2-4 cafeteria

 空気はほんのり桃色を帯びていた。ビルとビルの間の暗い路地を行く。焼けた金属と薬局のにおいが鼻腔を満たし、ほのかな腐敗臭が意識に刺さる。路地はぬかるみ、あらゆる軸に歪んでいるが、ジェニーは足早だ。ところどころにある水溜まりを躊躇なく踏み割りながら、明るさと喧騒の方へ迷いなく歩いて行く。ぬめりとした光沢がブーツの底から散っていく。


 ふと、彼女が無造作に何かを放る。ゴミか? いや銃だ。それが僕の方に飛んできていることにようやく気付いて、慌てて両手で受け止める。見覚えのある銃だった。船から脱出する時に僕が使ったものだ。黒い銃身は、死をそのまま塗り込めたかのように見える。色とりどりの何かが宙に散らばる様が一瞬脳裏に浮かんで、慌てて頭を振ってどこかに飛ばす。ト、と背中をつつかれた。


「早く行かなきゃ。置いてかれるよ」


 立ち止まってしまっていた。路地の先を見ると、もう彼女の白い背が薄闇に溶けようとしている。慌てて僕も足早に歩き始めた。


「ジェニーさんは僕をどこに連れて行くつもりなんでしょう」


 樺音は肩をすくめた。アンティークの長銃が揺れる。


「さあ。二年付き合ってるけど、あの子の考え分かったこと一度もないんだ」

「付き合っ――?」


 つまずいたところを樺音に支えられる。


「あの子とはバディなんだ。二人でここ新宿区パンデモニウムの保安を担当してる」

「二人で!?」

「一月前までは四人だったんだけどね。あっちのバディは『澱み』を除去し損ねて死んじゃった。あ、『澱み』って分かる?」


 何と言ったらいいか分からず、さりとてこの沈黙をどうしたらいいのかも分からず、僕は質問に答えるという逃げ道に甘える。


「分かります。『夢や信念の吹き溜まり』って、アルトゥルさんが教えてくれました。あれって除去できるんですね」

「うん。爆破したり強風を送り込んで散り散りにすれば消せる。ほら、あのでっかいのも消えたでしょ? 気失ってて覚えてないか」


 覚えてます。と僕は答える。なるほど重力の異常はそうして解消されたのだな、と納得した。樺音はちょっと眉を上げた。


「すごいね。五年前ここにきたばっかの樺音だったら絶対気絶してるよ。ジェニーが『使える』って言ってただけあるね」

「ジェニーさんがそんなことを?」

「そう。あの子がそう言ったから樺音は君を殺さなかったんだ。『勘』って言ってたけどあの子、シモンさんにだいぶ期待してるみたいだよ?」


 ジェニーがそんなことを――なんだか視界が明るくなった――と思ったら樺音の頭から星が飛んでいた。


「変なこと言わないでよ……!」


 樺音の頭にぶつけた拳を、そのままぐりぐりと頭蓋にめり込ませていくジェニー。ごめんごめんいだいいだい、と表情を変えずに連呼する樺音。シュルレアリスムで描かれた宗教画のよう。


「ジェニーさん、僕頑張ります」


 瞬間、ナイフよりも鋭く睨まれ僕は石化する。胃に穴が開くのを感じられそうな数秒間の後、ジェニーは目を逸らし、白目をむきつつある樺音の頭から拳をのける。


「あっそ」


 またすたすたと歩き出す。樺音が頭をのろのろさすりながら起き上がる。


「ほら、何考えてるか分かんないでしょ?」

「はあ……」

「シモンさん、年近いよね。仲良くしてあげてね。あの子ああ見えて寂しがり――」


 心臓を揺らがす銃声が響くと同時に樺音は頭を傾ける。髪の毛が半房散った。


「さっさとして」


 逆光の中冷たく光る青い目に、僕達はそそくさと従った。喧騒が近付いてくる。路地の明るさが増していく。


「ジェニーさん、この先は?」


 彼女はいつの間にか被っていた防寒帽をぐっと引き下げ、喧騒へ――めくるめくサイケデリックな群れを睨む。


「地獄」


 言葉の響きにぎょっとしたのも束の間、ジェニーに手首をつかまれ、僕は闇から引きずり出された。三段階ほど上がるやかましさ。金銀七色の極彩色が四十八方狂喜乱舞、天地縦横狂い裂き、咲く花全てを灰に帰す。


 喧騒、喧噪、混乱――お兄さん居酒屋どう? うおっジェニーだHey YO! 右半身――混乱、混濫、怪転――あーもうガッコーやだ兄ちゃんイイの入ってない!財布ない!やんのかゴラ!――壊店、灰炎、朧理――おーいカワイイ姉ちゃん気味悪ぃなんだあいつになったら返すんだ!?ラーメンマーメン――朧理、フェルミ、ピルグリム――ンン指サック~虫!虫!チューバッカ五人斬りとてたやすくは問屋が卸さない――塞孤、、彩卦、災気照ッ苦。


