リリィとバイオリンの精霊

月星 光

第1話 お嬢様の帰宅

 豪快なスライディングで門内へ滑り込んだのは、可憐な少女だった。

「セーフ! セ――――――フッ!」

 両手を水平に広げ、中腰でコールしたのは黒スーツの老爺。彼は銀縁眼鏡に手をかけ、険しい面持ちで胸元の懐中時計を開いた。

「十九時二秒前。本日も門限ギリギリのお帰りですな。リリィお嬢様」

「出迎えご苦労、爺や。ちょっと花屋にな」

 怪我をしないよう、予め敷かれていた赤い絨毯の上。お嬢様と呼ばれた少女は、手慣れた様子でワンピースの裾を払った。

「贈り物ですか?」

「いや、花屋のジジイとポーカーを」

「何ですと!? 賭け事などいけません!」

「賭けたのは菓子だ。可愛いもんさ」

 爺やの怒りもどこ吹く風。蜜色のポニーテールを揺らし、リリィは颯爽と前庭を行く。手際良く絨毯を丸めて小脇に抱え、爺やも後に続いた。

 既に辺りは暗く、頬を撫でる初春の風は、まだ冷たい。静謐な闇を、前庭から玄関口まで続く、ほのかな灯りが照らし出している。   

 前庭の先には、大きな洋館。グレーを基調とし、窓枠やテラスは白木で揃えられている。華美ではないが、品があり、悠然とした趣だ。

 リリィは、この邸宅に住むお嬢様。黙っていれば大変麗しい、十七歳の美少女である。

 一つ咳払いし、爺やが切り出した。

「お嬢様。本日も、茶会やパーティーの招待状がーー」

「くだらん。欠席だ」

 爺やが言い終わらぬ内に、リリィはピシャリと拒絶する。やはりと思いつつ、爺やは負けじと内ポケットから封筒の束を取り出した。

「そう仰らず。まず、ボンレス・ハミ家」

「行かない」

「カルペッチョ家」

「結構だ」

「バナ・バナーナ・バッナーナ家」

「バナバナうるさい」

 片っ端から却下していくリリィに、偏屈な欠席理由を並べるリリィに、爺やは胸中で舌打ちした。

 招待状には見向きもせず、リリィは玄関を開け、さっさとホールを横切る。

「たまには、出席なさってはいかがです」

 口では促しながら、爺やは諦めて封筒の束をポケットに戻した。

 高級絨毯を緩衝材として使い、花屋のジジイとポーカーに興じる、この型破りなお嬢様は、窮屈を嫌い、社交の場に一切顔を出さない。

 自室への道すがら、リリィは厨房からバゲットを一本失敬し、丸かじりして階段を上がり始めた。

「これ! 夕飯前ですぞ! 」

 咎める爺やに、リリィは気にするなと空いた方の手をヒラヒラさせてみせる。

「聞いているのですか! 大体、この間も廊下にバナナの皮が落ちて――」

 ふと、爺やが小言を止めた。二階へ上がって廊下を進み、突き当たる直前。ふいに、リリィが足を止めたのだ。

「お嬢様?」

「しっ」

 リリィが、食べかけのバゲットで制する。

「何か聞こえないか? 」

 爺やは、懸命に耳をそばだてた。

「・・・・いて。・・・・・しを・・・いて」

 確かに、低い囁き声がした。二人は互いに顔を見合わせる。そしてスパイのように壁に張り付き、突き当りの向こうを覗き込んだ。

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