陽だまりの中の星

彩月水

陽だまりの中の星

 人は誰しも、いくつもの顔を持っている。

 舞踏会に合わせてドレスを着替えるみたいに、仮面を付け替えるみたいに。用途に合わせた顔を、たくさん持っている。

 でも、その仮面の奥の奥にある、おれの素顔は、いったい、どんな顔だっけ?


 ***


 ホースから勢いよく飛び出した水が、太陽に反射して目に眩しい。今日は快晴だ。早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、大きく伸びをした。


 毎朝、百合の花に水をやる。

 この家の使用人としてのおれの一日は、この仕事から始まる。庭一面に咲いている百合は今日も朝日を浴びて瑞々しく輝いている。

 花たちを見回してから、傍らのバケツを手に取った。中にはさっき摘んだばかりの百合。たくさんの品種があって、ひとつとして同じものはない。

 次の仕事に向かうため、バケツを抱えて屋敷の中に入る。入ってすぐの部屋で作業台に花を広げて、手際よくまとめる。棚のひきだしから取り出した白いリボンを結べば、たちまちブーケが出来上がった。

 働き始めた頃はどこに何があるのか中々覚えられず、だだっ広い屋敷の中を走り回ることもしょっちゅうだったが、今ではもうずいぶん、ここでの生活に慣れた。朝の水やりもブーケ作りも、流れるようにこなすことが出来る。

 でも、これから行く一日で一番大事な仕事だけは、まだ少し、緊張がある。


 出来上がった百合の花束を抱えて長い廊下を歩く。朝の静けさに包まれた空間に、どこからかやってきた小鳥のさえずりが小さく反響している。ひんやりと柔らかい、いつもの朝だ。

 フロアの最奥にある大きな部屋の前で立ち止まり、アンティーク調の扉をノックする。コンコン、固い音が響いた。


「ハイド・エトワールです。お嬢様、お目覚めのお時間です」

「どうぞ、入って」

「失礼致します」


 金色のドアノブをひねって扉を開くと、朝の白い光で満ちる部屋の中央で、いつものように眠たげに椅子に腰掛ける美しい女性が目に入る。彼女の名前はリリィ・アンソレイユ。今年十八歳になるこの家の一人娘で、おれの主人だ。


 ブーケを抱えなおし、ゆっくりと扉を閉めてリリィお嬢様のもとへ向かう。革靴が立てる音を全て吸収する高級な絨毯に薄桃色の天蓋が付いた大きなベッド。彼女の広い部屋は、今日も埃ひとつ無いようにと綺麗に掃除されている。

 おれはその場に跪き、手の中の百合をそっとお嬢様の眼前に捧げる。

 口にするのは毎朝お決まりの、この台詞。


「おはようございます、お嬢様。今日はどの花をご所望ですか? 」


 お嬢様は、おれの手の中から大きく咲いた真っ白な花を、花と同じくらいに白い華奢な指で掬い上げる。一輪の百合を自分の胸に抱くように寄せて、いっぱいに香りを吸い込んだ。まるで、体の中にその成分を取り込むように。

 そうして一度目を閉じて、再び開かれた時にはもう、眠たげだった双眸にはしっかりと力が宿っていた。


「おはよう。今日も、ご苦労様」


 そう言うとお嬢様は優しく美しく、髪を揺らして微笑んだ。穏やかさの中に、不思議と見る者全てが頭を垂れて敬いたくなるような、堂々とした態度。その奥には、いつもと変わらない優しさの色が滲んでいる。


 おれも微笑み返して、会釈をして部屋を出る。一仕事終えた気持ちで、次の仕事に向かうべく廊下を歩きながらまた、笑みを浮かべた。


 今日は白百合。彼女にとてもよく似合う、美しい花だ。


 ***

 おれの主人であるリリィお嬢様は、不思議な体質を持っている。

 毎日、人格が変わるのだ。

 ある種の多重人格のようなものなのだが、お嬢様の人格の入れ替わりにはある法則があった。

 それは、百合の花の花言葉になぞらえた性格になる、というもの。


 この家では執事やメイドが毎朝何十本もの百合の花をお嬢様のもとへ持っていく。そしてその中からお嬢様自らが選んだ百合によって、その日のお人柄が決まるというわけだ。この時のお嬢様は半分ほど眠っているような状態で、花は完全に無意識で選んでいるらしかった。


