2話 月の光

 万雷の拍手も、賞賛の大音声だいおんじょうも、群青に浮かぶ月がすべて吸い込んでしまうような可惜夜あたらよだった。

 パリはリュクセンブルク公園の、小さな野外ステージ。

 私がフランスで最初に立った舞台は、お世辞にも華々しいものではなかった。

 有名な音楽学校を卒業したわけでも、著名な音楽家に弟子入りしたわけでもない私に、プロへと至る正規の道はなかった。ピアノの腕だけを頼りに単身でパリに乗り込んで、覚束ないフランス語でなんとか交渉した末に得た仕事だった。

 地元の管弦楽団の前座で、許された演奏は一曲だけ。誰も私の演奏に期待などしていなかっただろう。

 だけど、私はその三分五五秒ですべてを変えた。周りの評価も、有象無象のプロとして終わるはずだった自分のキャリアも。

 今でも覚えている、決して忘れることのない夜の記憶――――。



「お姉さん?」

「え、あ、ごめん。ちょっと考え事をしてた」

 我に返った私の横には、ベンチに腰掛けた少女が座っている。広場で私に話しかけてきた少女だ。小柄な背丈から察するに中高生だろうか。小さなリュックサックを背負って、首からストラップ付のスマホをぶら下げていた。

 彼女の手には私が自販機で購入したジュースが握られている。

「のどかですね~~」

「そうだね」

 私たちは広場から少し離れたところにある公園に来ていた。

 遠くの方でゲートボールをしているお爺ちゃんたちと、ジャージを着て体操している青年以外は誰もいない。

「ふふっ」

「どうしたの?」

「いえ、これってナンパに入りますか?」

 冗談めかした彼女の言葉に、私は面食らう。

「そう、だね……。君がかわいかったからつい、声かけちゃった」

「あははっ。お姉さんっておもしろい方なんですね」

 ここに来る道中で互いに自己紹介をした。彼女はちょうど今ぐらいが季節の花の名前と同じだった。

 私も自分の名前を伝えた。ありふれた名前だからか、彼女は変わった反応を示さなかった。私は自分の素性がバレなかったことに安堵して、すぐ後ろからうっすらと自己嫌悪が顔を覗かせた。

「さっき、何を考えてたんですか?」

「あぁ、昔のことだよ。昔の、嬉しかったこと」

 この公園の雰囲気がなんとなく似ているのだ。あのパリの公園に。だから自然と思い出してしまったのだろう。

「私、聞きたいですその話」

「大した話じゃないよ」

「いいんです。私が聞きたいのは大層なお話ではなく、お姉さんのお話ですから」

「そう言われてもなぁ。私はピアノが好きなだけの人間だから、話せるようなことはなにも」

 私は嘘をついた。私がピアノに向ける想いは単色ではない。もっと複雑で、濃淡鮮やかで、混ざりあってところどころ汚くなってしまっているところもある。

 その感情は言葉で説明できるものではなかった。私が口下手なのもあるが。

「じゃあ、なんで私に声かけたんですか?」

「んー……。なんでだろ、ピアノが好きそうだから」

 本当にどうしてだろう。雑談なんて私が最も苦手なことなのに、気がつけば私は声をかけていた。

「はい! ピアノが好きです!」

 彼女は花が咲いたように笑った。その屈託のない笑みが、幼い頃の記憶を呼び起こす。まだ、純粋にピアノが好きなだけだった自分と重なる。そして疼痛とうつうが胸に走った。切り傷とは異なるこの痛みを「切ない」と名付けた人の感性をうらやましくなる。

