4話 私の世界の色
「こんにちは」
「いらっしゃい」
その日、彼女は予定通りの時間にうちを訪れた。
「ごめんね。忙しいだろうに」
「いえ、もう準備は終わってて、あとは移動するだけなので。それよりも、お姉さんの作った曲、楽しみです」
彼女を先導して、防音室に案内する。以前の丸椅子じゃなくて、座り心地のいいリビングの椅子を持ってきてある。
「いいよ、座って大丈夫」
「はい。ふふ、ふかふかです」
「そりゃ、お客様だからね」
私は、ピアノの前に座る。数時間の仮眠のおかげで、1曲ぐらいなら弾ける。譜面台にはシャーペンで書いたお手製の楽譜が置いてある。
曲は完成した。後は、精一杯の私で弾くだけだ。
「では」
一礼すると、たった一人分の拍手が防音室に鳴った。十分すぎるエールだった。
一つ、息を吸い込んで、私は右手を動かす。
Adagio(落ち着いた感じでゆっくり)で始まる冒頭。星が瞬く夜、空のまんなかには満月が浮かんでいて、柔らかな光を世界に降り注ぐ。
舞台は千年に一度、極彩色の流星群が降る逸話がある世界だ。私と彼女は、その流星群を一番きれいに見える場所にいる。
右手だけで奏でるトレモロ。左手はテヌートを意識して土台をしっかり作る。
夜は静かだけど、虫の声や風で揺れる樹々のさざめき、遠くに聞こえる自動車の走行音と、意外と音にあふれている。
ミスは気にしない。それよりも、伝えたいことが伝わるように、一音一音に拘る。この風景、この情緒、世界まるごと彼女に見せるために。
届け、届け、届け。
火のように?
歌うように?
どっちでもいい。これはわたしのピアノだ。わたしが彼女に伝えるために奏でる音だ。
たとえ色彩がなかったとしても、世界が灰色に染まるとは限らない。彼女はいつだって楽しそうだった。幸せそうだった。そんな彼女の世界は、きっと最初から色づいていた。
そう、色が失っていたのは私の方だ。
あのコンサートから、いくつの夜を越えても胸を塞ぐ後悔が消えることはなく、自分の無力さを、矮小さを思い知らされる毎日だった。そんな日々の最前線――今日という点で私は彼女と交わった。
それ自体はただの「偶然」だ。だけど、その偶然を、私は「奇跡」にしたい。
そのための音色はずっとここにある。
鍵盤を通して、相棒の声が聞こえる。
――いまでも、彼女に色を見せたいと思う?
――思わないよ。「私の色」を彼女に伝えたいんだ。
奏でる旋律が冴えていく気配がする。私を操っていた糸がつぎつぎと千切れていって、私は私のからだを取り戻す。
夜空に一条の線が走ったかと思うと、次々と星が降る。赤、黄、白、水、緑、色とりどりの尾を引いて、消えていく。
「わぁ……」
隣の彼女が、感嘆の息を漏らす。その目は閉じられたまま、だけど。
「見える?」
「はい……これが、空と星と夜なんですね……」
空を見上げれば、欠けることのない月が浮かんでいて、あの日の夜空と重なる。
あの夜は完璧だった。私が求めるもの、全てがそろった完全な夜だった。
だから縋った。美しい記憶に浸ったところで傷が癒えるわけでもないのに。
「――」
口角がわずかに上がる。
自分でも思う。バカだ。バカすぎる。少し冷静になって考えたら、そんなことをしても意味のないことだってわかる。でもそんな自分を嫌いになれない。
そうだよ。バカなんだよ。「わたし」は私が思っているよりも、けっこうバカなんだ。
でもそれでいいんだ。失敗したこと、逃げたこと、立ち直ったフリをしたこと。みっともない全部があって、わたしは彼女と出会った。そしていま、相棒と一緒に奏でている。オーディエンスはひとりしかいないけど、でもどうしても伝えたい人で、わたしがピアノに抱く感情が色々だから、その色を、音にできる。
私は、歩き出さないといけない。不完全で、未確定で、不安定な
……ちょっと怖いな。いや、ほんとはめちゃくちゃ怖い。
けど、どうやら私の人生は、未来に向かわないと、生きてるって言えないから。
だから――そういう音を奏でるよ。
鍵盤を跳ねる指は、五線譜をはずれ、楽譜を飛び出して自由に動き始める。
とたん、夜は明けていき、雨上がりのにおいが鼻先をくすぐった。世界が、いのちの息吹であふれる。彼女の周りを、色とりどりの蝶がとびまわる。パリで見た名も知らない花と、この街で飽きるほど眺めた花が仲良く咲きほころんで、風に揺れる。
遠くを見れば、空には虹がかかって、ちょうど頂点にお月さんが頼りなさげにちょこんと乗っている。
どう?って顔で、彼女を見ると、足元の花に興味深々な彼女の頭に蝶が止まっていて、思わず吹きだしそうになった。一瞬遅れて、彼女もそれに気が付くと、蝶は飛び立って、彼女と遊びたそうにつかず離れずの距離を飛ぶ。
蝶とたわむれる彼女を見て、私は思う。
ねぇ、一色だけじゃつまんないよ。
私の世界にだって、数えられないほどの色があるんだ。
一転スローペース。ペダルを踏みこんで、一音一音を響かせる。
途端、突き抜けるような青空がさわやかな風を連れてくる。
