も、まだ少し時間がありますので、ご一緒してもいいですよ」
と言ってくれた。
「それはそれはありがとうございます。でも、本当にいいんですか?」
「ええ、今日はこれから予定もありませんし、一人でいるよりも誰かとお話している方がいいんです」
と答えた。
その横顔は少し寂しそうだったが、すぐに元に戻り、辛さを醸し出している雰囲気でもなかった。
寂しいからと言って辛いとは限らない。人間、一人になりたい時もあるものだ。また、寂しい気持ちの時、今までの自分にまったくかかわりのなかった人と一緒にいることで、気分転換になることもある。かくいう隆二にもかつて同じようなことがあり、寂しさにかこつけて、友達でもない人と話をしたりしたこともあったくらいだ。
だからと言って、その人とそれ以降友達になったわけでもない。相手もちょうど話し相手を欲していた時期だったようで、
「話ができてよかったよ。スッキリした」
と言ってくれて、自分も寂しさが解消できたことを含め、嬉しい思いだった。
――彼女は、以前の自分のような気分になっているのかも知れない――
以前の自分は、こんな風に気分の悪い人を見かけると、近寄っていって、声を掛けたりしたものだ。もちろん、自分に時間的にも精神的にも余裕のある時でないとできないことだが、そんな時、ある一定の優越感に浸っていた。
――自分が話しかけることで、相手も安心できるんだ――
何ができるというわけでもない。その時々で状況も違っているはずなので、精神的に余裕のある時でなければ、話しかけたりはしない。話しかけて相手を怒らせる結果になってしまっては、こちらがバカみたいだ。
「放っておいて」
と一蹴されると、一人取り残されてしまうことで、後悔と相手への恨みが残るだけだった。
それこそ最悪であるが、精神的に余裕のある時であれば、意外とそんなことはない。自分の精神的な余裕がまわりの空気を和らげるのか、まわりの空気に洗脳される形で、自分の気持ちに余裕ができるのか、隆二は精神的に余裕がある時は自分でも分かるので、そんな時こそ、出会いが待っているという予感を感じるのだった。
ただ、今までに女の子に声を掛ける機会はなかった。
――下心がみえみえなのかな?
自分でも、下心がみえみえだと思う時もあれば、そうでもない時がある。そこは、精神的な余裕とは結びついていないようだ。
今回は、女性の方から声を掛けてくれ、体調の悪いところを助けてくれた。ただ、彼女には隆二が女性の雰囲気に見えるようで、隆二としては複雑な心境だった。この日は普段なら湧き上がってきそうな下心が思ったよりもなく、ないからこそ、話しかけてもらえたのだろうと思うのだった。
下心はないが、心の中に何か違和感があった。
――そうだ、目の前で咥えタバコをしているやつがいて、そいつを見ていると、頭痛に襲われて、気がついたら、ベンチで横になっていたんだ――
ということを思い出した。
そのことを助けてくれた彼女は知らないだろう。何しろ自分の心の中だけで思っていることだからである。だが、その思いを知ってか知らずか、彼女は不思議なことを語り始めた。
「そういえばさっきですね。おかしなことがあったんですよ」
と言い出した。
「おかしなことというのは?」
「今から十分くらい前のことなんですが、目の前で一人の男性が急に消えてしまったんです」
「えっ、どういうことですか?」
頭の中にイメージが湧いてきそうになったことが、この驚きの正体だった。
「目の前にいた人がいきなり忽然と消えたんですが、数人が見ていたはずなのに、一人だけが声を挙げたんです。他の人はあまりのことに声も出なかったんでしょうね。その声というのが『目の前にいた人が、消えてしまった』というものでした」
もちろん、そんなに落ち着いた言い回しではなかったはずで、ろれつも回っていなかったのだろうが、後から説明するには、この言葉が一番ふさわしい。
「消えてしまったってどういうことなんですか?」
「ええ、それ以外に表現のしようがないんですよ。パッと消えたとしかいえないですね」
「あなたは、その場面を見ていたんですか?」
「ええ、私も他の人と同じで、声も出なかったうちの一人なんです」
というが、
――待てよ。少しおかしいんじゃないか?
