第2話 謎の女

 K大学の心理学研究所に、一人の研究員がいた。彼は世の中の女性には、男性にない力があるのだという考えの持ち主だった。彼の名前は伊藤克典といい、K大学では理工学部を卒業したのに、心理学の研究所に入所した。最初は民間企業の薬学研究室に内定が決まっていたが、心理学教授である鷲津教授にどうしてもと言われて、まんざらでもないと思った克典は、せっかくの薬学研究所の内定を断って大学に残り、心理学研究所に入所したのだ。

 K大学は国立大学なので、鷲津研究所は国からの補助も受けている。そういう意味では民間企業よりも待遇はいいかも知れない。しかし、大学での専攻とは違う心理学研究所に入所するというのは、一大決心を要するのだ。そういう意味で克典は、思い切ったことをしたと言えるだろう。

 ある日克典は、同僚の研究員の一人と、居酒屋で呑んでいた。誘ったのは克典の方で、気心の知れた相手の少ない中で、唯一誘える相手だった。彼は新見という研究員である。

「女性は男性と違って子供を生む力がある。その力を使うと、覚醒するんじゃないかって思うんだ」

 と、克典がいうと、

「確かに女性には男性にない子供を生むという機能があるけど、子供を生むと覚醒するというのはどういうことなんだい?」

 研究員の一人が聞き返した。

 克典は、元々畑違いのところからいわゆる引き抜きでやってきた研究員なので、元からいる他の研究員からは疎まれていた。正直、宙に浮いていると言っても過言ではないだろう。

「いやいや、『女は弱し、されど、母は強し』という言葉もあるだろう。そういう意味で、母になると覚醒すると言ったんだよ。でも、俺は女は弱しの部分も、本当は強いと思うんだ。母だって女じゃないか。つまり、元々強い女が、母になると覚醒して、強いというのはあらわになるんじゃないかって思うんだ」

「なるほど、確かにそうかも知れないね」

 新見は克典のことを、ある意味尊敬していた。他の研究員の手前、表立って克典と仲良くはしていないが、薬学を志していたにも関わらず、それを蹴ってまで畑違いの心理学に身を投じるのだから、不安もあったと思っている。その不安を払拭し、入所してきた勇気に敬意を表していたのだ。

 しかも、克典は尊敬する鷲津教授が選んだ人である。克典を否定するということは、教授も否定することになる。それはできないことだった。

――それなのに、他の研究員は、どうして伊藤さんと毛嫌いするんだろう?

 と思っていた。

 他の研究員も教授を尊敬しているから、この研究所にいるはずである。彼が考えたように、彼を否定することは教授をも否定することになるという理屈くらいは分かっているだろう。それなのに、毛嫌いするというのは、やはり彼らも研究員の端くれ、自分たちの中のプライドが許さないのだろう。

 心理学というのは、奥が深く、昨日今日で理解できるものではない。

――畑違いの人間に簡単に分かってたまるものか――

 という思いがあるに違いない。

 新見そんなまわりの連中の気持ちも分かるようになってきた。それだけに彼らを無理に刺激することもしたくはない。そう思うと、表立って克典と仲良くすることは避けないといけないと思っていた。

 克典もそのことは分かっているようで、呑みに誘ったのも、大学の表で気さくな気持ちで話ができる場所がほしかったに違いない。

「この店は、俺にとっての隠れ家のような店なので、ここだったら、気兼ねなく思い切り語りあえるよ」

 と言ってくれた。

「でも、伊藤さんはどうして、男女の違いにそんなに固執しているんですか?」

 と聞くと、

「別に固執しているわけではないんだけど、でも不思議だとは思わない会? 人口はこれだけたくさんいて、人それぞれに性格も違う。まったく同じ人なんて存在しないのに、生理学的には男と女の二種類しかいないんだ。これは人間に限ったことではないけどね。人間に限ったことで言っても、種族だって肌の色でたくさんいる。民族になると、もっとたくさんだ。それなのに、男女の違いは決定的なもので、二種類しかないというのも、俺は不思議に感じるんだよ」

 と克典がいうと、新見がそれを聞いて、

「確かにそうかも知れないけど、人種や言葉に関しては、もう少し違った考えもあるんだ。ちょっと宗教的な話になるけどね」

 というと、

「キリスト教かい?」

「そうなんだ。俺はクリスチャンではないが、旧約聖書の話は嫌いではない。『バベルの塔』の話の時、塔を建設した王が、天に向かって矢を射った時、神様が人間の傲慢さに怒って、言葉が通じなくし、そのために、世界各国に人類が散らばったという話になっているだろう?」

「君はそれを信じているのかい?」

「信じているというよりも、プロパガンダとしては、よくできた話ではないかと思うんだ。少なくとも信教している人にとっては、実に納得できる話ではないかな?」

 新見の話も分からなくはないが、実際に話としては説得力のあるものだと、克典も考えていた。

「聖書に出てくる話は、すべてが本当だなんて信者であっても、思っている人はいないと思うが、信者でなくても、『すべてが架空の話だと思っている人って本当にいるのかな?』って俺は思うんだよ」

「俺もそうなんだ。いろいろな伝説やいい伝えがあるけど、『火のないところに煙は立たない』っていうだろう? それを考えると、すべてがウソだというのもおかしな気がするんだ」

 と新見がいうと、

「『木を隠すには森の中』という言葉もあるけど、まさしくその通りなのかも知れない。そういう意味では、何が本当で何がウソなのか、見極める必要がある。信者のように真剣に考える人には、見極める力を備えていないといけないんじゃないかな? そういう意味で、敢えて聖書の話は『真理を隠している』のかも知れないね」

 克典の話もよく分かる。

 新見は克典に、

「どうして男女の違いに固執するのか?」

 と聞いたはずなのに、いつの間にか話が脱線していることに気がついた。

「何となく、話が逸れていませんか?」

 と新見がいうと、

「そんなことはないですよ。俺は話の動向は至極自然な気がしているよ。確かにまっすぐ進んでいるわけではないけど、まっすぐだけが正解ではない。そもそも、キリスト教の話を持ち出したのは、君ではないか」

 と言われて、

――うっ、確かにその通りだ――

 と感じたが、言葉にはならなかった。

――どうして自分から話を逸らしてしまったんだろう?

 途中で誘導尋問があったわけではない。聞きたい話に対して、言いたいことを先に言ってしまわなければ気がすまない性格の新見だったので、それが影響したのかも知れない。そのことを、克典は看過していた。

「新見さんは、正直だと思いますよ。思ったことを口にしないと気がすまない。しかも感じたことを忘れる前に言ってしまわなければいけないと思っている。話が難しくなればなるほど、その傾向は強い。心理学を志していると、自分の性格を見失いこともあるのかも知れませんね」

 と言われて、

――つくづくその通りだ――

 と、ぐうの音も出ないのを、新見は感じていた。

 確かに心理学をやっていると、自分の考えが相手よりも先に行っているという錯覚を感じることがある。そのため、相手を待たなければいけないと思い、相手に合わせるには、自分が考えたことの三歩前くらいを思い出さなければいけない。

 難しいことを考えているのだ。三歩前というと、他の人の他愛もない会話の十歩以上前を思い出すようなものだ。それだけ一つの言葉を結論付けるためには、いくつものプロセスを踏む必要がある。それが心理学と言う学問だと思っていた。

「伊藤さんは、結構いろいろなことを考えているんですね。やはり教授の見込んだだけのことはある」

 敬意を表して、素直に言葉に出した。

「ありがとうと言っておくよ」

 克典のこの言葉は聞きようによっては、皮肉にも聞こえるが、決してそれは皮肉ではない素直な気持ちから出た言葉であるということを、新見は分かっているつもりだった。

 少しだけ間があっただろうか。次に言葉を発したのは、克典だった。

「俺は大学生の頃、一人の同級生と仲良くなったんだけど、彼には悩みがあったんだ」

 おもむろに話し始めた克典に、新見はただ聞いていた。

「彼は、自分が何者なのか分からないって言っていたんだけど、どうやら、自分が本当は女に生まれてきたはずではないかって思っていたらしいんだ。高校時代までは、そんなことを言ってもバカにされるだけだと思っていたのか、誰にもいえなかったらしい。でも、俺と仲良くなってなぜか話す気になったらしいんだけど、その理由を聞いても、最初は教えてくれなかったんだ」

 新見はただ、頷いていた。

 克典は続ける。

「その人は、時々女性の気持ちよりも、男性の気持ちの方がよく分かるっていうんだ。それも、恋している男性の気持ちがね」

 というと、新見が口を開いた。

「その人には、恋愛経験はあったんですか?」

「恋愛経験はないと言っていたんだけど、初恋のようなものはあったらしいんだ。しかも、その初恋の人は、亡くなったというんだよ」

 その話を聞いて、

「少し重たい話になってきたね」

 と、新見は答えた。

「俺の初恋は、いつの間にか誰かを好きになっていて、その人に女を感じたことから、異性への気持ちを感じたんだ。他の人とは逆なのかも知れないけどね」

 という克典に対して新見は、

「俺は少し違うかな? 異性に興味を最初に感じたのは、友達が女の子と腕を組んで楽しそうにしているのを見たからなんだ。その時の友達の顔が羨ましく感じられて、きっと嫉妬から自分の中の異性への興味に気がついたのかも知れないね」

「なるほど、そういうのもあるだろうね。人を介して、自分の気持ちに気付き、大人になっていく自分を感じる」

 という克典に対して、

「そうなんだ。だから、女性に興味を持つという感情を、今まで悪いことだなんて思ったことはない。時々、『女性にうつつを抜かす暇なんかない』と言われたことがあったけど、それは受験前にまわりから言われたことであって、俺自身は、そんなことを言われるいわれもないので、別に気にはしていなかったけど、あとから思うと、無性に腹が立ってくるというのもおかしなものだって思っているんだ」