 白百合は「威厳」。

 ピンク色の百合は「虚栄心」。

 オレンジ色は「愉快」。

 オニユリは「富と誇り」。

 ササユリは「上品」。

 クルマユリは「多彩な人」。


 こんな風に、花言葉は種類によってたくさんあって、その数だけお嬢様の性格は日によって変わってしまう。おれはこの家に仕えるようになって初めて、同じ花でも品種によって花言葉が違うことを知った。


 例えばカノコユリの花言葉は「慈悲深さ」。お嬢様はいつだってとびきりに優しいけれど、この日は慈愛に満ちた笑顔を絶やすことが無い。

 オニユリは「富と誇り」の他に「賢者」なんてものもあって、この花が選ばれた日は大抵、おれにはほとんど何が書いてあるか分からないような難しい本を読んでいる。おれはまだ十四歳だし、そもそもちゃんとした勉強をしてこなかったから頭の出来が良くないが、おれやお嬢様よりも年上のメイドもこの日には、「ずいぶんと難しいご本をお読みになっているのですね」と言っていた。

 オレンジ色の百合は「愉快」。この花の日にパーティーが開かれると、お嬢様はそれはもう楽しそうに笑う。華麗にダンスを披露したり、歌ったりしてすごく盛り上がるのだけれど、旦那様は気品が無いと叱っていた。おれはこの日のリリィお嬢様、好きなんだけどな。


 そんなわけで、一日のお嬢様の性格が決まる朝の挨拶はとても大切で、同時に厄介な仕事なのだと、先輩の執事は言っていた。関わるメイドや執事はお嬢様が選ぶ花には何の影響も与えないはずなのだが、場合によっては理不尽に責められることもある。

 以前、「隣町の貴族との大事な商談があるのに、今日のリリィの性格は『軽率』だ! どうしてくれるんだよ! 」とたまにやってくるお嬢様の親戚の方が使用人に詰め寄っていたのを見たことがあった。


 そんなことを知ってか知らずか、おれがこの屋敷に来てすぐの頃、お嬢様はそれまで大勢でやっていた朝の挨拶の仕事を、一人に任せるようにと使用人たちに告げた。あまり大事にしたくなかったのかもしれない。もしくは言いがかりを付けられる使用人を一人でも減らそうというお嬢様なりの気遣いなのかも。責められる時は一人だろうと大勢だろうと変わりはないが、やっぱりお嬢様は優しい。


 そして、おれはなぜかその一人に選ばれてしまったのだ。決まった時、おれはまだ雇われて一週間の新人もいいところだったのだけど、皆は口を揃えてハイドが適任だと言った。大方、おれが面倒ごとを押し付けやすい性格をしているということが分かってきていたのだろう。実際、仕事を押し付けられることも少なくなかったし、その度に愛想笑いで引き受けてしまっていたのも事実だった。屋敷で働くことは苦ではなかったし、少しくらい仕事が増えても大した負担にはならないけれど、お嬢様への挨拶だなんて、そんな大事な仕事をこんな風に執事やメイドの適当な意見で決めていいのだろうか? もっとお嬢様と親しくて、信頼関係のある者が適任ではないのか。そう思っていながらも口に出すことは出来ず、結局おれはこの仕事を引き受けることになったのだった。


 ***


 リリィお嬢様は日によってお人柄が変わってしまうけれど、一貫していつも優しく接してくれた。おれが朝の挨拶を任されてから、下っ端の執事ながらもお嬢様と直接お話しする機会は増えた。その中で彼女について知ったことは色々あるけれど、一番の発見は、お嬢様の笑顔は世界中の何よりも美しいということだった。お嬢様はとても綺麗な人で、でもきっと、美しいと感じる理由はそれだけじゃない。大げさでなく、彼女は見る人全てを夢中にさせる魅力を持っていた。


「あ、リリィお嬢様。こんなところで何をなさっているのですか? 」

 昼下がり、庭の手入れをしているとふと視線を感じ、振り返るとお嬢様の姿があった。にこやかにこちらに手を振っている。レースの日傘が彼女の美しい顔に柔らかな影を作っていた。