と思い、その疑問を彼女にぶつけてみた。
「だったら、今この場は騒然としていないとおかしいですよね。警察……、でいいのか分からないけど、どこかに連絡しなければいけないんじゃないですか?」
というと、
「そうなんですよ。我に返った人が警察に通報しようかとしたその時、少し離れたところにその人が現れて、その人は自分が消えたことすら気付かないように、そのまま歩いていったんです」
「現れた瞬間を見たんですか?」
と聞くと、
「いいえ、現れた瞬間を見た人は誰もいないんです。あっと思った時には、少し離れたところから、こっちに向かって歩いていたんですよ」
「私が苦しんでいた時にですか?」
「いいえ、あなたが苦しみだしたのは、その後からです。ちょうどその人があなたの近くまで来た時ですね」
「そうだったんですか」
思い出してみると、咥えタバコをしていたあいつのことだろうか? それ以外にその近くに誰かがこちらに向かって歩いている人はいなかった。
「そういえば、咥えタバコをしている不心得者が、こっちに向かってくるのが見えたような気がしました」
というと、彼女は少し怪訝な表情になって、
「咥えタバコですか? その人はタバコを燻らせていなかったですよ?」
「えっ?」
隆二はビックリした。
――どういうことだ? てっきりあの不心得者だと思ったのに――
と思った。
すると、今度は彼女が思い出したように。
「そういえば、あの人、消える前と現れてから違いがあるのを思い出しました。そうです、あの人は消える前、確かに咥えタバコをしていました。現れてからタバコを咥えていなかったのは、途中でポイ捨てしたんだって勝手に思い込んでしまったからなのかも知れませんね」
と言った。
「僕はあの人が咥えタバコをしてこちらに向かってくるのを確かに感じました。そして、その男が咥えタバコをしているのを見て、嫌悪感を抱いたことで、頭痛がしてきたんだって思ったんですが、頭痛がし始めてから意識がなくなるまで、結構時間がかかったということなんだろうか?」
というと、
「そういうことかも知れませんね。でも、今の時代、咥えタバコなんてしている人はまれですから、本当に目立ちますよね。私もそんな人がいれば、気がつけば睨みつけていることもあるくらいで、でも、相手はほとんど気にしていないんです。相手は自分が悪いことをしているという引け目があるからなんでしょうか。きっと見られたり睨まれたりすることに慣れているのかも知れませんね」
と彼女が言ったが、隆二は少し違う考えもあった。
「慣れというのもあるんでしょうが、本当はびくびくしているのかも知れませんよ。睨まれたら睨み返すだけの勇気のない人というのも結構いますからね。でも、中には開き直って因縁を吹っかけてくるやつもいる。いわゆる逆ギレというやつなんでしょうが、そんな一部のやつがいるから、余計に咥えタバコをしているやつはそんな連中ばかりだと思ってしまうんですよね」
というと、
「それが、ひいては愛煙家すべてにいえることになってしまうですよ。きっと愛煙家の人も一部の不心得者に対して怒りを感じていることでしょうね。ひょっとすると、嫌煙家よりも余計に怒り心頭なのかも知れません」
「その通りだと思います。これはタバコに限らず、マナーを守れない人すべてにいえることですよね。たとえば、携帯電話だったりスマホだったり、あるいは自転車に乗っている連中の中にもロクな人がいなかったりします」
隆二は、相手が普通の人ならここまでは言わないが、彼女も自分と同じようにマナーを守れない人の理不尽さにいい加減ウンザリしていると思っている。だから、この時とばかりにイライラをぶつけ合うというのも悪いことではない。友達という定義の中には、同じようにストレスの解消を受け持ってくれる相手がいてもいいと、隆二はかねがね思っていた。
二人して、理不尽な人間に不満を漏らしていると、お互いに気心が知れてきたのか、彼女も次第に自分のことを話し始める。
「私は桜子って言います。実は、時々おかしな感覚に見舞われることがあるんですよ。誰も信じてくれないので、誰にも話をしていませんが、あなたになら話せるような気がします」
と言った。
「僕の名前は隆二といいます。僕も時々不思議な感覚に見舞われることがあるんですが、あとで聞いてもらいましょう」
と隆二がいうと、桜子はおもむろに話し始めた。
「私、一日の終わりが分からなくなることがあるんです」
「えっ?」