「……ピアノ、弾きたい?」

「え、でも……私は目が見えないので……」

 彼女は少し伏し目がちにうつむく。

「目が見えなくても弾けるよ。プロのピアニストもいる」

「え、そうなんですか?」

 私は頷いてもう一度問いかける。

「弾きたい?」

「はいっ」

 勢い込んでいう彼女を見て、自然に笑みがこぼれる。

「じゃあ、うちに来て」

 言った後に、私は自分がヤバいことを言ってることに気が付く。声かけ事案という単語が頭に浮かぶ。

「お姉さん、おうちにピアノがあるんですか!?」

「あ、ある」

「ぜ、ぜひお姉さんのおうちに行ってみたいです!」

「え……いいけどでも良いの? そんな簡単に他人についていって……」

「大丈夫です! わたし、人を見る目はあるので! それともお姉さんは、わたしに酷いことする人ですか?」

「いや……しないけど」

「では、いきましょう!」

「いやいや、てか親御さんに連絡とか」

「私、こう見えて一九なので! 成人してます!」

「え、そうなの」

 そういう問題はないが、驚きの方が勝る。人は見かけで判断してはいけないとはよく言ったものだ。

 彼女に押し切られる形で、私は自分の部屋まで案内することになった。とはいえ誘ったのは私なので何も言えない。

 誘導の仕方に不安があったけど確認を取りながらなんとか先導する。

 どうやら彼女は生まれついての全盲らしく、それゆえに見えないことには慣れているらしい。

 色々と話しているうちに、私が住んでいるマンションに戻ってきた。エントランスからエレベーターに入り、「32」のボタンを押す。

「お姉さんってもしかしてお金持ちなんですか?」

「どうしてそう思うの?」

「エレベーターの振動がいつも乗っているのとは違うので。あと、到着するまでの時間が長いから、高いところに住める人なのかな、と」

「へぇすごいね。確かに、普通の人よりはお金はあるかも」

「職業は何をされているんですか?」

「今は、無職……かな」

 チン、と音がなって三二階に到着する。ホテルと錯覚する床の絨毯。正面に見えるのが私の部屋のドアだ。

「床、ふかふかですね。廊下じゃないんですか?」

「廊下だよ。絨毯じゅうたんが敷いてある」

「す、すごいです……」

 ドアノブの上部にスマホをかざしてドアを開ける。

「どうぞ。ここが私の部屋だよ」

「おじゃまします」

 どこの部屋もだいたい散らかっているが、床にものが散乱するほどではないため、彼女がつまずくことはないだろう。私はリビングのソファに誘導して座らせる。

「飲み物取ってくるよ。水しかないけど」

「ありがとうございます」

 私は冷蔵庫から新品のミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、コップに注ぐ。

「はい。コップね。一回テーブルに置くよ。一二時の方向……で良かったんだっけ」

「ありがとうございます。はい、わたしの正面が一二時です」

 彼女は手を伸ばして、コップを掴むとそのまま一口飲んだ。

「……やっぱり苦労とか、多い? ごめん、こんなこと訊いて」

 言ってから、不躾な質問だったなと反省する。

「あーどうでしょう……わたしは生まれてからずっとなので、苦労だと感じたことはあまりないかもしれません。多分、私より私の両親の方が大変だったと思います」

 彼女はコップの表面を親指でなぞりながら言った。窓から差し込む光がガラスのコップに反射して床に光の粒を落としていた。

「わたしも、物心がついた頃は見えないことを不幸だと思ったこともありました。だけど、わたしにとってこれは普通なんです。普通が不幸だなんて、まるで人生全部が不幸みたいじゃないですか」

 彼女は私を見る。見えないはずなのに、私がここに座っていることがわかっている。きっと彼女にしかわからない世界があるのだ。

「わたしは、自分の人生を不幸だなんて思いたくありません。それにわたしを見る人にも不幸だと思われたくないです。だから、わたしは幸せだと胸を張って言えるように、生きたいんです」

「そっか……」

 背筋を伸ばしてたたずむ彼女を眩しく感じるのは、花が咲いたような笑顔のせいだけじゃないだろう。思わず目を細める。

「さっそく、弾いてみようか。こっちにおいで」

 彼女の手を取って立ち上がり、そのままゆっくりと手を引く。

 特注の防音室に入ると、そこにはいつもと変わらず、私の相棒が威風堂々と構えていた。

「ここ、防音室だから。どれだけ鳴らしても大丈夫だよ」

「うわぁ……防音室って普通あるものじゃないですよね? お姉さんやっぱり、普通のピアノ好きじゃなくて、ピアニストなんじゃ……」

「そう。ちょっと前まではピアニストだった」

「やっぱり! ……え、『だった』?」

「うん、フランスで仕事していたんだけど、辞めて日本に帰ってきたんだ」

「ど、どうして辞めちゃったんですか……?」

「……けなかったから」

「え」

「ピアニストなのに、ピアノが弾けなくて、それで、もうここにいる意味なんかないって思って帰ってきたの」

 私が住んでいた地域はパリの中でも特に音楽が盛んな地域だった。コンセルヴァトワールという音楽院に通う学生がたくさん住んでいて、アパルトマンには当然のように全室ピアノが置いてあった。

 騒音だなんて誰も思わない。下手な演奏したら文句は言われるけど。

 四六時中、音楽と触れ合うのが当たり前の世界で、私だけが音を奏でることができない。そんな地獄を想像したからこそ、私はあのコンサート会場から直接日本に帰ってきた。

「……そう、だったんですか」

「ごめんね、こんな話して。せっかくだから弾いてみなよ」

 私はピアノカバーを取り外して、きれいに折りたたむ。

 背もたれのない四つ足の椅子に座ってもらい、両手を鍵盤の上に乗せる。

「どの指でもいいから、今触ってるところを押してみて」

「は、はい……」

 彼女はこわごわと、白鍵を押す。

 控えめなC4が鳴ると、彼女の肩がぴくりと跳ねた。

「す、すごい……これって私が鳴らした……?」

「そうだよ。今のはドだね。もっと強く鍵盤を押すと、大きな音が出るよ」

 彼女は同じドの音を、今度はしっかりと鳴らした。太く、存在感のある音が空気を震わせる。

「簡単に説明すると、ピアノは、鳴る音が決まってるスイッチを押して演奏するんだ」

「へえ……。ハッケン?とかコッケン?があるのは両親から聞いてるのですがそんな仕組みだったとは知りませんでした」

「あぁそれはスイッチの種類みたいなものだね。白鍵はっけんの音を半分ずつ高くしたり低くしたりしたスイッチを黒鍵こっけんって呼ぶんだよ。ちょっと手、借りるね」

 私は、彼女の右手を取って、黒鍵の上に置いた。

 彼女がゆっくりと黒鍵を押すと、ド#が鳴った。

「あ、確かにさっきの音よりもちょっと違う」

「うん。どんどん押してみていいよ」

 それから彼女は、色々な音を鳴らした。高い音から低い音まで。小さい音から高いまで。彼女がどう思っていたのかわからないが、きっと感動してくれていたのだと思う。彼女が奏でる音を一番近くで独り占めしながら、そう思った。