 この庭には各地からありとあらゆる種類の百合が集められている。だから世話もそれなりに大変だけれど、その分、一面に咲く花たちは壮観だ。

 お嬢様は、少し離れたところからおれが水を撒くのを眺めていた。


「おれに何かご用でしたか? もうすぐお茶の時間になりますよ」

 ホースを巻き取りながらお嬢様のもとへ行くと、彼女は柔らかく微笑んで

「いつも庭の花たちの面倒を見てくれてありがとう。あなたのおかげでこんなに綺麗に咲いているわ。百合も嬉しそう」

 と、自身が一番うれしそうに言う。彼女はいつも、本当に楽しそうに、あるいは嬉しそうに、あるいは幸せそうに笑う。


「いえいえ、これも仕事ですから! それにこうして綺麗な花を育てるのは楽しくて好きです。この花はちょうど今朝方咲いたんですよ」

「あら、とっても可愛い! 」

「そうでしょう? この色を見ていると元気が出ます」


 おれは目の前の一輪を指さして、あれこれと言う。

 黄色の花びらを付けたその百合は、微風にゆらゆらと、その身を委ねている。

 お嬢様は眩しそうに目を細めて花を見つめ、それから、おれを見た。その視線は流れるようで、眩しい日差しの中、どこか涼しげに映った。


「あなたが楽しんで仕事をしてくれているのなら嬉しいわ。やっぱりあなたを雇うと決めた私の目に狂いはなかったね」

 お嬢様はふふ、と笑って、こうも言った。

「私は、あなたを信頼してるのよ」


 どきり、と音を立てて胸が鳴った気がした。お嬢様の長いまつげで縁取られた目が、まっすぐにおれを射抜く。

 彼女の硬質なガラス玉のような瞳は、おれという人間をどのように捉えているのだろう。


「あの時街で見かけたおれを執事にスカウトしてくれたご恩は忘れません。なんせあのまま街の八百屋で働いていたら、いつか行き倒れていましたからっ」

 動揺を悟られないように、意識して弾んだ声を出した。


 ここに来るまでの、薄給の日雇い仕事じゃ満足な食事は出来なかった。街で職を転々としてなんとか今日を生きていたおれを、見かねたお嬢様が執事として雇ってくれたから、今こうして楽しい日々を送れている。

 と、そんな風に思っていることを伝えると、お嬢様はまた、ふわりと微笑んだ。


 その笑顔が、細められた瞳が、なびく髪が、あまりに愛しい。

 日々移り変わって揺らぎ続けるリリィ・アンソレイユという人の、奥の奥で変わらないものを見ている気がする。


 向けられた笑顔は偽りのないもので、おれはいつだって申し訳なくなる。

 だけど、それでもまだその笑顔を見ていたくて、いつものように似合わない言葉を吐く。照れ隠しに大きな笑顔を作る。太陽に負けないくらいの、大きな笑顔。わざとらしくて、でもきっと、おれの笑顔でお嬢様は喜んでくれるのだ。


「ハイドがそんな風に笑うなんて珍しいわね? 」

 案の定、お嬢様は少し驚いたように、そして楽しそうに笑った。やっぱりわざとらしかったみたいで、おれは内心苦笑する。


 おれが口にする言葉は半分くらい、おれの言葉ではない。誰かに喜んでもらおうと思って紡ぐ言葉は、作る笑顔は、おれの心を重くしていく。太陽の光が鬱陶しく感じるみたいに。

 本当はこんなことが言いたいんじゃない、こんな表情はおれらしくない。だけど目の前の顔色をうかがって、口は勝手に言葉を紡ぐ。まるで身体に合わない服を着せられているみたいだ。お嬢様と話す時だって、一番良い印象を与えるように気を付けて作られた笑顔がおれの顔に貼り付いている。百合からもらう元気なんてものも、育ちの悪いおれには本当はよくわからないのだ。


 頭の片隅で心にもないことを言う自分を責め立てる自分がいて、円滑な人間関係を築くために必要なことだと擁護する自分がいる。その背後から、自分の言いたいことを言って、したいことをすればいいのに、と叫ぶ自分が顔を出す。どれが本当のおれなのか、おれには分からなかった。


