2-6 bullet

「じぇ――」

「ジェニー!」


 樺音が飛び出した。後に続こうとしてつまずいた。カウンターに頭をぶつけて目が回る。ひ、と声を上げて店員が身を翻し、虚空に消える。樺音はもう灰色に溶けた。だんだらり、と顔中に血が滴って、僕だけが赤く取り残されている。


 寂しさを感じる間も無く灰色が爆ぜる。筋肉の塊が飛来する。指の一本一本が人間よりも太い。それが五本揃ってもう避けようがな痛い痛い痛い痛い激痛圧痛偏頭痛の三百倍。割れる頭が割れる。視界が割れる。目の前の斜めに重なる三つのJが、更に斜めになってひび割れていく。意識が――落ち――落ち――落ちない。ギリギリ髪の毛一本分のところで引き留められている。おぞましい顔と熱気がボクの意識を無理矢理現実に貼り付けてくるんだ。


「んん~?」


 巨人はボクを天地の間にぶら下げて、推定二百十六個の目と九つの口を僕の顔すれすれに近づけてくる。揺さぶってくる。縦揺れに続く横揺れ。畜生人をスノードームみたいに扱いやがって。ここが地獄の最下層?一周回って天国の最上層? どっちにせよ今にも魂が割れてなくなりそうだ。

 巨人は何かに気付いたらしい。バッジをぶら下げたダサさの極みみたいな鼻をずびずびと汚く鳴らし、目をぎょろりと動かした。


「「「「「「「「「「ちがあああああああああう!!!!!」」」」」」」」」


 ん? 一瞬意識が飛んでいた。なぜ今ボクは宙を滑ってる? 噴火口のように真っ赤で巨大な円筒の中を平行移動しているのはなぜだ。赤に開いた不規則多角形な穴の向こうで巨体が暴れ、無数の口を震わせている。何を言っているかは分からない。聴覚の全てが粉々にされている。突如穴から灰色の粉塵が噴き出し、緑に光る。巨大な影がよろめくのが見えた。人影が灰色から飛び出す。樺音。顔の半分を血で濡らしながら叫び、何かを投げる。黒く光るそれはボクの手前で弧を描いて落ちた。なおも樺音は叫んでいる。あれ? というかボクいつまで飛ん――


※ ※ ※


 シモンが赤壁に激突し、ずるぬると滑り落ちていく。樺音は叫びやめた。


(伝えられた?)


 君を狙う者、「裏」の危険性、頼るべき人、アレの使い方、それから――

 巨大な影が思考を断ち切る。素早く転がる樺音を掠めて、破滅的な掌底が床を叩き割る。揺れと轟音。全てが下へ。あっという間に、喫茶店の真ん中に黒々とした奈落が口を開けていた。間一髪落下から逃れた樺音は、もくもくとした粉塵に目を凝らし、巨人のいる対岸の様子をうかがう。あちこちに突き刺さり、転がり、舞うかつて建物だったもの。隅でうごめく影は巨人だ。その逆の隅、ぼろきれのように転がる何か。


「ジェニー、ジェニー、聞こえる?」


 返事は無い。手の震えを抑えながらイヤリングを押える樺音。


「生存確認。対象はジェニー」


 永遠にも思える沈黙の後、合成音声で答えるイヤリング。


『生存。生体反応極めて微弱。直ちに医療措置を――』


 来た。見た。避けた。拳が巻き上げた煙の中を一回転しながら、百八の目をぎょろめかす巨体に長銃を向ける。次の一発で目玉を零にする――左手の引き金を引こうとして、樺音は気が付いた。左腕がまるっきり無くなっている。天井に叩きつけられ、叩かれた虫のようにぐしゃりと床に落ちる。飛び散りかける自我を無理矢理縫い直して、樺音は長銃を脇に挟み、残った手でイヤリングを押さえる。