「午前零時を過ぎると、普通なら翌日になっていますよね? 何の意識もないのに、一日をまたいでいるんですよ。でも、たまにですが、午前零時を過ぎた瞬間に、『午前零時を過ぎた』と身体が感じるんです。でも、『次の日になったんだ』とは思えないんです。そんな時時計を見ると、時間はまたいでいるんですが、日付は変わっていないんですよ。それで怖くなってテレビをつけると、日付が午前零時より前と同じだったりするんです」
「夢みたいなお話ですね」
「ええ、それであとから何度も考えたんですが、きっと日付をまたぐには、自分が時間に関して無意識にならないとまたぐことができないんだってですね。だから急に時間を意識してしまった時、午前零時を感じてしまい、明日になることができなくなってしまったんです」
「そうなんですね。その話を聞いていると、僕にはまるであなたが、最初は翌日になったのに、急に逆にタイムスリップして、一日前に戻ってしまったのではないかって想像してしまったんですが、ちょっと奇抜すぎますかね?」
と隆二がいうと、
「いいえ。私もまったく同じことを感じたことがあったんです。そうすると、しばらくの間、時間を意識することがなくて、無事に翌日になることができたんですよ。最初は真剣に、『明日が永遠に来なければどうしよう?』って思ったほどです」
と桜子が言った。
「本当は何かの力が働いているのかも知れませんね。それは外部からの力ではなく、あなたの内面から働いている何かの力です」
「というと?」
「さっき、あなたは、人が目の前で消えたって言ったでしょう? そして、あとになって現れたって。こんな不思議な話は、不思議な力を持っている人でないと実現できないのかも知れません。その時、ちょうど居合わせた人も、皆何らかの力を持っていて、そんな人が集まったから、そんな現象が起こったのかも知れません」
と隆二は言いながら、
――それは俺にも言えることなんだ――
と、自分にも言い聞かせていた。
すると、今のこの空間は、何か見えない力によって、
――作られた空間だ――
と言えるかも知れない。
いくらだれか一人に力があったとしても、いろいろな偶然(?)が重ならない限り、実際には実現しない。
ということは、逆に言うと、そんな不思議な力を持っている人はたくさんいて、ただ、機会に恵まれていないだけだともいえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、隆二は自分に不思議な力が備わっていたとしても、怖いとは思わない。今までの隆二であれば、
――そんな力なんかいらないから、普通の人間であってほし――
と思ったことだろう。
もし、そうであれば、隆二は臆病な性格であるということになる。
ただ、隆二は臆病なくせに、世の中の理不尽なことや、マナーを守らない連中を人一倍許せないと思っている。
――自分では何もできないくせに――
という意識の中で、ジレンマに苦しんでいたのだ。
だから、本当はそんな力を持っているのであれば、理不尽な連中やマナーを守らない不心得者は、簡単に消すことができるはずだ。それを使えば自分のストレスもなくなり、世の中の役にも立つというものだ。それなのに、その力が備わっているとすれば、そんな自分を怖いと思うのは、それだけ、
――人を消す――
という責任を負うことに恐怖を感じているのだろう。
――どうせ相手はしょせんクズのような連中なんだ。遠慮なんかいるものか――
と思いきればそれでいいのだ。
それなのに、遠慮になるのか、臆病風に吹かれていると言えばいいのか、悩むところである。
それがストレスとは違ったジレンマとなり、次第にストレスの延長というべき、トラウマとなってしまっていたのだろう。
普段から隆二は、まわりの理不尽な連中だったり、マナー違反をしている連中を歯軋りしながら見ていた。気がつけば歯を食いしばっていて、最近では歯の具合が悪くなってしまうほどだった。
目の前で理不尽な行動をしている連中に対しての怒りなのか、それに対して何も言わないまわりの連中に対しての憤りなのか、さらには、そんなまわりの一人である自分に対して情けなく思っているからなのか、よく分からない。そのすべてなのは分かるが、どれが一番強い感情なのかが分からない。
――俺がどうしてこんな気持ちにならなければいけないんだ――
次第に苛立ちが募ってくるようになったが、それを自覚するまでには少し時間がかかるのだった。
最初こそ、理不尽な連中に怒りが集中していた。それは当り前のことであるが、次第にその気持ちがまわりの黙っている連中への憤りに変わってきた。変わってきた時というのは、自分でも意識があった。
――俺はどうして、こんなに苛立っているんだ――
自分一人が苛立っているだけで、他の人は何も思っていないのだろうか?
