第2話 奇妙なバイオリン
「あ、お父様」
そこにいたのはリリィの父、ヘンリーだった。
爺やも気付かぬうちに、帰宅していたらしい。未だ羽織ったままの薄手のロングコートが、長身痩躯によく似合っている。派手さは無いが、中年と思えぬ爽やかイケメンだ。好きが高じて美術品や骨董品の売買を生業とし、それなりに成功している。
しかし、明らかに様子がおかしい。
キョロキョロと、ドアの前でしきりに周囲を気にしている。しかもそこは、自室ではなく、物置部屋。更に、黒い布でグルグル巻きにされた何かを、両手に抱え持っている。見られているとは気付かず、ヘンリーはひっそりと物置へ入っていった。
一体、何をしているのだろう。爺やは眉を顰める。リリィも怪訝な様子だ。その何かを置いて、ヘンリーはすぐに物置から出て来た。急いで扉を閉め、慌てた様子で鍵まで掛ける。
「それで、何を隠したんだ?」
「ひょえっ!?」
背後から声を掛けられ、ヘンリーは間抜けな高音を発した。
「や、やぁ、リリィ。爺やも」
その笑顔は引き攣り、目は泳ぎまくっている。
「全部見ていた。さぁ、話せ」
リリィは、既に半分になったバゲットを父親に突き付けた。
「それは、そのぉ」
垂れ目を更に下げ、ヘンリーはたじろぐ。
「・・・・・・さない。・・・・・・いだ」
再び呻き声が起こった。それはヘンリーの背後、物置の中から。地を這うような重低音は、何とも不快な響きだ。
「この声は何だ? 」
「旦那様? 捨て猫でも拾われたのですか?」
同時に迫られ、観念したらしい。ヘンリーは、罰が悪そうに頬を掻いた。
「実はさっき、エクロア家のご主人に会って」
ピクリ、とリリィの指先が反応する。
「頼み込まれて、あるバイオリンを預かったんだけど。それが、そのぉ」
「何だ! ? さっさと言え!」
リリィが、胸倉を掴む勢いで詰め寄った。
「なんか、呪われてるんだって。てへっ」
「何ですとぉっ!?」
爺やは素っ頓狂な声を上げた。
「く・・・・・・るしい。・・・・・けて」
一際大きな呻き声。苦しい。助けて。呪われていると、嫌でもわかるフレーズだ。
「で、では、この声は、バイオリンが――」
「その通り」
「ひぃっ!! 」
爺やの顔から、サッと血の気が引く。
「なぜ、そんなものを預かった!?」
「すごく困っていたから。輸入品の中に混ざってたって。美術品として価値があるかもしれないし、使用人たちとも話し合って、僕に預ければ安心だってことになったみたい」
意訳。お人好しのヘンリーなら断らないだろうから、厄介払いには好都合だろう。
彼らの思惑が、透けて見えた。リリィも即座に理解したらしく、呆れて額を抑えている。
エクロア家の主人ダンは、海外からの輸入品を扱うやり手の商人だ。悪人ではないが、ずる賢い。
「せっかく頼ってくれたのに、断れなくて」
「それで、後先考えず引き取ったのか」
頷き、ヘンリーは子犬のように、しゅんと萎れた。
「それで、どうなさるおつもりです? 」
青ざめたまま、爺やが問う。
「それは、少し考えるよ。あ、あのさぁ、爺や。知り合いに、最強の霊能者とか――」
「おりません。残念ながら」
「だよねぇ。ちなみに、リリィは――」
「いるわけないだろ」
リリィは真顔で一蹴する。
「と、とにかく、何とかする。危険だから、近付かないように。特にリリィ !」
おてんば娘に釘を刺し、ヘンリーは肩を落として自室へ戻って行った。爺やは、深く息を吐く。老体には、些か刺激が強い。どっと疲労が押し寄せてきた。
「大変な事になりましたな。お嬢様、くれぐれも関わらぬよう――」
隣を見やり、爺やは思わず閉口した。リリィが目をギラつかせ、ニヤリと口の端をもたげていたのだ。嫌な予感に、爺やの全身がゾワリと総毛立つ。
「お、お嬢さま? 」
「まったく、父様はお人好しが過ぎる」
リリィは長い睫毛を伏せ、やれやれと頭を振った。怪しげな笑みは、既に消え失せている。
「私は部屋に戻るぞ。じゃあな、爺や」
バゲットの最後の一口を押し込み、リリィは意外にもあっさり立ち去った。好奇心の塊である、リリィのこと。何とかして物置に侵入するのではと、爺やは内心冷や冷やしていたのだ。
しかし、あの顔は。なに、ほんの一瞬の事。日頃の素行からくる、幻覚かもしれない。爺やは半ば無理矢理、己を納得させた。
横目で物置部屋を見やる。呻き声は起こり続けていた。
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