「すごい……。わたし、今までピアノがどんなものなのか分からなくて、両親に聞いたことがあるんですけど、説明されてもわからなくて……」

 一通り弾ききった彼女は、ぽつりと呟いた。たしかに、ピアノの外見を形容するのは難しい。

「でも、今実際に、弾いてみてなんとなく分かった気がします。今までずっと魔法の道具みたいな感じだったんですけど……」

「もしかして、魔法が解けちゃった?」

 私の言葉に彼女は首を振った。

「いえ、私が弾くとちぐはぐで、ばらばらなのに、さっきの人みたいにちゃんと曲を演奏できるって、それってなんか、とてもすごいことだと思います。本当に魔法みたいな……」

「そうだね……。そう考えれば、たしかに魔法みたいかもしれない」

「お姉さんは今も弾けないんですか?」

「……そう、だね。どうしても弾こうと思えなくて」

 帰ってきた当初、音を鳴らすことはできた。でも何を弾いても音楽にならなくて、自分の演奏が聞くにたえなくて、徐々に弾くことさえままならなくなった。

 でも、今なら、とも思う。

 彼女と出会って、私はこれまで忘れていた熱を確かに感じている。

 もしかしたら、弾けるかもしれない。

「そうですか……でもそれは仕方がないですね。またいつか……」

 彼女が言い淀む。申し訳なさそうな表情を浮かべる彼女を見て、私の心は決まった。

「いや、私も弾いてみようかな」

「えっ」

「変わってもらってもいい? こっちに座って」

 私は、彼女を丸椅子に座らせる。

 代わって、ピアニストチェアに腰を下ろす。

 深呼吸。静かだ。自分の呼吸の音が聞こえる。いつもなら心臓の音がうるさいのに、動いていないのかと思うくらい静かだ。

 鍵盤に触れる指先が、ピリピリと緊張しているのが分かる。

 ちらっと彼女の方に目をやると、緊張半分、期待半分の顔でこちらを見ている。久しぶりのオーディエンスに私の口元が緩む。

 自然と、曲は始まっていた。ドビュッシー『月の光』。私がピアノを始めて最初に触れた思い出深い曲だ。

 旋律をなぞりながら、問題なく弾けている自分に驚く。だけどブランクの影響は確かにあって、一音一音の解像度には明確な衰えを感じる。でも、弾けていることが嬉しいと素直に思った。

 約二分後、演奏を終えた私の耳に彼女の拍手が飛び込んできた。

「すごい……素敵な演奏でした……!」

「ありがとう……」

 弾き終わった私は、自分の両手を見つめる。かすかに震えている両の手をぐっと握りしめる。弾けたという感覚がじわじわと染み込んでくる。

心地よい疲労感が身体を包んで気持ちがいい。

 私がひと息ついていると、彼女が吹っ切れたような笑顔で言う。

「お姉さんの演奏を聴けて良かったです」

「そ、そう? 嬉しいな……」

 照れる私を見て、彼女もふふ、と微笑む。

「最後に良い思い出ができました」

「え」

「わたし、三日後に引っ越すんです」

「そう……なんだ」

 会ったばかりなのに、落ち込んでいる自分がいて、ちょっと驚く。今日の私の演奏は、まだリハビリが必要な出来だ。これから感覚を取り戻して、また彼女に聞いてもらえればと思っていたのに。

「だ、だったら、最後の日に、また時間もらえないかな?」

「え?」

「……聞いてほしい曲があるの。私が作った曲」

 私は何を言ってるのだろう。自作の曲なんて、そんなものは存在しないのに。

「それは楽しみです!!」

 身体いっぱいにワクワクを詰め込んだ彼女を見ると、何も言えなくなる。

「じゃあ、三日後にまたうちにおいで。その時までに弾けるようにしておくから」

「はい! 出発前にまたお邪魔します!」

 私は頷いて、彼女の小指を取る。そこに自分の右手小指を絡めて結ぶ。

「約束」

 ゆびきりを交わすと、彼女はぱぁと表情を一層明るくさせて、力強く肯いた。

 その後、迎えにきた彼女の親御さんに挨拶をして、三日後にまたうちまで来てくれるようになった。走り去っていく車を手を振って見送ると、自然とため息が漏れた。

 三日で作曲して、人に聞かせられるまでのレベルに仕上げるなんて、プロの時でもやらなかったことだ。

 ……ほんと、どうしよう。

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