 新見のセリフには説得力が感じられたのか、

「そうそう、まさしくその通りだね。どうして大人って、当たり前のことしか言えないんだろうね」

「そうだよ、自分たちだって通ってきた道のはずなのに、その時もきっと大人に諭されて、自分の進む道を矯正されたのかも知れない。そして、その時に感じたんだよ。『大人になるって、当たり前のことを当たり前にすることだ』ってね」

 と新見がいうと、

「大人になりたくないという子供が多いのは、そういうところから来ているのかも知れないな」

 と克典は答えた。

 さらに克典が続ける。

「俺にとって、男女の違いも、その感覚に似ているんだ」

「どういうことなんだい?」

「男女って、大人と子供のような感覚で置き換えてみると、男が子供で、女が大人に思えてくるんだ。子供や男は理想主義が多くて、大人や女は現実主義が多いって思うと、この理屈も納得できるところがあるんだよ」

「男女を大人と子供に区別して考えるというのも面白いね。でも、男女は分かるけど、大人と子供の違いって、結構漠然としていると思うんだ。どこからが大人で、どこまでが子供なのかなんて、その線引きは難しいよね」

「確かにその通りだよ。だから、男女というのも、見た目はハッキリしているけど、内面的な性格や性癖、そして表に出ていない裏を考えると、とても『男と女』という二つに切り分けることは難しいんじゃないかって思うんだよ」

「それが君のいう『男女の違いへの固執』になるということかな?」

「その通りだね」

 何となく、新見も理解できた気がした。

 それからしばらくして新見が克典をまた呑みに誘った。今回は居酒屋ではなく、新見が馴染みにしているというバーにつれていってもらった。駅裏にある鄙びた雑居ビルの一角に、そのバーはあった。

「俺にとっての隠れ家のようなところなんだけど、ここに行ってみよう」

 と言われて、断る理由もないので、二つ返事で、

「いいよ」

 と答えたが、その時、新見の唇が怪しく歪んだのを、克典は気付かなかった。

 最近は研究にもあまり時間を割くことはなく、予算の関係もあるのか、それほど忙しくはなかった。残業したとしても、午後八時くらいまでで、それ以降、研究室の電気がついていることはなかった。

 その日も、午後七時には皆研究所を出て、家路についていた。

「今から行くとちょうどいいくらいだな」

 と、新見は克典に声を掛けた。

「自分の馴染みの店は八時頃からの営業なんだよ。他の店よりも少し早いんだ」

 表に出ると、すでに夜の帳が下りていた。研究所の門をくぐると、駅まではいつもと同じ道なのに、何となくいつもよりも暗く感じられた。いつもは一人で駅まで歩くのに、今日は新見が一緒だった。一人で駅まで歩いている時というのは、何も考えていないようで、絶えず何かを考えている。それだけまわりへの意識はないに等しいのだが、明るさだけは意識しているようだった。その日は、隣に人がいるので、何かを考えているという意識があった。歩いていても、お互いに会話をする意識はない。相手をただ意識しているだけだった。

――何を意識しているんだろう?

 意識をしているということだけは分かっているが、その意識が何に向けられたものなのか分からなかった。それだけ普段から研究以外で人と関わることがない証拠だった。

 ただ、新見とは、この間一緒に呑んだ仲なので、お互いに通じるものがあるはずである。それなのに、意識しながらぎこちなく感じるというのは、自分がおかしいのか、二人の雰囲気は長い時間耐えることのできないもののように感じられた。

 そのわりには、お互いの距離がそんなに遠いとは感じない。体温を感じることができるほどの距離だ。それだけに少しでもぎこちなさを感じると、必要以上に相手を意識してしまうものなのかも知れない。

 駅までは歩いて十五分ほどで、近いわけでもないが、そんなに遠いわけではない。何も考えずに歩くにはちょうどいい距離だと思っていたが、ぎこちなさの中、歩いていると、想像以上に時間がかかってしまっていた。

 駅裏には、今まで立ち寄ったことがなかった。駅までは電車の時間をあらかじめ分かっていて、ちょうどいい時間から逆算して研究所を出るので、駅自体もそれほど知っているわけではない。コンコースを通り抜け、駅裏に出ると、寂しさは侘しさに変わっていた。

「こんなに表と違うんだ」

 と思わず口にしたが、それを聞いた新見はニッコリ笑って、

「そんなことはないさ。表だって結構寂しいものさ。それだけ毎日漠然と駅まで来て、ただ電車に乗っているだけだってことなんだろうね」

 と言った。

「そうなのかな?」

 まだ、納得のいかない克典だったが、駅裏に完全に足を踏み入れると、

「確かに、表と変わらない気がするな」

 と思った。

 表からは駅に入っていくのだが、裏には駅から出て行くという違いがある。それを考慮せずに先走って感じたことを口にしたから、そう感じたのだろう。新見は馴染みの店に何度も行っているのでそれほど感じないのだろうが、新見だって最初に駅から裏通りに抜けようとした時、同じことを考えたのではないかと感じた克典だった。

 新見は次第にゆっくり歩くようになった。

――店が近づいたのかな?

 と思ったが、一向にバーが見える雰囲気ではなかった。

 すると、急に新見の姿が消えた気がした。それはただの錯覚で、狭い角を曲がっただけだった。その角は初めて歩く人には気付かないほど狭い道で、まさかそんなところに通路があるなど、想像もしていなかった。新見が曲がった瞬間消えたように感じたことで、克典は一人取り残された気分になり、三百六十度一回転してみたほどだった。

「新見さん」

 思わず声を掛けた。

 暗さがさらに感じられ、一人取り残された寂しさは、

――来るんじゃなかった――

 と一瞬感じさせられた。

 そして、新見に騙されたという感覚が浮かび、戻るに戻れない自分は、まるで真っ暗な中、足元も見えない場所で立ち往生しているのを感じた。

――一歩踏み出してしまうと、その先は谷底だった――

 などというシチュエーションを想像すると、じっとしていても、安定することができず、どちらにしても待っているのは谷底であるという思いしか浮かんでこなかった。

「伊藤さん、こっちだよ」

 暗闇から声だけが響いた。

 その声の方を振り向くと、そこには新見がいた。その方向は、さっき曲がった角とは別の方角ではないかと思うような錯覚を感じさせ、

――今度一人で来てみようと思っても、一人ではたどり着けないかも知れない――

 という思いを抱かせた。

――だから、簡単に新見はこの店に俺を連れていってくれるんだ――

 本当であれば、隠れ家のような店を他人には教えたくはないというものだ。自分と一緒にくる分にはいいが、一人で開拓されることを嫌うのが普通ではないかと克典は感じていた。

――この店に一人で来ることはできないが、新見と一緒なら来ることができる――

 と思うと、まだ見ぬその隠れ家と思しき店がどんな店なのか、楽しみになってくるのを感じた。

 新見は克典を呼び寄せてから、踵を返すと、一人でどんどん進んでいった。今度は見失うことはなく、目の前にある雑居ビルに入っていくのを確認すると、自分もその後ろからついていった。

 角を曲がってから、克典は店に入るまで、新見との距離は一定だった。近づこうとして少し早く歩いても、気がつけば新見との距離は縮まっていない。

――後ろに目でもあるのかな?

 と感じたが、新見が克典を意識して同じように早く歩いたという感じはなかった。

――一定の距離を保つというのが、この空間の存在意義なんだ――

 到底、承服できる考えではなかったが、そう思うことで名何となく自分を納得させることができるような気がした。

 ビルには階段があり、思ったよりも明るかった。しかし、階段までやってくると、最初に感じた明るさは鳴りを潜め、昔の裸電球を思わせる明るさに、いつ消えてもおかしくないような風前の灯さえ感じさせた。

 階段を上りきると、その奥に扉があった。黒い扉のその横に、やはり黒い扉で、

「バー:ブラックバタフライ」

 と書かれていた。

 直訳すれば、「黒い蝶」ということになる。黒い蝶とは、何か不吉なイメージを感じさせた。

 黒いという形容詞がつく動物には、どうしても不吉なイメージが付きまとう。たとえば、黒猫であったり、黒いカラスなどである。

「何となく気持ち悪いんじゃないか?」

 と恐る恐る克典は口にしたが、

「そんなことはないさ」

 と新見がいい、先に扉を開けて、中に入った。

 克典も間髪いれずにそのまま一緒に中に入ったが、ブラックというイメージとは少し違って、中は思ったよりも明るかった。

「いらっしゃい」

 カウンターの中ではボーイ服のマスターが中央にいて、ん店支度に余念がなかった。

「こんばんは」

 と新見は行って、そそくさとカウンターの一番奥の席へ座った。

 どうやら、そこが彼の指定席のようだった。

 馴染みの店を持っている人は、自分の指定席にはこだわるものだ。特に常連さんの多い店は、指定席が決まっている方が、人とかぶらなくていい。馴染みになるというのは、そういうことも含めているということで、意外と自分の指定席というのは馴染みの店の優先順位としては高いところにあるのかも知れないと思った。

「こちらさんは、初めてですね」

 と言って、マスターはお絞りを渡してくれた。

 マスターは半分髪の毛が白くなっていて、初老の雰囲気を感じさせるが、いかにもバーテンダーの服が似合っていて、白髪がなければ、きっともっと若く見えていたのではないかと思った。