 リリィお嬢様は毎日違う人になる。

 それは彼女の特殊な体質がそうさせているのだけど、きっとそれは彼女に限ったことじゃない。おれも、皆も、いくつもの顔を持っている。

 おれがお嬢様と違うのは、自分に嘘をついていること。人に好かれたくて、思ってもいないことを平気な顔をして口にする自分はどうしようもないほどに嘘つきだけど、これは処世術、おれが平穏な生活を送るために必要な事。「周囲の人と良い関係を保ち、平穏に暮らしたい」という欲望にちゃんと従っていることになる。だから嘘じゃない、自分に嘘なんてついてない、と言い聞かせるが、リリィお嬢様に対してだけは、この後ろめたさがどうにもおれを圧迫してくるのだった。


 だって、お嬢様の笑顔はいつだって本物だ。それは彼女の選ぶ百合の色が赤でもピンクでも白でも黄色でも同じことで、心からの笑顔だから、おれはどうしようもなく惹かれてしまうのかもしれない。自分を偽り、他人を欺くような人間が、こんな素敵な顔で笑えるはずがないのだから。

 性格が一つじゃなくたって、嘘のない、まっさらな心で笑うことが出来る。それはむしろ、おれのように嘘と自己欺瞞で飾った土人形のような、一貫してつくりもののような人間よりもよっぽど素敵だ。


「あなたといると、心がとても軽くなる気がするわ」

 ふいに彼女が呟いた言葉に振り向くと、その目の先は青い空、彷徨うようにどこか遠くを見つめていた。

「……どうしてですか? 」

「だって、あなたは私がどんなでも、絶対に態度を変えないもの。私はこんな体質だから関わりにくいでしょうに、ハイドはいつだって『お嬢様の笑顔は素敵です! 』って。ふふ、あなたがそう言ってくれるから、ああ、私は私でいいのだと、そう思えるのよ」

 空を眺めていたリリィお嬢様の瞳が、おれを捉える。太陽がつくる木の影は色濃くて、いつものように優しい彼女の瞳の中に混ざっている色が、よく見えなかった。


 人は皆、いくつもの顔を持っているけれど。

 じゃあおれの、この人の本当の顔はどんな顔なんだろう? 

 不安定に揺れる日々を送る彼女は、どんな気持ちで生きているのだろう。

 無数の百合の花。「本当のリリィ」は、そのうちの一体どれ? それとも、あの中には無いのだろうか。


 陽だまりの中、明るい空で星を探すことのように「本当の自分」を見つけるのは難しい。確かにあるのに見えない小さな光を、おれはずっと探している。

 そんな生活の中で、いつだって変わらない笑顔のお嬢様はおれの憧れだった。彼女はおれの太陽で、おれに向かって微笑んでくれるたびにその光は大きくなった。おれを包み込むように明るい陽だまりのような彼女に憧れ、羨み、焦がれた。なんでおれは彼女ではないのだろうと思った。隣で輝く光は、おれの星をますます見えなくした。


 ずっと、お嬢様はきちんと自分の不思議な体質に折り合いをつけて、自分自身を見失わずに生きている方だと、勝手に思っていた。けれど、彼女だっておれと同じように手探りで前に進もうともがいているのかもしれない。


 見えなくても皆何かに悩み、苦しみ、変わりたいと思っているのだろうか。目を凝らしてもなかなか見えてこない星の微弱な輝きを、それでもあきらめきれずに見つけたいと、願ってしまうものなのだろうか。


 星を探し続ける日々がどんなに苦しくても、いつかリリィお嬢様の光がおれの星ごと灼き尽くしてしまうとしても、彼女のそばにいればこんな生き方でも案外悪くはないと思う。やっぱりおれは、どうしようもなく彼女の笑顔が好きなのだ。


 リリィお嬢様。この先、おれの星が見つかることがあったら、その時は一番にリリィお嬢様に伝えたい。本当のおれはここにいるんだって、心からの笑顔で。

 そして願わくば、あなたにもあなたの星を見つけてほしい。きっと「本当の自分」は一つじゃない。あなたがこれだと思う星を見つけられたら、百合の花よりも美しい笑顔は、きっと曇ることはない。おれの大好きな笑顔が、いつまでも輝き続けるように。


 そうやって笑いあえたら、星の光はきっと、陽だまりに負けないくらい大きく、強く輝くと思うのだ。


 そんな気持ちでまた作った笑顔は、やっぱりおれの顔には馴染まなくて。だけど少しだけ、自分に正直になれたような気がした。

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陽だまりの中の星 彩月水 @SatsukiSui

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