第3話 つかまえてもらいたい

 ジャージを脱ぎ、再びスパイクに履き替えてから、私と百華は第四コーナーへと歩いて向かった。部長から借り受けた一本のバトンを私が右手に握っている。


「ねえ百華、秘密のバトンパスってなに?」


 百華の隣を歩きながら訊ねると、彼女は横目にこちらを見ながら言った。


「涼花は、『アンダーハンドパス』って知ってる?」


「アンダーハンドパス……? ごめん、私、高校から陸上始めたからさ、用語とか今でもあんまり分かってなくって」


「ふふん、それじゃこの私が教えてあげよう」


 得意げに鼻を鳴らし、右の人差し指をピンと立てた百華が説明を始める。


「そもそもバトンパスのやり方には二種類あってね、『オーバーハンドパス』ってのと『アンダーハンドパス』て方法があるの。さっきまで練習してたパスのやり方──つまり、受け取る側が後ろに大きく手のひらを突き出して、そこに渡す側が上から被せるようにしてパスするのは、オーバーハンドパスって呼ばれるやり方だよ」


「へえ……」


「それに対してアンダーハンドパスは、受け取る側は腰の辺りにかるーくしか手を出さないの。そして手のひらは下向きね。つまり走る姿勢を大きく変える必要がないってわけ」


「それで、渡す側はどうやってバトンを渡すの?」


「それはねー……こうやって!」


 悪戯っぽく笑った百華が、唐突に私の右手を自身の左手で掴み取った。

 途端に私の心臓は跳ねて、顔が急速に発熱する。


「な、なにしてるの急に……っ⁉」


「なにってアンダーハンドパスだよ~。アンダーハンドパスはね、手を握るようにしてパスをするの」


「て、手を握る……?」


「そう。もっとちゃんと説明すると、渡す側は受け取る側の手のひらに向かって下からパスするの。そのときに自分の手と相手の手が少し被るようにするんだよ。じゃないと受け取る側はバトンの変なところを持って走らないといけなくなっちゃうからね~」


 確かに、オーバーハンドパスのようにバトンの先端を相手に渡してしまうと、アンダーハンドパスの場合はバトンが手前の方に突き出してしまう形になる。だから少しでも手前側を持たせるために手を被せるようにしてパスするということらしい。


「このやり方だと走るフォームを大きく崩さずにパスができるし、受け渡しにかかる時間も短いからタイムの短縮に繋がるんだって。実際、男子の日本代表はアンダーハンドパスでやってるね。でもこのやり方はオーバーハンドパスに比べて技術的に難しいから、高校レベルだと結構な強豪校でもないとやってるところは少ないね~」


「ふうん、そうなんだ……」


 なんとなく相づちを打っていると、百華の輝く双眸が私を見据えた。


「でもさ涼花、私たちはアンダーハンドパスでやろうよ!」


「え、で、でもそれってかなり難しいんじゃ……?」


「うん。でもね、私たちにはこっちの方が合ってるって思う」


 百華の表情は、優しいままに真剣だった。


「涼花、オーバーハンドパスだとどうしてもパスのときに手がぶれちゃうでしょ。アンダーハンドパスだったらそれを防げると思うんだ。アンダーハンドパスならお互いにもっと密着した状態で、手を握るようにして受け渡しができるからさ」


 百華の言うことは理解できた。確かにアンダーハンドパスだったら自分の欠点をカバーできるような気がした。


 今一度、百華の瞳が私を真っ直ぐに映す。


「ねえ涼花、やらない? アンダーハンドパス。……それとも、嫌?」


 私は考える。

 アンダーハンドパスなら失敗の可能性を大きく下げることができるという点。

 でもそれ以上に、私は彼女の提案に対して異なる魅力を感じていた。


 だってアンダーハンドパスなら、もっと彼女に近づけるかもしれない。

 そしてもっと、彼女に触れることができるかもしれない。


 私はもっと、彼女に近づきたい。置いていってしまわれないように。

 私はもっと、彼女に触れていたい。離れ離れにならないように。


 だから私は──。


「……うん、やろう、アンダーハンドパス。県総体まで本気で練習しよう」


 私の返答に、百華は満面の笑みで頷いた。


「うん。私、全力で逃げる自分を涼花につかまえてもらいたい」

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