「はい、初めまして、伊藤といいます」

 というと、マスターは新見の方を見て、

「同僚の方ですか?」

 と言って、ニッコリと笑い、

「ええ、同じ研究所の人なんですよ」

 と新見が答えると、

「そういえば新見さんが研究所の方を連れてこられるのは初めてですね」

 というマスターの言葉を聞いて、

「新見さんがここの馴染みになられてどれくらいなんですか?」

「そうだなぁ、もう二年近くになるかな?」

 とマスターは答えながら、新見に同意を求めた。

 すると新見も、

「そうですね」

 と答え、ニッコリと笑い、そこにマスターと新見の間のアイコンタクトが感じられた。

――それほどの馴染みの店で、今までに誰も連れてきていないということは、それだけ新見さんには大切なお店なんだ――

 と感じた。

「それにしても、ブラックバタフライというのは、興味深いお名前なんですね」

 と聞いてみると、マスターは笑いながら、

「黒いという言葉が入っているので、陰湿だったり、暗いイメージがあるように感じるんでしょう?」

 というので、本当は言葉にしてはいけないのではないかと思いながらも克典は口にしてしまったが、

「いえ、もっというと、不吉なイメージがつきまとうんです」

「それは、猫やカラスのイメージがあるからなのかも知れませんね」

「バタフライというのは、蝶のことでしょう? 黒い蝶というのも、どこか不吉な感じがあるんですが、違いますか?」

「そんなことはないですよ。黒い蝶は、神様や霊魂の使いだと言われているんですよ。また夢で見たりすると、人生の転機だったりして、大切な使いとして重宝されるべきものなんですよ」

「そうなんですか?」

 マスターは、さらに語ってくれた。

「墓参りなどで見れば、先祖が挨拶に来てくれたというイメージであったり、神社で見かければ、神様が歓迎してくれているという言い伝えがあるんですよ。不吉どころか、幸運が潜んでいる可能性の方が多いと感じませんか?」

 マスターは物知りだ。

「なるほど、確かにそうですね」

 というと、今度は横から新見が、

「今君が言った疑問は、実は俺も最初に来た時に、マスターにぶつけた疑問なんだよ。まったく同じ光景を見ているようで、不思議な感覚だね。しかも、最初は当事者で、今回は第三者としての目線で見ることができた。実に面白いと思うよ」

 と言って、ニコニコしている。

「そっか、新見さんも同じことを感じたんですね。でも、本当は口にしてはいけないことではないかって思ったくらいなんで、普通ならいきなりは聞かないと思うんだけど、それだけ新見さんと俺とは似ているところがあるということなんだろうか?」

 これも、本当は口にしていいのかどうか、あとになって考えた言葉だった。

「いいんじゃないか? 別に問題はないと思うよ」

 という新見に対し、

「ここでは、他では口にしないようなことを思わず口にしてしまいそうな雰囲気を感じるんだが、違うなか?」

 というと、新見は少し興奮気味に。

「そうだろう。今まで誰も連れてこなかったのに、伊藤さんを連れてきたのはその思いがあったからなんだ。きっと伊藤さんなら分かってくれそうな気がしたんだ。他の人だとこうは行かない。何しろここは、俺にとっての隠れ家のような店なんだからね」

 というと、今度はマスターが、

「そうですよ、私も伊藤さんには、新見さんに最初感じた時のイメージがあるのを感じました。これからもご贔屓にしていただけると、嬉しいです」

 と言った。

「ありがとうございます」

「もう少しすると、ともみちゃんも来ると思うので、それまでゆっくりしていってくださいね」

 とマスターが言った。

「了解です」

 と、新見は答えたが、答えながら顔は克典を見ていた。

 その表情には含みが感じられ、今日の主役は自分たちではなく、そのともみという女性ではないかと感じた克典だった。

「そのともみさんというのは?」

 と気になって、克典は新見に聞いてみた。

「来たら分かると思うけど、彼女は自分たちに馴染みがありそうに思うけど、少し一緒にいると、違った部分が見えてくるという不思議な感じの人だよ」

 要領を得ない答えであったが、それに対して再度質問をするのは愚だと思えた。

 彼の言うように、会ってみれば分かるということなのだろう。それに変な先入観を持つことはせっかくの出会いに水を差すような気がしたので、ここでの質問は余計なことに思えたのだ。

 店内を見渡すと、最初に入ってきた時よりも少し暗く感じられた。白壁になっている壁を見ていると、別に凹凸があるわけでもないのに、明暗が分かれているところがあるような気がした。明るいところと暗いところの境界はハッキリとしないが、見ていて波打っているように感じられた。

――まるで脈を打っているかのようだな――

 と感じると、部屋全体が生きているかのように思えてくるから不思議だった。

 まだ一杯も呑んでいないのに、すでに酔っているかのように感じられるのは、この部屋の異様な雰囲気からだろうか? そもそも何を持って異様と感じているのか、それもハッキリとしない。壁の明暗だけで異様だというには、説得力には欠けていたのだ。

 表は、夏が近づいてきたこの時期にしては、まだ涼しさが残っていた。特にその日は寒気を感じるほどで、

――早く店に入りたい――

 と感じさせるほどの風の冷たさだった。

 店に入ると、暖かい空気が中から漏れていたが、

――助かった――

 という気分になったわけではない。

 確かに暖かさを感じられ、一瞬ホッとしたかのように思えたが、中から溢れてきた暖かさは湿気を含んでいて、中に入ると少し息苦しさを感じた。

 さらに、

――なんだ、この匂いは?

 異臭というほどきついものではなかったが、息苦しさを証明するかのような匂いに、思わず嘔吐を催しそうになったのを、必死に堪えた。

 隣を見ると、新見にはそんな感覚はないのか、顔からはホッとしたような雰囲気しか見えなかった。その表情を見ると不思議なことに今感じた息苦しさは消えていた。ただ、何となく嫌な感じのする匂いだけは、鼻につくように残っていたのだ。

 マスターと話をしている時、最初にそんな違和感があったのを忘れていたが、話が終わると、また匂いのきつさを感じないわけにはいかないほど、意識してしまっていた。

 匂いの正体は何だか分からないが、何かに似ていると思っていたのが何なのか分かった気がした。

――そうだ。石の匂いだ――

 子供の頃に、木に登っていて、枝が折れて、背中から後ろに落ちたことがあった。別に頭などを打つことはなかったのだが、運悪く、落ちたその場所に小石があった。

「うっ」

 と言ったかどうか分からないが、自分では声を発したような気がしていた。

 しかし、その声が出るはずがないほど、その時呼吸困難に陥ってしまったのだ。目の前が一瞬真っ暗になった気がしたが、実際には真っ赤だった。まるで毛細血管を見ているようにクモの巣のように張られた血管が、目の前を覆っていた。真っ赤に見えたのは、その血管の集合体だったのだ。

――俺はこのまま気を失ってしまうんだろうか?

 と感じたが、なかなか気を失ってくれない。

 こんなに苦しいのであれば、気を失った方がなんぼか楽だと思ったのも、間違いではなかった。

 だが、そのうちに気を失っていたのだろう。気がつけば、まわりに人がたくさん集まってきていて、気を失った自分を助けようとしてくれていたのだ。

「よかった、目を覚ましたようだ」

 と一人がいうと、まわりには安堵の声が漏れ、

――俺は助かったんだ――

 と感じた。

 あとから思えば、死んでしまうほどの大げさなものではなかったのだが、生まれて初めて気を失ったのだ。

――目が覚めてよかった――

 と感じたのも、無理もないことだったに違いない。

 これもあとから聞いたことだが、

「気を失っていたのは、本当に数秒のことだったんだよ」

 ということだった。

 本人は気を失っていたので、どれほどの時間なのか分からなかったが、気を失っている間に、何か夢のようなものを見た気がしていた。

――夢なんか見れる時間はなかったはずなのに――

 と感じた。

 夢の内容も覚えていない。長さがどれほどのものだったのかは分からないが、ただ、数秒だったということはないと思う。

 これはかなり経ってからのことであるが、夢について誰かと話をした時、

「夢というのは、目が覚める寸前の数秒で見るものらしいよ」

 と言われたことがあった。

「そんなことはないだろう。あれだけ濃いと思っている夢なんだ。眠りに就いてから目が覚めるまで目一杯見ていたような機がするんだけどな」

 というと、

「それは錯覚さ。実際に夢の内容なんて幅が広すぎて、一晩で見れるものではないだろう? しかも夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものが圧倒的に多いんだ。それを考えると、夢の世界と眠っている自分の世界とではどこかに境界のようなものがあって、交わることはないんじゃないかな?」

 というので、

「じゃあ、それは境界ではなく、結界なのかも知れないな」

 と答えると、相手は嬉しそうに、

「そうそう、俺が言いたいのはそういうことなんだ」

 と答えた。

 その時から、夢に対しての自分なりのビジョンを感じることができた気がしてきた。しれはきっと、子供の頃に背中から落ちたあの時に出来上がった感覚なんだろうと思うのだった。

 話は少し逸れたが、バーに入った時に感じた石の匂い、それは、木から落ちた時、背中に当たった石で息ができなくなったときに感じたあの匂いと同じだったのを思い出したのだ。

 さらに、

――もう一つ、同じような感覚になったことがあるんだけどな――

 すぐには思い出せなかったが、しばらくすると思い出すことができた。

 それは、バーの室内で感じた湿気からだったのだが、石の匂いというのは、雨が降り出す前に時々感じる匂いだった。

 いつの頃からだったろうか、克典には、

――雨が降る前兆のようなものが分かる時がある――

 と思うようになった。

 それは、匂いを感じる時であった。まるで石のような匂いを感じると思っていたのだが、その思いはどうやら克典だけではなかったようだ。

 天気に詳しいやつが話をしていたのを聞いたことがあったが、その話の内容としては、

「俺は雨が降る前に石の匂いを感じるんだ」

「それはどういうこと?」

 ともう一人の人が聞くと、

「少し大雑把ではあるけど、雨というのは。地表から水蒸気が湧き上がって雲になったものが降らせるものだろう? その時に、地表の埃も一緒に舞い上げるんだ。その埃の匂いを感じて、もうすぐ雨が降るって感じるんだ。それに湿気も一緒に感じるはずなので、雨が降るのを予想するのは、そんなに難しいことではないと思うよ」

 と言っていた。

 克典は、その話を聞いて、

――うんうん、もっともだ――

 と感じた。

 その頃から、雨と石の匂いの関連性について、疑う気持ちはなくなっていたのだ。

 バーの中で感じた石の匂いは、雨を予感させるもので、息苦しさは、子供の頃に背中から落ちた時の苦しみを思い出させるものだった、そう思うと、

――先に感じたのは、石の匂いで、そして石の匂いを感じたことで息苦しくなったんだ――

 という意識を持った。

 その意識にたぶん間違いはないだろう。しかし、どこか釈然としないところがある。天気予報では雨の予報もなかったし、店に入ったあとから思い出しても、表は雨を降らせるような湿気があったわけではない。さらに店に入ってから少しだけ感じた湿気だったが、それも次第になくなってきた。きっと冷たい表から暖かい部屋に入ってきたことで、湿気を感じてしまったのではないかと思うのだった。

 それを後押ししたのが息苦しさだったのかも知れない。

――匂いから息苦しさを感じたと思ったが、実際は逆だったのではないか?