そんなことはない。きっと、
――苛立っても無駄だからだ――
という諦めの境地に立っているだけではないだろうか。
諦めの境地に立っているからこそ、まわりで理不尽なことが行われていても誰も何も言わない。さらに、理不尽なことをしている相手から被害を受けた人がいて、その人が警察や警備の人に文句をつけているのを見て、冷めた目で見ている。その目は本当に冷徹な目で、
――自分が被害者だったら、どんな気分になるのだろう?
と感じていたが、まったく想像ができなかった。
時には、警備の人に文句を言っている人に対して、
「皆、我慢しているんだ。腹を立てているのはあんただけではない」
と、大衆が被害を受けているのに、被害を受けた連中の誰もが無反応であるにも関わらず、一人が代表して文句を言った時、その人に対しての罵声であった。
その人はあっけにとられて、何も言えなくなったが、隆二は、
――この状態こそ、理不尽だ――
として、まるで、
「理不尽の二次災害」
のように感じた。
しかも、一次災害よりもこちらの方が深刻で、さらに罪深い気がした。
――ひょっとすると、理不尽なできごとが世の中からなくならないのは、こんな二次災害を起こす連中がいるからなんじゃないだろうか?
と思うようになった。
そう思えば、
――本当の悪は最初に理不尽な行動を起こした人間ではなく、まわりの傍観者なのかも知れない――
と感じた。
苛め問題などでもそうである。それが子供の世界の問題でも、大人の問題であっても、苛めっこや苛められている人以外のその他大勢は、ほとんどが傍観者だ。もし、誰かが助けようものなら、苛めの対象が、その助けに入った人に移ってしまうかも知れない。皆はそれを恐れているのだろうが、次第に何もしないことが正義であり、目の前で繰り広げられている苛めは、世の中の節理として考えられているのかも知れない。節理を壊してしまうと、どのようなことになるか分からないというのが、傍観者の理論であろう。
ただ、それはただの言い訳にしかすぎず、そのことを分かっているのは、傍観者一人一人なのかも知れない。逆に苛めている連中や苛められている方には、分からない。だから傍観者はまるで路傍の石にしか見えないのだろう。
全体をみると、その状況こそ理不尽である。だから、隆二は苛めという行動には嫌悪しかなく、苛められている人間、苛めている人間、その他大勢の傍観者という括りで見ていたとしても、それは全体の理不尽の中での一部でしかないのだ。
それでも、自分がその中のどこにいるのかと言われれば、その他大勢でしかない。一番理不尽な中にいるということを認識していることで、自分はジレンマからトラウマになっていったのだろう。
だから、世の中のマナー違反や理不尽な人間を人一倍憎く感じているのは、誰でもない自分だと思っている。いつかは、
――あんな連中、この世から消してやりたい――
と思うようになっていた。
いろいろな想像を頭で考えてみた。
理不尽な連中に対して、必要以上に睨みつけ、やつらの関心をこちらに向ける。
「おい、こら。お前何因縁吹っ掛けているんだよ」
と言って、胸倉でも掴みかけてくるだろう。
本当なら、足がガクガク震えて、声も出ないかも知れない。しかし、ここは自分の想像上の世界。いくらでも勝手な想像ができるのだ。
そんな時、さらに相手を激怒させようと、逆鱗に触れるために、余裕の笑顔を見せつける。
「何だその顔は。なめてんじゃないぞ」
というに違いない。
こっちも、
「いいや、舐めてなんかいませんよ。ただあんたが可哀そうだって思ってね」
と言い返す。
「可哀そうだぁ? お前何様のつもりなんだよ」
と言うだろう。
「いやいや、そのままそのセリフをお返ししましょう」
「何理由分からないこと言ってんだ」
