淑景舎をひそかに〈定子〉
ある年の春。早咲きの桜がつぼみをほころばせはじめた頃のこと。
私の妹、
のちに
「ね、少納言。あなた、原子ちゃんに会ったことはある?」
妹と久しぶりに会うことになったその日、私は少納言に髪をとかせながら、ふと、そう口にした。
「いえ、後ろ姿をちょっとお見かけしたくらいで」
「そうなの? お姫様みたいで、とってもかわいいのよ」
「えっ、そうなんですか! だったら、その
少納言は目をきらきら輝かせて、好奇心
「お姿、ぜひ見たいです!!」
◇ ◇ ◇
私のもとに、妹の
少納言はというと、屏風の後ろからわくわくした顔をのぞかせている。
他の女房たちからは「あんなお行儀の悪いことして……」と囁かれているが、当の少納言は目の前に夢中で、おそらく耳に入っていまい。
原子ちゃんは、若葉のような
「ね、お姉さま、訊いてもいい? お姉さまは、旦那さまのこと、どうなの?」
「どうって?」
「好き? お相手として、どう思ってるの?」
「うーん、好きかって言われても……」
今の帝、主上さまに嫁いだのは、お父さまの決めたことだったし、結婚する前も後も、好きかどうかなんて、全く考えたこともなかった。
「誰かを好きになるって、どんな気持ちなのか、私、よく分からないし……」
「えっ、もしかしてお姉ちゃん、誰かに恋したこと、ないの?」
「うーん、そうかも……?」
「ええーっ!! お姉ちゃん、人生損してるよ!」
言いよどむ私に、妹は驚いた声を上げたのだった。
◇ ◇ ◇
好き、って何だろう。
妹はもちろん、家族のことは好きだ。紅梅の
でも、よく考えたら、誰かに恋して、好きになったってことは、今まで無かった。
人を好きになるって、じつはよく分からない。
◇ ◇ ◇
そんなことを考えていたとき、お父さまがふいに、私の後ろに目を向けた。
「おや、そこに誰かいるのか?」
しまった、少納言の無作法がばれてしまった。
「う、うちの子猫ですよ、お父さま」
「ああ、なんだ、子猫ちゃんか」
私の下手なごまかしに、お父さまは面白そうに乗っかってきた。
少納言はというと、「に、にゃあ……」と、身を小さくして猫のふりをしている。
「しかし、子猫とはいえ、うちの箱入り娘たちの、内緒の恋話を聞かれてしまうとは、この関白、一生の不覚じゃのう。はっはっは!」
「にゃ、にゃん」
おかしな冗談を言って笑うお父さまと、必死で猫のふりで通そうとする少納言が可笑しくて、私も思わず笑みがこぼれたのだった。
春のうららの桜のような、ふんわりと幸せなひとときだった。
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