 という思いもあとから感じられた。

 実際に子供の頃に背中から落ちた時は、息苦しさから石の匂いを感じたのだ。逆であるはずはない。そう思うと、今回も息苦しさが石の匂いを招いたと考えた方が自然だった。もし、そうでなければ、息苦しさと石の匂いとの因果関係はなくなってしまい、一連の流れで感じたことの辻褄が合わなくなってしまうと思ったのだ。

 しかし、そのどちらも椅子に座って落ち着いてからは感じることはなくなった。会話を始める前の一瞬の出来事だったはずなのに、あとから思い出すといろいろ考えられるというのが不思議だった。やはり、この店には最初から何か異様な雰囲気を感じていた証拠なのかも知れない。

 そんな克典の気持ちを知ってか知らずか、新見は落ち着いたもので、克典に少しおかしな雰囲気があると思ったのか、落ち着くまで話しかけてくることはなかった。そう思うと、最初にマスターに挨拶をした自分と、息苦しさで誰にも話しかけられず、まわりからも話しかけられない異様な雰囲気の自分と、二人が存在したかのように感じられた。

――どっちが本当なんだろう?

 きっと表に出ていたのは、話しかけていた自分であり、息苦しさを感じていた自分は、その中でぼんやりと表に出ている自分を眺めていたように思えた。

――早く元に戻りたい――

 と思うと、マスターがこちらを見た。

 すると、息苦しさと石の匂いは一気になくなり、まるで何かの呪縛から開放されたような気分になった。その時、

「もう少しすると、ともみちゃんも来ると思うので、それまでゆっくりしていってくださいね」

 という言葉を聞いた。

――ともみちゃんというのは、どんな人なんだろう?

 という想像に駆られたが、最初に感じたのは、まるで男のように毅然とした態度を取るやり手の女性という雰囲気が頭をよぎった。

 本当は、清楚で大人しめの女性が好きな克典なので、本当はそういう女性を想像したかった。自分が想像した、

――男性のような毅然とした態度を取る女性――

 というのは、一番苦手だったのだ。

 それはきっと衝突の予感があったからだ。

 克典は、自分が性格的に、

――人と同じでは嫌だ――

 と思っている方なので、気性が荒かったり、自己主張の強い人とは衝突するところが結構あった。

 研究をしている時は気をつけているので、なるべく衝突することはない。

――相手の研究を尊重する気分になれば、それで大丈夫だ――

 と思っているからで、実際に研究の中で衝突することはなかった。

 誰もが、自分の研究を唯一のものだと感じているからで、相手の領域を侵してはいけないという暗黙の了解があるのだ。同じ道を目指しながら、自分の道をしっかり確保していくのが研究なので、皆周知のことだった。

 しかし、同じ道を歩んでいるわけではない人は、その人の道がどこにあるのか、分からないものだ。だから相手にいくら気を遣ったとしても、自己主張がある以上、衝突は避けられないものに思えている。それでも、相手がそれほど自己主張の強くない人であれば、それほど衝突は起きないが、相手が自己主張の強い人であれば、克典としても自分を抑える自信はない。

――しょうがないことなんだろうな――

 あきらめではないが、承服できないところもある。

 それからどれくらいの時間が経ったのであろうか? マスターも仕事が一段落していて、少し話す余裕もあるようだ。

「研究の方はいかがですか?」

 マスターは新見の研究をどれほど知っているというのか分からないが、声のトーンから察すれば、社交辞令のように感じられた。

「ああ、まあまあかな? 研究と言っても心理学なので、形になって見えるものは研究結果の論文でしかないので、それについての成果は、なかなか表に見えるものではないんですよ」

「なるほど、そうなんでしょうね。伊藤さんも新見さんと同じような研究をなさっているんですか?」

 と聞かれたので、

「ええ、まあ」

 とお茶を濁したが、それを見ていた新見が、

「ええ、そうですよ。彼は真面目すぎるところがあるので、どうも私とは違った目で研究をしているようなんです。それが新鮮で頼もしくもありますよ」

 とマスターに話したが、それが褒め言葉なのか分からず、複雑な心境になった克典だった。

「真面目な人というのは、モノを見る時、何でも真正面から見てしまうものなのでしょうか?」

 マスターは真面目という言葉に反応し、新見に聞いてみた。

「そうですね。それは一概には言えないかも知れませんね。真実と事実が違うように、真面目な人が何でも真正面から見るとは言えないんじゃないでしょうか?」

 新見は少し相手を考えさせるような、何かを示唆している言い方をした。

「真実と事実ですか。確かに真実が事実だとは限らないし、事実が真実だとも限りませんよね。言葉は似ていますが、ニュアンスが違っているような気がします」

 マスターも返した。

「真実の方が含みを感じさせ、事実は曲げることのできないものだっていう認識を僕は持っていますよ」

 真実と事実という見解には、克典も少し興味を持っていた。

 心理学を研究する上で、研究員とこのような話になることはまれではあるがないわけではない。しかし、研究員以外の一般の人と、このような話になることはまずないと思っていた。

 克典は、研究員と一般の人との間に明確な線引きをしていて、同じ話をするのでも、相手によって表情を変えていた。それは意識してのことで、相手も十分に分かっていると思っていた。

 だが、逆に無意識の方が相手には悟られるようで、それだけ自分がウソをつけない性格であることを分かっていたが、本当は研究員としてはいい傾向ではないと思いながら、人間としては悪い気がしない。だからこそ、余計に相手によって表情を変えることを意識するようになっていた。

――自分にとって正直とは何なんだろう?

 と時々考えることがあった。

 人からどちらかというと正直者だと見られていることをいいことに、猫をかぶっているところがあるのは自分でも分かっている。猫をかぶることで、相手に安心させようと思っているのだが、時々、

――相手に看過されているのかも知れない――

 と感じた。

 正直なことがいいことなのか悪いことなのか、まだ結論は出ていないが、

――正直であることに越したことはない――

 という思いが原点にあり、

――正直でありたい――

 という気持ちが意識になっていることを感じていた。

「ところで、正直という言葉の定義として、まず、誰に対して正直なのかというのが最初に考えることではないかと思うんですよ」

 と、まずはマスターが自分の考えを述べた。

「自分に対して正直なのは、前提だと思いますが、そうなると、まわりの人に対して本当に正直にいられるかというのが問題になってきますね」

 と、新見が答えた。

「確かにその通りですね。自分に正直になるということは、えてして、自己中心的な考えに陥りがちになってしまう。だから人によっては、自分を押し殺してでも、まわりに正直になりたいと思う人がいるようですね」

 とマスターが言うと、

「それはきっと、ほとんどの人がそうではないかと思いますよ。自分で気付いていない人が多いだけではないでしょうか?」

 この新見の意見に、

「僕はそうは思いません。確かに気付いていないだけの人はたくさんいると思いますが、自分を押し殺してまで、他人に正直になることを自分で意識していないでできるはずはないと思うんですよ」

 と克典がいうと、

「そうかな? それは意識するということが、無意識の状態よりも、強い力が働くという発想から来ているものではないのかな? 僕はそうは思わない。無意識の方が自然に力を発揮することができて、下手に意識してしまうと、せっかくの力を半減させるのではないかと思っているんですよ」

 という反論を聞いて、

「なるほど、新見さんらしい発想ですね。無意識の方が力強いというのは、僕もまんざら反対ではないと思うんですが、正直という発想に関しては、やはり意識していないと難しいところがあると思っています」

 という克典の話を聞いて、新見は黙ってしまった。

 本当は何か言いたいことがあるようだが、

――これ以上話をしても、堂々巡りを繰り返すだけだ――

 と考えたので、少し冷却時間を設けようと思ったようだ。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか?