と言って、殴りかかってくるかも知れない。
しかし、そいつのパンチはすでに、自分の身体をすり抜けていた。相手はその不思議な状況に自分の掌を見つめ、あっけにとられている。その時のやつの手からは、地面が透けて見えていたことだろう。
そんなやつの顔を見ながら、さらにやつを興奮させるかのごとく、笑顔を作る。今度の笑顔は完全に余裕を持ったもので、この状況では完全に、立場は逆転している。
「一体、どういうことなんだ? お前、俺に何をしたんだ?」
その声はすでに震えに変わっていて、その表情からは怯えと、助けてほしいというような懇願が表れている。
しかし、まだ自分の状況を信じられない相手は、怯えは隠せないが、懇願に関してはまだ半信半疑だった。
――まだまだだな――
と俺は判断するだろう。
それなので、まだまだ恐怖が足りないと思った隆二は、さらにその男が消えていくスピードを遅くする。
――こいつには、たっぷりと時間を掛けて、苦しんでもらおう――
と考える。
その根拠は、
――この俺に逆らったからだ――
というものであり、自分の想像上でのことは、自分がすべてになるのだ。
隆二は、この男をぶん殴った。
「痛い」
と言って、男はもんどり打って倒れる。そして、さらに不思議な顔をした。
「どうしてお前は殴れるんだ?」
と不思議に思っているその男に、
「お前は次第に消えていってるが、それはまずお前が攻撃できるところからなんだ。お前は俺の思うがままにこの世から消えるんだ。だから、お前からは何もできないが、俺からはやりたい放題なのさ。でも、もちろん、それもお前がこの世から消えるまでさ。それを俺は楽しんでいるということさ」
というと、
「どうしてお前はそんなことをするんだ。俺が何をしたっていうんだ?」
完全に、怯えだけの声のトーンである。
「何をって、お前は俺に因縁吹っ掛けただろう?」
「お前が睨むからさ。どうして俺を睨んだんだ?」
「だって、お前は咥えタバコをしていただろう?」
「たった、それだけ?」
「それだけで十分さ。お前は悪いことをしているって意識がないんだろう?」
「別に法律違反しているわけでもないのに、何で俺がこんな目に遭うんだよ」
「だから言ったろう? 俺に逆らったからだって」
「お前が睨むから……」
と言って、男はハッとしたようだ。堂々巡りを繰り返していることに気付いたのだろう。
「ほらほら、グズグズしていると、この世から消えてしまうぞ」
というと、やっと、
「助けてくれ、死にたくない」
と言って、懇願してきた。
「もう、遅い。それにあんたは法律違反じゃないって言ったが、法律に違反していないければ何をしてもいいという考えがお前の運命を決めたんだ。俺に因縁吹っ掛けたのも、自分が圧倒的に強いので、威嚇すればそれで済むとでも思ったんだろう。自分のストレス解消のつもりが飛んだことになってしまったな」
「そんな、死にたくない」
というので、
「死にたくない? 誰が死ぬと言った? この世から消えてなくなるって言っただけだよ」
「死ぬのと同じじゃないか?」
「そうじゃないんだな。まあいいが」
「じゃあ、死んだ先どこに行くか知ってるんだろう? 教えてくれよ」
「さあ、知らないよ。だから、言ってるだろう。この世から消えてなくなるんだって」
完全に、この男は常軌を逸していて、平常心ではいられなくなっていた。もっとも、それも当然のことである。
隆二は笑っている。その顔は次第に鬼の形相へと変わっていく。
ただ、その鬼というのは、節分の鬼ではなかった。その男が感じた隆二への鬼の形相であるが、
――まるで般若ではないか――
怖いというイメージよりも、どこか美しさがあった。なぜ、消えゆく自分にそんなことを感じるのか、男は分からなかった。
――死にゆくからこそ、この世で分からなかったことが、次第に分かるようになるのかも知れないな――
