フリー・フロム

青林檎

1話 あなたの頬の朱色に

 オレンジ色のスポットライト、拍手で震える空気、ステージを歩く私の足音、静寂、高鳴る心臓と鳴らないピアノ、固まるからだ、跳ねる心拍数、輪郭を失う思考、観客のざわついた声、白飛びする視界、座ったまま微動だにしない私と、動けと命じる脳のパルス。

 私を俯瞰する私が、両手両足に糸を垂らして不格好に操る。

 何もできない私の前で幕が下りる。


 ――ああ、これは夢だ。現実と地続きの、とびきりの悪夢だ。


「ん、うぅ……」

 顔をしかめ微睡んでいるさなかにも、窓の外で鳴く小鳥の声に、音階を当てはめる自分の脳みそに嫌気が差す。

 惰眠を貪ることを諦めた私は、眠い目をこすりながらベッドに腰掛け、大きなあくびを一つかまして伸びをした。

「ふあぁ」

 枕元の目覚まし時計をみると、まだ日の出前。ろくに眠れていやしないのに、もう一度ベッドに寝転がる気は起きなかった。

 キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、一口飲む。

 水を飲んだら、途端に口寂しくなったので、雑多なもので散らかったテーブルからセブンスターとライターを探して、ベランダに出た。

「さぶ」

 行く春の早朝の空気は嫌いじゃない。少し冷たいそよかぜが肌を撫でていくと、私の感覚も研ぎ澄まされていく感じがするからだ。湿っぽい空気は気に入らないが、四季折々の気候はこの国独自のものだと思う。

 セブンスターに火をつける。しゅぼ、とたよりのない火花が散る。

「朝ぼらけ、か」

 東の空がほのかに色づきはじめるのを、ベランダの胸壁を肘置きにして眺める。

 眠りに沈んだビル群を起こさないように、私はゆっくりと煙を吐き出した。

 やけに、リアルな夢だった。いや、夢というのがそもそも現実と接続しているものであるなら、リアルなのも当たり前なのかもしれないが、それにしても直近の私の生傷を的確にえぐる悪夢だった。

「割り切ったと思ったんだけどな」

 新進気鋭のプロピアニストとして、外すことができない舞台だった。

 業界で注目の若手指揮者が率いる楽団と演る協奏曲。満員御礼のコンサート会場。

 万に一つも失敗できないステージだったのに、そこで私が演じたのはとんでもない失態だった。

 その時の記憶はあまりない。

 気がつけば私は、誰もいないステージで独り、演奏していた。本当は楽団と演奏するはずだった曲。オケの音を欠いた私のピアノは、一つのミスなく完璧に弾いてもどこか物足りなさを感じた。

 そのとき私は、自分が取り返しのつかないことしてしまったのだと理解した。

 だから、ホール会場を出た足で、そのまま日本に帰国した。

 2本目に火をつける。

 長く付きあっていた彼氏は煙草を嫌っていた。だから私は彼の前では吸わないようにしていた。その彼にも、日本に帰国する途中で一方的に別れを告げた。

 なにも背負いたくなくて、すべてを手放して、あとに残ったのは、からっぽになった私だけだった。

 これからどうすればいいのだろう。無断で帰国して1週間が経った。当初は国内外問わずあちらこちらから、ひっきりなしに電話が鳴っていたが、全て無視していると次第に音沙汰もなくなった。

 私というピアニストはもう、死んだ。そしてその事自体も既に、日々の喧騒にかき消されている。

 2本目を吸い終えて、私は部屋に戻る。

 無駄に広いダイニングを横切って、その部屋の扉を開けた。

「おはよう」

 誰もいないのに思わずそう言ってしまう。長年の習慣は簡単には消えない。

 特注の防音室の中央には、私の魂の片割れ――グランドピアノが鎮座している。

 スタインウェイ O―180。4年前に全財産で購入した相棒だ。日本で足掻いていたとき、まだ私がそのレベルのピアニストだったときから、傍になくてもずっと一緒だった。

 ピアノカバーの端をめくりあげ、黒白の鍵盤をつう、となぞる。

 ひんやりとした硬質な手触り。慣れ親しんだ感覚に指が喜んでいる。

 ただ、私の心は暗い海の底に沈みきったままだった。

「……ごめん」

 一音も鳴らさず指を離す。口をついて出たのは謝罪の言葉だった。

 そのまま壁際に並ぶ本棚に目を移す。古今東西の楽譜が整然と並んでいるその書架は、私がこれまでプロピアニストとして歩んできた道のり以上に長い、ピアノ人生そのものの記録といえた。