 克典には結構な時間がかかったような気がしたが、新見とマスターの二人は、ほとんど時間が経っていないような気がしていた。

「正直の反対がウソだとすると、ウソのウソは本当ということになるんでしょうが、それって信じられるんでしょうか?」

 いきなり、そう言って話を切り出したのは、マスターだった。

――面白い切り口だな――

 と克典は思ったが、どうやらこの店でのマスターと新見の立ち位置が分かったような木がした。

――マスターの奇抜な発想から話が始まって、それに回答する形で新見が発言することで会話が成立していくんだな――

 と感じた。

 普段はおとなしそうなマスターだが、話始めると、どこまでも饒舌に感じられた。それは無口な研究員が、自分の意見を述べるのに、時間やまわりの雰囲気などといった感覚がマヒして話し始めるのに似ている気がした。

 もっとも自分もその研究員の一人である。今までに何度、まくし立てるように話をして、気がつけば、あっという間だったという気がしていたことだろう。ただ、その相手はいつも研究員であり、話が盛り上がる時もあれば、最後は結局同じところに着地して、話が縮小されてしまったこともあった。

「反対の反対で、元に戻るという発想は、数学的な発想であり、マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるという発想に近いんじゃないでしょうか? でも実際には数学みたいに答えは一つだというわけではなく、無数に答えは存在している、だから反対の反対が元に戻るというわけではないと思います」

 と新見が話すと、

「そうですね。その答えというのは、きっと可能性のことではないかと思います。考えられることだけでもかなりあるのに、考えられない可能性も無数に存在すると考えると、ねずみ算的に増えていく気がして仕方ないですね」

 と克典が補足する形で答えた。

「なるほど、その可能性という考え方は私も分かる気がします。可能性が無限大であるという言葉をよく聞きますからね」

 とマスターが言った。

「いえいえ、無限大などというのは、そんなに簡単なものではないと私は思います。無限大というのは確かに存在するとは思いますが、そのあたりにたくさん転がっているようなそんな代物ではないと思うんですよ」

 という新見の考えに、マスターも克典も揃って感心したのか、ほぼ同時に頭を下げた。

「無限大という言葉をよく耳にしたりしますが、私は無限大を肯定するのであれば、四次元の世界も肯定しているのと同じではないかと思うんです。四次元の世界というのは、よく『メビウスの輪』を喩えに用いられますよね? あれは矛盾を示した図であり、四次元の世界の原点は矛盾にあると考えてもいいと思うんです」

 新見がこの話を始めると、場は完全に凍り付いてしまったように見えるのではないかと思うほどの別世界を感じた克典だった。

「メビウスの輪というのは、僕の考えでは、堂々巡りを繰り返すはずのものが矛盾を起こしたという発想でいるんですが、どうなんでしょうね?」

 と克典がいうと、

「確かにそうだよね。堂々巡りをするというのあは、普通に矛盾のない輪のことを示していると思うんだが、それこそ、無限を表しているんじゃないかな?」

 これはマスターの意見だった。

「なるほど、堂々巡りの発想と無限という発想は、一見違っているようだけど同じものに感じる。だけど、一見同じものに感じるけど、実際には違っているんだという発想もできるんじゃないか? だからそこに矛盾の発想が生まれて、メビウスの輪のようなものが創造されるんだ」

 これは新見の意見だった。

「タイムパラドックスという言葉があるけど、ここでいうパラドックスというのは、直訳すると逆説ということになるよね。この逆説というものこそ、矛盾であり、矛盾というのは、どちらから見ても辻褄が合っていなければいけないものが、片方から見ると違っているというようなものなのかも知れない」

 この克典の意見に、即座に反応したのがマスターだった。

「なるほど、ここで最初の話に戻ってくるんだ。ウソのウソは正直ではないという発想ですね。単純に矛盾と考えても、今みたいにいろいろな発想からグルッと一周してきても、結果は同じところに戻ってくる。まったく違う話に脱線していたはずなのに、本当に面白いですね」

 やはり最初に問題提起しただけのことはある。話の展開に熱中していた二人は、そのことに気付いていなかった。

「正直者には、きっとウソのウソが正直だという思いしかないのかも知れませんね。そういう意味では僕は正直者ではないです。結構考えがひねくれていますからね」

 と苦笑いをしながら克典は語った。

 すると新見も苦笑いをしているのが見えたが、

――なるほど、さっきの真面目だという言葉の裏には、正直者だという発想とは違ったものがあったに違いない――

 と感じた。

 確かに真面目な人が正直者だとは限らない。

「この人は真面目だ」

 と言われると、苦笑いをしてしまう人がいるが、それは相手の皮肉が分かっているからだ。

 真面目というのは、正直者という意味ではなく、融通が利かないという意味であり、あまり褒められた言葉ではない。そのことを普段なら察するはずなのに、この日は最初から分かっているわけではなかった。

――どうして、マスターは、ウソのウソの話をしたんだろう?

 まるでさっきの話がただのマスターの思い付きから来たものではないということを察したかのようだった。

――マスターは、新見の性格はよく分かっているようなので、俺の性格を図るのに、新見が発想することが俺を指し示しているような内容になるように誘導したのだろうか?

 いくら客商売のマスターとはいえ、そんな心理学の研究員の上前を跳ねるようなマネができるというのは信じがたいことだった。だが、話をしているうちに、確かに誘導されているかも知れないと思いながらも引き込まれていきそうになる自分を感じ、何とか思いとどまったのを思い出した。

 しかも、話が真面目な性格から入ったのではなく、どこかニアミスっぽいところのある正直者という発想から入ったというのも、どこか策士のような雰囲気を感じさせた。

 克典が考え込んでいるうちに、いつの間にか会話が滞っていた。最初に感じた、

――凍りついたような空気――

 とは少し違った世界で、まったく動いていないように見えるのは、

――凍りついたわけではなく、時間があまりにもゆっくり過ぎているので、凍り付いているように見えるだけだ――

 という思いに駆られていた。

 錯覚と思えば、その場から開放されたかも知れない。しかし、そう思えなかったのは、その場の空気が何なのか、ハッキリさせたいという思いがあったからだった。

――こんなことを考えるのも、自分が真面目な性格だからなのかも知れないな――

 心理学の研究員らしく、もう少し捩れた発想をしてもいいはずなのに、こんな発想しかできない自分を複雑に感じた。

――真面目と思われるよりも、研究員らしくありたい――

 それがいつもの克典の意識だったからだ。

「こんばんは」

 シーンと静まり返った店内に、乾いたような声が響いた。

 乾いたように聞こえたのは、その声がどこから発せられたものなのか分からなかったからだ。その声には確かに和音が存在し、高音部分と低音部分が脈打っているように感じられた。

 二人が振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。ニコッと笑ったその笑顔に、妖艶さを感じたのは、克典だけではなかった。

「やあ、ともみちゃん、待っていたよ」

 とマスターが気軽に声を掛けたその相手は、待ち望んでいたさっき話題に上がったともみという女性のようだ。

 妖艶に感じられたことで、二人は彼女から少しの間、目を離すことができなかった。それは、自分の意志で目が離せなくなったわけではなく、ともみという女性の魔力によって目が離せなかったのだ。そこに女性としての魅力を感じたわけではなく、

――普段なら決して意識することはないはずの女性――

 として写っている彼女の姿は、妖艶さという言葉の意義を根本から考え直さなければいけないような気がした。

「マスター、待っててくれたのね。ありがとう」

 というともみの言葉に、

――なんだ、この感覚は?

 と、新見と克典の二人ほぼ同時に感じたようだったが、もちろん、お互いのそんなことを分かるはずもない。

 ただ、この感覚を看破した人が一人だけいた。それはマスターだった。

――やはり、ともみという女性には、何か不思議な力が備わっているんだ――

 と感じていた。

 しかし、何か不思議な力だとは思っても、それがどのような種類のものなのかまでは分からなかった。そういう意味で、

――ともみを新見に会わせたい――

 と思っていたが、今までに実現したことがなかった。

 マスターはこの時には気付かなかったが、ともみと誰かを会わせたいと思うと、その相手に誰か友達か仲間がいなければいけないのだった。

 ともみが次に来る日を最初から予告していることはほとんどまれだった。それだけに、今日新見がこの店に現れたのを見た時、マスターは心の中で、してやったりだと思ったことだろう。

 しかも、今まで新見はこの店に誰か連れを連れてきたことなどなかったことだった。それも初めてだったことに、

――今日は、初めてづくしだよな――

 とマスターは一人ごちた。

 そんなマスターの思いを知ってか知らず科、二人の研究員は不思議な空気を共有しているようだった。

――この人の声、一人が喋っているようには聞こえない――

 と感じたのは、克典だった。

――低音部分が目立つ時と、高音部分が目立つ時が、一つのセンテンスで複数あるなんて――

 と、感じたのは、新見だった。

 それぞれで考えていることにさほどの差はなかったが、先を進んでいるのは、新見のようだった。

――俺の前を歩いていて、なかなか追いつくことができないー―

 先を進んでいる相手を、克典は意識していた。

 先を歩く新見の姿を感じた時、克典は高校時代に読んだオカルト小説を思い出した。

 その話は、自分が歩く十分前を、もう一人の自分が歩いているという話で、絶対に見ることのできない自分だった。他の人からは、

「おや、戻ってきたんだね?」

 と言われても、初めてきたので、

「いや、今日初めてきたんだよ」

 と言っても、

「またまたご冗談を」

 と笑い飛ばされて終わるのだ。

 誰もまともに聞いてくれない現状に、主人公は否定することをやめてしまった。それは前を歩いている自分に対してのことだけではなく、すべての否定を自分で拒否するようになったのだ。

――どうせ何を言っても誰も信じてくれない――

 人生を半分あきらめたような感覚に、まわりの人は変わってしまったはずの彼を理解できていなかった。

 なぜなら、十分前を歩く自分が、すべてやってしまうからだった。

 そのうちに主人公は何もやる気がなくなり、夢も希望もなくなってしまった。しかし、望みはすべてかなっているのである。

――どうせなら、望みなんかかなわない方がいいんだ――

 と感じた。

 主人公のストレスは極度に膨れ上がっていた。それでも彼のことを分かってくれる人は現れない。それがさらに彼のストレスを深めるのだ。

 だが、本当は彼のことを分かってくれている人が一人だけいた。それは彼の幼馴染の女の子で、彼女も彼の苦しみを分かっていながら、自分では何もできないというジレンマを抱えていることで苦しんでいた。

