第3話 屋敷の空気
パリンと、ガラスの砕ける音が廊下を貫いた。
何事かと、爺やは足を速める。玄関口の近くで、使用人の中年女性がしゃがみ込んでいた。花瓶を落として割ってしまったようだ。
「大丈夫ですか、ハンナ」
「えぇ、失礼致しました」
低く単調な声音で、ハンナは呟く。表情は乏しいが、さすがベテランらしい。小柄でふくよかな彼女は、落ち着き払ってハンカチを広げ、黙々と破片を拾い集めている。
「おや? 」
爺やは顔を顰めた。何やら焦げ臭い。周囲を見回すと、厨房からモクモクと煙が漏れ出している。同時に、大柄な青年が、咳込みながら飛び出してきた。屋敷のシェフだ。
「何事です? 」
「いやぁ、ボンヤリしてたら、目玉焼きが炭の塊に!」
あっけらかんと笑い、彼は換気に戻った。やれやれと息をつき、爺やは窓外を見やる。分厚い雲が垂れ込め、どんより薄暗い。この冴えない空模様も相まって、一層気分が滅入る。それもこれも。
「・・・・・・しい。・・・・・・てくれ」
この声のせいだ。
あれから数日。相変わらず、バイオリンは呻き続けている。囁いている時もあれば、野太い声でグルグル唸っていることもある。
ハンナを手伝いながら、爺やはこの数日間を振り返る。リリィは朝寝坊、爺やは腰痛。花瓶は割れ、シェフは料理を焦がす。どうも、屋敷の中が落ち着かないのは――。
いつもの事である。
シェフの失敗は日常茶飯事、ハンナはべらぼうに有能だが、なぜかガラスや陶器とは相性が悪い。あのバイオリンは呻きこそすれ、今のところ、特別な不幸が起こるといったような実害は無い。強いて言うなら――。
「おや、大丈夫かい?」
出勤前のヘンリーが、姿を見せた。
「おはようございます」
すっくと立ちあがり、爺やは一礼する。しかしハンナは挨拶どころか、顔も上げずに破片を拾い続けていた。
「ハンナ、おはよう。あのさ、この前買った、アボカド柄のハンカチってどこだっけ?」
「引き出し。三段目」
ハンナは、ぶっきらぼうに単語で答える。
「そ、そっか。ありがとう」
粗雑な態度に、ヘンリーは怒りもせずに礼を述べる。すると、換気を終えたシェフが、あくび交じりに厨房から出て来た。
「やぁ、おはよう。なんだか焦げ臭いね。それより、今晩はシチューが食べたいな」
「えー、嫌ですよぉ。作って欲しいなら、早くあれを何とかしてください」
シェフは口を尖らせ、ぶぅぶぅ抗議した。同感だと、ハンナも傍らで頷いている。
「そうだね。色々、試してはいるんだけど」
「もぉ。もっと世渡り上手になってくださいよ。お人好しドンマイ!」
笑顔で親指を立て、シェフは立ち去った。断れず面倒な物を持ち帰りやがったと、近頃ヘンリーに対して、使用人たちが冷たい。 ヘンリーは俯き、ハンカチを取りに戻った。
「なんと、お気の毒な」
爺やはポロリと独りごちる。
「ふん、自業自得だ」
リリィが、背後に腕組みして立っていた。
「お嬢様。おはようございます」
「あぁ、おはよう爺や。ハンナ、相談したいことがあるんだが」
リリィは、ハンナと連れ立って行く。彼女の態度は、至って平常通り。呻き声など、まるで怖がってはいない。
しかし、なぜか度々、物置のドアに耳をくっ付け、呻き声に聞き入っている。どういうわけか尋ねても、何でもないと、はぐらかすばかり。
どうも、嫌な予感がする。爺やは、もう何度目かの身震いをした。
「あ、あの、お嬢様」
「何だ? ついてくるなよ?」
爺やの懸念を察知したのか。リリィは鋭い眼差しで、ピシャリと壁を築いたのだった。
リリィとバイオリンの精霊 月星 光 @tsukihoshi93
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