第2話 秘密のバトンパス

「あんたたちって、普段からすっごく仲良しでいつもべったりなのにバトンパスの息だけは合わないわよねえ。特に篠原(しのはら)、あんたが渡すの下手くそすぎよ」


 薄手のジャージに着替えた富士彩芽(ふじあやめ)部長が、額に滲んだ汗をタオルで拭きながら言った。クールダウンを終えて日陰に引っ込んでいる私たちだけれど、五月も半ばを過ぎると日中の気温はずいぶんと高い。まるで来るべき日を待ち遠しく思う地球が、今か今かと自身の熱量を上げていってるようだと私は思った。


「すみません……」


 しかし今のわたしはひやりとした心地だった。部長も本気で怒っているわけじゃない。むしろ心配してくれているのだ。それでもやはり、申し訳なさというか居たたまれなさを感じずにはいられなかった。


「涼花(すずか)は走るのに一生懸命になりすぎちゃう性格ですから。それでちょっと力んじゃって、バトンパスのときに手がぶれちゃうんですよ~」


 彼女──茂木百華(もてぎももか)が、屈託のない笑みを浮かべながら私のフォローに回ってくれる。百華はいつだって私の味方だった。


「まあ、篠原の走力が本物なのは私も認めるところなんだけどさ。200メートル専門だからコーナリングは上手いし後半もスピード垂れないし」


 そう言いながら、富士部長はスポーツドリンクが入ったペットボトルに口をつける。ごくりごくりと勢いよく、ドリンクは部長の喉の奥へと流し込まれていった。


「でも4×100メートルリレー、四継(よんけい)はバトンパスが命だからさ。男子の日本代表だって、今じゃ100メートル9秒台の選手が何人もいるけど、昔からバトンパスの技術で世界の強豪国たちと戦ってきたんだから。だからこそ私たちだってバトンパスの精度にこだわるべきなのよ。他のどのチームよりも完璧なバトンパスができるチームになりたいって、県総体まで残り少ない今、それこそが走力の向上以上に勝利への最善策なんだって、私はそう思うわけ。分かる?」


「なはは、まあそれくらいにしといてあげなよアヤメ。スズちゃんだって一生懸命やってるんだからさ。大丈夫、県総体の本番までにはきっと仕上げてくれるよ」


 入念なストレッチをしながら、熱く語り始めた富士部長をやんわりと制したのは、部長と同じ三年生の筑波莉々亜(つくばりりあ)先輩だった。


「まったくアヤメの四継に懸ける想いは灼熱だねえ。今年は特にお熱いご様子だあ」


「当たり前じゃない」


 富士部長は少し恥ずかしそうにしながらも言った。


「だって私とっては──莉々亜、あんたにとってもだけど──今回の総体が最後になるんだから。それに今、走力が云々って語ったけど、今年の私たちは間違いなく過去最高レベルの四人が揃ってるのよ。篠原に茂木、二年生のあんたたちが立派に成長してくれたおかげでね」


 熱の籠もった部長の眼差しが私と百華を見る。確かに今年の私たち──宇水高校は、無名の公立高校とは思えないくらいのチームになっていた。

 確かに私が成長したからというのはある。でも、それ以上に百華の成長が凄まじかった。今春からめきめきと頭角を現わし始めた百華は、現状、昨季の県新人戦の100メートルで六位入賞を果たした部長の実力を既に上回っているのだ。

 私は日々、百華の背中が遠くなるのを感じている。


「だから私はさ、今年こそ行きたいのよ、全国に」


 真っ直ぐな部長の声音に意識を引き戻される。その真剣な顔つきは、疑いようもなく彼女の言葉が本気であることを物語っていた。


「まあ、わたしも行きたいねえ」


 筑波先輩はのらくらとした雰囲気ながらもまんざらでもない様子で頷いた。

 そんな彼女を富士部長が真摯に見つめる。


「莉々亜、私はあなたと行きたいの」


 おちゃらけた感じだった筑波先輩が目を丸くした。しばらく固まっていた先輩だったけれど、やがていつもの笑みを浮かべてまた頷いた。


「まあ、わたしも行きたいねえ」


 同じ台詞だったけど、なんとなく聞こえ方が違うように感じた私だった。


 不意に部長が立ち上がる。


「さてと。流石にこれ以上語るのはやめときましょうか。ごめんね篠原、別にあんたにプレッシャーをかけたいわけじゃないのよ。それだけ私は本気だし、このチームが大切だってことを言いたかっただけ。つまりあんたのことも大切だってことよ。だからあまり思い詰めすぎないでね。莉々亜の言う通り、あんたと茂木なら本番までに仕上げられるって信じてるから。我が校が誇る最強の三走と四走が他校の選手を突き放してフィニッシュすることを、私は確信しているわ」


「ああほらアヤメ、またそうやって結局プレッシャーかけちゃってるってえ」


「あ、ご、ごめん」


 筑波先輩に指摘されて慌てて頭を下げる富士部長だった。もちろん、部長が私を苦しめようとしてるんじゃないことは十分に理解している。


「い、いえ! ありがとうございます部長、私、絶対本番までに上手くできるよう練習頑張りますから……!」


 正直、今の私に自信はなかった。それでもそう答えるより他になかった。

 すると百華が私に続けて言った。


「そうですよ部長! だから安心してください~! ちなみに私たち、これからもうちょい練習して帰りますので! ね、涼花?」


「あ、え……も、百華?」

 

「だから先輩たちはどうぞお先に帰られてください~!」


「あら、そうなのね。分かったわ。でもあんまりやって疲労を溜めすぎたり怪我したりしないようにね」


「はーい!」


 百華に促されるままに、やがて先輩たちは競技場を後にした。

 そして私と百華はふたりきりになった。私は少し困惑していた。ふたりで残って自主練することなど、特に彼女と打ち合わせてはいなかったのだ。


「百華……?」


 遠慮がちに声をかけると、百華は小首を傾げて微笑みを返してくる。

 それから右の人差し指を唇に当てて、小さくウインクを飛ばしながら彼女はこう言った。


「ねえ涼花。秘密のバトンパスの練習、やろっか」

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