 しかし、実は彼女にももう一人の自分がいて、もう一人の彼女が十分前の主人公を演出していた。つまり、姿形や素振りなところは主人公なのだが、性格や考え方は、主人公を分かっている彼女の「分身」だったのだ。

 そのことに気付かない間は、十分前の自分に苦しめられる主人公。しかし、それが分かる時が来た。それが彼女を襲った突然の交通事故だった。

 彼女は、即死だった。主人公の苦しみは極度に達し、どうしていいのか分からなくなっていたが、その頃から、十分前の自分がいなくなっていた。彼は普通の人間に戻ったのだ。

 彼は苦しみから救われたはずだった。だが、それから半月もしないうちに、彼の死体が発見された。

 自殺だったという。

 他の人は、仲が良かった彼女の後を追ったとしか考えられないと思っていたようだが、実際には違っていた。彼は自分の意志で死を選んだのだ。

 それが彼に残された最後の「自由」だった。十分前を歩いている自分、本当はそれが本当の自分だったのだ。彼女が亡くなったことで、十分前の自分の存在がなくなった。今の本当の自分だと思っていた主人公は、その時初めて自分が本当の自分の存在が消えてしまったことを悟った。

 彼には死の恐怖などなかった。最後にそのことを書いて、小説は終幕を迎えた。

――分かったような分からないような――

 と思ったが、小説の内容は、頭に残ってしまった。

 たまに夢に見ることもあるくらいで、その時に前を歩いているのが誰なのか、克典には想像もつかなかった。

 今、新見と一緒に来たバーで、前を歩いている新見の姿を感じることができた。夢とリンクした瞬間だった。

 今までに感じていた新見に対してのイメージは、絶えず自分の横にいるというイメージだった。先に進もうとすればできなくはないが、新見に自分の後ろに回られることを恐れていたのだ。かと言って、新見の背中を見るのは嫌だった。それは、研究員としてのプライドであり、親友としては、後ろに回られるのを怖いと感じ、ライバルとしては、相手の背中を見るのは自分のプライドが許さなかったのだ。

 それなのに、その日は新見が自分よりも先を歩いている。この感覚をどうして恐れていたのかを考えようとした瞬間、思い出したのが前に読んだオカルト小説だったのだ。

 だが、オカルト小説を思い出したその理由の一つに、今現れた、ともみと呼ばれる女性の存在があるのを感じた。

――この女、只者ではない――

 克典は感じたが、それ以前に新見もすでに感じていたことだろう。

 そして、もう一つ克典が気になったのは、

――馴染みの店で、お互いに常連だというのに、今まで一度も会っていないというのは、、偶然なんだろうか?

 マスターの様子を見る限り、二人を会わせたがっているのは分かった。それなのに会えないというのは、本当にそれぞれの都合が合わないだけだろうか? そう思うと、今日自分が一発で会えたというのは、不思議な気がしたのだ。

――それにしても、変な女だ――

 声しか聞いていないのだが、妙な予感を感じたのは、

――以前にも同じような感覚を味わったような気がする――

 と感じたからだ。

――そうだ、あの時――

 それは、自分が研究所に入所してから少ししての飲み会の時のことだった。

 一次会が終わった後、先輩の一人に、

「面白いところに連れて行ってやる」

 と言われて、言われるままについて行ったことがあったが、その先というのは、「ゲイバー」だったのだ。

 もちろん、ゲイバーなど初めての経験で、さすがに先輩といえど、断りきれなかった自分に憤りを感じていた。

 それでも、何とか耐えながら呑んでいると、

「どうだい、結構楽しいものだろう?」

 という先輩の言葉に、

「はぁ」

 と曖昧にしか答えられなかった。

 しかし、気持ち悪いと思っていた感覚も次第にマヒしてきて、会話を聞いてみると、

「この人たち、結構いろいろ知っているじゃないか」

 と、気持ち悪さが感心に変わってきた。

――なるほど、先輩のいう楽しいというのは、面白いという意味なんだな――

 と感じた。

 面白さというのは、楽しいだけではなく、満足できるものが何か一つでも感じることができなければ思うことのできないものである。何に満足できたのかは分からなかったが、面白いと思ったのは事実だった。

「世間の人は私たちゲイを蔑んだ目で見るでしょう? でもそんなことはないのよ。男性の気持ちよりも女性の気持ちの方がよく分かるの。つまりは女性の目から男性を見ることができるので、誰よりも自分のことを分かっているのは自分だって感じることができると思うのよ」

 と言っているのに感動し、

「なるほど、そうかも知れませんね。前に読んだ小説で、十分前を歩いている自分がいて、その人が実は本当の自分なんだけど、その中には女性が入り込んでいるというような話を読んだことがありました」

 というと、

「あ、その本、私も読んだわ。最初はよく分からなくて、何度も読み直したんですよ。難しいけど、分かってみれば、人間の発想って、底が知れないんじゃないかって思うようになったのよ」

 と言っていた。

 それを聞いて克典も、

「そうそう、だからその時から、女性に対して必要以上に意識してはいけないと思う反面、男にはない何かを探求してみたいというおもいもあるんですよ。それが心理学に直結しているわけではないと思うんですが、最後に辿り着くのは心理学だと思っています。だから心理学を専攻しているんだって、最近思うようになりました」

 克典のこの言葉は半分本当であるが、半分はウソである。

 実際にゲイの人を前にして気が付いた部分があるのも否定できないところであり、そういう意味では半分ウソだったのだ。

 それからゲイバーと呼ばれるところには、一度も足を踏み入れていないが、ゲイの人の考えていることというのは、想像以上に幅広いものだということを感じるようになったのだ。

 ともみの声を最初に聞いた時、彼女の顔を確認することはできなかった。顔を見ようとしたその時、彼女の後ろの明かりが眩しくて、逆光になったことにより、後光が差したようになったのだ。シルエットに浮かんだその顔は、勝手な想像でしかなかったが、輪郭までしか思い浮かべることができなかったのに、妖艶さだけを感じた。

 この感覚は克典だけではなく、新見も同じように感じた。そして、新見との違いであるが、新見は感じてはいなかったが、克典には匂いが感じられた。それは石の匂いであり、石の匂いを感じることで、急に息苦しさを感じた。

 克典は、その息苦しさがあったせいで、彼女に妖艶さを感じたと思っている。そういう意味では、同じ妖艶さを感じたのだとしても、新見が感じた妖艶さとは種類の違うものだったのだ。

 新見が感じた妖艶さは、彼女の声の低音部分にあった。

――ハスキーな声ほど、妖艶さを感じさせるものはない――

 と誰にも言ってはいないが常々考えていた新見である。

 当然自分の感覚に正直な反応を示しただけで、克典のような複雑な心境ではなく、単純な発想だった。

 新見という男、結構いろいろ考えているようで、実際に頭の中は単純構造であった。克典には分かっているが、まともに単純だと思うと、新見という男を見誤ってしまうことも分かっていたのだ。

 克典がいろいろな発想を思い浮かべている時、どれくらいの時間が経っていたのか、分からなかった。マスターとともみの間で会話が交わされていたようだったが、新見は二人の会話に口を挟むことなく黙って聞いていた。

 新見にはそういうところがあった。

 元々新見と知り合った頃は、新見という男、結構饒舌なのだと思っていたが、実際には余計なことを一切話さない男で、どちらかというと、聞き上手なところのある男だった。

 それを、

――口下手な男なんだ――

 と思ってしまうと、それ以上、彼を知ることはできなかっただろう。

 新見という男は聞き上手であり、余計なことを口にしない男、要するに、

――自分に興味のないことは、口にしない男なんだ――

 ということであった。

 だから、相手によって新見を見る目は違っている。同じものに興味を持っていたり、同じところを目指している相手に対しては、

「新見君は、分かりやすい人だ」

 と言われているに違いない。

 かくいう克典もそうだった。

 同じ研究室にいて、同じところを目指して研究しているのだから、それも当然に思えるが、実際にはそうでもない。同じ研究室にいるからと言って、同じところを目指しているとは限らない。むしろ、まわりは皆ライバルであり、恩師である教授も、憧れであり、目標ではあるが、一人のライバルでもあった。

 それでもさすがに教授をライバル視している人はほとんどいないだろうが、新見に関しては見ていて他の人と視線が違う。上から目線に見えるかも知れないが、それだけ研究に関して貪欲であり、そのことを教授も分かっているので、新見に関しては、何も言わないのだった。

――新見の研究は、どちらかというと、教授の目指しているところに近い気がする――

 克典はずっとそう思ってきた。

 元々、教授に賛同して、鷲津研究所に入ってきたのだ。研究内容の細かいところは分からないが、最初の頃はよく二人で話をしていた。たまに喧嘩になることもあったくらいで、それだけお互いに研究に関して貪欲で、自己主張が強いのだろう。

 新見はもちろんのこと、教授の方もそんな新見に対して、一目置いているところがあった。

 最近の新見は、男女の違いについて研究していた。

 ある日、研究所の仕事が終わって一緒になってから、その日は酒を呑むことはなく、研究所の近くの喫茶店で、研究の話に講じていた。

「大体、世の中というのは、大きく分けると、男と女しかいないんだ。それは人間だけに限ったことではない。他の動物、さらには植物だって、男と女に分けることができる」

 と新見がいうと、

「確かにそうだ。植物などは、一つの身体に男と女の両性が共存しているからね。そういう意味では、男と女が存在していると言ってもいいだろう」

 言わずと知れた、おしべとめしべのことを言ったのだ。

「男と女がいるから、生殖が行われ、子孫繁栄が行われるのさ。これほど自然の神秘と言えることはないんじゃないか?」

 と新見がいうと、

「種の保存と言われるけど、男女の生殖が世の中の生態系の基本ではあるよね。でも、世の中の生態系というのは、ハッキリ言って美しいものではないと俺は思うんだ」

 と克典が答えた。

「なるほど、君の言うことは分かる気がする」

 新見にも生態系に対して、思うところがあるのだろう。克典が何を言いたいのか、分かっているようだった。

「弱肉強食と言われるけど、まさしくその通りなんだよね。弱い者は、強い者に食われてしまう。それが世の中の生態系なんだよね」

「その通りだよ。でもね、それだって回りまわって自分に帰ってくるから、生態系というのは保たれているんだ。要するに、すべての生物に絶対的な命は存在しないということだよ」

