3話 夢のなか

 傷ついた自尊心を消毒もせず「プライド」という名の包帯だけを巻いて、自分を慰めてきた。包帯の下で膿んでいく傷の痛みを無視して。

 そんなことをしたって新しい音が生まれるはずがないのに。

 いつだって音楽は、奏でる者の虚飾きょしょくを取り払う。本当の姿があらわになる。そう教えてくれた仲間にすら何も告げず音楽から逃げた私に、今さらどんな音が奏でられるというのだろう。


――じゃあ、三日後にまたうちにおいで。そのときまでに弾けるようにしておくから。


 だけど、あの言葉は気がつけば口から出ていた。

「なんで、あんなこと言っちゃったのかなぁ」

 私は鍵盤から手を離して天井を仰ぐ。

 彼女と別れてから八時間が経った。私はその間、ずっとピアノに向かっていたが、一向に音は鳴らない。いや、もちろん鍵盤を押せば音は鳴るのだが、音楽にはならない。音に何もこもっていない。

 弾けなかった頃から比べれば、かなり改善されてはいるものの、これでは彼女に何も伝わらない。

 私は、もう一度思い浮かべる。あの少女に何を伝えたかったのか。それが一番大事で、それ次第で演奏する曲も変わる。

「こんなのじゃだめだ……だめなんだよ……」

 防音室から出た私は最低限の食事を済ませて、またピアノに向かう。

 これは恩返しだ。私は、彼女の言葉に救われた。今度は私が彼女に感謝を伝える番だ。

 無数の音の海から、光る可能性の欠片を集めて、なんとかつなぎ合わせる。だけど、全体を見渡せば、あからさまに不格好で作業は遅々として進まない。

 長時間の作業と削られていく睡眠時間で、どうしても苛立ちが止められない時は、ベランダに出てセブンスターを吸った。キツいぐらいのタールの濃さで昂ぶりそうになる感情を無理やり押さえつける。

 それでも、時計の短針が一周しても、作曲の調子は芳しくなかった。

「あーーーもう!」

 ガシガシと頭をかきむしる。

 なんで、こんな約束をしたんだろう、なんて後悔はもう擦り切れるくらいにした。いくら後悔したところで事態は好転しないのに、持ち前の反芻はんすう思考が止まらない。

 視界は、八八鍵の鍵盤に覆いつくされている。この中からどの順で音を掬い取れば、私が伝えたい音になるのだろう。

「……っ」

 根を詰めすぎたのか、視界がぼやける。疲労が限界にきている。一度仮眠をとらないといけない。

 ベッドはだめだ。床で寝ないと寝すぎてしまう。

 私は、ふらふらとチェアから立って、防音室の床に倒れる。意識を失う前に、アラームを三時間後にセットして、傍らに置いた。

 どうせろくな夢を見れはしないだろう。


 ***


 ざわつく観客の声で、私は意識を取り戻した。そして、すぐに夢だとわかった。

 人生最悪の日の再演。終わることのない悪夢に、今日もうなされる。

 目の前の譜面台に、弾くべき楽譜が置かれている。オケは鳴り出している。一行目、二行目、次々と五線譜を進んでいくのを、私は眺めることしかできない。

 思考は、もう形をなしていなかった。両手にいくら命令しても動いてくれないから、私は、天から降りてきた糸に頼るしかなかった。

 糸は両手の指一〇本にそれぞれ結びついて、自分の意思とは無関係に動き出して、めちゃくちゃに弾きだした。

 楽譜通りは楽譜通り、だけど協奏曲は指揮者の指示を見て、オケと音を合わせて始めて曲として成立する。要は対話だ。自分の意思を主張しながらも、指揮者の主張も受けて、音楽として昇華させなければならない。指揮者もオケも無視して一方的に弾くなんて、ありえない。

 案の定、指揮者が凄い目で睨んでくる。だけど、私の手は止まらない。

 そして指揮者は、私を見なくなった。

 あぁ、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 私が、未熟だから、不甲斐ないから、台無しになってごめんなさい。

 頬を流れる涙に温度はなく、なのに身体は熱を帯びていくばかり。

 胸が痛い。穴が開いているような空虚な痛みが広がっていく。吸った息が全部そこから漏れてしまって、苦しい。勝手に動いていた手が、油の切れたブリキの人形のようにぎこちなくなっていく。音が崩れていく。手からいろんなものからこぼれていくのをまざまざと感じながら、何もできない。左手側の観客席からは千を超える目、目、目、の視線、視線、視線に射抜かれる。怖い。怖い。なのにそちらを向く首が止まらない。あぁ、ステージを照らすライトで本当は見えないはずなのに、席に並んだ老若男女の表情そのひとつひとつまで、完璧に見えてしまう。言葉なくとも表情一つではっきりと感情が伝わってくる。いやだ。失望、いやだ、諦観、いやだ、憤怒、悲哀、いやだ、憐憫、同情、冷笑、いやだ、疑念、拒絶、嫌悪、幻滅落胆立腹不信ぁぁいやだいやだいやだ―――。


「――――ぇ?」


 その時、一人の少女が視界に映った。白杖を持って、目を閉じたまま私を心配そうに見ている。違う、彼女は本当はここにいない。その席は、一番先にホールから退席した人の席だったはず。

 彼女は、口を開けて、何事かを言っていた。聞こえないから、口パクだ。三、四文字程度の短い単語のように思えるけど何を言っているのかわからない。

 彼女も伝わらないと思ったのか、もどかしそうな表情を浮かべる。あぁ、ごめんね。わかってあげられなくて、でももう曲が終わる。せめて最後は合わせないといけない。

そうして指揮者の方に首を戻そうとしたその瞬間だった。


 彼女は、右手の小指だけを掲げた。そして、ゆっくりと口元に持っていき、優しく口づける。


 その時、私の右手の小指がぴくりと跳ねた。

 見れば、小指に結び付けられていた糸が、切れている。

 そして私は、天啓のように彼女がしきり言っていた言葉が分かった。


 や、く、そ、く――――。


 ***


 リリリ、と耳元でアラームが鳴る。

 朧気な意識でスマホを操作しアラームを止める。

 頭が痛い。だけど、いつものように最悪な気分の目覚めじゃなかった。

 頬に指を添えると湿り気を感じる。どうやら泣いていたようだ。

 胸に手を当てる。トク、トクと拍動を感じている。私は生きている。

 相変わらず、心に空いた穴はふさがっていない。

 自信を注ぎ込む容れ物に穴が開いてしまったら、どれだけ注ぎ込んだところで意味はない。穴をふさがない限りは、どれだけ自信が生まれても積み重なることがないから。

 でも、以前より小さくなっているような気がする。


 彼女の顔を、浮かべる。

 彼女の言葉を、手繰たぐる。


 伝えたいことが、見えた気がした。

「約束、だからね」

 私は、防音室に持ち込んだペットボトルを手に取ると、口に含む。ぬるいけどまあいい。

「さて、続きをやりますか」

 私はまたピアノに向かった。

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