と感じていると、隆二は想像していた。
自分が抹殺する相手の気持ちも思い図るのは、自分の勝手な妄想の中でも、自分を納得させるための言い訳のようなものなのかも知れない。すべてが自分の思うがままでは、最後には収拾がつかなくなり、自分を納得させることができずに、下手をすると終わることができなくなるかも知れない。隆二はそのように感じたのだ。
「さあ、そろそろ消えていくぞ。どうするんだ?」
「俺が消えたら大問題になるんじゃないのか?」
この男は自分の立場がまだ解っていないのか、急にそんなことを言い出した。
この男が、冷静な男だと少しでも思えば、
――ほう、なかなかいいところをついてくるな――
と思うが、死という言葉を目の前にすると、急に慌てだした。
昔の隆二であれば、少し気の毒に感じ、自分がやっていることであっても、相手に哀れみを感じたものだが、同じ哀れみでも、情けなさを伴った哀れみなので、容赦をする必要などないのだ。
「大問題になんかなるもんか」
「どういうことなんだい? 俺がいなくなったら家族が警察に捜査を依頼するだろうよ。そうすれば、人が一人この世から消えたんだ。大問題になるはずだ」
と言った。
それを聞いて、
「ふっ」
と笑った隆二は、
「バカなやつだと思っていたが、ここまでだとはな。いいか、この世では、人が一人いなくなったくらいで、そんなに大問題になんかなりはしないんでよ。警察に相談に言ったって、どうせ、捜索願を出してくれといわれるだけで、まともな捜査なんかしてはくれないさ。事件性でもあるなら少しは捜査するんだろうが、お前はこの世からキレイになくなってしまうんだ。警察は捜査なんかしないさ。今の世の中、一日にどれだけの人が失踪すると思っているんだい」
本当は隆二にもそんなことは分からなかった。
しかし、怯えているこの男にはそんなことは関係ない。これだけのことを話すだけで十分に恐怖を植えつけることはできる。さらに隆二は続ける。
「それにな。お前がこの世から消えた瞬間に、お前に少しでも関わった人間の記憶から、お前は消えてしまうのさ」
というと、
「なんだって?」
さらにビックリしたようだ。
「だからさっき言っただろう? キレイにこの世からなくなるって・それはお前の運命なんだよ」
「どうしてこんな理不尽なことをするんだ?」
もうこの男は、隆二にどうしてこんな力が備わっているかなどということはどうでもよかった。理屈を知ることで、少しでも相手の心情に語りかけ、何とか許しを乞おうという「お情け頂戴」
の状態に持ち込もうという考えであろう。
そんなことは隆二には百も承知である。
――本当に単純なやつだ。どうして理不尽なことをして死を目の前にした人間というのは、こんなにも醜いんだろうな――
と感じた。
その思いが、自分の行っている「私刑」に対して、当然であるかのごとく自分を納得させることに役立っている。そういう意味ではやつらの醜さはありがたかった。
「理不尽だぁ? それはこっちのセリフさ。お前は吸ってはいけないところでタバコを吸ったんだ。そして、もし俺がここでお前を処罰しなければ、お前は数分後には子供の顔をタバコで傷つけることになるんだ。しかも、それは女の子でな。その娘には火傷の後遺症が残ることになる。お前は一生彼女の面倒を見るためだけに生きることになるんだ。もし、俺がここでお前を『私刑』にしなければ、お前の苦しみは半端ではないんだぞ。果たしてどっちがいいのかな?」
これは本当だった。
隆二には五分前を歩いているもう一人の自分がいて、その人間から情報をもらった。五分前の自分には、今の自分のような力が備わっているわけではないが、五分後の自分に情報を与えることができる。
――この男、信じてはいないな?