 新見の言っていることも間違っていない。克典もその話を聞いて、何度も何度も頷いていた。

 しかし、その頷きは無意識のもので、後で指摘されると、

「えっ、あの時、俺は頷いていたのか?」

 と、答えるに違いない。

 何を考えているのか時々分からなくなるのが克典だったのだ。

「土に帰る、って言われたりするけど、そういうことなのかな?」

 と克典がいうと、

「そういうことさ。動物は死んで、土に帰る。そうすると、土に栄養が行き渡り、それが植物を育てるのさ。その植物を動物が食する。草食動物だね。そんな彼らを肉食動物が食っていく。そして、肉食動物である獣を人間が捕らえて、調理して食べるのさ。そう思うと、最終は人間や、肉食動物なんだろうけど、始まりは、彼らの死からなんだ」

 生態系の話から、少し脱線してしまったようだ。元々の話は、

「世の中を大きく分けると、男と女に分かれる」

 というところから始まっていたはずだ。

「男と女の話になると、どうしても人間界では、タブーの話になってしまうんだけど、どうしてなんだろうね?」

 と克典が言った。

「詳しい原点は分からないけど、時代的に考えると、旧約聖書の時代から、すでに男女が最初に生まれたことを示していて、そこには禁断の果実が存在したり、いちじくの葉で、生殖器を隠したりという表現がなされている。これはすでにその時代から、男女の存在がタブーであるということを示している。いや、聖書というのは、元々戒めの意味で書かれた物語だったりするだろう? たとえば、民族が分かれたり、言葉が民族ごとに通じなかったりするのは、バベルの塔を作った王が、天に対して弓矢を射ったことで神様が怒り、言葉を通じないようにして、民族を世界各国に散らばらせたところから始まっているだろう。それが本当のことなのか、それとも、民族が世界に散らばって、言語が複数存在しているという事実から、想像しての話を後から作ったのかも知れない。いわゆる辻褄合わせのような話なんだろうね」

 新見のこの意見には、克典も賛成だった。

「民族が分裂したという話は分かるけど、男女が最初から存在していて、どうして男女だけなのかということには触れていない。それは、本当に創造の神というものがいて、男女の創造は理屈ではないということなのか、それとも、民族分裂のようにその理由を想像しようとしたけど、できなかったというだけのことなのか、難しいところだよね」

 と克典がいうと、

「ひょっとすると、人間も最初は植物のように、一つの身体に、男女が同居していたのかも知れないな。それは進化の過程で、元々は植物から始まり、獣になって、それがさらに進化して、人間になったと思えば、考えられないこともない」

「ただ、そういうことになると、気の遠くなるような果てしない時間を要する話にはなるね」

「それはそうだ。地球の歴史から考えると、人間が出現してからの時代なんていうのは、本当につい最近のことだと言ってもいいんだろうからね」

 二人は、少し黙り込んで考えてみた。

「人間が進化すれば、どんな動物になるんだろうね?」

 ボソッと、克典が言った。

「想像するのが難しいだろうね。何しろ俺たちが、『人間こそ、最高の高等生物なんだ』というように小さい頃から教えられてきたので、そのイメージが当然のこととして凝り固まっている。それを解くのは、かなり柔軟な考えを持たなければ難しいだろうね」

 と新見がいうと、

「イメージというのは、人それぞれなんだ。当然それが個性であり、個性というのは、人間特有の性質だと思いがちだけど、本当にそうなんだろうか?」

 と克典も答えた。

「だから、人間には思考能力があり、その思いは、『この能力は人間だけに与えられている』という思いの元でもある。人間としてのプライドなんだろうけど、せっかくそんなプライドがあるのに、人間は、そのプライドを個人に押し込んでしまって、それを個性だと思い込んでいる。だから、紛争が起こったり、身分の違いが発生し、支配階級と、支配される階級に分かれて、戦争の火種になる。人間だけだよね。私利私欲のために殺しあうのは」

 新見は、かなり人間に対して嫌悪を抱いているようだった。それは自己嫌悪ではなく、人間という動物に対しての嫌悪だ。だから、まわりからはあまり好かれているわけではない。彼の考えは無意識に表に出てくるものなのだろう。

「自分が相手を嫌いなら、相手も自分のことを嫌いになるものさ。自分が相手を嫌いだという感覚は、相手にも伝わるものだからね」

 こんな話は、心理学以前の問題として、学生時代から友達の間でよく言われていた。克典も自分が人間嫌いだと思っていたので、その話には少なからずの意識として残った。

 新見の学生時代というと、結構友達がたくさんいたようだった。ただ、それは表面上の友達だけで、どちらかというと、

――ナンパをするための仲間――

 という程度だった。

 高校時代までは、暗い人生を歩んでいた。実際に友達もあまりおらず、ただ、同級生が女の子と連れ添って歩いているのを、羨ましく眺めているだけだった。

 いわゆる、

――指を咥えて――

 と言えばちょうどいいだろう。

 嫉妬するにも、その根拠が見つからず、嫉妬することで自己嫌悪に陥ることが自分で分かっていたので、嫉妬もできなかった。それは、

――自分を抑えることができたから――

 という理由ではなく、ただ、自己嫌悪に陥った自分を想像することができたというだけのことだった。

 人によっては、

「あいつを好きにはなれないが、理性で自分を抑えることができるのは、さすがだな」

 と彼に一目置いている人もいるが、大半は、

「いつも暗いやつで、何を考えているのか分からない」

 と、全体的な暗さから、彼の奥を覗く気にもなれず、本心を垣間見ることのできない連中ばかりだたt。

 新見はそれでいいと思っていた。

 中途半端に分かってもらえるよりも、最初から分かってもらえない方が気が楽である。下手に信用されようものなら、

――彼らの信頼を裏切ってはいけない――

 というプレッシャーに見舞われて、余計な気を遣わなければいけなくなる。

 一度まわりに与えた印象がいい印象であれば、その印象を崩さないようにしなければいけないという思いが強く、さらに凝り固まった自分を作り上げようとして無理をしてしまうことになるだろう。

 そんな思いは無理を繰り返すことになる。一度でも裏切れないという思いは、自分に対して本来持つべき優先順位をマヒさせ、それが無理に繋がり、無理は必ず綻びを呼んでしまう。

 そうなると、最低限の自分としての態度に、本人の意思に反した裏切りが芽生えてしまうようになる。

――防ぐことはできないんだ――

 一度裏切ってしまうと、それがどんなに小さなことであってもダメなのだ。

 裏切りは、一つのウソでも成立する。そう思うと、

――裏切りになるウソをつきたくないために、ウソをつかなければいけなくなる――

 そんな時に必ず出くわしてしまうのだ。

 そして、つかなければいけないウソ、そのウソの相手というのは、自分なのだ。人を裏切りたくないためにつくウソが、自分を裏切ることになるという思いを、その時、ハッキリと自覚できるだろうか。自覚できなければ、トラウマとなって残ってしまい、人を裏切っていないのに、裏切ったのと同じ感覚を味あわされることになるのだ。

 こんなに気持ち悪いことはない。

 自分で納得できないのに、裏切ったような気になってしまい、いつの間にか自己嫌悪に陥っている。自己嫌悪に陥るのは、当然の理屈なのだが、自分では納得できていない。同じ自己嫌悪でも、理屈が分かっている自己嫌悪と、理屈が分かっていないものとではレベルが違うのだ。

 そのうちに、うつ状態がやってくるようになる。

 自分を納得させることができないのであれば、新見はそのまま自分の殻に閉じこもってしまう。それは克典にも言えることで、克典も同じ頃、新見と同じようにうつ状態に陥っていたのだ。

 ただ、克典の場合は少し違っていた。

 元々人間嫌いだった克典が、大学に入ると、まわりに友達ができたことで、自分に対しての違和感を感じたのだ。だから、友達と言っても、決して心を許すことはなく、一人で佇んでいる時を新鮮に感じたのだ。そのまま一人でいることを快感に感じるようになり、次第に感覚がマヒしていき、いつの間にか、うつ状態を抜けていた。

 新見の場合は、自分を納得させられないのであれば、自分だと思っていた性格を否定することから入ったのだ。・だから、友達ができても、ナンパに精を出し、知り合った女性と正面から向き合ってみて、自分の気持ちを確かめようとしてみた。だが結果は、

――結局、皆自分がかわいいんだ――

 という結論になり、

――一度、頭の中をまっさらにしないといけない――

 と考えるようになった。

 ともみがふいに口を開いた。

「私が、この店に来る時は、不思議といつも男性二人がいる時が多いんです」

 それを聞いた新見が、

「今日みたいにですか?」

「ええ、そうなんです。しかも、他のお客さんは誰もいないんです。バーというところは、男性であれ、女性であれ、一人が多いと思っているのは私だけなのかしら?」

 というともみに、今度は克典が返した。

「そんなことはないと思いますよ。女性二人組というイメージは、僕にはありますね」

「そうなんですか? 私には、女性二人組というイメージはなかなか湧いてこないんですよ」

「ともみさんは、女性同士で呑むことってないんですか?」

 今度は新見が返した。

「そうですね。ないかも知れませんね」

 それを聞いて、二人は黙ってしまった。

 女性同士で呑む雰囲気を想像することは、新見にも克典にも、難しいことではなかった。しかし、ともみと誰か他の女性が飲んでいるというイメージが湧いてこない。もし、女性二人が呑んでいる状況を思い浮かべたとして、二人とも、ともみとは似ても似つかぬ女性に思えてならないのだ。

