梨の花は〈少納言〉

 初出仕からしばらくの時が経ち、私は、宮中の仕事にも慣れ、定子さまともだんだんと打ち解けていった。


  ◇ ◇ ◇


 ある春先のこと。

 その日私は夜の番で、庭で見かけた梨の花を手に、宵の口に定子さまのもとに向かった。

「あら、何、その白い花は?」

「梨の花です。意外ときれいじゃないですか?」

「へえ、梨ってこんな真っ白な花を咲かせるのね」

「梨といえば、唐の詩人白楽天はくらくてんの漢詩に『長恨歌ちょうごんか』というのがありまして……」

「ああ、有名な詩ね」


 長恨歌。

 唐の皇帝玄宗げんそうと、絶世の美女楊貴妃ようきひの悲しい運命をうたった詩。

 その中に、妃を亡くして悲しみに暮れた皇帝が、仙界に彼女の魂を訪ね、つかの間の再会する場面がある。


「そこで、涙に濡れる楊貴妃の顔を、雨に濡れた梨の花に喩えて、白楽天はこう表現しているんです。『梨花りか一枝いっしはるあめびたり』と」

「ああ、それにちなんで、梨の花を手折ってきたのね」

「そうなんです」

「少納言って、ほんとに漢詩のこと好きよね」

「え、まあ、それほどでも、えへへ、」

 私はちょっと恥ずかしくて、思わず目を伏せた。


  ◇ ◇ ◇


「ねえ、少納言、人を好きになるって、どういうことかしらね」

 ぽつりと、定子さまが呟いた。

「どうしたんですか、急に」

「玄宗皇帝は楊貴妃を、死んでもなお忘れられなくて、その面影を追い求めるくらい、愛していたのよね」

「ええ」

「少納言は、どう思う? 誰かに恋するって、どんな感じなのかしら?」

「恋、ですか……」

 私は少し考えをめぐらせた。

「その人のことがずっと心から離れなくて、たとえ、その人が失われてしまっても、永遠に心に残ってしまうもの。それが、恋の『好き』という感情なんじゃないでしょうか?」

「ふうん。意外と冷静な答えなのね……」

「私のことなんだと思ってるんですか」

「ううん、ちょっと格好いいなって思ったの」


  ◇ ◇ ◇


 それから、私たちはあれこれと好きなものの話をした。

「少納言は、漢詩文のほかには、何が好き?」

「私ですか? えっと、物語を読むことですね」

「あー、私も好き」

「まだ読んだことのない物語の一巻を読んで、続きが気になるなあって思って、残りが手に入ったときなんか、とっても嬉しいですし」

「うんうん、わかる」

「あと、好きなものといえば、白い紙、ですかね」

「紙?」

「どんなにつらいこととか嫌なことがあっても、まっさらな白い紙を見ると、生きる気力が湧いてくるというか」

「ごめん、それはちょっと私にはわからないかも……」


 そこで定子さまは、何か思い出したように、手をパチリと合わせた。

「そうだ、私、お兄様からいいものいただくことになってるのよ」

「いいもの?」

「紙よ。その梨の花みたいに、白くてきれいな紙」

「わあ、いいですね!」

「そうだ、あなたにもあげる」

「いいんですか!?」

 驚く私に、定子さまはいたずらっぽく微笑んだ。

「そこに、あなたの好きなものを書いて。好きな季節でも、好きな花でも、好きな人のことでもいいわ。そしていつか私にも見せてほしいの」

「好きなもの……?」

「ええ。あなたの好きなもの、私にも教えて」

「わかりました、そうおっしゃるなら」

「約束よ」

「はい、約束します」


 おぼろな雲が風に流れ、半月がやわらかく夜空を照らしていた。

 月がきれいな夜だった。

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