淑景舎をひそかに〈定子〉

 ある年の春。早咲きの桜がつぼみをほころばせはじめた頃のこと。


 私の妹、原子げんしが、帝の従兄弟、東宮とうぐうさまに嫁ぐことになった。

 のちに淑景舎女御しげいしゃのにょうごと呼ばれることになる妹は、当時十五で、桜花のつぼみのように初々しい可愛らしさにあふれていた。


「ね、少納言。あなた、原子ちゃんに会ったことはある?」

 妹と久しぶりに会うことになったその日、私は少納言に髪をとかせながら、ふと、そう口にした。

「いえ、後ろ姿をちょっとお見かけしたくらいで」

「そうなの? お姫様みたいで、とってもかわいいのよ」

「えっ、そうなんですか! だったら、その屏風びょうぶの後ろからこっそり見ててもいいですか?」

 少納言は目をきらきら輝かせて、好奇心爛漫らんまんな顔になった。

「お姿、ぜひ見たいです!!」


  ◇  ◇  ◇


 私のもとに、妹の原子げんしと、父の関白道隆みちたかと、母が訪ねてきた。

 少納言はというと、屏風の後ろからわくわくした顔をのぞかせている。

 他の女房たちからは「あんなお行儀の悪いことして……」と囁かれているが、当の少納言は目の前に夢中で、おそらく耳に入っていまい。


 原子ちゃんは、若葉のような萌黄色もえぎいろの衣をまとい、かわいらしい笑顔を扇の隙間からのぞかせている。さすが私の妹、かわいい。

「ね、お姉さま、訊いてもいい? お姉さまは、旦那さまのこと、どうなの?」

「どうって?」

「好き? お相手として、どう思ってるの?」

「うーん、好きかって言われても……」

 今の帝、主上さまに嫁いだのは、お父さまの決めたことだったし、結婚する前も後も、好きかどうかなんて、全く考えたこともなかった。

「誰かを好きになるって、どんな気持ちなのか、私、よく分からないし……」

「えっ、もしかしてお姉ちゃん、誰かに恋したこと、ないの?」

「うーん、そうかも……?」

「ええーっ!! お姉ちゃん、人生損してるよ!」

 言いよどむ私に、妹は驚いた声を上げたのだった。


  ◇ ◇ ◇


 好き、って何だろう。

 妹はもちろん、家族のことは好きだ。紅梅のあでやかな着物とか、美しい絵物語とか、そういったものは好きだって言える。

 でも、よく考えたら、誰かに恋して、好きになったってことは、今まで無かった。

 人を好きになるって、じつはよく分からない。


  ◇ ◇ ◇


 そんなことを考えていたとき、お父さまがふいに、私の後ろに目を向けた。

「おや、そこに誰かいるのか?」

 しまった、少納言の無作法がばれてしまった。

「う、うちの子猫ですよ、お父さま」

「ああ、なんだ、子猫ちゃんか」

 私の下手なごまかしに、お父さまは面白そうに乗っかってきた。

 少納言はというと、「に、にゃあ……」と、身を小さくして猫のふりをしている。

「しかし、子猫とはいえ、うちの箱入り娘たちの、内緒の恋話を聞かれてしまうとは、この関白、一生の不覚じゃのう。はっはっは!」

「にゃ、にゃん」

 おかしな冗談を言って笑うお父さまと、必死で猫のふりで通そうとする少納言が可笑しくて、私も思わず笑みがこぼれたのだった。


 春のうららの桜のような、ふんわりと幸せなひとときだった。

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