 その想像は、克典も新見も同じであった、しかし、どちらの方がその思いが強いかといえば、新見の方だった。二人とも納得できないことは想像もできない性格であったが、その思いがより強いのは、新見の方だということであろう。

 二人がそんなことを考えていると、

「ほら、やっぱり」

 ともみは、ふいに声を上げ、自分だけで何かを納得したようだった。

 その言葉に最初に反応したのは、やはり新見だった。

「どうしたんですか? 何かを思いついたんですか?」

 それを聞いたともみは、新見と克典を交互に見つめ、思わず噴出してしまった。

 それを聞いて、少し不満を感じた二人は、それぞれにともみを睨んだ。

 そのことに気付いたともみは、

「あ、ごめんなさい。別にお二人を笑ったわけではないんです。自分におかしかったんですよ」

「どういうことですか?」

 克典が聞いた。

「いえ、自分でも無意識だったんですが、お二人を交互に見てしまったことがおかしかったんです」

「ますます分かりません」

 と、新見が言った。

「お二人は、まだ気付いていないんですか? それともお二人が誰かと会話をする時って、いつもこんな感じなのかしら?」

 また、少しおかしかったのか、ともみは、笑いを堪えているかのように口に手を持っていった。

 今度は男性二人、何も言わずに、自分たちだけで見つめあった。何となく分かっているかのように思えるが、その現象をどう捉えていいのかを二人は考えているようだった。

 二人が沈黙に入ると、しばらくその沈黙を楽しんでいるかのように佇んでいたともみは、自分から口を開いた。

「実はね。女性側の私が話をしている時、お二人は交互に私の話しに答えているんですよ。お気づきになっていました?」

 とともみが言うと、二人はもう一度目を合わせて、お互いに納得したかのように頭を下げた。どうやら、二人にはそれぞれの感覚で分かっていたようだ。

「僕たちの間では、今までそんな感覚に陥ったことはなかったですね。そもそも、僕たち二人に対して、女性が一人というのは、あまりなかったことですからね」

 新見が答えた。

「私から見ていてお二人は、それぞれに個性をお持ちだと思うんですよ。本当なら、それぞれ個別にお話した方が、話も盛り上がるというのは分かっているんです。お二人とも、相手が男性であれ、女性であれ、一対一だと、話に花を咲かせることができると思うんですよ。それだけ話題性を持っていると思うんですが、ただ、話題としては、どうしてもカルトな話題ですので、相手によるというのは仕方のないことだと思います。心理学を研究されているというのも分かる気がしますね」

 二人が心理学を研究しているというのは、最初にマスターがそれぞれを紹介してくれた時に、話題として上ったので、意識としてはあったはずだ。

「ともみさんも、結構心理学に精通しているように思うんですが、いかがですか?」

 と、克典が聞いた。

「そんなことはありませんと。心理学を勉強したことはありません。でも、人と話をしていると、その場で分かることというのが自分の中でハッキリしているんです。だから、お二人ともお話が合うっように思うんですよ」

「なるほど、だから、三人ではなかなかうまく話ができないかも知れないシチュエーションでも、私たちなら大丈夫だと思われたんですか?」

 新見が聞いた。

 やはり、二人は意識しているわけではないが、交互に聞いているのは間違いない。

「人と話をする時というのは、私の場合は、自分から言い聞かせるようなパターンと、相手の話を聞いて、その話にバリエーションをつけて、話を盛り上げる二つのパターンがあるんです。だから、複数になればなるほど、自分では会話が難しいと思っているんですよ。どうしても、上から目線になってしまいがちですからね」

「そんなことはないと思いますよ。ともみさんとお話をしていて、上から目線だなんて思ってもいませんよ」

 克典は、そう言ったが、確かにその通りであるが、半分は社交辞令のようなところがあった。

 しかし、自分たちも心理学を志している人間として、会話の中に盛り込まなければいけないと思っていることもあり、それを分かってくれる人がなかなかいないこともあって、上から目線だと思いがちであった。ともみの話は新鮮に感じられることもあって、自分たちが上から目線であるという意識を薄れさせてくれた。

――いや、上から目線という意識を薄れさせてくれたから、彼女の話が新鮮に感じるのかも知れない。それだけともみさんはその存在自体が神秘的なのではないだろうか?

 そう感じたのは、新見だった。

「でも、ともみさんは、さっき僕たち二人が交互に話しているのをおかしいと思われたようですが、どうしてなんですか?」

 と克典が聞いた。

「お二人は、交互に話をしているのを意識されていなかったですよね? でも気がつけば、それも当然のことだと思った。それはきっとお互いに遠慮しているからだって感じたんじゃありませんか?」

 と言われ、また克典と新見は目を合わせ、少し俯き加減になっていた。

「無意識ではあるけど、言われてみると、すぐに納得できてしまう自分たちで少し不思議に感じていらっしゃるって私は思うんです」

 ともみは続けた。さらに、

「私はそんなお二人を見ていると、自分が納得できないことには、言動も行動もしない人だって思うんですが、だからと言って、納得いくまで考えるというタイプではないでしょう? それは私が思うに、自分に自信がないというよりも、自分の研究に自信をなくすのが怖いと思っているんじゃないかって感じるんです。そこがお二人の、他の人と違うところで、信じていることとは別に無意識に取る行動も、自分を納得させるだけの力を持っていると考えておられるんじゃないですか?」

 話は結構難しかった。

 心理学を研究している二人にして、

――この女はいったい何が言いたいというのだろう?

 と思わせるに十分な気配を持っていた。

 マスターが二人にともみを会わせたいと思った理由も分からなくもない気がした。

――ひょっとすると、ここで一番いろいろな発想ができて、頭がいいのは、マスターなのかも知れない――

 と、三人のうちの誰かが思ったのだが、それはいったい誰だったのだろうか?

 そういえば、マスターはともみが現れる前に、少し意味深なことを言っていたような気がする。

「ともみちゃんというのは、納得させることには定評があるんでよ」

 と言っていた。

 その時、新見も克典も、

――自分を納得させることなんだろうな――

 と感じていた。

 その感情を信じて疑わなかったと言ってもいい。

――しかし、どうしてあの時、マスターはともみが納得させられるものが何なのか、ハッキリと口にしなかったんだろう?

 それを感じたのは新見だった。

 口にしないということは、

「言わなくてもこの人になら分かってもらえる」

 という感覚が一番強いと考えるのが妥当ではないだろうか。

 しかし、言葉にしないことで、言葉の流れに違和感があったのは事実である。そう思うと、

――違和感を与えて、何かを考えさせようという意図があったのではないだろうか?

 とも考えられたのだ。

 実は、この考えを最初に持ったのは克典の方だった。

 克典は新見ほど、素直な考えができないと自分では思っていた。

――新見という男、考え方が素直だから、自分からいろいろ口に出すことができて、俺と一緒にいて、主導権を握っているんだろうな――

 と克典は考えていた。

――俺は、素直じゃないから、言葉に出すことをいつも躊躇っている。だから、誰かに代弁してもらいたいと思っている。それが新見という男であり、自分にとっての「光」ではないだろうか?

 と思っていた。

 克典は、いつも自分をどこかに隠そうとしていた。だから人と関わることを嫌がっていた。本当は人と話すのが好きなくせに、相手によっては、喧嘩になりかねないほど、自分の考えに固執しているところがある。それを分かっているだけに、人と関わるのが嫌なのだ。

 新見という男は、自分が素直だということを分かっている。しかし、それを表に出してしまうと、嫌らしい雰囲気になってしまい、自分自身が嫌で仕方のない人間になってしまうのを恐れていた。

 だから、表に出ようとするのだ。

 隠れようとすればするほど、化けの皮が剥げてしまうのが恐ろしい。一度剥げてしまうと、なかなか補修が効かないのだ。それくらいなら、自分から表に出て行って、隠そうとしているものをごまかすことができるのではないかと思った。

――木を隠すなら森の中――

 というではないか。

 敢えて荒波に身を投じることで、隠せることもあるに違いない。それを新見は、

――前向きな考えだ――

 と思っていたが、その気持ちを看破し、

――少し違うのではないかーー

 と考えているのは、誰であろう克典だった。

 お互いに補わなければいけないところを相手に求めるとすれば、最適な相手は目の前にいる克典であり、新見であった。

 新見が学生時代に感じていた。

――人を裏切りたくない――

 という思いも、彼の素直な性格から出ているのかも知れない。

 しかし、その性格も心身ともに強くなければ、どこかに歪が生まれてくるものだ。

「お互いに思っていることを言い合って、お互いに納得できるところを相手に感じると、自分が見えてくるのかも知れない」

 と、新見が言っていたが、

「まさしくその通りだね」

 と、克典もその意見を疑う余地もなかった。

「新見さん」

 ともみは、初めて相手のどちらかを指定して声を掛けた。

「えっ?」

 さすがにビックリした新見は、ともみの顔を真正面から見つめて、そのまま凍り付いてしまったかのように見えた。

――これって、彼女の狙い?

 新見に不意打ちを食らわせ、相手の意表をつくことで、彼の本心を見ようと企んだのかも知れないと克典は感じた。

 いつも二人だけでの会話の相手でしかなかった新見が、別の人に手玉に取られかかっているのを見ると、癪に障る気分にさせられた反面、初めて新見を側面かえら見たような気がして、そして、その側面が今まで見えなかったものが見えてくる突破口になりそうで、ワクワクした気分にさせられた。

――ともみという女性、いったいどんな力が備わっているというんだ?

 と、克典は感じた。

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