2-2 do u
忘れていた忘れていた忘れていたッ――何故こんな大事なことを――ちくしょう、とにかく早く帰らねば。卒業しなければ保安官になれない。保安官になれなければ僕はあの家にいられない。路頭に迷う。そもそも帰る場所を失う。つくづくなぜあんな船に乗ってしまったんだ。早く、早くこの島を出ないと――まずこの立ちはだかる二人を突破しなければ――呼吸が止まって目の前が暗くなる。くずおれそうになるのを誰かに支えられた。鳩尾が焼けるように痛い。
「ジェ……ニ……」
「ごめん。でも一回落ち着いて」
「うわ、傷開いちゃってる」
傷などどうでもいい。さっさと僕を放して帰らせろ。さもないと――心の中でいくら叫んでも口に出るのは断片的なうめき声ばかり。抵抗空しくベッドに連れ戻されていく。
「帰って……保安官にならなきゃ……」
「ここでもなれるよ。サイン一つで」
僕をベッドに寝かせようとしながら樺音が言った。違う、そうじゃない。
「向こうでならなきゃ……家にいられなく――」
「家ってそんなに大事なの?」
何も知らないくせに。目の前が真っ赤になった。樺音のとぼけたような白い顔が、のほほんと揺れるタンポポの綿毛みたいに見えて、何かが切れた。
「やめな」
ジェニーに手を掴まれて我に返った。右肩がじん、と痛む。僕の拳の一寸先で、樺音が目を見開いていた。
「シモンにとっては大事なんだ」
樺音は僕から手を放し、身を起こしながら数回瞬きして、ごめん、と言った。煙のような、霞のような、うすぼんやりとした口調は相変わらずで、また堪忍袋が膨らむのを感じるが、ジェニーにしっかり押さえ込まれてはどうする事も出来ない。ただ睨む。すると樺音は目をそらし、胸元のロザリオを握る。
「ごめん。だから樺音は――あーあ」
最期のため息はとても小さかったが、鉛のような密度があって、僕は頭に上った血が押し下げられるのを感じた。関節が浮き上がるほど硬く握られた自分の手の甲をぼんやり眺めながら、樺音がまた口を開く。
「……でも、帰るのは無理だよ」
落ち着きかけていた心拍数がまた早くなる。
「どうして」
「船が無い」
「無い訳ないでしょう。きっとどこかに――」
「樺音の言う通り。今この島に船はない。でも安心して。船は用意できる」
「……どういうことです?」
ジェニーの青い目がまた、一万二千度の輝きを放つ。
「私の宿敵は『Jブラザーズ』にいる。そこにあるのよ。一隻だけ、飛行船が。『J』は米国マフィア系の組織で、メインの稼ぎは水運と造船。で、この島にある船はさっきの大騒動で全部おじゃん……これで分かった?」
「つまりシモンさんがここの保安官になって、僕たちと一緒に弱体化した『J』を潰してエンジニアを数人奴隷労働させれば、シモンさんもジェニーも樺音もみんなはっぴー、ってわけだね」
ハッピーにまでに長いアンハッピーリフレインを乗り越えねばならない予感がする。しかし今のところそれがただ一つの道だろう。帰り道を作り、帰る場を保ち、オルタを殴る為にはそれしかない。命を賭す覚悟を決めなければ。樺音に向けられていたジェニーのジト目が僕の方に戻り、お、と色を変えた。
「いい顔してる」
僕の頬に彼女の指が触れた。手袋の無い手は紫檀のように滑らかで、微かにバラの香りがする。なんだこれは心臓発作か? 鼓動が痛いほど響く。
「一週間で全部終わらす。いい?」
はい、と勢いよく答えるとともに爆散し、宇宙の一部となろうとした刹那、まぁ、と素っ頓狂な声が聞こえた。聞こえた瞬間、僕はコスモの塵からベッドの青年に戻っており、落下したアルミの食器が床にぶちまけられるさまを見ていた。ガラリカンランと金属音の四重奏。
「はわわっ」
はわわ? 耳を疑った。「はわわ」だと? それは千年に一度も現れない幻の感嘆表現のはずでは。しかし現に今また声に出された以上、UMA認定を取りやめ、これからは声の主と共に国指定天然記念物として厳重に保護していかねばなるまい。そう、戸口でおろおろしている丸眼鏡低身長ゆるふわメイドさんを――丸眼鏡低身長ゆるふわメイドさん……?
あまりの負荷に考えるのをやめた一瞬のうちに、彼女は姿を消していた。
※ ※ ※
さっき落とした食器が空だったのは、うっかり盛り付けを忘れてしまったからなんだそうな。そんなばかな、しかしこの人なら、いやしかし――葛藤する私の斜め前、得体の知れない料理がぎっしり載った小さなテーブルの向こうで、天然記念物メイドさん(仮称)は、なあんだ、と言って笑った。
「そういう事だったんですね~」
急変した僕の容体を確認していた、というのがジェニーの説明だった。『J』についてはおくびにも出さない。ただし「触れるな」というメッセージは背中からダダ漏れどころかドド漏れである。これでは隠し事がある、と大声で叫んでいるようなものだ。しかし天然記念物メイドさん(仮称)はゆる、ふわ、と笑うばかりで、場の空気に全く気付いていないのか、はたまた気付いていながら触れない策士なのか、判断ができない。まあ多分前者だろうと踏んでみると――
「私てっきり、イケナイところ見ちゃったのかと思ったのです」
――なんて、思いもよらぬ変化球を投げ込んでくるのでいよいよどういう人なのか判断しづらいというか今なんて言った?
「イケナイところ……?」
ジェニーの訝しげな声。確かに思い返してみると、僕に馬乗りになるジェニーと、その脇でロザリオを握る樺音という光景は、どうも珍妙で妖しいものな気がする。しかしここで何か言ったら何者かに殺される気がする。比喩でなく、文字通り。
「ほら、サバト見たら呪われるって言いますよね?」
やはり命を犠牲にしてでも何か言った方がよかったのだろうか。ジェニーは目をぱちくりさせている。
「面白い解釈。樺音は二人がキスしようとしてるのかと思った」
コンマ三秒で銃声が響いた。ぎょっとして樺音を見ると、前衛彫刻のような体勢で見事に銃弾を避けていて、壁に穴が開いている。はわわっ、と慌てる天然記念物メイドさん(仮称)
「大変! 塗り替えたばっかりなのに」
塗りたての壁より、起こりたての殺人未遂事件を心配してほしいものだが、もしかしたらこの島のペンキは人命より高いのかもしれない。ジェニーは銃をしまい、樺音は人体らしい体勢に戻って、ほんの数秒前と変わらない顔で落ち着き払っている。さっき確かに起こったはずの銃撃事件はまるで水に触れた綿飴みたいに消え去って、壁破損事件に早変わりしていた。
「もぉ~、もっと物を大事にしなきゃだめですよ? 反省しないとお給料減らしますよ」
「すいませんでした。もうしません」
「なんで樺音まで――なんでもない。ごめんなさい」
気のせいだろうか。今、この方からメドゥーサもかくやという眼光が放たれた気がする。
「あの、あなたは一体……?」
「はわわっ、ごめんなさい! 私としたことが自己紹介を忘れてました」
あわあわとスカートを払い、姿勢を正し、こほん、と咳払い。
「私は
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