当然といえば、当然である。
自分をこんな目に合わせている人間の言葉など、普通なら信じるはずもないだろう。そんなことは分かっている。分かっていながら、隆二は話した。
「俺には五分前を歩いているもう一人の自分がいるんだ。その人は本当の俺ではないのさ。もっとも俺が自分にこんな力が備わっているということに気づいたのは、最近のことだったんだがな。だから俺によって私刑になる人間はあんたが最初なのさ。ありがたいと思えよ」
というと、
「何を言っているんだ。こいつ」
と恐怖は自分に向けられているだけではなく、隆二に対しても言い知れぬ恐怖が浮かんできているようだった。
「お前は、タバコを吸うことを正当化しているようだが、その煙で確実に市が近づいている人はたくさんいるのさ。そして、今日のように顔に火傷を負う運命の人だっているんだ。お前はそんなことを考えたこともないんだろう?」
というと、
「だからって、俺がどうして死ななければいけないんだ。たかが、タバコじゃないか」
それを聞いて、さすがに隆二はキレた。
いや、この男なら、これくらいのことを言っても不思議はないかも知れない。
「お前が火傷させようとした女の子にだって親がいるんだ。その子の母親は俺をこの間助けてくれたんだよな」
隆二が思い出しているのは、桜子だった。
さらに隆二は続ける。
「この世にはな。生きたいと思っても生きることのできない人はいっぱいいるんだ。中にはお前たちのような不心得者から間接的に殺される人だっている。それに、志があったとしても、病気で長く生きられない人だっているんだ」
隆二はもう一人の自分を思い出した。
もう一人の自分は、男ではない。その人はすでにこの世にはおらず、亡くなった瞬間、隆二の中に入りこみ、しばらくは蘇生するための期間を待った。
その女性はつかさだった。
つかさは生まれ変わることができなくなったかわりに、隆二の五分前を歩く人間として、もう一人の隆二になっていた。
隆二がそのことをふとしたことで知り、自分の中につかさの存在を認識したことで、二人の気持ちが近づき、その思いが交差した時、この力が発揮できるのだった。ただ、その力の源は「怒り」、「憤り」であり、理不尽な相手であったり、許せないと感じる相手が現れると、二人の交差が始まるのだった。
「こんなやつに容赦なんかいらないよな」
と隆二が語りかけると、
「ええ、好きなようにしてくださいな」
と、つかさが答える。
この男は二人の最初の、「生贄」となったのだ。
それから、しばらくしてこの二人のような人間が影で暗躍するのが増えてきた。そのメカニズムに気づいたのは、新見だった。その話を克典にしたが、克典は最初は信じなかった。
だが、克典にも、不思議な力を有することができたのだ。彼の五分前を歩いているのはともみだった。
「伊藤克典君は、ともみさんの存在を得ることで、不思議な力を得ることができた。世の中の無数にある理不尽なことへの恨みや憤り。それを形にしていかに私刑を使うことができるのか。私にはとても興味深い。しかも、もう一人の自分は、異性でなければいけない。それが両性を世の中にもたらせた『証拠』になるんだろうな。克典君には、最初から不思議な力が備わっているというのは感じていたからね」
新見博士は、心で呟きながら、克典の墓前に手を合わせていた。
その横でともみも悲しそうにしながら手を合わせている。その時はまだともみは自分の中に克典がいることを分かっていなかった。
さらにその周りで、弔問客の噂話も聞こえてきた。
「最近、ずっと人口が減少していると思っていたんですが、気のせいなんでしょうか?」
というような話に対して、
「また少し戻ってきたようですよ。でもそんなことよりも、人口が減っていた時、不思議なことに、生まれてくる子供が増えたわけではないんですよ」
「どういうことなんですか?」
「死ぬ人が増えてきたわけではないということですね。死亡届が増えているわけではないのに、人口が減少していた。子供は普通に生まれるのにですね」
「じゃあ、失踪している人が多いというわけですか・」
「いえいえ、失踪届けも増えているわけではないんですよ。つまり、人が忽然と消えてしまったというような現象ですね」
「そんな不思議なことがあるんですか?」
「実際にあるようですよ。伊藤君はそのことについて研究していたようなんです。それなのに、まさか轢き逃げに遭うなんてね。彼のような正直で易しい人間ばかりが、どうして早く死んでしまうんでしょうね」
と話していた。
それを聞いて新見は、
――それは理不尽な人間が、キレイサッパリとこの世から消えてしまうからさ――
と怪しい笑みを浮かべていたことに気がついた人は、一人もいなかった……。
( 完 )
怒りの交差 森本 晃次 @kakku
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