パリは大抵いつも曇り空だけど、ごくたまに晴れるときはこんなふうに雲一つない青空を見せてくれる。そんな日に、ピアノで好きな曲を弾くのが私は好きだった。窓を開けると、ほかの部屋からもいつもより弾んだ音が聞こえてきて、そこに自分の音を重ねる瞬間が好きだった。
そういうとき、私が弾くのは決まってオリジナルの曲だった。
飛んで、跳ねて、踊るようなリズムで音を連ねる。ただただ、面白おかしい世界を描く。空飛ぶ魚、地面を泳ぐウサギ。小さなこどもの無邪気な空想のような、そんな世界。
彼女は、ウサギと泥だらけになりながら遊んでいる。鍵盤をせわしなく動く私の両手の周りを魚たちが、ふよふよと泳ぐ。
箱いっぱいにつめたアイディアを、好き放題に散かす。案外、それでいい感じになったりするものだ。
デクレッシェンド。
曲は終わりに向かってスローダウンしていく。
雰囲気の良いバーなんかで流れてそうな、音数が少なめの上品なメロディ。
いつまでも元気なままではいられないのが私たちで、そういう夜を独りで越えようとすると、どうしても寂しさの中に囚われてしまって、迷子になる。そんなときには、アップテンポで動きの多い音よりも、こういう確かな手触りを感じる音のほうが、眠るときに抱きしめたまま離さずにすむ。
バーカウンターで彼女はカクテルを飲んでいる。上品な雰囲気の彼女に、バーはぴったりだなあと思う。二人だけの店内で、照明も絞って、しっとりとした曲調を溶かすように響かせる。
そのまま、フェードアウトして演奏は終了した。
私は、天井を仰いで肩で息をする。終わった――。
間髪いれず、ぱちぱちぱちぱちぱち、と拍手が響く。
「素敵な世界で、とっっっっても感動しました~~~!」
私は、彼女の方を向く。頬を紅潮させて興奮気味に拍手をしている彼女を見ると、いてもたってもいられなくて、抱きしめた。
「お、お姉さんっ!?」
「ごめん、ちょっとだけ、このままで」
「い、いいですけど……ふふ、恥ずかしいです」
私も恥ずかしいから我慢して。
「あのね……ありがと」
「え?」
「ありがとう、ありがとう、ありが……」
言の葉は、涙で溶けて形にならなかった。
「ふふふ、お姉さん泣いちゃってますね」
ぽん、ぽん、と優しく背を撫でられる。顔から火がでるくらい恥ずかしくて「……泣いてないよ」なんて強がる。
「ふふ、ほんとかなあ」
「うん」
私は、彼女から離れて、涙を拭った。
なんだか、視界に映る世界の色が鮮やかに感じる。
こんな世界に生きられるなら、私はもう大丈夫だと思った。
***
それから、怒涛のうちに数日が経過した。
私はいのいちばんに迷惑をかけた人たちに謝った。安心する人、心配する人、怒る人、いろんな言葉をもらった。
馴染みのピアニストにも連絡を取ると「気分屋の君の、お
仕事も始めた。お金はあるけど、これから先、何もせずに生きられるほどはないので、とりあえずコンビニのバイトに応募してみたら、あっさりと採用になった。
口下手で会話が好きじゃない私にとって接客業は、断崖絶壁のようなハードルがあったのだが、いざ飛び込んでみると接客のマニュアルに則って喋ればいいだけなので、思ったより簡単だった。口に出す言葉が決まってるから雑談よりも気が楽。
そして、毎日ピアノを弾くようになった。相棒はかつてと変わらず、いつも違う音色を奏でてくれて飽きない。
そうして、非日常は新しい日常に変わっていった。
あの一度限りの演奏以来、彼女とは会っていない。連絡先も知らないから渡りをつけることもできない。まるで、夢のような数日間だった。
過ぎてしまえばあまりにあっけなすぎて、全てが夢だったんじゃないかと思う。
だけど私は今もピアノを弾いているし、あのとき演奏した曲も覚えている。
せっかくだから譜面に起こしておこうと思って、私は白紙の楽譜を開いた。
ろう、と音が流れては、止まる。
もちろん弾かずとも作譜できるけど、今は弾きながらやりたい気分だった。
かり、とシャーペンの芯が削れる音がする。そのたびに、空白の五線譜に音が刻まれる。
「できた」
最後の一音を記して、私はひとり呟いた。
最後に曲名を考える。
んー、とくちびるにシャーペンのキャップを当てる。
無数の言葉が浮かんでは消えて、どれもしっくりこなくて、いっそこのまま空白でもいいかな、なんて思い始めたころ。
「あ」
ひらめいた。
私は、手先がぴりぴりと痺れるような興奮を味わいながら、シャーペンを滑らせる。
「……うんっ」
このときの私はさぞかし満足げに頷いていただろう。
そのとき、防音室のインターホンが鳴る。誰か来たのだろうか。それとも宅配便か。
私は楽譜を譜面台に置いて、部屋を出た。
そして私は思う。
誰もいなくなった防音室には、どこからか花びらが舞い込んで、譜面台に置かれたままの楽譜に行き着く。
その花びらは、春の終わりを告げる花のそれ。だけど私が見れば、ちょっとした偶然に笑ってしまうかもしれない。
戻ってきた私はその花びらを見て笑んだあと、押し花にしようと決める。
遠く離れたあなたがいた季節を忘れないために。
いつでも、あの日々を思い出せるように。
フリー・フロム 青林檎 @monakaaa
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