アンダーハンドパス

夜方宵

第1話 オーバーハンドパス

「──はっ! はっ! はっ!」

 

 限りなく無意識に近い、浅く短い呼吸の連続。


 初夏の日差しを全身に浴びながら、私は全力で走る。


 スパイクシューズのピンが重心の真下でウレタン製の地面を捉え、返ってきた反発が推進力となって、私をさらに前へと運んでいく。

 

 一周400メートルの陸上競技用トラック。第3コーナーを抜け、弧を描くように駆けて、私は第4コーナーへと入っていった。

 

 何のために走るのか。それは、右手に握るアルミ合金製のバトンを彼女に繋ぐためだ。

 

 やがて視界の先に彼女が映る。既に唸りを上げていたはずの拍動が、瞬間的にもう一段階上の高鳴りを見せた気がした。


 彼女は体を前方に傾かせ、首だけをこちらに捻って私を見つめている。

 でも彼女は、決して私自身を見つめているわけじゃない。私がそれを越えるタイミングを見逃さないように、ただ一点に神経を集中させているのだ。


 テイクオーバーゾーンの手前、彼女の足長で十八歩分の場所に貼り付けられた白いテープを、私の右脚が踏み越えた。


 瞬間、彼女が前方へと向き直り、倒れ込むようにして走り始める。細くしなやかな脚が一歩、また一歩と地面を叩くと、彼女の体はみるみるうちに加速していく。


 逃げていく。彼女が。私から、全力で。


 私は追いかける。彼女の背中を真っ直ぐに見つめながら、一生懸命に。


 どうか、どうか私から離れていかないで。


 必死に追ううち、少しずつ縮まっていく私と彼女の距離。

 もう少しだ。もう少し。あともう少しで、私は彼女に追いつける──。


 お互いが手を伸ばせばギリギリ届く距離。そこで私は声を張り上げた。


「はーい!」


 それが合図。私の声を背中越しに聞いた彼女が、左手を斜め後ろに向かって突き出す。細く長い指が五つ並ぶ美しい手……真っ白な手のひらが、私の目に眩しく映った。


 よし。完璧だ。あとはその手のひらに、このバトンを押しつけてあげるだけ。


 ようやく上手くいく。半ば成功を確信しながら、私は右手を彼女に向かって伸ばした──。


 けれどバトンは渡らなかった。差し出したアルミの円筒は彼女の手のひらに収まることなく、綺麗な指先を叩くように掠めた末、私の手を離れて空中へと放り出された。


「あ──」


 彼女の発した一語が私の鼓膜を揺らしたかと思うと、続け様に落下したバトンがカランカランと甲高い金属音を奏でてそれを掻き消した。


 彼女がスピードを緩めていく。私の全身からも萎びるように力が抜けていき、やがて私と彼女はホームストレートの途中で立ち尽くした。


 彼女がこちらを振り返る。あどけない顔がくしゃっと崩れた。


「あちゃー……また失敗しちゃったね」


 彼女は責めることなく笑っていたけれど、『また』の言葉が私の中に苦々しく沁み渡った。


 ……トラックの上を転がっていったバトンが、内側の縁石にぶつかってカチャンとさびしい音を立てた。

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