「こちら樺音。救援要請。攻撃されてる。繰り返す。攻撃されてる。本部。答えて本部!」


 叫びながら樺音は身を転がした。血だまりが爆ぜ、鮮血が灰色を舞って巨人の身体に飛び散る。顔にまで散った一滴を、九つの口が一様に舌を伸ばして舐めとった。百八の目がしきりに動き、やっと倒れ伏す樺音を見つける。


「死」「モん」「ヲ」「だ」「せ」「と言ってるだろ唐」「変」「木」「むう」

「さっきのがシモンだよ……」

「あ」「んな」「赤い」「顔」「の人げ」「んがいるか間抜け」「あほ」「ばか」「むう」

「……バカはそっちじゃないの?」


 怒声が来る一瞬前に横っ飛び、樺音は辛うじて拳を避けた。鉄筋ごと崩れていく床。その轟音を意識から遠ざけてひたすら思う。願う。信じる。


(樺音は怪我してない樺音は怪我してない樺音は怪我してないっ……)


 心臓が一定のリズムを取り戻す。呼吸が整う。肩の傷が塞がっていく。イヤリングがやっと、騒音で途切れ途切れの応答を吐き出す。


『か――むり――こち――襲げ――手いっぱ――』


(ああもうっ……!)


 身を縮めて頭をかばう。白壁三枚抜き。樺音の頭上が、徹甲砲弾でも撃ち込まれたかのように吹っ飛んだ。降り注ぐ瓦礫に痛めつけられながら、樺音はなんとか巨人の足元から抜け出してできるだけ距離をとる。


 もやがかかったような視界に見えているもの。三つ隣のテナントにまで突っ込んだ腕を引き抜こうとしている巨人。その脇でグランドピアノを飲み込めそうなほど拡大している大穴。対角線上に辛うじて見えるジェニーの影。壁にかかったヒビまみれの鏡に映る外の光景――裏路地に次々と入っていくロングコートサーファー。


(状況を整理しよう樺音)


 好きな映画のパロディのように、樺音は自分に声をかける。


(目の前には最低最悪のクズ。七人目のバディを殺しかけた上に友達を狙ってる。支部は滅茶苦茶。増援の見込みはなし。利き腕無しじゃあいつに勝てない。弾だって込められない……けどあいつの肉は意外にらしい)


 巨人が壁の向こうのカタコンベからやっと腕を引きずり出し、刺さった人骨を払い落す。泥色の液体が床にどらだら滴り落ちる。


(おまけにあいつは頭が悪いし)


 巨人は鼻を啜って大きなくしゃみをした。


(ご立派な鼻は利いてない)


 百八の目がめいめい瞬きしながら蠢く。


(キモくて数が多いのに目は役立たず)


 樺音を見つけ、ロックオンする巨人。


(ただし動きは反則きゅ――うっだなほんと!)


 またも間一髪で樺音は避けた。無い左手を床に突こうとして無様に倒れる。咳き込みながら起き上がる。できると思え。叶うと信じろ。ここは夢島。信じる者がカチを得る。樺音は大穴の縁で身を伏せる。


(ウドの大木は穴を飛び越えられない――ジェニーを踏み潰せない――そうだ。そうに決まってる。そうでないとおかしい。いくらあいつでも無理なものは無理なんだ。と樺音は。)


 極限状態のもたらす鏡のように研ぎ澄まされた集中は、樺音自身を騙すのみならず、世界をも騙すことを可能にしていた。


 樺音は巨人が自分を見つける時を知っていた。巨人が走り出す瞬間を知っていた。樺音は自分はどのタイミングで立ち上がり、大穴の向こうへ跳ぶフリをすべきか知っていた。つられて飛び上がった巨人が宙でまき散らす怒号の波形を知っていた。巨人が一秒足らずで穴の向こう岸に着いてしまうことは知らなかったが、しかしそれは樺音の予想に沿っていた。二歩よろめき、ジェニーの長い金髪を踏みつけながら方向転換する巨人に向かって、樺音は長銃を片手で向ける。巨人は咆哮して床を蹴る。迫る拳を知りながら引き金を引いた。

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