※ ※ ※


「生きてる?」


 答えられなかった。どうやら呼吸はしているようだった。しかし目の前は真っ暗だ。どんな自律神経も一瞬で粉砕してしまいそうなあの八万ルクスはどこに行った? 死後か、ここは。しかし頬のあたりにつん、つん、と感覚がある。おーい、という声も聞こえる。そして鼻腔をくすぐるこれは――ガトーショコラの香りではないか。僕は甘味と薬味が大の鉱物である。中でもガトーショコラは格別だ。死んでいては食べられない。そういう訳で


「生きてます」


 と答えた。目の前が明るくなる。どうやらあの暗闇はアイマスクのようだった。ジェニーが無理矢理引っ張るものだからびんっ、と音を立てて勢いよくゴムが外れて耳が痛い。


「ほら起きて、休憩するよ」


 ジェニーの声は不思議だ。耳の痛みを和らげ、芯をもって脳に届く。休憩は人に言われてするものではないんじゃ――などという邪念を雲散霧消させ、心の座標を「休憩」に合わせてしまう。起き上がると、そこはファンシーポップなカフェだった。


 「ファンシーポップ」の意味は知らない。ただ水色のソファに腰かけて、透き通った若草色の液体を赤い縞ストローで吸い上げるジェニーの姿に「ファンシーポップ」が浮かんだだけだ。一転、視線を横に流すと「ダーク」が見える。青白い肌の中性的な黒ずくめが、ロザリオを揺らしながら墓石のように黒いガトーショコラをむさぼって――ガトーショコラをむさぼって! あっという間に最後の一口に! 哀れガトーショコラは深淵に飲み込まれ、永遠に帰らぬものとなり、僕はがくりとチークの机に突っ伏した。


「どしたの?」

「がと……しょこら……」

「食べたかったの?」

「はい……」

「お金は?」

「ない……鞄と共に海の藻屑……」

「樺音、払って」

「なんで」

「この前貸した分、まだだよね」


 案外こういう日常らしい光景もあるのだな、とガトーショコラをちびちび食べながら思う。ケーキを運んできた人はよくいる普通のカフェ店員で、ケーキ自体にも全く異常なところはなく、強いて言うならば味が良過ぎて逆に食べたくなくなりつつあることくらいだ。あと懸念すべきものと言えばフォークくらいだが、これも普通だ。


「こんな穏やかな場所もあるんですね」

「全部だったらやってらんないでしょ」


 そう言ってジェニーは広い窓の向こうを指す。一階下の路上で毒々しく蠢く原色の群れ。六本足、三本手、七色に変わる角を生やした馬等々、比喩ではなく文字通り、かつ強調し過ぎた千差万別なヒトビトが、めいめい明後日の方向を眺めながら通りを行きかっている。その向こうに僕達が出てきた路地がある。距離にして七、八メートル。十秒以内に横断できる距離だが、僕にはガンジス河より広く、もったりとして見える。若干視界がぐらついてきて、ガトーショコラに目を落とす。


「どうやって防音してるんでしょう。大騒ぎがあんな近くにあるのに」

「夢の力。ここでは夢が現実を変えるんだ」

「『澱み』が場を狂わすように、ですか?」

「あそこまで無軌道だったり大規模じゃないけど、だいたい合ってる」

「『夢島では夢が叶う』。あんたも本土で噂くらい聞いたことあるでしょ」

「無かったです……ここに来て、アルトゥルさんに初めて聞きました。ここに支部があるなんて話も聞かなかったし」

「シモンさん、保安官候補生だもんね。局に情報統制されてるんだよ。樺音も候補生の内は知らなかった」

「樺音さんはどうやって知ったんです?」

「捜査中にたまたま。人の口に戸は立てられないってやつ。そこからはまあ……色々かな」


 そう言って樺音は銀のイヤリングを触る。保安官の証だ。忘れかけていた疑問がむくりと頭をもたげる。ジェニーは本当に保安官なのか? 耳には確かにイヤリングが光っている。しかしどうも気になる。 疑問を口に出そうとしたその時、彼女が口を開く。


「アルトゥルか……」

「アルトゥルさんがどうかしました?」

「あんまいい噂を聞かない。この区にいた時は独断専行が激しくて大変だったらしいよ」

「ああなるほど……今は別の区にいるんですか?」

「そうじゃない? あんまはっきりしたことは分かんない。支部事情に詳しいのあのバカップルだけだから」


 なるほど確かにあてにならなそうだ……とつい思ってしまい、いやいやよく知らないうちから判断するべきではない、と自戒を込めてガトーショコラを口に運ぶ。多幸感。


「で、本題に入るけど」

「ガトーショコラが本題では?」

「バカなの……? 休憩は前座であんたに色々教えるのが本題。お茶するためだけに怪我人引きずり出すわけないじゃん」

「確かに」


 納得してしまった。しかし怪我人ではなく健康体の人間ならお茶するためだけに引きずり出されてもいいのでは? 僕はいつの間にかほぼ健康体である。怪我の痛みがすっかり引いている。おそらく西蓮寺さんの謎に満ちた料理を食べたあたりからだろうか、体の奥がふつふつして、熱が血管を走り回っているのだ。この状態ならガトーショコラを本題としても問題ないのでは? と熱弁したが、ジェニーの冷ややかな目はちっとも動かない。


「バカなこと言ってないではい、あっち見る」


 頭を掴まれて、強制的に顔を窓の方に向けさせられてしまった。

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