 ……これも全部捨てたほうがいいのかな。

 生き直す、というならそうした方がいいのだろう。ピアノが弾けなくなった私にはもう、いらないものだ。


 ※※※


 彼氏に「ごめん、別れよう」と簡素なメッセージだけ送り付けて、電話場号からSNSまで、全ての連絡先を思い出ごと削除したスマホを手に取る。

 随分軽くなったそれには、もう誰からの連絡も来なくなった。そりゃそうか。全てをピアノに捧げてきた私に、連絡先を交換するほど仲が深い人間はいなかった。親は私がピアノの道を選んだときに縁を切った。ピアノを辞めたからといって戻れるとは思えない。そもそも、どれだけ窮地に陥ろうとも、私自身がその択だけは絶対に選ばないという確信がある。

 冷蔵庫に食べ物が入ってなかったので、私は街に出る支度をする。

 キャップを目深にかぶり、ファッショングラスもつける。オーバーサイズ気味のロングTシャツにジーンズを履いて、スマホと煙草を適当なサコッシュに入れれば準備は万端。

 マンションを出る頃には、朝日が昇ってくる時間帯になっていた。青の世界は消え、世界は起き始める。大通りにはタクシーとタクシーの間に一般車両の姿がちらほらと見え始め、朝帰りするサラリーマンは深夜の反動からか、ゾンビみたいな顔と足取りで歩いている。

 事前に調べておいた喫茶店まで、徒歩15分。タクシーを使わなかったのは、この街の風景を久しぶりに眺めたかったからかもしれない。

「けど、明日からはタクシー使お」

 私はそう独りごちて、目当ての喫茶店に入る。

 思った通りの雰囲気で、わずかに体温が上がる。流れている音楽も良い。

 狭い店で、客もおらず店主しかいない。窓際の席に座ってモーニングを注文すると、コーヒーとサンドイッチが出てきた。サンドイッチはそれなりの味だったけど、コーヒーが抜群に美味しい。さすがだ。

 たっぷり時間を使って、コーヒーを堪能して店を出る。現金を持っていなかったけど、店がキャッシュレス決済に対応していて、時代の流れを感じた。

 時間はやけにゆっくりと流れていた。今までは、とにかく時間が足りないことばかりだった。コンサート、コンクール、そのための練習。余ったことなんて一度もない。いつも後ろから時間に差し迫られて、生きてきた。

 その焦燥感から解放されて、私は今、やっと自分の時間を生きる余裕が与えられた。日々に忙殺されず、ただ心のゆくままに、足の動くままに進める。

 そのはずなのに、今度は、自分の行先がわからない。

「なんなんだろうね、ほんと」

 そんなことを考えながら歩いていると、進む先に人だかりができているのが見えた。シッピングモールの入り口だ。

 同時に音楽が聞こえてくる。ピアノの音。今、世界的に流行っている曲のピアノアレンジだ。

 どうやらここにはフリーピアノが設置してあるらしい。人だかりができていたのはこれが理由か。

 私は足を止めて聴衆に紛れ込む。

 演奏は、端的に言ってひどいものだった。

 流行りの曲のメロディーラインをなぞって、自己満足のアレンジで飾りつけをしているだけ。一音一音がなんとなくでしか繋がってなくて、そこには必然性も運命性も感じない。

 こんな音を奏でて何を伝えたいんだろう。

 才能の輝きも、努力の積み重ねも、何も感じられない。

 だけど、人は集まっている。

 演奏が終わった。演者が立ち上がって一礼。聴衆は一斉に拍手をする。

「すごいすごいすごーーーい!!!」

 私の隣にいる少女なんか興奮の声を漏らしながら、目を輝かせて一心に手を叩いている。私もぱちぱち、とその場で浮かない程度に拍手だけしておく。

「えーみなさん、今日は早い時間から集まっていただいてありがとうございました。みなさんに聴いていただいて、とても嬉しいです。またライブやろうと思いますので、インスタ、YourTubeのチェックお願いします」

 演者の話を聞いて、私はひとつ腑に落ちる。どうやら演者はそれなりのインフルエンサ―らしい。

 朝っぱらだというのに人が集まっているのはそれが理由のようだ。事前にここで演奏することを告知していたとか。私の隣にいる少女はおそらく熱心なファンなんだろう。

「ねっ、すごいですよね!」

「えっ」

 とか考えていたら、その少女に話しかけられた。びっくりして、挙動不審になってしまう。生来のコミュニケーション下手が出てしまった。

 だけど少女はにっこり微笑んだまま、私の返事を待っている。その小さな手に握られた白杖と瞑ったままの両目に気がついた私は、思わず固まる。

「あ、そうなんです。私、目が見えないので、だから音楽聞くのがすごく好きなんです」

 私の戸惑いを敏感に察知した彼女は、しかし気分を害することもなく、にこりんぱと咲う。

 瞬間、私の心は、今までの虚無から抜け出すように跳ねた。

「あ、ごめんなさい……急に声をかけてしまって……、つい興奮しちゃって」

「い、いや。別にだいじょうぶ」

 申し訳なさそうに少女は謝るけど、そんなことはどうでもいい。

 だって、その頬の朱色から目が離せない。

 その色を音にして伝えたい。なぜか、強くそう思った。

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